焔の明日には
極自然に俺の体は水面に浮上する。肺の中の空気が抜けきっていなかったようだ。
結局のところ、俺はそんな覚悟がなかったと言うことだ。
隣の肉塊に雨粒が打つ。井戸の水は淡い赤が拡散し、手のひらに時々物体がぶつかる。穴から見える空は、汚い色をしていた。
何かトラウマが刺激されそうだ。そうだ、親から見捨てられた日もこんな色をしていたか。
何もしたくない。ずっと浮かんでいたい。
俺は誰も救おうとしなかった。村の人も勇者も、母親も、お婆ちゃんも。そんな俺に救いがあってはならない。
誰かが井戸の中を覗きこんだ。影から女性だと窺い知れる。あの状態で生き残りが居たか。それとも、外部の人間か。
けれど、光の関係上俺のことを見つけることはできないだろう。むしろ、その方が良いだろう。助けなんてこない方が良い。
このまま水の底まで沈んでいけたら、どんなに幸せなことだろう。
やがて、人影は消えてどこかへ行ってくれた。ようやく、眠れる。
目を閉じて、水と一体化する。仄かに体温が感じとれる。これが冷たくなるまでどれ程の時間が掛かるだろう。少なくともそう遠くはないだろう。何故ならとっても今寒い。
額に小さな物が当たった。雨のような冷たいものではない。小石だろうか。
物がペチペチと額に当たる。何度も何度も。さすがに鬱陶しい。
俺は意地でも、目を閉じる。
すると、少し暗くなった。何かが井戸への日光は塞がれているようだ。
今度は、先ほどよりも硬いもので頬を叩かれる。手のひらだろうか?
助けに来てくれたそうだが、救いの手は要らない。頼むからそのまま帰ってくれ。
すると、人影は俺の背中に手を回すと、しっかりと抱きしめる。服越しに相手の体温が感じれる。
温かい。久しぶりに人肌を感じた。
俺の体はそのまま持ち上げられ、ゆっくりと宙を登る。その間も、助けの人は俺の体を離しまいとしっかりと抱きしめてくれる。
やがて、体は地面に下ろされる。
「息はあるようだな。心臓も正常のようだ。」
失念していた。生きているのだから心臓は動くし、酸素を取り込む為に息だってする。
上げられた時点で断念してもよかったかもしれない。その時点で、俺が死ぬことはもう叶わなかった。
諦めて目を開けた。
開けた風景には男女の大人たち十人と、少年少女ら五人が居る。誰も彼も一度も見たことがない。
「偶然通り掛かったが、良かった。生存者が居てくれて。」
男性が胸に手を当てて、胸を撫で下ろしていた。
「大丈夫かい?僕らの声は聞こえてるかい?自分が誰だか分かるかい?」
先ほどとは違う、気の優しそうな男性が俺に話し掛けてくる。
「はい。助けていただいて、ありがとうございます。俺は、ラナキュラス・リーベと言います。」
「リーベ君だね。私はキマエラ・エスエリアだ。このキャラバンの長のようなことをやらしてもらっている。」
幸運か、不幸か。俺はたまたま通りかかったキャラバンの人たちに、助けられたらしい。
ハッと気づいて、周りを見渡すと、火は燃え移るものもなくなり、雨ということもあって消火されていた。所々、黒煙が立ち昇っていた。
全滅してしまったことは明白だった。
広場で死んでしまった勇者の死体は片付けられ、その場には赤い円が描かれているだけだった。
探すと、死体が全体的に片付けられている事に気づいた。
「あぁ……村の人たちは埋葬したよ。あまり置いておくのも、可哀想だしね。」
「そうですか。」と応えた。
「…………それに、あまり子どもたちに見せるものじゃない。」
エスエリアさんは息を潜めて言う。それは、独り言に近い。彼の視線の先には、女の子が二人と男の子が二人居る。
