このカフェは引換券に呪われてるんですか?
友達と遊ぶ約束の時間まで少し暇ができたので、俺は偶然見つけた「グリーンバックスカフェ」というお店で時間を潰すことにした。
「いらっしゃいませ」
小粋なボサノヴァの音楽とともに、店員の落ち着いた声が聞こえてきた。カウンターには、彼以外の店員は見当たらない。
俺はカウンターの上に置いてあるメニューを一瞥し、一番最初に目に入った飲み物を注文した。
「グリーンバックスラテのホットを一つ。ラージサイズで」
「以上でよろしいですか?かしこまりました。それではこちらの引換券をお持ちになってお待ちください」
店員はそう言って紙のカップを手に取り、背後にあるコーヒーマシンでコーヒーを注ぎ始めた。
なぜ引換券なるものがあるのか。俺は一瞬戸惑った。引換券の注意書きを読むと、これは乳アレルギーを持っている他のお客さんに間違えてラテを渡さないようにするためのものだと明記していた。なんたる徹底ぶり。感心していると、店員が紙のカップを両手で抑えながら、慎重に運んできた。
「お待たせしましたグリーンバックスラテです」
「ああ、あざっす。熱っ!」
店員が誤ってカップを落としてしまった。
「あ!大変申し訳ございません!」
「ああ、大丈夫です。ティッシュみたいなのありますか?」
「かしこまりました!それではこちら、ティッシュの引換券になりますので、少々お待ちください…」
………………いやメチャクチャ熱いんだけど。
今までに味わったことのない待ち時間だ。引換券の注意書きを読むと、他のお客さんに間違えてティッシュを渡さないようにするためのものだと明記していた。
いやティッシュが必要な人なんて一目でわかるだろ。飲み物こぼしてんだから。
仕方がないので俺は近くにある紙ナプキンを探したが、見つかったのは紙ナプキンの引換券の束だった。いっそのことこの引換券で拭いてやろうかと思った。
言いようのない怒りにただただ呆然としていると、さっきの店員が戻ってきた。
「お待たせいたしました!こちらティッシュです」
そう言って、紙製の箱から一枚だけティッシュ取り出すと、俺の目の前で薄く2枚にちぎり分けて、片方を俺の方に差し出した。
「どうぞ」
「いや待てよ」
我慢の限界だった。
「…あの、ティッシュの引換券はお持ちでないですか?」
店員が何食わぬ顔で尋ねてきたので、こちらも応戦することにした。
「いや持ってるけどさ、その前になんだよこれ?」
「あの…ティッシュですけど」
「なんでこんな薄っすいの一枚だけなの?」
「あっ、これはお客様がティッシュの引換券を一枚しかお持ちでないようでしたので…」
こんな薄い一枚で何ができるというのか。
「こんなんじゃ拭ききれないだろ何枚か束で持ってこいよ!」
「いやでも一枚しかお持ちじゃないですよね?」
「そうだけどなんだよ」
「いや、でも引換券1枚とティッシュ1枚を交換という決まりでして…引換券とティッシュの枚数が一緒じゃないとややこしくなるといいますか…」
そもそもこのルールがややこしいんだよ。
「だったらティッシュの箱を一箱持って来ればいいだろ」
「まさか全部お使いになるおつもりですか!?」
「使わねえよ!誰だと思ってんだ!」
「申し訳ありません。少しビックリしたもので…」
「そこまでビビらなくてもいいだろ」
「すみません。最近ティッシュ等は極力使わないようにと言われてまして…」
「だからってここまでしなくてもいいだろ!?」
「すみません。経営赤字なもので…」
「そりゃこんな不親切なことやってりゃそうなるわ!」
「すみません。そういう社内規定ですので…」
この店員は、店長に変な飲み物でも飲まされているんじゃなかろうか。
「とにかく何枚かティッシュ持ってきて…熱い…」
必死の懇願だった。
「わ、分かりました!何枚必要ですか!?」
「じゃあ…20枚くらいで…」
1枚もティッシュを2枚に分けるという店員の荒業を克明に覚えていた俺は、あえて多めに答えた。気づかぬうちにある種のトラウマになっていた。
店員は俺の要望に頷くと、慌ててカウンター奥の部屋に入っていった。
ようやくフレキシブルな対応というものを理解してもらえたらしい。
店員はカウンターに戻って来ると、倉庫から引っぱり出したらしい箱の中身を取り出しながら言った。
「お待たせしました。こちらティッシュの引換券20枚分です」
こいつは一大事だ。
※
箱から取り出した引換券を、1枚ずつ数えながら俺に手渡す店員。
