第三章 種
1
土曜日。
部活を終えてジャージ姿の一路が帰宅すると、母親がリビングから顔を出して、
「さっきまで理麗ちゃんが遊びに来てたのよ。一路に会いたかったみたい」
「………」
その言葉には答えないで、母の顔は見ずに軽く頷いた。
そんな息子の態度に、
「あら、照れてるの? それとも反抗期?」
と、母親がぼそりと呟いた。
昨日、嫌な空気で別れたのに、今日また会いに来るとは思わなかった。昨日の理麗の言動を思い出して、一路は少しげんなりした。
部活で疲れているのに、そんな事を思い出させないでくれと言わんばかりに、頭を項垂れて階段を上って行く。
二階には廊下を挟み其々の部屋がある。右側の奥が一路の部屋。手前は弟の部屋。向かい側が両親の部屋だ。
部屋に入りバッグを無造作に置く。南西にあるバルコニー側に勉強机があり、その椅子に足を投げ出す様にして座った。
すると直ぐにドアを開けて、小学4年生の弟の樹ニが部屋へと入って来た。
一路は色白だが、サッカークラブに入っていて一年中外で走り回っているからか樹ニは色黒だ。一路は切れ長の奥二重の目だが、樹ニは二重の大きな目。母似の一路と父似の樹ニ、兄弟といっても二人はあまり似ていなかった。
部屋に入って来た樹ニの第一声が、
「にーちゃん、コンヤクしてんのか?」
だった。その言葉に一路は思わず椅子からずり落ちそうになった。
「なに…?」
「りれぇがそう言ってた」
「………」
一路は頭を抱えたい気分になった。
理麗から何か聞いたのだろう。正直、弟からそんな事を訊かれるとは思わなかった。
「今日、りれぇが来たよ」
樹ニは気にせず話しを続ける。
「みたいだな。さっき母さんからも聞いたよ」
南側の壁に沿って置いてあるベッドに樹ニは腰を下ろした。
「それで、りれぇが、にーちゃんにはコンヤクシャがいるって言ってた。そうなの?」
興味深々の目をして訊いてくる。
「まぁ…」
一路は椅子に座り直すと、背もたれに肘を着いて、そっち側の手で下唇を触る。
「にーちゃん、そいつのことが好きなの?」
容赦なく質問攻めが続く。
「………」
「りれぇ」と言っていたのが「そいつ」に変わった。言葉の様子では、婚約した相手が誰なのかまでは聞いてないらしい。理麗もさすがに自分がその相手だとは言いづらかったのか。
理麗を好きかどうかなんて一路は考えた事も無い。ただ、祖父に言われて婚約しただけだ。
「何? 理麗ちゃん、何か言ってた?」
「だからぁ、にーちゃんにはコンヤクシャがいるって。その人とけっこんするって」
「それだけ?」
「うん」
「そう…」
一路は立ち上がって、クローゼットから服を出して着替え始めた。
「コンヤクシャってどんなやつ?」
「…どんなって……」
なるべく樹ニが興味を持たない様にと、一路は頭の中で言葉を選ぶ。
「じいちゃんの知り合いの孫で…、二つ年下…」
実際その程度しか思い浮かばなかった。
「じいちゃんの知り合いのまご? オレも知ってんの?」
「…どうだろ…何年か前にその家族と会った時にその話しを聞いたんだ。覚えていればおまえも知ってるだろ」
嘘ではない。だがヒントには遠すぎる。これ以上話しが膨らまない様に一路は気をつけた。
「オレもそこにいたの? んー…、ぜんぜん覚えてない」
樹ニは宙を睨みつけている。
「で、にーちゃんはそいつのこと好きなの?」
「……考えた事ない」
「? 考えたことないって?」
一路は白いパーカとカーキのワークパンツに着替えると、バッグからタオルやペットボトルを出して、脱いだジャージを纏めて持ってドアに近づき樹ニへ向いた。
「好きとか嫌いとか考えた事ないって」
「それってなんとも思ってないってことじゃない? にーちゃん、好きでもないやつとけっこんすんの?」
