第七章 二人と一匹①
「…………」
「…………あの」
「…………」
「おじさん?」
「…………おじさん? 違うよ、どうせ私は家族に金玉を蹴られ、みぞに肘を入れられるような快楽殺人者もどきだよ」
「あー……おじさんごめん。あとお風呂沸いたから入りなよ」
「……フフ、私が汚いからお風呂に入れって? そうさ、私なんてどうせゴミより汚いおじさんだよ。汚物おじさんだよ」
「えー……。普通に血まみれだからお風呂を勧めたんだけど。部屋汚れるし」
「汚い? あーどうせ私は汚いよ!」
「おじさーんお願いだからその格好で僕のベッドにダイブを……っ。あーあーもう手遅れだよ」
サンタ……というよりも快楽殺人者もどきのゴミより汚い汚物おじさんが突如サトルくんの部屋に現れて以降部屋の雰囲気は最悪です。汚物おじさんはサトルくんにいきなりボコボコにされたことで心に大きな傷を負いました。そんな汚物おじさんの様子にサトルくんも罪悪感を湧きながら部屋の中が血まみれになることで明日は朝から掃除しないといけないと現実的なことを考えてしまいます。
「はぁー。それでおじさんその血は大丈夫なの?」
サトルくんは掃除のことで頭に一杯になりつつも、さっきから気になっていることを訊ねます。
「……大丈夫だよ返り血だから。ふふ、快楽殺人者もどきにピッタリだろう?」
「返り血って……。えっとポチ、また何か厄介ごとに巻き込まれたの?」
いつまでも拗ねているサンタでは話が進まないと判断して、サトルくんは部屋の隅でさっきから腰をかけて座っているポチに訊ねます。
「…………。正確には巻き込まれに行っただな」
そう言ったポチの声はわずかながらに掠れていました。まるで痛みでも耐えている声にサトルくんには聞こえました。
怪訝に思いながらもサトルくんはポチに近づきながら、声をかけます。
「巻き込まれに? ポチ、そのさっきからずっと端に居るけど、どうし……っ」
そこでサトルくんは声が出てこなくなります。体中の血はサッと引き始め、顔は一気に青ざめて、体は一瞬硬直します。
二足歩行でどんな悪い人間にも、妖怪にだって屈することがなかったトナカイは全身が傷だらけで、右目がすでに潰れていました。
「ポチっ! だ、大丈夫なのっ」
硬直が解けた途端にサトルくんはポチの側まですぐに駆け寄り、震えた声で安否を問います。
「…………」
ポチは潰れてない左目でサトルくんを睨むと、左腕の蹄で小さく拳骨をしました。
「騒ぐな。傷に響くし、男のくせに女々しいぞ。落ち着け」
「で、でも! 酷い怪我だよ! 今すぐにでも病院に行かないとっ!」
「大丈夫だよ。すでに致命傷になる傷の手当は終わったよ。残念ながら右目は『奴』に持って行かれてしまって、回復魔法でも再生は無理だったけどね」
突然の家族のボロボロな姿に気が動転しているサトルくんにそう言ったのはさっきまでベッドで拗ねていたサンタでした。
「……最もあくまで致命傷の傷は回復しただけで、ちゃんと協会の医者にでも見てもらった方がいいことには変わりないね」
「じゃあ早く協会の人に連絡しないとポチが!」
「落ち着けって言ってるだろうが!」
再びポチは拳骨をしてきました。今度は少しだけ強く。
「いいか。何度も言うが、落ち着け。お前が落ち着かない限り話が進まねえんだ」
「……本当に怪我は大丈夫なの。それに右目が……っ」
「ああ? 右目が潰れたからってどうなるってんだ? なんで目は二つあると思う? 一つは潰れても大丈夫だからだ」
「…………滅茶苦茶だよ」
ポチの滅茶苦茶の言葉によって、サトルくんはようやく落ち着き始めます。
「さてと、サトル。きっとサトルも協会から私たちが妖怪に襲われて、今日まで協会から離脱したのかをちゃんと説明しないといけないね。それになぜ私たちがこんなにボロボロな状態で協会よりサトル元へ先に帰って来たのかも話さないといけない。……聞いてくれるかい?」
