第1話 さいかい
「助けて」
どこか遠くから響く、誰かの助けを求める声。
どこか聞き覚えのある、懐かしい、でも思い出せない誰かのその声は、今にも消え入りそうなほど弱々しく、かすれ、震えて、それでも確かに僕の耳に届いていた。
その感覚はかつて異世界に迷い込んだ時と同じで、だから直感的に、その声が異世界からのものであること、自分が再び異世界との境界線に立っていることを理解した。
一度境界を越えてしまえば、簡単には帰ってこられない。
最悪、死ぬまで。前回は幸運にも、ごく短い期間で帰ることができたが、それでも元の世界に帰ってきたときには、決して失うことのできない大切なものがそこにあることを、人生で初めて感じることができた。
こちらの世界にも、守るべきものがある。
それに異世界に行ったとして、助けを求めるその人を救える保証はない。
無事に帰るどころか、足を踏み入れた次の瞬間、命を失う危険すらある。
帰るまでの間、家族や友人たちをまた心配させ、悲しませることになる。
きっと普通の人ならば、ここで少なくとも少しはためらうのだろう。でも僕は――
「みんなごめん。必ず帰ってくるから」
ほとんど考える事すらしないうち、そう結論を出してしまう。
誰かが助けを求めているのなら、ここでいかなければ、きっと後悔することになるから。
自分が自分でなくなってしまうような気がするから。
そう理由を後から付け足して。
その脳裏をよぎるのは、かつて異世界に行ったとき、救えなかったあの人の姿。
大切な人をまた悲しませる事になると知りながら、ろくに考えもせず勝手にこんな大切なことを決めてしまうなんて、なんて冷たい人間なのだろう。
そんな風に考えながら、しかし僕はためらうことなく足を前へ踏み出すのだった。
普段眠りから覚める時と変わらない、あの感覚で目を覚ます。
それは元の世界と何も変わらない。
ただ柔らかいベットの代わり、固い地面と、どこかから吹き抜ける湿った風の感触が、普段との違い、7年ぶりの異世界を伝えていた。
するとようやくこの時になって、普段の僕の理性と判断力が戻ってくる。そして思う。
よく考えてみれば、これは恐ろしい状況ではないか?
理性の告げる言葉に、今頃になって言いえぬ恐怖と寒気を覚えながら目蓋を開く。
と、その視界に映し出される、明らかに昨晩ベットで寝た時からは考えられないもの。
それでも現実をすぐには受け入れられない僕は、腕で雑に目をこすって確かな感触を確認しながら、立ち上がってそれをまじまじと見上げる。
それは歴史の教科書か絵本に出てくる古めかしい城のそれのような、跳ね橋のついた巨大な木製の城門と石造りの城壁。
高さ10メートルはありそうなそれは明らかに堅牢堅固で、しかも歴史的建造物にみられるような痛みがおおよそ見当たらない。
引き上げられた跳ね橋に関しても、木製なのに目立つ痛みは無く、それでいて適度に汚れ、小さな傷があり、それが現役で稼働していることを示しているようにすら見える。
僕のいた世界にこんなものがあるだろうか? 古い城を復元したもの、という可能性も否定はできない。
だが前後の状況を合わせれば、答えは簡単に出る。
それなのにそれを認めようとしないのは、今頃になって怖気づいている自分がいるからだ。
「――嘘だろ」
後悔してももう遅い。もう帰れない。僕は本物の異世界に来てしまった。
「いや待て、まだ決まったわけじゃ」
それでも往生際の悪い自分が、何とか否定しようとする。だがそんな自分に他ならぬ理性が語りかける。
――往生際の悪い奴め、いい加減、諦めろ。自分が悪いのだから。
「……」
