第01話
水面に映り込む自分の顔は川の流れに合わせて絶えず揺らいでおり、どれだけ待っても、一定の形を取ることはない。
ぽちゃん、と僕はそこらへんに落ちていた石を投げ込んだ。すると、僕の顔はより大きく歪む。夏の日差しを反射して星空のように瞬く川面に、不恰好な自分が紛れ込んでしまっている。そんな偽物の僕の顔はとても醜く、邪魔臭かった。
片田舎には景色を遮るものがない。遠くに見える山のさらに向こう、空色のキャンバスに描かれた現実味のない入道雲が、夏の到来を言葉なしに告げている。
鳴り響く蝉のオーケストラ。陽炎に揺れるアスファルト。白線の上で干からびたミミズ。彼方を目指して大空に白線を引く飛行機。河川敷を吹き抜ける風だけが命綱のように感じられる、馬鹿みたいな熱気。
そのどれもが夏の存在を声高に主張している。そして僕は、そのどれもが偽物のように感じられた。
薄皮一枚隔てたような。フィルター越しに眺める風景のような。あるいは、画面越しに眺める映像のような。
昔から、そんな風に考えることが多かった。なぜかと問われれば、答えに窮するのだが。
自分自身のことが他人事のように思える、なんて言えば気取った高二病のように感じられるかもしれない。まあ、実際高校二年生の僕がそれを言っているのだから、それはまさしく高二病というヤツなのかもしれない。
「……あっつ」
とはいえ、それで暑さが紛れるわけでもない。暑いもんは暑い。汗はかくし虫は多いし、何も得がない。
それでも僕がこうして河川敷にやってくるのは──
「~♪」
誰に憚ることもなく、昔どこかで聞いた、なんてことのない鼻歌を歌うためだった。
☆★☆
君が本物だと、僕だけが知っている。
☆★☆
僕がそんなセンチメンタルでキモいことを考えながら真夏の河川敷で鼻歌を歌っていたのは、決して暑さで気が狂ってしまったからではなかった。
狂ってしまったのは愛用のノートパソコンさんの方だった。
「どうして……どうして消えてしまったの……? 僕の大切な君……」
現実逃避を終えて帰ってきた僕は、依然として三時間分の作業データが消え去ったままなのをしっかりと確認してノートパソコンを閉じた。
「パルプンテ」
ノートパソコンを開いた。
「ダメか」
ノートパソコンを閉じた。
モデリングというものは、やり込めばやり込むほど詰められる場所が出てきてしまい終わりが見えない。僕も高校二年生レベルの知識しか持ち合わせていないが、二〇二五年現在では素人でも触れる簡単なモデリングソフトなんてものもある。僕は、貴重な高二の夏休みをモデルいじりに費やすことにしたのだ。
わざわざ休みの日に学校に来て部室を使っているのは、電気代の節約のためだ。
親に借金をしてまでそれなりのスペックを持つパソコンを手に入れたため、頭が上がらない。少しでも節約するために、学校の電気を拝借しに参った次第である。
というわけで、僕の懐事情は極寒なのだ。真夏なのに。
「…………」
……扇風機しかない部屋の割にはよく冷えてるじゃないの。
はい。
僕が三時間かけて作っていたのは、少女のモデルだ。ファンタジーチックな金髪碧眼のスーパー美少女。百人に聞けば百人が「可愛い」と答えること間違いなしの、究極完全萌え存在である。
なぜこんなものを作ろうとしているのか? 理由はたった一つ。
──世界に出回る『萌え』では満足できなくなったから。
昔から世界が偽物のように感じられる僕は、好きなアニメを見たり漫画を読んだりゲームをしたりしても、どうしても『作り物』感が拭えずに首を傾げていた。なんとなく腑に落ちない、納得できない。
そうして「なら、自分で作ればいいんじゃね?」という安易な結論に至ったのだった。
だが、未だに納得のいくものは出来ていない。試行錯誤の最中だ。今回の上書き保存忘れのようなクソ凡ミスに邪魔されながらも、何か成し遂げられないかと足掻いている。
「……ん?」
そうして僕が諦めて作業を再開しようと思った、その時。
聴こえてきたのは、何かの旋律だった。
「──────、────♪」
僕の拙い鼻歌なんかとは比べ物にならない、きちんとしたメロディライン。曲として成立したハミング。データ消失でささくれ立っていたはずの心が凪いでいく。これは一体……?