彼らが片付けてくれたようだ。俺もまた見てしまうと、あのグロテスクな情景が思い出してしまうだろう。そう思っただけで、少しえずきかけた。一度、深呼吸を挟んだ。
一度冷静になった頭は、色んな思いを思い浮かばせる。
「!! お婆ちゃん! お婆ちゃんは居ませんでしたか!? それと、お母さんも!!」
俺の勢いにエスエリアさんは押されながらも、必死に記憶を辿ってくれている。
「お婆ちゃん?何人かご老人らしきものは埋めたけれど、お母さんも多くの女性を居たから、君のお母さんかは分からない。ごめんね?」
「い、いえ。こちらこそ、ちょっと熱くなってしまいました。場所なんですが、あの家には遺体は……?」
俺の家があったらしき場所を指を差す。エスエリアさんは少し考えてから、答えを出した。
「あそこは……あったね。……そうか、あの方がリーベ君のお婆ちゃんだったか。」
やはりか。目が見えないという状況で周りの異変に早く気づくことが出来なかったのか?俺が支えると言ったのに、結果はあの有り様だ。
お婆ちゃんのロッキングチェアも焼け、暖炉も崩れ落ちている。あの辺りには、俺のベッドがあって、いつも寝起きしていた。あの辺りには、キッチンがあって、お婆ちゃんの料理のお手伝いをしていた。
「だったら、ここから左に行った出口近くには、女性の死体は……?」
「あったよ。酷く損傷していたが、あの人は女性だったよ。」
「…………そうですか。」
やはり俺には何も守れなかったようだ。むしろ守られてばかりで、俺自身あの人たちに何かを返すことができていただろうか。
その後は、商売品を運ぶ為の荷車で軽い手当てをしてもらい、水と少量の塩を貰った。何度も吐いて、かなりの水分不足だったようで、貰った水を一気に飲み干した。そして、塩を少しずつ舐めた。
空が真っ暗になる頃には、俺の体調は回復していた。
大人たちが夜営の準備をしているのを眺めていると、一人の来客者が来た。
「こんばんは。もう大丈夫かえ?」
それは朱鷺色の髪に紅の瞳を持った少女だった。年齢は俺よりも二、三は上だろうか。
「心遣いありがとうございます。もう体調も戻りました。」
「そうか!それは良かった。上がって来た時は、顔が真っ青だったからの。」
「あははは……」
心の中で舌打ちをした。もう少しだったようだ。
「おぉ、自己紹介がまだだったようじゃの。私はアニカ・エスエリアじゃ。よろしゅうの。」
アニカと名乗った少女は、肩まで伸ばした髪を揺らし、細々しいキレイな手を差し出した。
「ああ、よろしく。俺は----」
「大丈夫じゃさっきの聞いておったからの、ラナキュラスじゃろ?」
「あ、ああ。よろしく。」
俺も手を出して、その小さな手と握手する。
呼ばれるのは、そっちか。初対面で距離を詰められて少し驚いた。
「隣いいかえ?」
「ああ、どうぞ。」
アニカはスカートを整えて隣に座る。
「男の子で良かったのかえ?」
「男子だよ。」
何度も女子に間違えられることはあるから、慣れてはいるが。名前も最初女の子と勘違いされたから、花のから取られていた。
「私には、もっとフランクに話すがよいぞ。」
「う、うん。努力するよ。」
荷台の端で大人たちが火を焚いているのを眺めてながら、アニカは足をぷらぷらと揺らしていた。けれど、その瞳はもっと先を見ているような気がした。
「怖かったかえ……?」
「…………ん?」
アニカはポツリと呟いた。あまりに独り言じみていて、少し反応が遅れた。
「魔物とエンカウントしたんじゃろ?怖かったかえ?」
「えーっと……」
なんだろう。アニカの前で率直に言うのがはばかれるような瞳をアニカはしているような、そんな色をしていた。
「……ん。すまんの。忘れてくれ。」
「いや、言わせて。」
何故だか、言わなきゃいけない使命感に駆られた。
