第3話 絶対なる一
千招有るを怖れず、一招熟するを怖れよ。
武術の世界に古くから伝わる言葉。
多くの技を身に付けた者より、一つの技に熟練した者を恐れよ。
また、多くの技を身に付けるより、ひとつの優れた技を極めよ。との意味だ。
7年前のあの日以来、この言葉を胸にひたすら基礎を固め、絶対なる一を手にすべく、最も基本となる技を徹底的に鍛えてきた。
それはいたずらに誰かに振るうべきものではなく、戦いを避けるためにこそあるべきとも考えていた。
だから今まで、誰かに対し振るったことはなかった。
――誰かを傷つけるのは望むところではないが、この龍なら耐えてくれるだろう。
目標の龍を目の前に、構えた棒を頭上に持ち上げ、上段としつつ左足を大きく前に踏み出し、目一杯息を吸う。
龍はようやくこの時になってあわてて首を引き、近づく敵から逃れようと、その巨体と威圧的外見に似合わない必死の挙動で後退するが、その分の間合いは僕の左足の踏込で詰められ、文字通り目と鼻の先に迫ったその頭部が、視界一杯に写し出される。
その一瞬、龍の瞳と表情が、それまでの狩る者のそれから、肉食獣を目の前にしたウサギのそれのように、おびえ、揺らぐのを見る。
――まさか死なないよな? 死なないでおくれよ。頼むから。
狩る側と狩られる側、形勢が逆転する瞬間を体で感じながら、今この瞬間も己の命を奪おうとしている敵を目の前にそんなことを思う。
だが力を振るう瞬間にあるものは常に変わらない。
一撃必倒の精神。
そして7年前のあの日アイがくれた、最高の笑顔。
声にならない叫びと共に、吸い込んだ息を腹の下で瞬間的に爆発させ、重心を龍へと押し出し右足を踏み込み、地面ごと全てを叩き割るように、頭上に掲げた棒を振り下ろす。
瞬間、手の内に伝わる、棒の切っ先が風を切り裂く感触。
7年のたゆまぬ努力が生んだ絶対なる一が、敵を打つ。
先ず硬い手応えがあった。
次に力の抜ける感触、心地よい金属音。
握った棒がわずかに震え、手の内に軽いしびれが走る。
その一瞬、何が起きたのか理解できなかった。
だが次の一瞬、視界に映し出される、手元でほぼ直角に折れ曲がった棒が、何が起きたのかを物語っていた。
直後、脳天を打たれた龍は急速に頭を持ち上げ、高く天を仰ぐと顎を一杯に開き、大きく息を吸う。
その瞬間、次に何が起こるのか察っし反射的に耳を塞げば、ほぼ同時、地面を震わし、塞いだ耳が痛くなるほどの咆哮が世界に轟く。
――どうやら効果はあったらしい。だが次はどう出る?
耳が痛くなるほどの咆哮の中、しかしいつまでも耳を塞いでこの場にとどまってはいられないと、耳から手を離し、折れ曲がった棒を、曲がっていないもう一方の端を握るよう持ち替え、今度は最初から上段に構えを取る。
その時になって龍はようやく咆哮を終えると、しかししばらくの間、天を仰いだそのままの姿勢で止まる。
――どうした?
