とうに針は回ってる [2]
大人たちに見えない場所まで、逃げると足音を殺して、森の方へ走っていく。
勇者。王に選ばれた者が名乗ることができる称号。
勇者は世界に蔓延る魔物たちを倒しながら経験値を貯め、レベルを上げ、魔界の門をくぐって、魔界へ向かい、最終的に魔王を討伐する。それが、勇者の使命。
勇者はその使命を命を果たす代わりに、色んな特権が与えられる。
色々とあるが、最たるものが免罪特権だ。
魔王討伐の為と称して、家の財産を奪いとったり、畑を荒らしたり、女を犯すことも出来る。最悪の場合、人を殺すことも。
だから、勇者は何もない人たちにとって脅威だった。
だから、誰も助けない。
俺は村人たちには恨みはない。助けないことが、当たり前なのだから。生存本能として、強い者に逆らわない。その選択には文句はない。
とは言え、ああいう横暴な勇者だけじゃないことはよく分かってはいる。
遠くから、金属が擦れる音と、少し獣っぽい臭いが感じる。奴は近い。
息を最小限まで抑えて、気配を森に溶かしてゆく。
と、口に中に鉄の味がすることに気づいた。
まだ、完全に治りきっていなかったようだ。額に触れると、血は付いていない。ならば、すぐに治るはずだ。
何か処置を施す必要もない。
気配を殺して、音のする方へ忍び歩いていく。
追いかけているうちに、一体の動物を見つけた。真っ赤な鮮血は周囲に飛び散り、その動物はその体に大きな切り傷を付けて息はもうなかった。
イノシシに似たそれは、確かにイノシシなのだが普通のイノシシじゃない。
体毛は深緑色をしていて、下牙が大きく反り立っている。脚の爪は鋭く、これに突進されたのならば、大怪我じゃ済まないだろう。
それは、魔物と呼ばれるものだ。勇者が倒すべき存在で、それは基本的に既に存在している動物の形をしている。だが、通常の動物よりも狂暴でその強さは何倍にもなる。
魔物が生まれる理由が魔王のせいだとか王家は言っているようだが、本当のところはよく分からない。
魔物は元となった動物の性質を知っている人ならば退治できなくはないがかなりの危険を伴う。
しかし、勇者はこの魔物をいとも簡単に倒してしまって、経験値を得る。
勇者を排斥できないのも、納得がいく。
周囲の様子を窺う。周囲には気配も、音もない。
何も居ないことを確認すると、イノシシの魔物に触れる。
まだうっすらと温かくついさっき殺されてしまったようだ。
ならば、まだコイツは助かる。
手の平に意識を集中させる。身体に血液が流れる感覚が解る。眼に脳に脚に手に膝に腕に口に血が廻るのが解る。心臓が早く脈打つのが解る。今生きていることが解る。
頭の中に幾つものワードが浮かんでは消えてゆく。水泡のようなそれを、優しく包みこみ選択していく。
「我、汝に斎く。血の定めは反転する。歯車は正しき場所へ帰りけり。彼の命運は死に在りし、然れど未だ鐘は鳴らず。誰そ彼越えゆその前に、戻れ戻れよ、糸手繰れ。再……始動……。」
視界が歪む程の目眩と、バキリッと骨が曲がる嫌な音がした。代償の音だ。
左目が強く発熱し、焼き印に当てられたように、文字が浮き出る。"蘇生"それと、"生命活性"。
文字はやがて消え、熱は治まっていく。
痛みから強く下唇を噛んだ。先の跳ねられた時よりかは何段か痛みは下だが、当然ながらどう足掻こうと痛みに慣れることはない。
それは絶対に慣れないことだし、慣れない方がいいのだけれど。
目眩が治まると、目の前の死体がピクリと動いた。
「良かった…………」
イノシシの魔物はまるで何も無かったかのように立ち上がると、俺を一瞥して森の中へと消えていった。一応、見逃してくれたようだ。
完全に確認出来なかったが、大きな切り傷は消えていたはずだ。
どうやら、俺の魔法はどちらとも作用してくれたらしい。一つは傷口を塞ぐ魔法。もう一つは蘇生の魔法。
魔法は勇者や魔物にしか使うことが難しいのだが、一般の村人にも魔法を使う方法がある。
それは魔物が作ったとされる、魔典の使用。
経緯は省くが俺は魔典を手に入れ、そして出来心で使用した。
得た物は蘇生と生命活性化の魔法。
この小さな身体に有り余る力を手に入れて俺が何をしたのかと言うと、さっきも行った通り、傷ついたものの救出だ。それが人間だろうと勇者だろうと動物だろうと魔物だろうと関係なく、その傷を癒してあげる行為だった。
それには、俺に特に見返りはなく、心優しい人が感謝の言葉を掛けてくれるぐらいだ。
基本、マイナスが大きいので続けても本当に得がない。
自分でも続けている理由が見当たらない。いつでも終わらせることが出来るのに。
俺は、これで何を得たいと言うのだろうか?