樹ニは理解出来ないといった視線で一路を見る。
一路は大きく溜息を吐いた。
「もうその話しはいいよ。実際に結婚する時期に考えればいい事だろ」
そう言って部屋のドアを開け放したまま出て行った。
婚約者の話しが聞きたいだけだったのに、何故一路が不機嫌な声を出すのか、まるで自分が悪い事をしたみたいで、樹ニは釈然としない気分となった。
「なんだよ…あれ」
2
一階のリビングの明かりが、地下にある理麗の部屋の天窓に差し込んでくる。それとサイドテーブルに置いてあるハート型のスタンドライトに淡く桃色に照らされて、部屋は柔らかな光りに包まれていた。
夕食後、理麗はベッドに仰向けに寝転び、暫くは天井を眺めていた。そして勢い良く足を振り上げて起きると、ブックシェルフから星占いの本を持ち出した。
理麗は自分の星座である天秤座のページを開いて、他の星座との相性が書いてある所を見た。
一路は1月生まれだから山羊座だ。天秤座と山羊座の相性は…《✕ …のんびり屋のあなたとは相性がイマイチ》と書かれてある。
理麗は大きく溜息を吐くと、またベッドに寝転がった。
以前からこの本を見ては、一路との相性が気になっていた。これはやはり一路とは、結婚には向かないという事なのだろうか。それで赤い糸がもう一つ現れたというのか。
三日前。理麗の前に突然J168が現れ理麗には運命の赤い糸が二つあると聞かされた。
学校の授業が終わって帰る時だった。何時もの様に校門で友人と別れて、迎えの車に乗ろうとした。その時から少し妙だと感じていた。
✻
木曜日。
門の脇には大きな黒塗りの外国車が停車している。何時もなら理麗の姿を見つけると、そこから迎えに来た泉田が出て来て、理麗が乗るまで後部座席のドアを開けて待っていてくれる。だが今日はそこに泉田はいない。
理麗の父が警備のサービス会社に依頼して、泉田に子供達を学校まで車で送迎してもらっていた。泉田はがっちりとした体型の40代の男性だ。
「?」
理麗は遠巻きにその車を眺めた。黒くて同じ車種、後部座席の窓にはレースのカーテン、ナンバープレートも見慣れた番号だし、確かに泉田の車だ。
理麗は車の前方へ回る。窓にはスモークフィルムが貼ってあり車内がよく見えない。フロントはカーシェイドが広げられている。中の様子が全く判らない。
「??」
お腹でも壊したのだろうか。理麗は不審に思いながらも、後部座席のドアに手を掛けてみた。
カチャッ ーードアが開く。
鍵を掛けずに車を離れるとはなんて不用心なんだろう。それとも理麗が車内で待っていられる様に、わざと鍵を掛けないでいたのだろうか。理麗はそう考えながらも車内へと乗り込んだ。
6歳の妹と4歳の弟の世話に忙しい母親に代わって、父親が世の中は物騒だからと、送り迎えをサービス業者に頼んでいた。小学3年生の妹と理麗は泉田が運転する車で学校に通っていた。
今迄こんな事は無かった。理麗が下校する時間を見計らって、送迎の車が控えていた。それは理麗が小学生へ通う様になってから今迄のこの5年間、ずっと変わらぬ日常の一部と
なっていた。
学校のお手洗いでも借りているのだろうか。それともどこか別の……
理麗がレースのカーテンを捲って外を覗いた時だった。車が急発進した。
「!」
考え事に気を取られて前方を全く見ていなかった。運転席には泉田とは違う黒い後ろ姿がある。
「誰…?」
不安が弱々しい声となって理麗の口から洩れる。だが相手は何も答えない。理麗は恐く
なってドアに手を掛けたが、ロックをされていてドアは開かなかった。
「誰!」
今度は大声を挙げた。声が震えて裏返る。だがやはり返答は無い。
そうだ! 防犯ブザー!!
