3.赤と黒(1/2)
「じゃあ、この前のテストを返すよ。国語の抜き打ちの」
えーっ、とクラス中から声が上がる。ほとんどの生徒が困った顔をしていた。
「まじかよーっ」
「俺自信ないなァ。お前どうよ」
「あたし? 実はちょっとできた気するんだよね」
「うっそ、すげえな」
「つかセンセ、なんで抜き打ちすんのさ~? ひどいって」
生徒たちはわあわあと盛り上がり、まさしく悲喜こもごもといった具合である。奈々も右斜め前の席に座る博子と、不安げに話していた。
「どーよ奈々、出来た気する?」
「あんまり。先生って抜き打ちのテストあまりやらないじゃない? 完全に油断してたなあ~」
「分かる分かる。春樹センセそーいう不意打ち的なこと好きじゃないって言ってたのにね。黒田先生にでも頼まれたんかな? なんか変じゃない?」
「うん、私も思ってた。珍しいよね。先生らしくないっていうか……」
二人が話していると、学級委員長の貞方明が椅子に肘をかけ、奈々たちの方を向いた。
「やっぱり、嵐山と春日部もそう思うか?」
奈々と博子は顔を見合わせ、頷く。
「うん。こんなこと今までなかったじゃん」
「私も。この前テストやるって言われたとき、本当に驚いて。学生時代にやられて嫌だったから、抜き打ちはあまりやりたくないって先生、前に言ってたから」
「だよな。なんだか違和感があるんだよ。テストの出来不出来はこの際関係ない。いや、出来た方が僕は嬉しいけどさ……ともかく、心配しすぎてるだけならいいんだけど」
「すまない、ちょっと静かに」
春樹が呼びかけると、教室はすぐに静まりかえった。
「出席番号順に取りに来てね。青木亮太!」
「はーい」
青木がしぶしぶ前に出るのを見て、博子が言う。
「すぐ行った方がいいかもよ。二番目だし」
「あ、うん!」
奈々の出席番号は二番だ。なお、青木、嵐山、大原……と続いていく。
「嵐山奈々!」
「はいっ!」
「よくできたね!」
春樹は小声で付け足す。周りの生徒に悟られないように。
「満点だよ。頑張ったな」
慌てて答案用紙を見ると、すべての項目に丸が付いている。百点だった。
「ええっ……?」
喜びより先に、戸惑いが来てしまった。抜き打ちテストは当然、何の予告もなく実施される。何日に行われるから復習しておき、回答の精度を上げるということはできない。
日頃から授業後の復習を行い、理解度を上げておかなければミスする可能性も上がってしまう。精神的な焦りからケアレスミスも頻出するという、生徒にとっては嫌らしい仕組みになっていた。
「えっ、嵐山百点かよ! すげえ!」
クラスのムードメーカー・並木大輔の声がとんだ。咎められている訳ではなかったが、奈々はバツが悪くなりすごすごと自分の席へ戻った。
「(な、なんで皆に聞こえるように言うの?)」
その後もテスト返しはつつがなく行われた。最後まで配り終えると、春樹は教壇に立ち生徒たちに呼びかけた。いやに真剣な顔をして、である。
「今回、初めて抜き打ちでテストを行った訳だけれど……皆よく出来ていた。普段から真面目に勉強している子が多いと分かって、私は嬉しいよ。けれど……謝らなければいけないな」
教壇のすぐ前に座る女子生徒が、険しい顔をした。クラス一の秀才・高橋由真である。彼女は自分の答案へ目を落とし、奥歯を小さくガリッ、と鳴らす。由真の点数は九十五点。奈々の取った百点には一歩及ばなかった。
「(嵐山さんに負けるなんて……悔しい!)」
国語、算数、社会、理科……はたまた音楽に至るまで、由真は非常に優秀な成績を修めてきた。満点以外を取ることの方が珍しいほどだ。そんな彼女にとって、見落としから来る五点のマイナスは痛く響いた。九十五点。マスの中に書き込まれた数字には、まったく納得がいかなかった。自分の努力と注意力の不足を、彼女は過剰なほどに許せなかった。
「今回は訳あって抜き打ちにしたけれど、もうやらない。一度きりだ。ごめん」
春樹は頭を下げ詫びた。
「ま、しょうがないわね」
「だいじょうぶー。先生にも色々あるんだろうし~」
奈々の友人である真菜と杏は、他の生徒と同様に彼を許した。
しかし由真はむしろ絶望していた。もう実施されないのであれば、奈々にリベンジすることができないからだ。九十五点が、零点のように映ってしかたなかった。