恥じらう様子は微塵もない。なるべく俺を待たせないように、怒られせないようにと、一心不乱に券を数えている。怒りを通り越して哀れに思えてきた。
とはいえ、彼は気づいているのだろうか。人に熱い飲み物をこぼしてから現在まで、なんやかんやで拭きもせずに放置しているという事実に。しかも身内ならまだしも、大事なお客様にこぼしているのに。なんかもうすごい。
引換券を数える彼の手は、18のところでピクリと止まった。彼は血の気の引いた顔で箱の中を念入りに覗き込むと、何かを思い出したかのようにカウンターに戻り、紙切れを2枚ほど手にとって俺の方に差し出した。
「申し訳ありません。ただ今、ティッシュの引換券が18枚しか無くて…こちらの“引換券の引換券”で代用させていただきます…」
ここにきて新種の引換券が見つかるとは。どうなってんだよこの店は。
このとき俺は、もう容赦はしないと心に決めた。
「お前さ、俺がなんで怒ってるか分かってんの?」
「えっ!?あっ、あのー引換券のルールがややこしいっていう…」
「違う。お前がこぼしたラテをいつまでも拭いてくれないから怒ってんの!」
「ああ、申し訳ありません!」
「引換券の数とかどうでもいいから早くティッシュ持ってこいよ!」
「申し訳ありませんでした!」
店中に響く耳をつんざくような俺の怒声。
店員は逃げるようにカウンター奥の部屋に入っていった。
すると、入れ替わるように胡散臭いヒゲを携えた男が部屋から出てくると、眉間にシワの寄った俺の顔を見て話しかけてきた。
「お客様、店長の引換券をお持ちじゃありませんか?」
どうやらこの店にはまだ見ぬ引換券が眠っているらしい。
「いや持ってないですけど」
「そうですか」
そう言ってカウンター奥の部屋に戻ろうとする男の胸に「店長」と書かれたネームプレートを見た俺は、慌てて男を呼び止めた。
「あの、ちょっと!?」
「はい。なんでしょうか」
男は慌てるそぶりも見せず、ゆっくり俺の方を振り返った。
ハッキリしているのは、俺がこの男の余裕綽々な態度がすこぶる気に入らないということである。
「あの、店長さんですよね?」
「はい。そうですが」
「あの、このお店どうなってるんですか」
「どうなってるとは?」
「なんか…やたら引換券が多いですけど」
「ああ、大変ご迷惑をおかけしております」
大変ご迷惑をしておりますじゃねえよ。自覚あるならやるなよ。
「あの、まあ迷惑かけられてるんですよ。こっちは。ラテこぼされてるので」
「それは奥の毒に」
「しかも引換券のせいでまだ一回も拭いてもらってないんですけど」
「そうみたいですね」
「……あの。その他人事みたいな反応やめてくれません?おたくのお店の店員さんがやってることなんですよ?」
「ああ、もうやめてください」
店長は俺の言葉を遮るように両手を前に出した。
「引換券をお持ちでないお客様のクレームは受け付けておりませんので」
「………は?何言ってんすか?」
「いやですから、店長の引換券をお持ちでないですよね?」
「そうですけどなんすか?」
「私は引換券のないお客様のお相手はいたしかねますので」
俺はとんでもないモンスターと遭遇してしまったようだ。
「いやちょっと!」
「では、ごゆっくり」
「ちょっと待って!俺は店長の引換券は持ってないですけど、引換券の引換券なら持ってますよ!これでいいでしょ!?」
引換券の引換券が役に立つ日が来るとは夢にも思わなかった。
本来は役に立たないというか、役に立ってはならないもののはずなのに。
さすがに堪忍したのか、店長は俺の方を振り返り、俺が渡した引換券の引換券を受け取った。
「…なるほど。分かりました」
そう言って、店長は胸のネームプレートを外して俺に手渡すと、何も言わずにカウンターの奥の部屋に戻っていった。
結局何しに来たんだよ。
すると、さっきの店員が部屋から戻ってきた。
店員は俺が持っているネームプレートを見て、驚いた様子で俺に話しかけてきた。
「その店長の引換券、僕にくれませんか?」
これが店長の引換券かよ。
「なんでお前にあげなきゃいけないんだよ」
「お願いします!いくらで売っていただけますか!?」
そこまでの代物なのか。このネームプレートが。
「分かったよ!勝手に持っていけよ!」
しばらく沈黙した後、店員は顔をクシャクシャにしながら泣き出した。
「ありがとうございます…!本当にありがとうございます…!!」
「いや、そんな泣くほどじゃないでしょ」
「いえ…これがないと話聞いてくれなくて…ようやくバイト辞めれます…」
こいつは一大事だ。
おしまい