理麗は補助鞄に付けていた水色でハート型をした防犯ブザーを掴んだ。
すると、直ぐにそこに大きな手が伸びてきて、理麗の行動を制した。
「話しが出来なくなるから」
そう言って、カラビナを外され、取り上げられてしまう。
理麗の心臓がバクバクと鼓動を速め、手は震えた。
その時、車が右折したと同時に助手席からカクッと後頭部が現れた。
それは泉田だった。今迄、座席の背もたれに隠れていて見えなかったのだ。体は力無く傾いている。
理麗は目を見開く。
まさか……。
「し…死んでるの?」
「気を失ってるだけだ」
ーー静かな若い声。
泉田は学生時代に何度か柔道の大会で優勝した事があると言っていた。だから父は子供達の送り迎えに泉田を雇ったのだと。
もう若くはないが、毎日のジョギングとトレーニングは欠かさない為、中年だが体は引き締まっていた。だから理麗も安心していた。その泉田がこんな事になってしまうなんて。
自分はどうなるのだろう……これは誘拐か、身代金を受け取るまで、自分は何日も家に帰れないのだろうか。受け渡しに失敗したら…殺されてしまうのだろうか。理麗は一気にパ
ニックに陥り涙が溢れ出した。
確かに貴城家はお金に困った事は無い。家はカーテンの専門店を経営している。だからといって大金持ちだと感じた事は無い。実際、貴城家より裕福な家庭は沢山いる事だろう。子供が車で通っているのを見て裕福だと思われたのだろうか。理麗は卑屈に感じていた。
理麗は何度も運転している人物に向かって、一体誰なのか、何故こんな事をするのか、自分はどうなるのかと訊いたが、それに対して答えは返って来なかった。
両親、妹弟など家族の顔が思い浮かんできて、無性に会いたくなる。止めどなく頬を伝う涙を理麗はハンカチで拭う。そのすすり泣く声が車内に響いた。
車内では無言のまま時が過ぎ、軈て車は止まった。
随分と帰り道から逸れたのだろう。正面に見える景色は山と川、遠くに屋根瓦の民家が疎らに見えるという見知らぬ場所だった。
ここで何が起こるのだろう。理麗は生唾を呑み込んだ。
少し間を置いてから運転席にいる人物が振り返った。
「泣くな。危害を加えるつもりは無いから。大事な話しをしに来たんだ」
理麗はその端正な顔立ちに目を止めた。
黒目が大きく目尻の少し上がった猫目。濃く凛々しい眉毛。パサパサとした質の肩まである髪。歳は二十代前半に見える。とても悪人顔とは言えない。
こんな人が誘拐をするのか、とても残念だと理麗は思った。
「貴城理麗だな」
初めて会ったのに相手が自分の名前を知っている。その事を恐いと感じながらも、理麗はコクンと頷いた。
相手は慌てる事無く、理麗が泣き止んで落ち着くのを待ってから話し出した。
「理麗の将来にとって、とても大事な話をしに来たんだ。これから話す事は他言しない様に。私と二人だけの秘密だ。約束できるだろ?」
理麗はまたコクリと頷いた。
「理麗は運命の赤い糸を知ってる?」
「赤い糸って…将来、結ばれる人とつながってる赤い糸のこと?」
鼻をすすりながら、潤んだ大きな瞳で相手の顔を見た。理麗は早速その話に興味をそそられていた。
「そう。知ってるなら話は早い。その赤い糸の事でトラブルが発生したんだ。それで理麗に伝えに来た」
「トラブル? …イチロくんがどうかしたの?」
「イチロ?」
「婚約者のおおさきいちろくんよ。えっと…」
長髪だが化粧をしていない。この人は男性だろうか。そう考え理麗は、
「お兄さん、イチロくんの知り合い?」
と訊いた。
「え? あぁ…えっと…、違う。私はディスポウザーで、そのイチロって婚約者とは関係ない。それに私は男じゃない」
と、その人物は困った様に微笑む。
「あっ、ごめんなさい」
理麗は失礼な事をしたと、口元に手を当てて、それから「お姉さん」と付け足した。
「いや、そうじゃなくってーー…」
と言って、その人物は言葉を呑んだ。11歳の子供を相手に説明した所で理解出来るとは思えない。余計な事は言わないでおこうと、
「J168と呼べばいい」
と言っておいた。
「J168? 変わった名前…。本名? 外国人? そんな名前初めて聞いた」
「呼び名さ」
「へぇー」
J168の顔立ちや話し方に、理麗の恐怖心はもう薄らいでいた。それに赤い糸という気になる言葉を聞いて、理麗の興味はそっちへ向けられていた。
J168は前を向き、バックミラーを理麗に合わせて話し掛ける。
