擬える駅
残業を終えてタイムカードを押すと、二〇時を過ぎていた。
もともとわたしのミスが原因だし、分業しづらく、また一人で片付く量だったので、残業したのは仕方がない。
それでも、胸中はイライラで一杯だった。
書類の重要性が、中途半端なせいもあると思う。目立つようなものではない、誰が作成しても変わらないような内容だが、不備があれば地味に困る、というような。
まったく面白くない気分だった。
駅までの、徒歩十分ちょっとの道のりは、明るく、人通りも多い。ハタチそこそこのOLが一人歩きをしていても、ほとんど危険は感じない。
しかし街灯の数は多くても、心象的には暗く、灰色だ。街並みも、行き交う人間も、灰色だ。わたしだけではなく、誰もがルーティンワークに、もっと言えば生きることそれ自体に、うんざりしているように見える。
駅近くのビルのレストランで、カルボナーラのパスタを食べる。チェーン店らしい、可もなく不可もない味。空腹だったのでそこそこおいしく感じるが、少し濃い目のクリームは軽く胃がもたれた。
疲れてはいるのだが、欲求不満を感じていて、一人暮らしのマンションにまっすぐ帰る気になれない。と言って、お酒が飲みたいような気分でもないし、月末のことであまり予算もない。
拓也さんを呼び出すのも迷惑だろうし、正直なところわたし自身、会うのも煩わしい気がした。
こんな時、わたしは自分が、三年以上交際している恋人のことを本当に好きなのかどうか、不安になる。
だけど、彼と結婚することになるのだろう──おそらく近いうちにそうなるのだろうと思っている。拓也さんは。いやわたしも。多分。
周囲も公認のお似合いのカップルであり、不満が特に見つからない。
そうして寿退社して、数年後には子どもを産んで……。
その考えはしかし、ますます気分を滅入らせた。マリッジ・ブルーには早すぎるだろうに、自分に苦笑した。
ふと、このビルの上階は映画館になっていることを思い出す。
日頃あまり映画なんて観ないし、今何を上映しているのかも知らないのだが、この時はなぜだか魅力的なアイディアに思えた。
エレベーターを降りると同時に、映画館につきものの、各種スナックが混ざりあった独特の匂い(特に、ポップコーンが主張している)が非日常的な気分にさせてくれる。
壁のポスターの、けばけばしいピエロと目が合った。髭面のオジサン。歯を剥いて笑っているが、それは醜い、狂気的な笑みだ。意図的に狙った悪趣味、殺伐とした色彩に、みょうに心惹かれ、その映画を観ると決める。
変な映画だった。
ジャンルで言えばホラー映画で、わたしの得意じゃない。
展開についていけなくて、最後まであまり盛り上がらず、退屈ですらあった。そもそも観客のことをあまり考えていないか、マニアックな客層を想定しているようだ。予備知識がないと楽しみにくいものだった。
しかし映画館を出ると、不思議に気が晴れていた。作り手が好き放題やっている奔放さに、ある種の開放感を覚えたのだ。
わたしは好きな仕事に就けただろうか、と自問すると、ため息が出る。
駅の構内はがらんとしている。少し違和感を覚えるが、考えるのが面倒だ。時刻表を確認すると、二三時四〇分の電車が来るはずだった。
待つことしばし、ホームに滑り込んで来た車両に乗り込むと、中にも乗客はほんの数人しかいない。
しばらくぼんやり乗っていたが、遅ればせにはっきりした違和に気が付いた。
いつもなら次の駅に数分で到着するはずだ。なのにかなり走っている。ケータイで時刻を確認すると、日付が変わったところだった。
二〇分以上、なんのアナウンスもなく、走り続けているのである。
乗る電車を間違えたのか、車内を見回すが、ヒントになるような情報がない。そんなはずはないだろうと思うのだが、路線地図や案内といったものが見当たらない。
