プロローグ
「――ありがとう」
彼女の唇から漏れ出たかすかな、でも暖かな息が耳を撫でる。
それ程の距離だというのに、紡がれた言の葉は、僕の元まで届くのもやっとというほどかすれて、散る花弁のように美しく、儚げに空を舞う。
全身傷だらけのやせ細った肢体。
薄い赤を帯びた美しい白銀の髪の毛先から、泥の黒と血の赤の入り混じった赤黒い滴が大地に滴り落ち、あるいは磁器のように透き通った、生気のない白い肌を伝う。
その表情は疲労と激痛にゆがみ、黒い瞳は光を失い、底なしの闇の深淵を映す。
そんな彼女の傷だらけの白く華奢な腕が、今にも折れてしまいそうな細く弱々しい指が、かすかに震えながら僕の方へ伸びてくる。
彼女は僕の大切な人を死に追い込んだ敵だ。
何千、何万という人を傷つけ、死に追いやり、世界に滅びをもたらす死神だ。
彼女が死ねば、世界に平和がもたらされる。そして僕は元の世界に帰ることができる。
傷つき、疲れ果てた今の彼女なら、僕にも簡単にそれができる。
いや、僕が直接手にかける必要すらない。
今彼女を取り囲む数千の大軍勢が、名のある英雄や戦士、魔法使いが、代わりに手を下してくれる。
僕はただこの場所を譲るだけでいい、簡単なことだ。
それなのに彼女の紡いだ言の葉は僕の心を捉えてはなさず、体は自分のものでないかのように、呼吸をするのも忘れて、まるで時間そのものを止められてしまったかのように動かない。
いや、違う。僕自身が無意識のうちに、ここから動くことを拒んでしまっているのだ。
――なぜ?
自身の投げかける問いに答えを返すより先、視界の先の彼女の半ば死んだような瞳に、ろうそくに灯されるそれのように弱い、だがその身の内に潜む闇を映したような黒い炎が灯り、ゆらめく。
次の瞬間何が起こるのか、僕は直ぐに理解した。
刹那、彼女の瞳に灯った炎に、感情という油が注がれ、ろうそくに灯されるそれのように弱かったものは、瞬く間にその瞳に収まりきらぬほど大きく熱い、蒼い火柱となる。
そして僕に伸ばされつつあった白く華奢な腕は、突如向きを変え彼女自身の懐の内に伸び、細く弱々しい指が、その中に隠していた何かを強く握りこむ。
勝負は一瞬、あれから7年、鍛え上げた技と力、己の全てを今この時、この刹那にかける。
そう、吸い込んだ息と共に覚悟を飲み込み、左足をつま先が外を向くようさりげなく踏み出し、体勢が崩れる寸前のところまで重心を前に出し、得物を握るその手と指、さらに全身に余すことなく気を巡らせ、神経を集中させる。
次の瞬間、彼女は懐の内に隠していた刃を抜き放つと、その柄を華奢な両の腕で、残りの力の全てを振り絞るように握り締め、血を吐くような、あらんかぎりの叫びをあげる。
そうして向けられる彼女の瞳に映る、この世の全てを焼きつくさんばかりに強く、熱い決意の炎が、僕には肉食動物に追い込まれた草食動物の、おびえながらも勇気を振り絞り、非力な力でそれでも必死に、健気に立ち向かうそれに、重なって見えた。
次の一瞬、地平の彼方より差し込む光が照らす世界に重なる二つの影。わずかに残った薄闇を舞う赤い滴が、物語の終わりと始まりを告げる。
これはかつて、あるたった一人の少女を守るという同じ目的を持ちながらぶつかりあい、ついに守るべきものを失ってしまった二人。
世界を滅ぼすほどの力と、世界を救うにふさわしい優しい心を持ちながら、世界を救う神様となれなかった二人の運命が、再び重なり合う瞬間を記した物語。