第2話 ティア
ティアにとって僕は、滅びた世界と大切な人を救うという、夢と希望を奪った存在。
僕にとってティアは、大切な人の命を奪った、敵というべき存在。
「――なんで? どうして? せっかく、せっかく、元の世界に……」
かすれ、震える声で、やっとそう紡いだところで、ティアは何かに気付くようにはっとした表情を浮かべ、
「――嘘……まさか……そんな……」
それから表情をゆがませ、恐怖のそれに近いもの浮かべる。
「――私……」
ティアが何を思っているのかはわからない。
きっと言葉にできない複雑な何かが、そこにあるのだろう。
僕自身、彼女への思いをどう表現していいのかわからない。
単純な恨みとか、憎しみとか、そんなものでは表現できないなにかが、心の奥底でひたすら渦巻いているのを感じる。
だが不思議なことにその一瞬、僕の脳裏をよぎったのは、この世界に来る直前僕を呼んだ、助けを求める彼女の声。
そして7年前のあの日、彼女の手によって死の淵へと追い込まれた僕の大切な人が言った言葉。
――お願い緑、彼女を、ティアを、助けて……あげて。
「ダメ!」
かすれた、それでも必死に叫ぶティアの声で、僕は我に返る。
自分でも気づかないうち、僕は彼女の牢の入り口に設けられた鍵穴へと、手を伸ばしていた。
「お願い……やめて」
恐怖の入り混じった声で、首を横に振って彼女は懇願する。
「そんなことをしたら私、またあなたを、不幸にしてしまう」
大切な人の命を奪った敵のものとは思えない言葉。
だが彼女のその言葉と態度が本心からのものであることを、僕は知っている。
7年前を合わせても、ほんのわずかしか会話したことのない相手だけれど、僕の大切な人の命を奪った相手だけれど。そしてその、僕の大切な人が――
「アイが、ティアさんのこと、助けてあげてって言ってたから」
何年振りか、今はいない大切な人の名前を口にする。
どうすればティアを救うことができるのかはわからない。だが彼女を救いたいという思いに偽りはなかった。
そんな僕の言葉に、ティアは一度目を丸くして、それから再び俯くと、
「――彼女の名前を出すなんて、卑怯よ……」
そう力なく、悔しげに、でもどこか諦めたように呟く。
塔の外から人の声が聞こえてきたのは、丁度その時だった。
「時間も、もうないみたいね……」
その声を聞いてか、ティアは続けてそう言うと、再び顔を上げ、視線を僕の瞳に向ける。
そこにあったのは、滅びた世界と大切な人を救うため、世界を向こうに回して戦っていた、7年前のあの日のティアに負けない、決意と覚悟のそれだった。
「壁にある、白く光る水晶体」
先ほどまでと異なる、強い意志を秘めたティアの言葉に、僕は視線を、先ほどから塔内部を照らしている蛍光灯のような光を放つ水晶体に向ける。
「それを手に取って。この世界の普通の人、ほんの少しでも魔力を体に秘めている人間には光だけでも猛毒だけれど。体に一切魔力の無いあなたになら触れる事ができるはずだから」
「猛毒!?」
ティアの口から飛び出した猛毒という単語に、僕は一瞬怯む。
だが彼女はわずかも真っ直ぐな表情を変えない。
「侵入者を防ぐここの設備の一つよ。わずかの魔力も持たない者なんてこの世界にはほとんど存在しないし、いたとして、ドラゴンを突破して侵入してくるなんて想定していなかったようね。それにこの世界の人間にとっては、とても直接触れられるような代物じゃないから、それを逆に利用されるなんて考えもしない」
本当に触っても大丈夫なのだろうか? そう疑問に思いつつ水晶体に恐る々(おそ)る手を伸ばして、指先で軽くつついてみる。
触れた直後、思わず手を引いたが、体に異常は全くない。
それを確認して水晶体にゆっくり触れ、つかんでみる。
その感触はガラスのそれと変わらず、また窪んだ台座におかれただけで固定されていなかったため、簡単に手に取ることができてしまった。
するとその時、塔の外から、城門の跳ね橋が下されるものと思しき轟音が響き始める。