現実は零か百か、という極端な物差しのみで測ることはできないと、彼女は考えられない。頭脳の問題ではなく、情緒の問題だ。優秀な彼女はしかし、まだ幼かった。
「もうやらないなら、まあいっか。貞っちはどう?」
「嵐山先生の言うことを信じるしかないな。嘘付く人じゃないし」
「そうだね。今回だけならいいかな」
三人は杞憂だった、とひとまず結論を出した。その後奈々のテスト用紙をのぞき込んだ博子はほうっと感嘆した。
「おお、やるじゃん!あたし九十点~」
「凄いな。僕は九十五点だった。やるね、嵐山」
明にまで褒められ、奈々ははにかみながら答えた。ようやく、いい点を取れた喜びが湧き上がってくる。
「ありがとう。ふふ」
少しばかり浮かれていると、誰かの視線を感じた。ぱっと前を向くと、高橋由真が面白くなさそうに彼女を見ている。奈々は肩を落とし、目を逸らした。
「大人げないなー。奈々、気にしない方がいいよ」
由真の目線に気付いた博子は、彼女を静かに非難した。
「う、うん」
やや落ち込みそうになった時、光彦が由真に声をかけた。
「やっぱり高橋は勉強できるな。うらやましいよ」
「本気で言ってるの?」
「当然。いつも頑張って授業受けてるじゃないか。できる奴はそういう所から違うんだなー、って思うよ。俺のノートなんて落書きだらけだし」
光彦はノートを開き、余白に描かれた絵を指さした。
「あ、本当だ」
「だろ? 高橋のノートなんてきれいに書いてあるもんな。憧れるよ」
「んなっ、そんなこと、ないけど」
素直に褒められた高橋は慌ててごまかそうとしたが、観念して小さく呟いた。
「……ありがと」
冷静になった由真は、決まり悪そうに奈々を見た。奈々が軽く笑いかけると、彼女はいったん前を向き、何かを書き出した。
後で回ってきたかわいらしい花柄のメモには、こう書かれていた。
「感じ悪くてごめん」
奈々もすぐにメモへ思いを綴り、回してもらった。
由真が開いたメモには「気にしてないよ。でも、ありがとう」とあった。
光彦がにっと笑いかけ、奈々も笑い返した。心の中でささやく。
「ありがとう、光彦くん」
男は黒い翼をひらめかせ、街の上空をまさしく悠然と飛んでいた。時刻は深夜二時。辺りはひどく暗かったが、男の目には真昼同然にはっきりと映る。
妖怪である彼の五感は常に研ぎ澄まされ、どこにも異常は見当たらない。種族は天狗。より詳細に表すならば烏天狗だ。ただ、彼には鳥目の類いは適用されない。むしろ夜目が利く特性を持ち、若き日には夜半の哨戒によくあたっていた。
「ここだな」
低く呟き、目的地に着いたことを確認する。しかし強固な結界が張られており、妖魔の侵入を防いでいた。これでは霊すら止まることはできない。
「ふむ。念には念を入れるか」
目に魔力を込め、判別式を開く。人間や犬・猫などの動物ならば問題なく立ち入ることができる、と分析結果にはあった。結界に例外を設定すること自体、低級妖怪には難しい。術式の構成が複雑になればなるほど破綻する確率は上がる。魑魅魍魎などでは初歩的な演算すらできないとなれば、この結界を作ったのは非常に強い、腕の立つモノだ。
「壊せば感知されるな。……書き換える」
結界の構成を把握し、形作る式一つ一つを微妙にずらしていく。男自身が作った式も交え、性質を変化させていく。組み上げ直した後に、懐から悪霊を放つ。……結界をすり抜けた。成功だ。
「よし」
彼は建物の屋上に降り立ち、用意していた別の術式を展開していく。1,2,3,4,5。すべて問題ない。そのまま発動させてるべきかしばし考え、止めた。
「今夜は敷設のみだ」
彼は口の端を歪めて、邪悪に笑う。
「ただ行うのでは効果が薄い。奴を突き落とす瞬間を狙うべきだ。煉獄へとな」
誰が聞いている訳でもない、嫌に長い独り言。彼にとってそれは、意思の確認と浸透のために用いられる。言葉にすることで、自分の中に深く刻んでいくのだ。――昔の彼なら思い浮かべもしなかっただろう、忌々しい願いを叶える、と。
「踊れ踊れ、災厄に笑え。惑え惑え、終の炎は眼前に。願え願え、死を希求せよ」
他者の不幸を望み、それを愉快げに眺めるモノ。それは。
若き日の彼が最も憎んだ存在だった。