「……」
僕は無言で立ち上がった。
目的は一つ。僕の作業を邪魔する愉快なアーティストに文句を言いにいくのだ。
☆★☆
この世界はライトノベルではないのだが、うちの高校は珍しく屋上が解放されている。声の主はどうやらそこにいるようだった。
「──────、────♪」
階段を登るごとにその声は鮮明になっていく。
「……」
何だろう、この声は。
ファンタジー世界の物語なんかでは、魔法の詠唱なんてものがあったりする。かっこいい文章をリズムに乗せて流麗に詠いあげる。
喩えるなら、彼女の歌は詠唱だった。
魔法のように鼓膜を揺らし、心に染み渡る。歌詞のない単なるハミングが、なぜここまで不思議な力を持つのか。
僕は別に、特別音楽が好きとか思い入れがあるとかそんなことは一切ない。平均程度に聴く、それだけ。そんな僕でも、この歌声が特別であることが分かる。
僕は魔法みたいなメロディに引き寄せられるようにして、屋上に続く扉に手をかけた。
「──────」
そこにいたのは、一人の少女だった。
長い黒髪を揺らし、風に乗せて歌を運ぶ。ベンチに座って目を伏せ、楽しげに足を振りながら、ぽつんと一人、そこにいた。
芸術品のように高貴。しかし、孤独感を伴って。なぜこんな場所で一人、風に揺られているのだろう。
黒薔薇が一輪、寂しく咲いているのを連想した。群生地からはぐれて一人、少女は何を思い歌を歌うか。
しばらく、僕はその様子を眺めていた。見惚れていた、という方が正しい。ただ無言で、彼女が奏であげる旋律に身を委ねていた。隠世へと誘われるように。
「……これだ」
見ているだけで、聴いているだけで心が揺れる。
これだと思った。
これが僕の求めている声だと思った。
世界が偽物のように感じた。本物をずっと探していた。
胸に響く旋律。心を揺らす歌声。
この歌声こそが、僕がずっと探していた最後のピースだ。
止まっていた時を動かすように、僕は一歩踏み出した。
(……でも、話しかけたくないな)
話しかけてしまえば、きっと彼女は歌うことをやめてしまうだろう。好きな歌が途中で遮られてしまう時に感じる不快感。あれが嫌だ。僕は、彼女の歌が終わるまで待つことにした。
「────♪」
二、三分経っただろうか。名前も分からないその曲はクライマックスを迎えて、静かに幕を閉じた。
扉に背を預けていた僕は立ち上がる。普段自分から女の子に声をかけるなんて陽キャラみたいな真似は絶対にしないのだが、今回だけは特別だった。
「……あの」
なるべく驚かさないように声をかけたつもりだった。しかし彼女は、僕が話しかけた瞬間に真上へ十センチ跳ねた。
「あびゃあっ!?」
なんて、奇怪な悲鳴をあげながら。
「だっ、だだだだだだだだっ、誰っ!?」
ドラムロールか?
「いや、部室にいたら声が聞こえてきて。誰かと思って見にきたんだよ」
「い、いつから聴いてたの……」
「四分前くらいから」
「ほぼ全部じゃない……」
はぁ、と頭に手をやり首を振る少女。そんなに聞かれたくなかったのだろうか。
「何してんだろ、私……」
どうやら、歌を聴かれたのは痛恨だったらしい。確かにノリノリで歌ってるところを見られれば恥ずかしくて仕方ないだろうな。動画でも撮っとけばよかった。
「歌上手いのな」
「まあね」
「謙遜を知らない女だな」
現代ではなかなかいないレベルの自信を持ち合わせた女である。
「ていうか、何しにきたの? 文句でも言いに来たワケ?」
「そうそう。お前の歌声が部室に響き渡った」
「窓を閉めなさいよ」
「冷房がないんだようちの部室は」
「ひもじいわね」
「不遜な女だな」
この野郎、声は女神みたいな感じなのに喧嘩腰で生意気だ。PC部部長たるこの僕に何様のつもりだ?