どうやら僕はカッコイイ勇者や英雄になどなれないらしい。
有名な英雄や勇者が実はこんな情けない奴だなんて、誰だって嫌だろう。
それも一度目ならまだともかく、僕が異世界に来るのは、もう二度目なのだ。
「落ち着け、まずは深呼吸。それから……」
そう口に出して、何とか気持ちを落ち着けようと試みる。
だが現実は待ってなどくれない。それは異世界でも同じこと。
次の一瞬、背筋を走る言いえぬ寒気。
直後足元の地面に差し込む巨大な動く影、地面から心臓に伝わるように響く、低い振動。
続く唸りは獣のそれに似て、音の出所は遠いようなのに、僕が今まで聞いたことのあるどんな動物のものより力強く、恐ろしげで、あたり一帯を押し包むような振動と圧力を伴う。
もしこの時まで己を鍛えていなかったなら、例え一日でも切磋琢磨を怠っていたなら、次の一瞬にはこの物語は終わっていたことだろう。
だがあの日からの努力が作り上げた肉体と精神は、その恐怖と圧力に委縮しながらも、薄皮一枚という所でかろうじてそれに耐え抜く。
――立ち止まってはいけない。
動くのは逆に危険ではという考えをあえて振り払うように、足を開いて膝を曲げ、あらゆる動きに対応できるよう体勢を整えつつ、背後の影の主に視線を向ける。
そこにあったのは、城壁と同じ高さの石造りの塔。そしてその頂にあって首を伸ばし、僕を見下ろす存在。
白い鱗に覆われた巨躯に四本の脚、それと別に背中から延びる、コウモリのそれを強靭にしたような2枚の翼。
首は長く、頭は肉食恐竜のそれに、後ろ向きの角を2本伸ばしたようなもの。
僕のいた世界の生物の理から外れた、創造の世界の生物。
ドラゴン。
「――まずい」
人間が素手で勝てる野生動物は、犬が限界と誰かから聞いたことがある。
それが嘘か本当かは知らないが、少なくともこいつが相手でしかも素手では、多少鍛えた程度でどうこうなるとは思えない。
瞳の辺りを見やる直前、視線を合わせるのはまずいと反射的に視線を下に逸らす。
すると、その視界に映し出される、塔の根元に穿たれた、内部への入口。
――逃げろ!
叫ぶ本能に従うまま、曲げた膝のばねを一気に爆発させ、塔の入り口へ突進する。
入口まで数十メートル。
直後動き、僕へと手を伸ばし始める影。
力を絞り出すべく止めた息が、早くも詰まる。
――間に合わない!
本能が叫ぶ中、足元から伝わる、巨体の生み出す振動。
衝撃と共に迫る巨大な影。
動かし始めた足は簡単には止められない、ならできる動作は一つ。
詰まった息を慌てて吸い込みながら、上体を精一杯前に倒し、走りながらも姿勢を屈める。
できるだけ姿勢を低くすることで敵から見える的を小さくし、攻撃の下をかいくぐる回避術。
次の一瞬、恐怖のあまり思わず目を閉じてしまった僕の背中を撫でる、躍動する巨体の生み出す風。
一寸先をすれ違う死に背筋が凍りつく中、右肩にぶつかる、岩か金属の塊のように固く重い、だが表面の滑らかな、龍の爪先の感触と衝撃。
それとほぼ同時足元を襲う、巨獣が地面に着地することで生じる振動。
直後体勢を崩した僕は、石畳の固い地面に倒れ左肩を打ち、体は地面を数十センチ滑りようやく止まる。
直後、両肩とこすれた皮膚から伝わるジンジンとした痛み。
だが背後からは、頑丈かつ鋭利な龍の爪が石畳の地面をひっかき、大重量の巨体が地面をこすり、滑りながらも着地の勢いを殺し、獲物に向き直ろうとする轟音と衝撃が伝わる。
激痛を気にしている暇などない。
手を地面について上体を起こし、再び地面を蹴る。
わずか数メートル先の塔の入り口、時間にして数秒があまりにじれったい。
――早く! 早く! 早く!