「……大丈夫……かな?」
痛みはもう引いたし、触診してもおかしな所は見つからない。
また走り回るなら十分なコンディションだ。走るのは嫌いだが。
とはいえ、鎧の音もしなくなったし、雲行きも怪しい。今日はもう帰ろう。特に、あの勇者を追い続ける必要もないだろう。
今の太陽の位置と体内時計を合わせて、大体の方角を調べる。
「あっちだな……」
探った方向へ歩いていく。恐らく合っている……はず。大まかな方角は合っているはずだから、森さえ出てしまえば、後は帰ることが出来る。
雨がくる前兆なのか、森の中は妙に静かだった。鳥も飛んではいないし、可愛らしいリスは今日は見ていない。というか、動物自体見ていない気もする。あのイノシシの魔物ぐらいだろう。
はっきり言って、気味が悪い。朝のことも踏まえて、何か嫌なことが起きてしまうんじゃないかと、考えてしまう。
案外、生物の直感とは恐ろしいものである。良い予感がすれば、良いことが。悪い予感がすれば悪いことを招いてしまう。
それは、きっと生命が生き延びるのに必要な機能だというのに。
昔、ある映像を見たことがあった。一時間以上、ただただ暖炉の火が燃えている動画である。まあ、よく分からない。しかし、ある国ではテレビで流して視聴率を稼いでいたそうだ。
俺も一度見たことがあったが、三分で飽きてしまった。あの時は、どうしてあんなに人気になったのかは解らない。
しかし、今ならば解る。
火は美しい。パチパチと、火の粉を撒き散らし火柱を上げる様は綺麗なのである。薄暗い中、明るく周囲を照らす人は心を明るくさせる。
それはきっと、俺たちの先祖から受け継がれたもの。自然界で唯一、火を使う動物を呼ばれていた人間の特権なのだろう。
ならば、目の前の火は綺麗なのだろうか?
答えはイエス。とても綺麗だ。たとえ、火の燃料が人だとしても。
十四年生きてきた村が燃えている。俺が居ない間に村が崩壊している。逃げ惑う人は居なく、そこかしこに黒い人形の炭や赤いペンキのようなものが地面に散っている。
村人の代わりにいるのは、異形のもの共。ライオンの体に真っ白な翼が生えていたり、カマキリのような鎌を持ったウサギなどキメラじみた魔物たちが蔓延っている。そして、それらの変異種の周囲には死のオーラが渦巻いている。
一瞬で悟る。見つかったら死ぬ。早くここから逃げださないと。
バレてしまわないように、気配を消してゆっくり、ゆっくりと後退りする。
「……ひっ!」
背中が何かとぶつかった。後ろは障害物は当分ないはずなのに何かとぶつかった。
生暖かい湿気た風が吹き抜けた。何かの視線を感じる。
恐る恐る、後ろを振り向く。
眼が合った。それは大きな眼だ。俺が本当に眼に入ってしまいそうな大きなゴールドの眼。ゴツゴツした鱗。肉など簡単に噛み千切ってしまいそうな鋭い牙。その牙から覗く紅蓮の炎。視線を移すと、高く飛んでいけそうな大きな翼。天使のそれと違って、堅くがっちりとしたドラゴンの翼だった。
「……は……ははは…………」
微かに過った好奇心。初めて見たドラゴンにほんの少し誘われる。
あまりの恐怖が、死ぬという生存本能を捨て、心を好奇心で埋め尽くす。同時にそれは、諦めでもある。
猫も殺すと知ってても、その方向に心を持っていったのはどういう運命なのだろうか。
『生き残り存在いまだ。』
腹を響かせるような、低音がどこかから聴こえる。それも、かなり近くから。それは機械音のようで、雑な翻訳をしたような文法だった。
好奇心に囚われた俺は周囲を探すが、周りにはドラゴンと俺しか見当たらない。となると……。