窓の外は、何も見えない。
空は薄紫、地は黒のグラデーションに塗り潰されていた。じっと見ていると、電車は前に進まずに、同じ場所に止まったまま、揺れているだけのような気もして来る。
不安がざわざわと心を覆い、それはすぐに不気味さ、怖さに変わった。
同じ車両には、数えてみると五人、乗っている。
サラリーマンらしい男性、作務衣のようなものを着た男性、趣味のいい洋装のおじいさん、地味なおばさん、それに『サザエさん』に出てくるワカメちゃんみたいな女の子。
ぽつぽつと散らばるように座っていて、一人ひとり、ちぐはぐで、唯一の共通点は、頭を深く垂れて眠っていることだった。
赤の他人を起こすのは気が引けるが、居ても立っても居られず、最寄りの、おばさんに声をかけてみる。
「あの、すみません」
花柄の、くすんだような色合いのワンピース。ハンドバッグと、雨なんて振っていないのに、雨傘を持っていた。顔を覗き込むと、小じわが多く、四〇代、もしかしたら五〇代かも知れない。
「すみません、失礼ですが……」
そして、目をしっかり閉じており、起きる気配がなかった。
身じろぎ一つせず、規則正しい揺れに合わせて上体が動く以外、静止している。息は、しているのだろうか。そう考えて、ぞっとした。
怖かったが、確かめなければいけない気がした。揺れに合わせて、おばさんの項垂れた頭が、左右にぐらぐらする。おそるおそる、右手をおばさんの血色のない頬に触れる。
その肌は冷たくて、わたしの二の腕に鳥肌が立った。
添えた右手で、おばさんの頭を固定して、左手を、そっと口元に持っていく。
空気の動きをまったく感じない。これって……やっぱり、死んでいる?
ガリガリ……ザザ……──。
不意にスピーカーがノイズを発し、びくんとして両手を引っ込めた。
「……ぎは、***、***です。
……エ、おで……は……左側、ひ……。
お忘れ物のないよう……」
何? 何と言った?
駅名の部分、とりわけ不明瞭にくぐもっていた。
わたしの耳には、かだつ、または、かだす、と聞こえたように思うが、まったく自信はない。それに、そんな駅名は聞いたことがない。
電車は程なく速度を落として、その、かだす? 駅に停車する。しゅーっ、と音を立ててから、ドアが開いた。
ドアの外は、闇だった。
まったく何も見えない。こんなことはあり得ない。
さらにわたしを狼狽させるようなことが起きた。五人の乗客が、いっせいに立ち上がったのだ。
目は開いているが、どこも見ていない。虚ろな目つきで、機械仕掛けの人形みたいに、全員が同じ動きで、ふらふらと電車を降りて行った。
最後尾の女の子が、音もなく闇に沈み、姿を消した時、わたしは腰が抜けて、ぺたんと床に尻餅をついていた。
呆然と、長方形に切り取られた闇を見つめるわたしの前で、また、しゅーっ、と音を立て、ドアが閉じる。
そして電車は再び走り始めた。
どこへ向かっているのだろう。
わたしはケータイを取り出して──時刻は〇時六分だった──圏内であることに安堵しつつ、ある番号を呼び出す。
長い呼び出し音のあとに、
「誰? ……真澄?」
むにゃむにゃ不機嫌そうな恋人の声が聞こえた。
「もしもし? 拓也さん、助けて、今おかしな電車の中にいるの」
勢い込んで言ったものの、現状をどう説明すればいいのか。
「さっきから何を言ってるのかさっぱり分からない」
「だから、わたしも分からないの。怖いのよ……」
涙で声を詰まらせながら、どうにか状況を分かってもらおうとするが、電話口の向こうから聞こえる盛大なため息に遮られる。
「寂しいのは分かるけど、僕の業界、この時期一番忙しいのは知ってるだろ?