心の内で連呼するうち、ようやくアーチ形の入り口をくぐると、通路は入って直ぐに右に折れ曲がり、螺旋の階段となって上へと続いている。
曲がり角の壁に両手を突き、勢いと速度を殺して階段へと体の向きを変えると、二段、三段と飛ぶようにして一気に駆け上がる。
だがその直後、何かが気体を吸い込むような音が響くと同時、周辺の空気が後方に流れる感触が皮膚を舐める。
それと同時脳裏をよぎる、龍が獲物を前にして大きく息を吸い込む、ゲームの中のあの攻撃動作。
考えるより先、倒れ込むようにして体を伏せ、両手を頭にきつく目を閉じた。
直後背後から響く、何かの吐き出される轟音。
ガスバーナーのそれをはるかに大きくしたようなそれが全身をつつみ、伝わる振動に全身が委縮し、動かなくなる。
轟音は数秒の間続き、一度やんだのち、再び空気を吸い込むそれがあり、繰り返し塔の内部に響き渡る。
背筋の凍りつく感覚と共に、内部から溶け堕ちんばかりに熱を発する体。
全身から汗が噴き出し、身に着けた衣服がじっとり熱く湿るのを感じる。
だが体の内部から発せられる熱に反し、外気は変わらず、石造りの通路に冷やされたそれのままだった。
――熱くない。生きている。おかしい。この塔と通路の構造では、ドラゴンの炎の息吹が狭い通路を吹きあげ、僕は丸焼きになっているはず。
轟音がやんでしばらく、ようやく頭を抑えていた手を離し、目蓋を開いて階段の下、入ってきた塔の入口へと視線を向ける。
と、再び空気の吸い込まれる感触が肌を撫でた後、赤い炎の息吹が塔の入口へと吹き付けられる。
だがそれと同時、入口を白く薄い光の壁のようなものが塞ぐと、炎は壁にぶつかるかのように跳ね返された。
バリアのようなものだろうか。
程なく息吹がやむと、巨体が地面を踏みしめる振動が数度伝わった後、入口に龍の頭が現れ、そこに頭を突っ込もうとする。
だが先ほどの息吹と同じように光の壁に跳ね返されるようで、数度鼻先をぶつけそれを確認すると、恨めし気に内部をのぞき、睨みつける。
その瞳はまさしく獲物を狙う獣のそれで、それだけで急速に鼓動は早まり、肺を襲う圧迫感に呼吸は困難となる。
だがそれでも、前回の異世界での経験と、これまでの厳しい鍛錬で鍛え上げられた精神と肉体は、かろうじてそれに耐え抜く。
額に浮かんだ汗が頬を伝い、あご先からこぼれ衣服に染みを作る。
睨みあうこと十数秒。龍は再び、しかし先ほどと異なり軽く、短く息を吸うと、石造りの塔全体を震わす咆哮を上げる。
とっさに耳を抑えていなければ、鼓膜にダメージがあったかもしれない。
抑えた耳と頭に走る痛みに顔をしかめるうち、龍はようやく諦めたのか入口から去っていく。
どうやら助かったらしい。
龍が入口を去って数十秒。
ようやくの安堵の中、なんとか数度意識して呼吸を行い、続いて大きく息を吸い込みゆっくり吐き出す。
そうすることでようやく緩み始める全身の緊張。
明らかに過剰な鼓動に気づくことができる程度に回復する意識。
噴き出した汗を吸った衣服が頭から水をかぶったかのように重くなり、熱い汗と外気との温度差で湯気が上がる。
「――し、死ぬかとっ……おもっ……た」
乱れたままの呼吸で息も絶え絶え呟く。
無様で情けないかもしれないが、すでに数回死んでいてもおかしくない、生きているだけでも奇跡という状況。
「いっ、命がっ……いくつあっても……足りない」
そう何とか吐き出し、それからは全身の力を抜き、ただ体力の回復につとめる。
このままこうしてはいられないと再び動き始めるまで、少なくとも10分以上、そのまま動くことができなかった。
命を失って当然という状況だったことを考えれば奇跡の上に奇跡を重ねるように、体のダメージは小さなものだった。
地面にこすった皮膚も赤くなっている程度。
両肩もわずかに痛みが残ってはいるが、動かすのに支障はない。
だが一度龍から逃れたとはいえ、状況的には塔の内部に追い詰められただけで龍も完全に諦めたとは考えられず、僕が出てくるのを外で待ち伏せているに違いない。
それに入口から外へ出たとして、周りが城壁で囲まれ門が閉ざされている以上、逃げ場はない。
そう考えたところで不思議なことに気づく。