「……時間がないみたいね。緑、その水晶体をもってこっちに来て。途中稲妻の様なものが走ると思うけど、かまわずに」
ティアがやや焦った様子で言う。
稲妻という単語に一抹の不安を覚えるが、こうなってはもはや勢いに任せるしかない。
水晶体を握る指に一度力を籠め、かわいた喉でつばを飲み込むと、水晶体を握った右手を前に伸ばし、ゆっくり彼女のいる牢へと歩を進める。
一歩、また一歩、牢の格子に近づくにつれ、水晶体に磁石の反発するような力が加わり、同時に熱を持ち始める。
格子に近づけば近づくほどそれは大きくなり、それに応じてか白銀の格子の方もまた軋み、震え始め、やがて格子まで残り数歩に到達するころ、反発は片手で抑えるのが難しい域に達する。
額を流れる汗をぬぐいたい気持ちを抑え、汗ばむ両手で、素肌で握り続けるのが難しい温度になりつつある水晶体を握り直す。
そして一度息を吸い直すと息を止め、全身の力を絞り出しつつ前傾姿勢になり、体重をかけつつ格子に向かう。
直後、水晶体の表面に黒い稲妻が、同時に白銀の格子に白い稲妻が走り始める。
これがティアの言っていた稲妻の事か。そう思うのと、瞬く間に大きくなった稲妻が辺りに放射されるのはほぼ同時。
そして次の一瞬、水晶体から放たれた黒い稲妻と、対抗するように白銀の格子から放たれた白い稲妻が空中でぶつかりあう。
弾かれ、あらぬ方向に走った稲妻が塔の内壁を撃ち、石造りのそれをたやすく砕く。
白と黒の稲妻、破壊された内壁の石片が乱れ飛び、宙を舞う粉塵を白と黒の閃光が照らし出す。
稲妻は本物のそれとは違うようで、感電しないし、僕の体だけは避けるように走る。
だが石片と粉塵はその限りではなく、弾けとんだ破片が肌を打つ痛みが全身を襲い、舞う粉塵が視界を閉ざす。
粉塵を吸い込むわけにはいかない。
そう息を止めつつ体勢をさらに前傾にし、体重をかける。そうして前進するうち、空中でぶつかりあった稲妻は黒いそれが白を押しはじめる。
そして次の一瞬、白を押し切った黒い稲妻の一部が格子を打つと、数秒と経たないうち打たれた部位が湾曲を始め、やがて重機に押しつぶされるようにひしゃげていく。
――押し切れる。
そう思った次の一瞬、どうしようもなく震え、火傷しそうな高温を発する水晶体を握る手の内に伝わる、ガラスにひびが入るのに似た音と感触。
――もう少し、せめて彼女の鎖を――
思いと共に、宙を舞う粉塵を吸わないよう、ほんのわずかだけ息を吸い込む。
そして一度息を止め、歯を食いしばると、得られたわずかの息と共に全身の力を全て絞り出すように声を上げ、足を前へと踏み出す。
1センチ、2センチ、じれったいほどゆっくり、だが確実に、今にも砕け散りそうな水晶体は、震えながらも前へ、白銀の格子に向かって押し出され、それに従うように、5センチ、10センチ、白銀の格子が中央から曲がり、ひしゃげ、ついには裂け、そこから牢の内部へと侵入した稲妻が、彼女を縛める鎖を打つ。
――あと少し、あと――
そう思った次の一瞬、ガラスが砕け内側に潰れるような感触が手の内に走った後、逆に外側に爆発するような衝撃があったかと思うと、黒い稲妻の爆発が視界を覆う。
とっさに目蓋を閉じるのと同時、全身を強烈な爆風の様な衝撃が襲い、体が後方へ吹き飛ばされ、宙を浮く感覚が伝わる。
とっさに受け身を意識し首を引くと、その直後、背中に固い地面にぶつかる感触と衝撃、次いで痛みが走る。
考えるより先、手が背中の痛みのもとに伸びる。
とっさに首を引いておいたのが幸いし、後頭部の痛みは大したことがないが、固い石畳みの床に打った背中から伝わる痛みはかなりのものだ。
全身から伝わる痛みと疲労感が、このまま横たわっていたいと怠惰な自分に囁きかける。
そしてそれに乗ってしまいそうになった次の一瞬、脳裏をよぎる、傷だらけの体で牢につながれたティアの姿。
――何を考えている。こんなことをしている場合か!?