教室の窓から、やわらかな光が差し込んでくる。ベランダにほど近い席へ座る奈々は、思わず小さなあくびをした。時刻は一時五十五分。給食を食べ終え昼休みが終わった後、ということもあり眠そうにしている生徒は多い。真菜などはうたたねに入っている。ふと廊下の方を見ると、杏は真面目にノートを取っている。
「(うーん、ねむい……)」
担任である春樹は、社会科の教科書片手に板書をしている。いつ見てもきれいな字だな、とぼんやりした意識の中で奈々は思う。
彼は以前ひどい癖字で、友人たちにもからかわれていた――という話を聞いたことがあった。どうすれば直せるだろうと悩む中、見かねた兄やその友人が手ほどきをしてくれたのだ、とも。
「(お父さんのお兄さん――伯父さんって、どんな人なんだろう?一回も会ったことないし、友だちって人も知らない。写真で顔を見たこともない。私、お父さんについて知らないことばっかりだ)」
分からないことばかりが積もっていく。自分の生い立ちも、実の両親も、春樹の過去も。
「(まるで、わざと伏せられてるみたいに)」
重なる違和感。募る不安。輪郭のぼやけた謎たち。
「(――誰かが、教えてくれたならいいのに)」
春樹を信じれば信じるほど、彼の思いを感じるほど、強くなる感情。
「(――私は――)」
あてもなく放たれる、誰が答える訳でもない、決定的な問い。
思いがけずこぼれてしまう、疑念。
すべてを変える引き金になる言葉を。
彼女は、たしかに。
今たしかに、口にしてしまった。
穏やかな教室。優しい父の声。眠たげなクラスメートたち。うたた寝をする友人。真剣な顔をしてノートを取る親友。そして、ひそかに想う、大切な少年たちとの日々を。
彼女はその手から離した。
「――私は、誰?」
殺戮の時間が幕を開ける。
「お前は化物だ、嵐山奈々」
低く鋭い声が応じた次の瞬間、仕掛けられていたすべての式が閃いた。鮮血のごとく赤い光とともに、教室全体に奇怪な文様が浮かび上がる。生徒たちは事態を飲み込めずに固まった。
「な、なに……これ……」
「わけわかんねーよ、おい!」
「ドッキリじゃ……ないよね……?」
「こんな仕掛け、あってたまるかよッ……!」
子どもたちは口々に不安を唱えた。眼前の現象は彼らの理解力を遙かに超えていたのだ。幼いから、という問題ではない。いい大人がこの場に居合わせたところで、腰を抜かし判断力を失うことは必須だった。それだけ異常な状況なのだ。
「伏せろ!」
春樹の声が飛び、生徒たちは一斉にしゃがんだ。瞬きをする間もなく、男の傍らから横薙ぎの斬撃が放たれ、教室の壁を勢いよく破壊する。その際に飛んだ破片を、春樹は防いだ。
「結界」を用いて。
「せんせ……い?」
奈々は思わず声を漏らした。春樹は右手を前に突き出し、そこから結界を張っていた。半球形の障壁が、彼とその周りにいる生徒たちを守っている。明らかに異物でありながら、柔らかな草色のそれは穏やかで、子どもたちの心をわずかに弛緩させる効果もあった。
「ほお、う。お前の力はそれに特化しているのだったな。結界使いの嵐山春樹。式を用いて侵入できた時は、力も落ちたかと思ったものだが……相変わらず「守る」ことに関しては得手だな、春樹」
「景光、あんた……自分がなにしてるのか分かってるのか!?」
「無論。わからぬまま行動するほど阿呆でもないよ」
「なら、余計にタチが悪いッ……!! 俺だけを殺すのならいい、だがあんたは子どもたちも巻き添えにするつもりだったろう! 加藤景光、あんたは昔そんな奴じゃなかっただろう……! 里のためを思い、皆のために心を尽くした……優しい人だったじゃないか」
一呼吸してから、春樹は言葉を吐く。
「それがどうして、こんなことをするんだよッ!! 誰も彼も皆殺しにするだなんて、狂っているとしか言い様がない! この子たちはこれから成長していき、未来を作っていけるんだ! それをあんたは断ち切るっていうのかよ……!!」
「察しが良いな、春樹。兄に継ぐ里の秀才とうたわれたことはある。天狗として生きるのをを捨てたことがいささか惜しく思えるほどにはな。……そうだ」
景光の周りに、禍々しい力が集まっていく。深紅の波動は不気味なな音を立てながら、景光の元へ吸い寄せられていった。