そんな疑念が脳裏をよぎるのと、龍の筋肉質な肉体から急速に力が抜けるのを感じるのは同時。
その瞬間、頭で理解するより早く足が勝手に動き、バランスを崩しながらも慌てて後退すれば、そこに脱力した龍の頭が、得物を振り下ろすかのように落ち、僕のつま先の手前、先ほどまで僕の体があった場所を、その巨大かつ大質量の顎が叩く。
瞬間、髪を撫でる風、舞い上がる粉塵、足元を襲う衝撃に、今度こそ完全にバランスを崩しその場に尻餅をつく。
その場所はちょうど、起き上がろうとしていたティアの隣だった。
舞い上がる粉塵が視界を閉ざす。
その粉塵の向こうから再び龍の顎が飛び出してきた場合に備え、霞んだ先に映る動かないシルエットに棒の先端を突き付ける。
だがシルエットが動く気配はない。
こんな時こそ油断してはいけないと神経を集中させるが、そうしている内に粉塵がはれ、龍の姿が映し出される。
その頭部は地面に横たえられ、目は白目をむき、顎からは白い泡を吹く。
四肢も翼も脱力して、潰れた蛙のようにだらしなく腹を地面につき、その巨大な体躯を小刻みに痙攣させていた。
――脳震盪、というやつだろう。
どうやら当たり所がよかったらしい。
いや、これで死んでしまったとなるとよくはないのだが。
敵だからと言って相手を殺すのは好きではない。
だがこの龍は一時的に失神しているだけだろう。
そう考え、まだ気を抜くには早いと棒の先端を突き付けたまま、しかしようやく一度細くため息を吐く。
「――あの龍を……一撃で!?」
隣でティアが呟く。
できるだけ龍から視線を外さないよう、ほんの一瞬だけ彼女を見れば、そこには信じられないものを目の当たりしたように目を丸くした彼女がいた。
実際僕自身、あまり実感がない。
7年も鍛えていながら誰かに対して振るうのは初めてで、その威力や実力がどれほどのものか、自分自身測りかねていた。
とはいえさすがに今回は運が良かっただけだろう。
それに龍がいつ回復し目を覚ますかわからない。
そう再び気を引き締め、棒の先端を突き付けたまま後退しようとしたその時、
「動くな!」
周りを囲む城壁から誰かの怒号が放たれる。
気が付けば城壁の上には、洋風の槍や弓、鎧兜で武装した兵がほとんど隙間なく満ち満ちていた。
彼らは殺気を全く隠すことなく得物を僕やティアのいる中央の塔に向ける。
「両手を上げろ! さもなければ今すぐこの場で討ち取る!」
指揮官らしき者が再び言い放ち、右手を上げる。
と、それに応じ、周りの兵たちがそれぞれに得物を構え、矢をつがえる。
指揮官の上げた手が振り下ろされた瞬間、攻撃が始めるのは明白だった。
――どうする?
少なくとも僕にはおとなしく手を上げる以外の選択肢が思い浮かばない。
だがティアはどうだろう?
そう視線を彼女に向ければ、そこには敵の指揮官ではなく、明後日の方向に視線を送り、何事か思案する彼女の姿。
その視線の先に何かあるのかと目を向けてみるが、少なくとも僕の目には、先ほどまでより一層分厚く、色を濃くした雲しか見えない。
だが彼女には何かが見えている様子で、
「――あの人なら、大丈夫か」
そう小さく呟くと、その表情を決意のそれに変え、立ち上がると前に出る。
「ティア!?」
名前を呼ぶと同時、まだ危険だからとその背中に手を伸ばそうとすれば、その僕の動きを読んでいたかのようにティアは僕の方へ振り返る。
そして背筋が凍るほどの冷たい視線と表情で、僕が手をのばすのを止めるのだ。
決して触れてはならないと告げるように。
そうして再び前に向きなおると、地面に横たわった龍の元へと歩みより、しゃがんでその耳元に何事か囁きかける。
するとそれまで白目をむいていた龍が突然元の瞳を取り戻すと、再び頭と体を持ち上げ翼を広げ、臨戦態勢を取る。
もう脳震盪から立ち直ったのか、それとも彼女の囁きが原因か。
ともかく、棒の先端を龍に突き付けその動きに備えることしかできないでいると、視界の先でティアは、それが当然であるかのように躊躇なく龍の背に乗る。
「逃がすな! 殺せ!」
指揮官と思しき者の号令一下、周りを囲む弓兵が一斉に矢を放つ。
数百の兵の放つ矢の雨、それはあらゆる方向から、どんな歴戦の勇士であっても逃れがたい絶対の死となって降り注ぐ。
弓を扱った事のある者ならわかる。
絶対に防げない。
そしてそれが自分のいる場所にむかって降り注ぐのを見て、僕はただ両腕で頭を抑え、目を閉じて祈ることしかできなかった。