「話を元へ戻そう。その赤い糸に割り込んで来た別の赤い糸が現れた。だから理麗はどちらかの糸を選ばなければならない。私はその答えを訊きに来たという訳だ」
淡々と話をされて、理麗は何を言われているのか、直ぐにはピンとこなかった。理麗は眉を顰めて、鏡の中のJ168の顔に視線を向けた。
「んー…、よく分からないけど…。運命の赤い糸って、将来結婚する人とつながってるんでしょ? それが2つあるの? じゃあ、あたしは2回結婚するの? イチロくんとは離婚するの…?」
「いや、そうじゃなくて…。まいったな」
そう言って、J168はわしわしと髪を撫でた。
「結婚する回数じゃなくて縁の問題さ。未来に微妙なズレが生じてくる。一般的には一つしか赤い糸は存在を許されない。同時に二つは有り得ないんだ。それが稀に起こる。原因は不明だけれど、どこかで何かが歪んでしまったとしか言いようが無い。だからどちらかを選んで、いらない糸を我々が始末する」
「ふーん…」
理解したのかしていないのか、理麗は気の抜けた返事をした。
「よく分かんないけど…、あたしはイチロくんと結婚の約束をしてるんだよ。けど、もう一人結婚相手が現れて、どっちか選べってことでしょ。そのもう一人は誰?」
「それは教えられない。企業秘密だ。それとさっきからイチロだとか名前を出してるけど、赤い糸の相手がその人物とは限らないよ」
「どうして? 婚約者だよ?」
「理麗が結婚するまでどのくらい時間があると思ってんだ? 本当にそいつと結婚するかな」
「しないの?」
「さぁ、どうかな?」
「なにそれ? じゃあ、どうやって選んだらいいの?」
理麗は少し苛立たしく感じ、それが声に表れる。
「理麗が朱と言えば朱を、紫と言えば紫を。君の自由にね」
「え?」
理麗にはさっきからJ168が所々何を言っているのか理解出来ない部分があった。だが、情報無しに二本ある赤い糸のどちらかを選べと言っているのは判った。
もう随分と前から理麗は一路と結婚する事が決まっていた。それを今更無かった事に出来るだろうか。一路が婚約者という事は紛れもない事実。J168はああ言っていたが、赤い糸の一人は一路に間違いないと理麗は信じている。
もう一つの糸ーー。やはり祖父や両親の知人なのだろうか。それとも理麗が今迄に出会って来た中にいるのか。
そもそも結婚相手を決めるというこんな大事な事を、家族に相談無く自分一人で勝手に決めてしまっていいのだろうか。
「理麗?」
名前を呼ばれて理麗はJ168の顔を見た。不安や疑問、言葉にならない想いが湧き起こる。やっぱり腑に落ちない。
「あたしが勝手に決めるのは…。ママに話したほうが…」
「理麗。事を大きくしたくないんだ。自分で決めて。簡単だろ。相手は誰だか判らない、条件は同じ。二つに一つ、どちらかを選ぶだけさ」
J168は渋い顔で理麗を見た。この事を他言させないように厳しい視線を送る。
「あたしが一人で選ぶ?」
「そう」
「そしたらJ168が…、長くて言いづらいね。J って呼んでいい?」
「…ご自由に」
「じゃあ、J。えっと…なんだっけ…?」
「どっちか選ぶって話」
「あっ、そうだ」
理麗は舌をペロッと出した。
「じゃあ、ママやイチロくんにはJが説明してくれるの?」
「………」
J168は何かを考えているよう。視点が宙でその考えを追っている。
「J?」
理麗が声を掛けると、J168は、
「そこは心配しなくていい」
とだけ言った。
この問題について時間のロスは避けたい。未来に影響しない内に処理したいから、J168はできるだけ早く答えを出して欲しいと言った。だが、理麗は両親が自分の結婚相手についてどう考えているのか。一路は自分との婚約をどう思っているのか。それを聞いてから答えを出したいと思った。それで大切な事だからしっかりと考えて答えを出したいと訴え、三日間、考える猶予を貰う事となった。
一通り話を終えるとJ168は、
「じゃあ、送るよ」
と言って、来た道を戻って行く。
だが、何故か理麗の家では無く、帰り道の途中で車を止めた。そして、
「直、気づくから」
と、J168は横目で泉田を見た。
理麗はハッとした。きっとJ168は人に言えない様な方法で、理麗をこの車で迎えに来たに違いない。それでこんな場所に車を置いて行くのだと。
それからJ168は、
「形式的なものだから」
と、理麗に銀の指輪を渡した。
理麗の掌に乗ったのは、飾りの無いシンプルで小さな指輪だ。
「いつも持ってて」