このクソアマに対して、馬鹿正直に「あなたの歌声に惚れました!」なんて言う気も起きない。基本的に「見知らぬ女と接触する場合は最大限警戒しろ」のスタイルで生きてきた陰キャラなので、僕は信念に従いバッチリ身構えた。ジャッキー・チェンも驚きの隙のなさ。しかし──
「はいはい、やめればいいんでしょ。あなたにも見つかったし。帰るわ」
「待て待て。そもそもお前、なんでこんなところで歌ってんだ?」
「気晴らしよ、気晴らし。ご迷惑をおかけしたわ」
「アーティスト志望とか、そういうことか?」
「……まあ、そんなもんよ」
「へえ。すごいな」
「声だけはね」
そこだけは譲らないのか。まあ、相応の実力はあるから突っ込みはしないのだが、相手もそれが分かっているらしいのが憎たらしい。
聞く話によれば、夏休みだし校舎には誰もいないだろうと思って黄昏ていたらしい。傷心中か? 失恋か? 自慢じゃないが、年頃の乙女心が分かるほどオタクはセンシティブではないぞ。
なのでオタクは不躾にこんな質問を投げかけてみることにした。
「その素晴らしい歌声に免じて、騒音問題は許すことにした」
「偉そうね」
「代わりに一つお仕事を請け負ってくれはしないか」
「引き続き偉そうね」
両手を組んで半眼の少女。訝しげな視線。まともに女の子と会話したことがない僕は、冷静ぶるので精一杯。
だがそれでも、この逸材だけは逃したくないと、衝動が感情を僅かに上回った。
「僕、美少女を作っているんだ」
「マッドサイエンティストか何か?」
「誤解を生んだ。パソコンで美少女の身体を作ってるんだ」
「一切誤解が解けていないわ」
「その体に魂を込めてほしいんだ」
「犯罪の片棒を担がされるのはごめんよ」
「犯罪じゃない。ちょっと部室まで来てくれ。見れば分かる」
「女を密室に連れ込もうとするあたりに十分な犯罪性があるのよね」
「……確かに」
納得してしまった。負けた。慣れないことをしたため犯罪性が急上昇した。
「まあでも、暇だし。ちょっとくらいならいいけど」
「夜に街中でヤバい勧誘に引っかかるタイプか?」
「黙れよキモオタク。調子に乗るな」
おっと、口が悪い女はモテないぜ。
これ、キモオタクからのアドバイスな。
☆★☆
「へえ、思ったよりすごいじゃない」
僕は部室に連れ込んだ(意味深)美声少女に色々なレクチャー(意味深)をしていた。画面には金髪碧眼の美少女が表示されている。僕はそれをマウスで思うままに(意味深)いじくりまわす(意味深)。
「先程三時間分の作業データが消えたところだけどな」
とはいえ、外観はおおよそ完成している。最新技術でモデリングされた美少女は、僕が好きなゲームのヒロインを下地として、キモオタクの理想をふんだんに盛り込んだ「ぼくがかんがえたさいきょうのヒロイン」だ。
「この子の名前は?」
「名前はまだない」
「名作風に言っても気持ち悪さは拭えないから」
「チッ」
毒舌だな。いや、初対面の謎のオタクに警戒してるだけか。
「そういえば僕、お前の名前も聞いてなかったな。僕は石田要介だ。よろしく」
「馴れ馴れしいわね。あとお前って呼ばないで。ちゃんと仮屋瀬津奈って名前があるんだから」
なかなか耳慣れない名前だ。浅瀬と津波と神奈川でセツナか。面白いな。
「じゃあこいつの名前もセツナにしよう」
「はぁ?」
「これからこいつに声を吹き込んでもらいたいんだ」
「……それってつまり、声優をやれってこと?」
いきなり嫌そうな表情になったな。そんなに嫌なのだろうか?
「声優。声優ね……」
最強ヒロイン、改め『セツナ』に足りない最後のピース。美少女の魂とも言える、声だ。
モデリングなら僕が試行錯誤すればいいが、声だけはどうにもならない。ボイスチェンジャー使って僕がやってやろうと思ったこともあったが、あまりにも気持ち悪すぎて気絶してしまった。加工後でも滲み出る気持ち悪さが脳髄にダイレクトアタックを決めた。
これでは最強のヒロインにはなれないと理解した僕、そこに現れた仮屋。完璧だ。神の采配。優勝。
「嫌よ。なんでそんなことしないといけないの」
神はオタクを見放した。
「なぜだ! そんなにいい声を持ってるんだし、活かせばいいじゃないか! 活躍の場としてこれ以上ないだろ!」
「気持ち悪い。近寄らないで」
「オーケー分かった。こういうのには慣れてるんだ。二メートルの距離を維持しよう。だから声帯だけ貸してくれ」
「所詮声帯だけの関係だったのね」
それ以上どんな関係になれというんだよ。
「っていうか二メートルを維持する関係性に慣れてるって、だいぶ悲しみを背負った人生を送っていらっしゃるわね」
「そうだぜ。オタクはいつだって悲しみを背負ってんだ」
そう思ってんなら声くらい貸してくれたっていいじゃないか。
「……私だって悲しみの一つや二つ背負ってんのよ。自分だけとは思わないことね」