「(あの人が、この教室にあるエネルギーを吸い取っていく……!? 式を使う気だ!)」
そこまで察知し、奈々は初めて気付く。
「(式……? 私、どうしてそんなことが分かるんだろう……。目で見ても、光が集まっていくようにしか見えないのに……でも!)」
春樹の言葉、そし、自分の中で「分かってしまったこと」を照らし合わせ、奈々は恐ろしい結論にたどり着いた。
「(あの人は皆を殺す気だ……!)」
「ほおう、私の式を理解するとは……さすがは冬嗣の娘だな。嵐山奈々、お前には才覚がある。人間として育てられたと聞いて、その力もたいした物ではないと考えていたが……訂正しなければならんな」
大きく顔を歪め、彼は笑う。
「殺すには忍びない。お前は試す。他のモノは――」
春樹が結界の精度を高め、耐久性を最大にまで引き出す。力では敵わない相手なら、後手に回ろうと守り、反撃できる隙をうかがうしかなかった。――それがどんなに困難で、不可能に近いことであっても、嵐山春樹は一教師として父親として、やらなければならなかった。
「――壊す」
「――やらせるかッ!!」
凄まじい熱量が、景光の伸ばした指の先で、爆ぜた。
痛むどころでなく、目が潰れるほどの強い光が、教室を呑み込んだ。春樹の式は何秒も、何十秒も、何分もそれに持ちこたえた。
「ぐうう、うッ……!」
春樹は前に突き出した両腕、両手ををひたすらに張り続ける。結界内にいれば、景光の力をすべて遮断できる。春樹は、生徒たちのためにも戦わなければならなかった。
「(この力があるから皆が襲われた。しかし、それを守るために使われるのもまた天狗の力……俺は結局、人間にはなれなかったんだな)」
事態を把握できずにいる生徒たちは、一人として例外なくおびえていた。なぜ、自分たちは襲われているのか。あの男は一体誰なのか。春樹の力は何なのか。
黒い翼の男は、なぜクラスメートである嵐山奈々に目を付けたのか。
考えたところで、彼らには何も有効な答えは見つからなかった。ただ、恐怖の中にあって――担任である春樹がいるからこそ、生かされているということだけが、確かだった。
「先生っ!」
「先生、頑張って……!」
「お願い……!」
混乱の中にありながら、奈々もまた春樹を信じていた。祈るように手を組み、うつむいて目を強くつぶる。ふと、重ね合わされた手があった。
「奈々!」
「奈々ちゃん!」
「奈々さん!」
友人である博子、真菜、杏の手だった。
光彦もまた、彼女を支えようとしたが、動けなかった。足がすくんで、立てない。
「(なんなんだよ……こんな時に……! こんな時にっ……!)」
じっとりと恐怖が、光彦の心を締め付けていく。
「(どうして……大切な女の子の元に行くことすらできない……!ビビって立てやしない、それどころか……怖くて気が変になりそうだ……!!)」
頭の中に、嫌な考えが浮かんで消えない。それらが互いに絡み合い、心を支配していく。彼の思考力はすでに、目の前の光景のために奪われつつあった。
「(動け、動けよ……!)」
じわりと汗がにじみ、顔をつたう。
「(動けっ!!)」
その言葉を口に出し、自分を鼓舞することすら、できない。ただ胸中で思うだけだ。光彦はいつの間にか、泣いていた。
「(どうして……)」
涙を拭うことも、できない。ただ無意識のうちに、拳を握りしめていた。強く強く、血が滲むほどに。
「(どうして俺は、こんなに弱いんだ……!)」
光彦は気付いていないが、他の生徒も半数は理性を失いつつあった。狂気を感じさせるほどに春樹を信じる者もいれば、すでに気を失っている者もいる。母親の名前を小さく呼び続ける少年もいるが、彼を笑う者など誰も、いない。
奈々と友人たちも正気ではいるが、余裕などまるでない。春樹が一瞬でも気を緩めれば、彼女たちは惨殺される。凄まじい重圧の中、かろうじて耐え抜いているだけである。
「ほう、やるな。ここまで耐えたのはお前と冬嗣だけだ。嵐山兄弟か……お前たちの友人でいたことを誇りに思うぞ」
「ぐはっ……ぐうう、ううう……」
いまだ余裕を見せる景光とは対照的に、春樹は限界に近づきつつあった。彼と「敵」の間には実力差がありすぎた。攻守ともに優れた能力を持つ景光に対し、この一教師はあまりにも守備に特化しすぎていたのだ。彼が得意とするのは補助術式であり、守ることはできても攻撃は不得手である。