J168の言葉に理麗はコクリと頷いた。
「じゃあ、三日したら」
J168が腰を浮かすと、
「Jっ! 今度来る時はちがう方法にしてね。じゃないと泉田さんがかわいそう」
と、理麗が呼び止めた。理麗の真剣な眼差しに、J168は頬を緩めて言う。
「判った。次は理麗の部屋に直接会いに行くよ」
「あたしの部屋? どこなのか知ってるの?」
「ああ。理麗の事ならなんでも知ってる」
その唇に知悉した表情を含んだ。
J168が去って、暫くして泉田が目を覚ますと、理麗はJ168が作ったシナリオ通り、学校で迎えを待っていたが、いつまで経っても来ないので歩いて帰っていると、ここで車を見つけたのだと、無難にやり過ごす話をして真相を誤魔化した。
泉田は怪訝な顔をしていたが、どうして自分が車内で気を失っていたのかという疑問を理麗に向けたところで仕方ないので、
「迷惑をかけたね」
と一言言って、理麗を家まで送った。
泉田が理麗を送り届けた後は、何時もの様にリビングで母の祐理子が泉田にお茶を入れる。帰宅が遅くなった事について説明のつかない話を祐理子に聞かせていたが、理麗も無事に帰宅している事だし、泉田に何が起こったのかは誰も知りようがないので、泉田に健康診断を勧めると、この話はこれ以上広がる事無く、そこで終えたのだった。
✻
理麗は再び占いの本に目を向ける。そこに天秤座と相性の良い最座は、双子座、水瓶座、魚座となっている。
もう一つの赤い糸はこの星座のどれかに当てはまる人なのだろうか、と理麗は思った。
「誰なんだろう…。ふたご座、みずがめ座、うお座…」
言葉に出しても誰の顔も浮かんで来ない。
「知らないよっ」
呟いて本を放った。
そしてキャビネットに視線を向ける。その中には硝子の靴が置かれている。それは一路の父親が理麗にプレゼントしてくれた物だった。
扇郷家は硝子の輸入雑貨を扱うお店を経営している。
弟の理和が生まれて、祖父達の孫同士を結婚させようという夢物語を、現実にするとなった時、一路の父が24センチの硝子の靴を片方だけくれたのだ。
この硝子の靴は扇郷の店の人気商品だとか。何色かある中で、理麗にはこの色が似合うと、細かなラメがキラキラ光る、シャンパンゴールドの靴を選んでくれたのだ。そして「一路がもう片方の靴を持って、理ぃちゃんを迎えに行くからね」と言ってくれた。(一路パパは乙女以上にロマンチストだった。)
今はまだサイズが合わないけど、自分が成長して足のサイズが合うようになった頃、一路と結婚するのだと思っていた。
実際に硝子の靴を履くかどうかは別として、硝子の靴を持っている事に、理麗はシンデレラになった気分で、その靴をとても気に入っていたし、大切にしていた。
今日、母に連れられて扇郷家に遊びに行った時、一路の部屋に硝子の靴が置いてあるか確かめようと思った。だが、部屋のドアを開けようとした時、樹二に声を掛けられて、そうする事が出来なかった。
一路が理麗との婚約をどう思っているのか樹二から訊き出す事は出来ないかと、それとなく婚約話を持ち出して、樹二に訊いてみたが、弟である樹二が一路の婚約を知らなかった。それに理麗は驚いた。
昨日、神社で一路と話をした時も、一路の母は二人の婚約を話題にする事は無いと言っていた。
樹二が婚約を知らなかった事といい、もしかして、一路と理麗が結婚の約束をした事を扇郷家では忘れてしまったのだろうか。理麗はそう感じた。
婚約といっても祖父達が決めた事で、二人の間で何をしたわけでもなく、ましてや恋人同士の様にイチャつくわけでもない。どちらかといえば友達以下の知人といったところだから、今迄も二人で婚約について話した事などない。
だが、今回の奇妙な出来事は、それを話す良いきっかけになった。周りがどう感じているのか、しっかり知っておきたかった。
赤い糸を選んで将来結婚する相手が決まる。ニ本の内の一本は婚約している一路だと理麗は信じていた。それで家族にも一路との結婚をどう思っているのか訊ねた。
J168から赤い糸の話を聞いた日。
夕食後の入浴を済ませた理麗はリビングへと入った。そこでは何時もの様に家族が集まっていた。
父の暢介は次女の美麗とソファでテレビを観ていた。暢介の隣にはタブレットをスワイプしている母の祐理子がいる。理麗は祐理子の向かいに腰を下ろした。
ソファの傍に敷いてあるラグに座り込んで沢山の玩具を出して遊んでいる。三女の音麗と、長男の理和。その二人に付き合って遊んでいる祖父の正造がいた。