普通城壁というのは外からの敵に備えるものだが、記憶をたどればこの城の城壁は内側、つまりこの塔を囲むように円形に築かれており、さらには堀も掘られ、城門も跳ね橋式で引き上げられ、閉ざされていた。
つまりはこの塔を囲むための城ということになる。
城の知識は比較的ある方だと思っているが、そんな造りの城など見たことも聞いたこともない。
だが残されている選択肢はない。
不思議に思いつつも残された唯一の道、塔の上階へと階段を上っていく。
通路に窓はないが、代わりに蛍光灯のような白い光を放つ、野球ボールほどの大きさの不思議な水晶体が壁にあり、階段を上るのに苦労はしなかった。
やがてある程度階段を上ると、そこに木製の古めかしい門が現れる。
それは多少頑丈そうではあるが侵入を本格的に拒むというものではないらしく、代わりにどういう理屈か、表面に文字が浮かんでいた。
それも僕の世界の文字、漢字と仮名交じりの日本のそれで。
闇の深淵に臨み、命を捨てる覚悟無き者、入るべからず。
マンガやアニメによく出てきそうな文言だが、あいにく現在進行形で命の危機に直面している。
いちいちかまっていられない。
そう手で押すと、裏から何かが外れる様な金属音が響いた後、門は拍子抜けするほどあっさり開く。
と、門の先で階段は終わり、床は平坦となっていた。
この先に何があるのだろうか、そう期待しつつ門をくぐると、門は勝手に閉まり、自動で閂がかかる。
先ほどからの不思議な現象の数々は、やはり魔法というやつなのだろう。
それを調べたいとも思ったが、その好奇心に勝るものが通路の先に姿を現す。
それまで延々石造りの壁となっていた通路左側、塔の中心方向に初めて現れる空間、それと通路を仕切る、ほのかに白い光を放つ白銀の格子。
それは神聖な雰囲気であたりを包みながらも、その空間が牢であり、この塔が監獄であることを示す。
そうしてほとんど意識しないうち、吸い込まれるように歩を進めていた僕は、その白銀の格子の向こうに視線を送る。
そして息をのんだ。
肩にかかる程度の長さの、薄い赤を帯びた、白銀の美しい髪。
身に着けた、透けて見えそうなほど薄く、白い衣。
その隙間から覗く、病的なまでに白い肌、やせ細った、傷だらけの肢体。
その両手首を天井から吊り、両足首を足元の巨石にそれぞれ縛める、白銀の枷と鎖。
足元に俯き、望むことの出来ない顔立ち。
息をすることさえ出来なかった。
ただ見つめることしかできなかった。
その一瞬、時が止まったようにさえ感じた。
だが次の一瞬、確かに動いた彼女の、か細く弱り切った指が、再び時が流れ始めたことを告げていた。
「――誰?」
かすれた弱々しいその声が心を捕え、かつての記憶を呼び起こす。
それは僕を再びこの世界へと誘った、助けを求める声。
そしてそれより遡ること7年前に出会った、ある人の声と重なる。
どうして気づくことができなかったのか、今となっては不思議にさえ思った。
やがて視線の先のその人は、俯いた顔をゆっくり上げ、閉じた目蓋を開く。
この世のどんな黒より濃く深い、底なしの闇の深淵を映す瞳。
右の瞳に垂直方向に筋状の、左頬に火傷による赤く痛々しい傷を負い、元の比較的きれいな顔立ちの魅力がすっかり色褪せてしまった、しかしその傷がゆえに見る人の心を掴み、切なく締め付ける。
その容貌は年齢の割に幼げではあったが、7年前出会った頃より、少し大人びていた。
やがて彼女は僕の顔をまじまじと見つめ、数度瞬きした後、大きく見開く。
その表情は明らかな驚愕のそれで、目をこすろうとしてか鎖に吊られた腕を何度か揺らし、それが叶わないと知ると再度瞬きする。
「――うそ……どうして? どうしてあなたが、ここに?」
何度瞬きしても視界から消えない僕の姿に、彼女は表情から驚愕のそれを崩さないまま、震える声で、僕の名を呼ぶ。
「緑」
きっと彼女の瞳に映る僕の表情も似たようなものだろう。僕自身、目の前で起こっている出来事が信じられない。
「――ティア……さん」
頭の中が真っ白になる中、自然と口をついて出た彼女の名前が、7年前終わったはずの物語と、二人のさいかいを告げる。
彼女にとって僕は、滅びた世界と大切な人を救うという、夢と希望を奪った存在。
僕にとって彼女は、大切な人の命を奪った、敵というべき存在だった。