こういう嫌がらせは困るよ。仕事が落ち着いたらどこでも連れてってやるから……」
「わたしの話を聞いて!」
悲鳴のような声が出たが、その時には通話は切られていた。
わたしはしばらく放心したが、自嘲が取って代わる。
考えてみれば、仮に、拓也さんが事情を理解してくれたところで、どうしようもないのだ。
乗客は今、わたし一人だけなのか、他の車両を調べることにした。
ふと見れば、座椅子に傘が落ちている。あのおばさんの忘れ物。わたしはそれを、武器の代わりに握りしめる。
窓の外を見ても、進行方向が分からない。最初にこの電車に乗った時の記憶に頼れば、左手が前部に通じるはずだ。
がたん。ごとん。揺れに足を取られないよう気をつけながら、歩き出す。
次の車両も、その次の車両も無人だったが、三番目の貫通扉の前でハッとする。窓から人の姿が見えたのだ。
男二人、女一人の三人組だ。なにごとか話し合っている。女、というか少女は泣いており、男たちにも動揺が色濃く見えた。少なくとも危険はなさそうだ。
ドアを開けて車両に踏み込むと、三人が驚いたように振り向く。
「だ、誰だ!?」
その声は威圧的というよりも、極度の緊張で裏返りそうになっていた。
「怪しい者じゃないです。わたしもわけが分からなくて……」
そう答えながら、ゆっくりした歩調で近付く。
どこにでもいそうな新人OL、にしか見えないだろう、わたしの服装を上から下まで見て、三人はちょっと警戒を緩めたようだ。
お互いに自己紹介をする。
この中で一番背が高い、カジュアルジャケットの男は広瀬。仕事は薬剤師。
迷彩柄のシャツにカーゴパンツ、髪を短く刈り込んだ中谷。フリーター。
それに、セーラー服姿の女子中学生は、のあちゃんというらしい。本名で、「祈愛」と書くそうで、とても珍しい名前だと思った。
「で、あんたは橋場さんね。おたくはどこから乗ってきたわけ?」
中谷に訊かれ、少し怪訝に思いながら新浜松駅だと答えると、三人は〝思ったとおり〟なのか、〝見当違い〟なのか、無言で微妙なリアクションをする。
「あの……それがなにか?」
「ああ、すみません。実は、この三人で確認済みなのですが」広瀬はそこで、少し躊躇したように言葉を切ってから、「三人ともばらばらなんです」
意味が分からない。
「つまりね、オレは新宿。広瀬さんは四国の方で、のあちゃんは北海道なんだよ」
中谷が、わたしをからかっているのかと思ったが、広瀬も、のあちゃんも、真顔で黙っている。
「どういう……ことですか」
「分からない。どこから乗ってきたかも、乗車時間もまちまちなんですよ。
のあちゃんが一番、長いんだけど、橋場さんに説明してあげてくれるかな」
広瀬さんに振られて、ちょっと内気な印象の女子中学生がたどたどしく説明してくれたところによると、彼女は二時間も前からこの電車に乗っているらしい。
その時はもっと乗客が多かったが、やはり全員眠っていた。
数分から数十分おきに電車は停まり、そのたびに乗客の何人かが、ふらふらと降りていく。
とうとう、ほとんど誰もいなくなったが、のあちゃん自身は怖くて降車せず、座ったまま怯えていた。
そこを、広瀬と中谷に発見されたらしい。
中谷が何か言いかけたが、思わず耳を塞ぎたくなるほどのノイズに遮られた。ハウリングを起こしながら、
「間もなく終点、***、***です。
お出口わぁあああがらがらがらがら」
後半は水中で叫んでいるかのようにひび割れ、一際激しいノイズのあと、ブツッと途切れた。
同時に、電車が急ブレーキをかけ、わたしたちは床に折り重なるように倒れる。
起き上がって、見回すと、車両のドアは右側も、左側も、すべて全開になっていた。外はやっぱり、何も見えない暗闇だ。