「誇ることか?」
まあ、人生色々あるよな。今時の女子高生の人生は分かりかねるが。
「とにかく、声優は嫌」
「声優に親でも殺されたか?」
「初対面のくせに何をズケズケと」
「人間と会話することが少なすぎて距離感が分からない」
「あ、めちゃくちゃ納得したわ」
「そこはフォローを入れていけや」
「人間と会話してなさそうな顔をしてるもの」
「僕の顔宇宙人か何かに見えてます?」
人の顔をなんだと思ってるんだろうな。まったく、困ったさんだぜ。
「……まさに昨日ね、声優のオーディションがあったのよ」
「……へえ」
これは面白い偶然もあったものだ。声優をやってくれと頼んだ相手が昨日声優オーディションを受けていた、なんて。
「まあお察しの通り落とされたワケ」
声優を求める僕と、声優オーディションを受けた少女。まるでアニメの第一話。もしかしてこの話もアニメ化されたりしてな。
「その理由が『声以外何もない』って。分かる? 声優オーディションで声以外に何がいるの? わけ分からんのよ」
僕は椅子を前後に揺らしながら右から左に聞き流す。
ふと語り始めたのは、なんだか愚痴を吐き出したかったようにも感じられた。
「自分で言うのもなんだけど、私今世紀最大の運動音痴なのよ」
「だっさ」
「黙れ。それで、面接にダンスの項目があるの。そこで私は落とされたのね」
「盛大にやらかしたと」
「ダンスなんている? 私は声の仕事をしに来たのに、なぁんで踊らされるのよ。親も『お前に声優は無理だ』って言うし」
「なるほど。声優事務所に『踊らされた』ってわけだ」
「一発ぶん殴ったらそのドヤ顔も二度とできなくなるかしら?」
やっぱこう、距離感が分からないな。普段会話する女の子といえば妹か腐れ縁の幼馴染だけだからな。ついついそのノリで行ってしまう。
ともあれ。
ある意味運命的な出会いをした仮屋瀬津奈。彼女は、ただただ不器用だった。
声だけは誰にも負けない自信があって、それを生かして声優になろうと志した。しかしその世界では、声だけでは生きていけなかった。今の時代、声優はアイドルだ。多方面の才能が求められる。仮屋瀬津奈では、その要件を満たすことができなかったという、ただそれだけの話。
「私には、声しかないのに。それだけに縋って生きてきたのに……」
にしても、『声以外何もない』か。辛辣だな。
でもそれを聞いて、僕は思うのだ。
「声だけあればいい」
「え……?」
「声だけあればいいんだ。あとは全て、『セツナ』がやってくれる」
言い方は悪いが、僕が欲しかったのは声だけだ。中の人が運動神経最悪だろうが何だろうが、知ったこっちゃない。
「なあ、仮屋」
だから僕は、改めて問いかける──
「『セツナ』にならないか?」
彼女は『声しかない』と否定された。
「その声で、お前を落とした声優事務所を見返してやらないか?」
ならば、声だけで逆襲をしてやればいい。
「バーチャルアイドル、『セツナ』。全世界に自慢の声を届ける、絶好の機会になる」
僕は場を提供する。仮屋は声を提供する。
僕は理想のヒロインを世界に知らしめることができる。仮屋は自分の声を世界に知らしめることができる。きっと彼女にとっても、悪い提案ではないはずだ。
「……声だけで、いいの?」
「ああ。必要なのは喋ることだけ。それ以外は全部、『セツナ』がやってくれる」
「……私の声が、必要なの?」
「そうだ。お前じゃなきゃダメだ。『セツナ』には、お前が必要だ」
僕は立ち上がって、手を差し出した。
「お前を否定したあいつらに、逆襲してやろうぜ」
仮屋は無言でその手を見つめていた。表情を動かすことはなく、ただその一点に視線を向けている。彼女の瞳の向こうには、この短いやり取りの中で見え隠れしたさまざまな色が浮かんでは消えていく。
否定された自分。
無くしてしまった自信。
自分の手の中にあるものと、こぼれ落ちていったもの。
泡沫の如く出現と消失を繰り返し、せめぎ合う感情が見て取れる。
あるいはシーソー。定まらない心は右に左に、気持ちを揺らがせる。
しかしやがて、意を決したように少女は目を伏せた。
いや、違う。それは決意ではない。彼女の心は最初から決まっていたのだ。
だって本当に欲しいものは、きっと──────。
「……やってやる」
その目に宿るのは信念か、はたまた野望か。
あるいは、希望か。
「やってやるわ。あのクソ事務所が私を落としたこと、絶っっっっっっっ対に、後悔させてやる……!」
「よし。決まりだ」
今、石田要介と仮屋瀬津奈の小さな同盟は結ばれた。
『セツナ』は、僕の探す本物になり得るのだろうか。彼女の声は、探し物の答えへと続く架け橋になれるのか────
こうして僕らの、長きに渡る激闘と探し物の旅が始まったのだった。
「でも握手するのは気持ち悪いから嫌」
「明確な線引き」