その上、景光は彼とその兄に報復するべく、牙を研ぎ続けていた。対する春樹は結界式以外、十年近く使っていない。元より不利であるのに、ブランクまである。彼我の戦力差はあまりにも大きすぎた。
腕がきしむ。ミシキシパキ、と嫌な音を立てはじめ、脚は震え出す一歩手前だった。
「先生っ!!」
「……な、奈々……」
奈々は不安に揺れる目を、春樹に向ける。彼を信じたかった。ここで負けてしまえば、もう二度と会えない気がした。
「俺……」
春樹は奈々を、かすんでうつろな視界に捉える。
負けられなかった。
嵐山春樹は。
一教師として。
一人の父親として。
負けることなど出来なかった。
どんなに兄や友人への劣等感を抱えていても。若き日にはどこにも居場所がないと嘆いていたとしても。大切だと思った人を裏切ることになってしまったとしても。妖怪として生きることもできず、人間に紛れることも結局できなかったとしても。
どれだけ、汚い感情にまみれていたとしても。
彼にとって、人として暮らした日々はかけがえのないものだった。優れた天狗になれないと涙をこぼし、悪辣な鬼からある女性を救おうとし、石畳に叩きつけられたことも、無駄ではなかったと思えた。
目の前がぼやけ、思考は時折途切れる。
「ちゃんとやれてた……かな……」
ふと脳裏に、過去の出来事が映る。関わってきた人々が浮かび、消えていく。
父。母。兄。景光。ある女。里の友人。知人。かつて慕った師。人に交わり生活し始めてから、出会った多くの人々。ある女性教師。そして。
奈々。
彼の大切な家族。かつて欲しても手に入らなかった、家庭。
「昨日の夕飯、おいしかったよ……」
「先生!」
「お前と会えて、暮らせて、本当に楽しかった……」
「先生!!」
「いい父さんだったかは、分からないけど……」
最後の力を、右手に込める。せめてと、笑った。
「俺、幸せだったよ」
「――お父さんッ――!!」
春樹の右手から、鋭い一撃が放たれた。凄まじい速度で飛び、景光の右胸に命中する。
「ぐふおっ……! はっ…ぐう……く」
その威力に耐えきれず、景蜜は吐血した。黒みがかった血を滴らせながらしかし、彼はいまだに事を飲み込めずにいた。
強大な力を持つ彼でも、認識できないほどの早さだった。
「どこに……このような力を残していたと……いう、のだ」
思わず膝をついた景光は春樹を見て、目を見張った。
死んでいた。
嵐山春樹は、すでに事切れていた。
右腕を景光に向け、左腕で子どもたちを守ろうと塞いだまま。
「おとう、さん?」
突然の事態を、奈々もクラスメートも受け止められない。
「う、嘘……そんな……いや、いやあ――――――!」
奈々は絶叫し、景光は痛みに耐えながらも、口元をひどく歪めて笑った。
「術式……展開」
瞬間、敷設された式が発動した。
ぱしゅっ。ぱしっ。
クラスメートたちが「還元」された。
後に残るのは膨大な量の血と、身につけていたものだけ。
「……え……なに、これ……」
呆然とした奈々が見たもの、それは。
血の赤と黒い術式たち。
そして。
博子が携帯していたメモ帳とお気に入りのペンと真菜がお守りにと手首に巻いていたミサンガと杏が使っていた度の強い眼鏡と明の万年筆と由真のカチューシャと。
春樹が愛用していた、紺色の手帳。
奈々がプレゼントした、それが。
おびただしい「遺品」たちの上に。
ぱさ、と落ちた。
「あ……え……?」
ゴガン、と頭の中で音がした。彼女の理性が、外れた。
「あ、あ、あ、ああああああああああああ――――――――――!!」
景光は、笑う。
「矩を超えたか、嵐山奈々!」
彼は解除術式を開き、奈々にぶつけた。
「それでこそだ。元より天狗として生まれたモノが、人間として生きるなど笑止千万!封印式を解いてやろう!」
「ぐっ! ぐううう……ぐがあああッ――――!」
奈々を人として留めていた式が、外れた。
膨大な力があふれ、彼女を天狗として構成し直す。
しばしの後、そこにいたのは。
悪鬼のごとき男の天狗と。
数刻前まではたしかに人間だった、少女の天狗。
少なくとも景光は、そう認識している。