怠惰な己の頬を自分で殴るのと、巨大な何かが風を切り上空から迫る音を耳が捉えるのは同時。
直後背中に冷たいものが走る中、負けてはならないと己を叱咤し、目蓋を開く。 そこには、宙を舞う粉塵にかすみながら、灰色の厚い雲に覆われた空が、どこまでも広がっていた。
全身を襲う痛みと疲労、心を蝕む危機感と緊張。
息を吸おうとし、粉塵を吸い込んでむせかえる肺。
そんな中で、しかしそんなことを気にしてはいられないと立ち上がり、辺りを見回す。
先ほどの稲妻の爆発でか、塔は天井は勿論、側面の壁を含め、床より上がほぼ完全に吹き飛び、周りを囲む城壁と、その上をせわしなく動き回る兵の鎧姿が望めるようになっていた。
だが今そんなことはどうでもいい。彼女は無事か?
そう牢のあった場所に視線を送ろうとした矢先、視界に映し出される、上空から急降下し迫る影。
見る間に大きくなっていくその巨影に、せめて何か武器になるものはないかと、視線を迫る影から極力そらさないよう意識しつつ、視界だけを広げてあたりを見る。
だが残念ながら武器として使えそうなもといえば石片と、ひしゃげ、千切れた白銀の格子の断片ぐらいで、例の蛍光灯の様な光を放つ水晶体も見当たらない。
――弓か、せめて長い棒があれば――
そんなどうしようもないことを考えている内にも見る間に迫る巨大な影に、余計な考えを心の奥底へと追いやると、逡巡の後、突き刺さった格子の断片のうち長そうなものを握り、残骸から引き抜く。
すると幸運なことに、それは湾曲こそしているものの、長さ1メートル以上かつ棒状の、武器として十分使えそうなものだった。
――使える。
そう心の内で呟きながら、湾曲した棒を剣を握るように持ち、ひとまず中段に構える。
だが直後、視界を覆うほどの所まで迫った龍は、塔に着地すべく翼を大きくはばたかせ、それにより巻き起こった風と、巻き上げられた塵と石片が全身を激しく打つ。
そうして顔面にも容赦なく飛びくる石片に、やむなく右腕で目をかばいつつ、それでもなんとか目蓋を開き続ければ、頭上に映し出される龍の顎。次の一瞬、巨体が着地する衝撃が足元を襲う中、頭上では龍が顎を開き、大きく息を吸い込む。
――まずい。
そう分っていても、その場に伏せること以外、できることは何もない。
「緑!」
必死にその場に伏せるのと、しわがれかすれた、血を吐くようなティアの叫びが響くのは同時。
次の一瞬、恐怖に目を塞いでしまった僕の頭上から迫る炎の轟音。
だが直後、頭上で何かが激しくぶつかり合う音が鳴り響くと、本来襲いかかってくるべき炎の高熱の代わり、照りつける真夏の太陽の日差し程度の熱が背中を温める。
――何が起こっている?