父も母も、一路は真面目でしっかりしているから結婚相手には安心だと、口を揃えて言っていた。
祖父も一路との結婚に賛成していた。だが自分達が勝手に決めた事だから、理麗が気に入らないなら、別の男性と結婚しても構わないとも言っていた。
家族が皆、賛成しているなら、一路との糸を選ぼうと考えていたが、一路にその気がないのなら、赤い糸では繋がっていないのかもしれないと理麗は思ってしまう。
それに昨日の一路の言動。理麗にとってはとてもショックだった。
話している間に一路が時間を気にしていた事。
理麗が二人は赤い糸で繋がっているとは思わないかと訊いた時、「暗くなった」と話を逸した事。
理麗としてはそこで何か言って欲しかった。その場しのぎで「そうだね」でも、そう思わなければ「そうかな」でも良かった。それなのにそれには答えずに話を変えたのは、答えるのも面倒だと言っている様なものだ。
一路は真面目だから、きっと嘘がつけなかったのだろう。本当の気持ちを言ったら、理麗に悪いと思ったのかもしれない。一路は二人の婚約を深く考えてはいないし、理麗を好きでもない。そう感じた。
これまで、一路を強く好きだと感じたりはしなかったが、それでもどこかで、将来は結婚する相手だと心にあった。それが相手に何とも思われていないと判ると、何故か失恋でもした様な気分になり、昨日は泣いてしまった。自分では気づかないだけで、本当は好きだったのかもしれない。そこは理麗にもよく判らない。
ただ今回こういう事があって、一路への感情が今迄と変わってしまった。赤い糸の選択にしても、よく考えて答えを出さなければいけないと思っている。
スタンドライトの前に置いてあるシルバーリングを手に取った。何も飾りの無いシンプルで小さな指輪。それを摘んでコロコロと動かして、眺める。
J168から貰った物だからか、この指輪が赤い糸で結ばれている相手へと、導いてくれるのではないかと期待していた。けれど、この三日間には何も起こらなかった。ただの期待外れに終わった。
3
J168は本部の食堂にいた。
食堂では長く繋がったテーブルの、食事をする場と、丸くて白いテーブルの、休憩する場に分けられている。
人も疎らな食堂で丸いテーブルに着き、砂糖の入っていないミルクたっぷりのコーヒーを目の前にして、思いを巡らせていた。
「何、暗い顔してんの?」
遅めの昼食をとりにやって来たm10がトレーを片手に話し掛けて来た。
髪の毛の色素が淡い短髪。色白の肌。奥二重の目に黒いフレームの眼鏡。太い鼻柱にやや厚めの唇。筋肉質な体型に、グレーのVネックのカットソー、黒のワークパンツとブーツといった服装。
m10はJ168より一つ年上の情報部の者だ。赤い糸に関わる情報管理をこの本部内で行っている。ディスポウザーとは違って、直接、糸を始末しに行く事は無い。
「んー…、今回の件でちょっとね…」
「何? どうした?」
m10は隣の椅子に腰を下ろした。
「ん…今扱っている糸はどちらも子供なんだ。あんな子供を始末するのかと思うと、やっぱ複雑。いくら任務でもね…さすがにね…」
「ディスポウザーのくせして、まさか良心を痛めてるとか言わないでくれよ」
「おかしいか?」
「今迄だって何十回って始末してたかもしれないのに?」
「してないかもしれない」
「いや、してるね。覚えてないだけで。って判んないけど」
ディスポウザーも世間と同様に、糸を始末すると、その人物の存在を徐々に忘れる。
「………」
次第にJ168の眉間に皺が寄り、唇が尖ってゆく。
その顔を見て、m10は 子供かっ! と突っ込みたくなったが、
「ここにいる限りは色んな糸を斬るよ。判ってるでしょ? 割り切るしかないね」
と、真面目に諭しておいた。
「…判ってるよ」
「a2なんてバサバサ任務を熟してるよ」
a2は、一人で仕事をするようになってからまだ1年にも満たない。J168より二つ年下のディスポウザーだ。
「あれは特別だ」
J168は突っぱねた言い方をする。
m10は立ち上がって、
「仕事だよ」
と言って、J168の頭をくしゃくしゃと二回撫でると、ニッと笑ってカウンターへと去った。
多分m10は、自分達の使命だから考えても仕方ない。何も考えずに割り切って始末しろ。と伝えたかったのだろうと、J168は受け取った。
「判ったよ」
J168は、カウンターでおかずを器に注いでいるm10に向かって、小声で言った。