今や振動もなく、しん……と静まり返っている。
今度もやっぱり、アナウンスの駅名は不明瞭だった。しらさぎ、と聞こえたような気もする。
わたしたちは顔を見合わせる。
「終点だって?」広瀬が眉をひそめた。
「どうするよ」中谷が呟いた。
「運転席に行ってみませんか?」
口にすると、名案に思えた。なぜ今まで思いつかなかったんだろう、と自分でも思う。
「そんなの、オレがとっくに試してみたよ。メチャクチャ歩き回ったっつーの。
どこまでも車両が続いてるんだ。無限ループ」
中谷が言った。
そのうち広瀬さんを見つけ、続いてのあちゃんも見つけたらしい。
常識が通用しないことの連続だ。いい加減、気が変になる。
「もう、一か八か降りてみるしかないんじゃねーの?」
「いや、一応、橋場さんの言う通り、もう一度先頭車両を探してみましょう。
外がどうなってるのか分からない。降りるのは、最後の手段にしたい」
「無駄だと思うけどねえ」
ぼやきながら中谷も同意し、四人で歩き始める。
歩いても歩いても、無人の車両が続いた。
「次で十番目か。さすがに諦めましょうか」
広瀬が少し息を切らせながら言った。体力的にそろそろ限界だ。
その十番目の車両で、前方が仕切りになっているのが見えた。先頭車両だ。
一瞬、疲れを忘れて、小走りに近付く。
窓越しに、運転席と、運転手の後頭部が見えた。
中谷が激しくドアを叩く。
「おい! おーい! この電車はなんなんだおい、てめえ!」
運転手は無反応だ。
わたしたちも乱暴なノックに加わり、大声を上げる。
しばらくぴくりとも動かなかった運転手が、ようやく振り向いた。
その顔は、のっぺらぼうだった。顔の表面は、灰色に、汚らしい虹色の油膜が光るようで、濁った沼の水面に似ている。
運転手が立ち上がる。
その顔が、ぶわぶわと波打ち、渦巻き、細かい気泡が無数に弾ける。その様子を表情だとすれば、悪意、憎悪、憤怒にも見えた。
声もなく静まり返っているわたしたちに向けて、運転手は、体の陰に隠れていた右手を突き出す。その手には、赤錆びた鉈が握られている。
こちらに歩み寄る。仕切りのドアは、向こうからは簡単に開けられるだろう。
わたしたちは悲鳴を上げて逃げ出した。もはや外に出ることに躊躇はない。一刻も早くこの電車から出たい。あいつと同じ空間に居たくない。
「こっちへ!」
広瀬が叫んでくれなかったら、わたしたちは散り散りになっていたと思う。
誘導されたおかげで、直近の出口から一緒に飛び出した。
階段、一段分ほど低くなっていたせいで、わたしたちはまた転び、恐怖に衝き動かされて慌てて起き上がった。
湿気が多くて生ぬるい、夏の夜気が身を包む。
振り向くと電車は忽然と消えており、ただ、線路だけがどこまでも伸びている。
「なんなんだよ、いったい」
中谷は倒れた時にぶつけたらしく、鼻血を垂らしている。
「圏外……。もうやだあ」
のあちゃんが見慣れない、玩具のような薄い板を見つめて絶望的な声を上げた。
圏外、という言葉に釣られて、わたしたちもケータイを確認するが、同じだった。
改めて周囲を見渡す。
空は、濁ったような藍色だ。黒々とした山の稜線。足元、線路周辺は砂利道だが、線路を離れると鬱蒼とした雑草が茂っている。
星の一つも見えず、もちろん街灯なんて一本もないのに、遠景と、周囲十メートル程度は視界が利く……遠近感が狂う、非現実的な光景。
まるで、ゴッホの『オーヴェルの教会』の中に閉じ込められたみたい。
そんな洋風のイメージを打ち消すかのように、遠くから、生臭い風に運ばれて潮騒のようなざわめきが聞こえてくる。太鼓と、笛と、人々の声──祭り囃子のような。
もう二度と帰れない。
ふと、そんな気がした。