そう目蓋を開き頭上を見上げる。
巻き起こる風にたなびく白銀の髪、白い薄衣。
右足と左手に千切れた鎖のついた枷をぶらさげたままの、やせ細った傷だらけの肢体。
ティアは僕の前方に立ち、その両手を胸に当て、祈るように瞳を閉じる。
その前方では龍の吹く猛烈な炎の息吹が、見えない壁にぶつかるかのように弾かれていた。
数秒の内、龍は火を噴くのをやめ、再び僕たちを見下ろす。
するとティアもまた目蓋を開き、その決意に満ちた瞳で臆さず龍を睨み、両手を大きく広げる。
まるでかかってこいとでも言うように。
「――殺すなら私を殺して! あなたが殺すべきは私のはず!!」
放たれるティアのかすれた叫び。
そのあまりの気迫に龍はほんの一瞬、臆するかのように顎をもたげ目を丸くし、だが次の一瞬には先ほどまでの獲物を狩る獣のそれに戻す。
龍は本気でティアを仕留める気だ。
だが彼女は両手を広げたまま、先ほどのように攻撃を防ごうという所作どころか、戦おうとする気配を一切見せない。
「――ティア!」
叫ぶと同時地面を蹴り、彼女の背中に飛びかかると、伸ばした両の手でその体を包み込み、抱えたまま地面に押し倒そうと体重をかける。
その体は折れてしまいそうに細く華奢で、体重をかければ簡単に体勢を崩すことができてしまって、だが伝わる確かな温もりと鼓動が、守りきれなかったあの人、アイのそれと重なる。
直後、龍の固い鱗の感触が背中を撫でる中、彼女が傷つかないよう手を回し、僕の体が彼女と地面の間に入るよう精一杯身をひねり、目をつむる。
一瞬の後、右半身を襲う地面にぶつかる衝撃。
それと同時、彼女の体を包んだ腕と、彼女の体と地面の間に挟んだ足から伝わる衝撃と痛みが、彼女を守ることができたことを告げる。
その感触に、心の中でほんの一瞬息をつきつつ、しかし現実にはそんな余裕はないとすぐさま目を開き、龍のいる背後に視線を向ける。
予想した通りそこには、かみつきをすんでのところでかわされた龍の側頭部があり、程なく獲物を探すかのようにその顎をこちらへと向けはじめる。
――まずい!
そう棒を握った右手を、反射的に龍の瞳に突きつける。
と、さすがの龍も尖った先端には恐怖を感じるのか、一瞬怯むように頭部を棒から遠ざけようとし、だが狭くつたない足場に足をもたつかせ、わずかに首を引くにとどまる。
そしてその位置は僕からすれば十分間合いの内。
――届く、今しかない!
心が叫ぶより早く、体が勝手に動きだす。
とっさに身を起こし一旦中段に構えをとれば、その間に龍は足をもたつかせながらも数歩後退し、僕達を正面に見据える位置に間合いを整える。
背後にはティア、再び龍の攻撃があったとしたなら、避けるわけにはいかない。
直後ぶつかる視線。
龍の射すくめる様な、狩る者の瞳。瞬間全身を走る凍りつくような寒気。
委縮し、氷漬けにされたかのように固く、動かなくなる体。
肺を直接掴まれ、締め付けられるように苦しくなる呼吸。
脳に直接木霊する鼓動。
犬や猪に勝つのだって難しいのだ、虎やライオンならおよそ命はない。
まして龍なんて……
そんな諦めに向かおうとする考えに、急速に重くなり、自分のものでないかのように動かなくなる体。
弱まる呼吸と鼓動。
目蓋を開いたままなのに、急速に暗転する視界。遠ざかり、やがて永遠に広がる闇の世界を漂い始める意識。
――緑……笑って。
瞬間、心に木霊する声、脳裏をよぎる笑顔。
それは7年前のあの日、守りきれなかった彼女、アイが僕にくれた最後の言葉、最後の、そして最高の笑顔。
直後、これまでにないほど鮮明に映し出される視界。
その中央にある龍の、見るものすべてを威圧し、押しつぶすような圧倒的眼光を前に、しかし僕の口の端は、なぜだか自然と吊りあがっていた。
――笑え! 笑顔こそが僕の力。あの日アイがくれた、僕の全て。
直後圧力から解き放たれ、文字通り息を吹き返す体。
大きく息を吸い込めば、肺が酸素を送り、温かい血が全身にくまなく満たされ、凍りついた肉体が急速に溶かされ、委縮から解放される感覚が伝わる。
――彼女がくれたこの笑顔がある限り、誰にも負けない。例え龍が相手でも。
視線がぶつかってから時間にして数秒。
再び正面の敵を睨み直し、しかし直面する死を前に笑顔を絶やさず、己の全てをこの一瞬にかける。
彼の7年の努力が初めて何かに対して振るわれる瞬間は、目前に迫っていた。