「……はっ……ドラゴンが喋ったよ……」
恐怖のドキドキを、新しいことを知ったことからくる気分の高まりと勘違いし、より心臓は早く脈打つ。しかし、声は掠れていた。
『? あなたですか、発した言語。はい、私は話している。』
「すっげぇ……これが本物かよぉ……」
眼を爛々と輝かせ、ドラゴンの体を観察する。
「な……なあ、背中に乗せてくれよ。ずっと夢だったんだ。」
俺が懇願すると、ドラゴンは少し考えて『はい。』と答えた。
ドラゴンは身を低くすると、登りやすく翼でスロープを付けてくれた。取り憑かれた俺は、翼に足を乗せる。翼にある水掻きのような部分は帆のようになるよう布のような柔らかさかと思っていたが、踏んでも低反発して堅さを感じる。
「…………ラナ!」
「え。」
気づくと、俺は倒れていた。そして、俺が押されたことに気づいた。
先ほど俺が立っていた位置には、お母さんが息を切らせて立っていた。
「あ……なんで……?」
「早く!早く逃げなさい!!」
俺はようやく恐怖感が蘇った。息が乱れて、頭が真っ白になる。
一瞬のフリーズの後、無意識に俺の体は動いていた。
「うぁぁっぁぁっぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあっぁああっぁ!!!!」
俺は逃げた。お母さんを置いて逃げた。
一心不乱に逃げ回って、まだ焼けていない一軒の家に逃げ込んだ。
息を殺そうと、口を手のひらで覆い隠す。
家の中は至って綺麗だったが、柱の陰から何かが倒れていた。
外から大きな音がして、肩を揺らす。
バレないように、ゆっくりとドアを開けて様子を窺う。
広場の中央には、俺を馬鹿にしたあの勇者が魔物と戦っていた。
「くそっ!死ね死ね!」
勇者はその身に余る大剣を振り回す。剣は魔物を切りつけるが、魔物の皮膚には傷一つ付かない。
魔物は勇者を掴む。
「離せ!死ねよ!ゴミが!」
勇者は魔物に汚い言葉を浴びせるが、魔物の耳には一切入ってないのか握る力を強めて、勇者を潰した。
「ぐぎゃああがあがぎゃああああああああぁぁ……ぁぁぁぁ……ぁ……」
指の隙間から、勇者の肉が血がこぼれ落ち、ベチャリッと池を作る。
あっさり、死んでしまった。儚いなんて感情はなく、彼の死に様は汚ならしかった。
すぐにドアを閉めて、その場で吐いた。しかし、既に吐いた為何も出てこないのがなお気分が悪い。
初めてだ。ああも、簡単に人は殺されてしまうのだろうか?
恐ろしかった。俺もいつか、あのように殺されてしまうのだろう。
キィ……と後ろのドアが開いた。俺は確認せずに、魔物を押し退け、走った。
逃げた先々に、魔物と遭遇して方向を変えに変えて、気づくと見通しのよい広場に逃げ込んでいた。
「!!」
足元が不注意だった。石に足を引っ掛け、勢いのまま、井戸の角に体をぶつけた。
脚を震わせて、井戸にしがみついて立ち上がる。息は不規則となり、上手く焦点を合わせることができない。
『おい、坊主!』
ドスの効いた声が聞こえる。俺は何とか出来ないものかと、必死に考える。
ふと、俺がもたれかかっている井戸に注目する。釣瓶の縄は切れ蓋は外れていて、穴の中は闇が待ち構えていた。
けれど、その闇は今目の前の魔物よりもずっと怖くなかった。
俺は井戸をよじ登り、その暗闇と対立する。
『おい!』
何か聞こえた気もするが、振り向くよりも落ちてしまう方がずっと楽だろう。
俺は両足合わせて、両足で跳ぶと重力に任せ穴に落ちていく。
なに、怖くはないさ。だって、こうやって跳ぶのは二回目なんだから。