「魔物と出会って、すごく怖かった。気が動転するほどに。けど……お母さんが助けてくれた。自分の命をかなぐり捨てもね。」
向こうでは、火が大きく揺れていた。アニカは黙って聞いてくれてる。俺はまだ話を続ける。
「俺は逃げることしかできなかった。勇者が魔物に襲われていた。俺は隠れてることしかできなかった。なんにも……出来なかった。」
俺はうつ向く。擦り傷が付いた膝にガーゼが貼られている。徐々にそのガーゼがぼやけて見えてきた。
「……いいんじゃよ。怖くって。」
「え?」
「魔物が怖くっていいんじゃよ。だって、それが人間じゃろ??」
アニカは柔らかに微笑んだ。
アニカの言葉は深く心に突き刺さった。俺が悪くないと言ってくれているような気がして、優しく諭してくれているような気がして、心が温かくなる。
「……うん……そうだね…………」
俺は、にやけてしまうのを必死に堪えて呟いき、目尻に溜まった涙を拭った。
井戸の中で、俺は死にたいだなんて戯言を放った。アニカと話して分かった。お母さんは、俺の未来の為に自分の未来を切り捨てた。それは、全く出来なかった母親らしいことなのだろう。だったら、救われた命を無駄にしてはいけないだろう。お母さんの未来は俺に受け継がれたのだから。
「さ、もう夕飯ができるみたいじゃぞ?お腹減ったろ?食べれるかえ?」
「大丈夫、多分、もう食べれる。」
「それは、上々じゃ。さ、行くぞ。」
アニカは荷台から飛び降りると、俺の方を向き手を出した。そっと差し出されたその手をしっかり握ると、俺は勢いよく荷台から飛び降りた。
翌日、エスエリアさんに連れられて、村の外へ向かった。外の草原にはポツンと木の板が立っていた。
すぐに理解した。あそこに、村の人が埋められているのだろう。
「そこに全員、埋めたんだよ。」
「そうなんですね。」
知っていたとは言え、人から伝えられると辛いものがある。
しゃがみ込んで、墓と向き合う。周囲の雑草がさざめいた。
木の板には"ノキコ村 村人 墓"の記述がある。俺の村だ。
「村の名前合ってるよね?」
「はい、間違いないです。俺の村の名前だ…………」
墓の前で腰を低くして、手を合わせて拝む。こうやって、真剣に拝むのは何度目だろうか。小さい頃は純粋に拝んでいたが、思春期辺りまで成長するとどんどんと億劫になってくるものだ。遠い親戚となると、失礼だが適当に拝んだ覚えがある。
だけど、あの時は真剣に拝んだ。手を合わせることは出来なかったけど、真剣に彼らの冥福を祈った。
ゆっくりと目を開ける。小さく深呼吸をして、立ち上がる。
もうここには戻らないような気がした。だから、さよならだ。
「お婆ちゃん、お母さん。さようなら。俺は遠くに旅に出ます。だから、空の上から見守っててください。今度こそ、誰かを守れるほど強くなりますから。」
俺は少し微笑んでから、後ろに振り返った。向こうではアニカが小さな子の世話をしているのが見えた。
肩にエスエリアさんの手が乗せられた。
「もう、いいのかい?」
「はい、もう大丈夫です。」
俺はゆっくりと立ち上がると、もう一度墓を見た。やはり、自分は死んだ方がいいんじゃないかという考えは頭にはある。
しかし、同時に誰かの為に生きてもいいんじゃないかという気持ちもある。それはアニカと話していて、思ったことだ。
この背反する感情が心に居座って離れない。
だったら今、どちらを選ぶ必要なんてないんじゃないだろうか。俺はとりあえず今日を生きて、明日を待つだけの適当な人生を生きるのもいいんじゃないだろうか。
そのうち、どちらを選ぶか決まることだろう。
だから、今の一瞬だけは生きていよう。ほんの一秒だけは生き続けていよう。
いつか、何かは変わるだろうから。