サンタはベッドから起き上がると問いかけます。その声には先までふざけているように拗ねていたものと違い、聞いているだけで背筋を伸ばしてしまうような真剣なものでした。
「……うん。その、おじさんは本当に怪我はなかったの? 返り血だけなの?」
「ああ、ポチが守ってくれたからね。そのおかげで私は大きな怪我は負っていないよ。安心してくれ」
サンタは血まみれな体でサトルくんに笑みを見せ、そのまま彼の頭を撫でようとしますが、直前で撫でるのを止めてしまいます。
「おっと。そう言えば私は血に染まっていた。……快楽殺人者もどきが君まで血まみれにしてはいけないからシャワーを浴びてこないとね」
柔らかい笑みのままサンタがそう言うと、サトルくんもようやく笑みを見せるくらいの余裕は戻ってきたようでサンタに言い返します。
「サンタロウおじさん。僕を血で汚したくないって言うけど、僕の部屋まで汚すのやめてくれるかな? あとで掃除手伝ってね」
ポチが大丈夫だと知った彼はほんの少し怒る気力まで湧いてきました。
「…………うーん私聞こえない。歳だね」
「おじさん僕知ってるよ。おじさんが歳の割に耳が良くて本気になれば魔法を使って、町の隅々まで色んな噂話を聞いているの知ってるよ」
「…………」
「そしてその度に町の女の子がおじさんをダサいって言っている陰口を聞いて、おじさんが傷ついているのも僕知ってる。そしてその悲しみで世界中の人たちの声を奪う魔法を開発して、ポチにボコボコに殴られながら怒られているのも知ってる」
「いや、そのだね、私は別に…」
「おじさん、僕ねそれを知った時少しだけおじさんを軽蔑したよ」
「ほ、本気じゃなかったんだぁぁぁぁぁぁぁ!」
サンタはこうしていつものように泣きながら走り去って行くのでした。
「…………相変わらずだ」
久しぶりの再会でもいつものやり取りが出来たことにサトルくんはホッとしました。
「珍しいな。お前があそこまで爺さんを虐めるのは。いつもは遠慮しながら傷をつけていく面倒くせえやり方だったくせに」
傷のせいか先程からジッとしているポチは珍しい物を見たかのように驚いた顔をしています。
「……おじさんにはさんざん心配させられたからね。それにポチはこんな姿で帰ってくるし、ホントになんで右目が……」
ポチに愚痴ろうとサトルくんは口を開きますが、ホッとしたり、ポチの怪我で驚かされたせいかようやく実感します。家族の右目が失明してしまったことに。そして自分の愚かさにも気付かされます。
ずっとサンタやポチの側にいたせいでしょうか。サトルくんは彼らの凄さをずっと近くで見ていました。だから楽観していました。あの一人と一匹ならどんな危険にあっても大丈夫だと。
しかしその楽観はたった今消え去りました。当たり前のことなのに。彼らは生身の体を持つ人間とトナカイなのです。生身の体な以上不死身ではないのです。彼らはいつだって多くの者たちから命を狙われる仕事をしているのに、サトルくんは自分はなぜ楽観をしていたのだろうと自身を恥じます。なぜ覚悟をしていなかったのだろうと。覚悟さえしていれば取り乱すことはなかったのに。
これではサンタの家族として失格だと心底思います。そう思ってしまうと涙が勝手に流れてしまいます。悔しいのです。みんなを救うようなヒーローに、……サンタになるとメアリーと誓ったのに覚悟さえ出来ていなかった自分の弱さが心底情けなくなってしまったのです。
「泣くな」
三度目の拳骨が傷だらけのポチから繰り出されます。彼は傷だらけなのにサトルくんと同じ目線の高さにしゃがみ込むと、拳骨した蹄でサトルくんの涙を拭います。
「サトル、俺はとんでもねえ化け物と戦った。その結果として俺は今回目ん玉を一つ失くしちまった。だが気にすることはねえ。俺にはまだ泣いているお前を見る目がもう一つあるんだ。それに今回は例え俺自身の命が失うことになろうが、戦わねえといけねえ相手だった。ビビッて逃げるわけにはいかなかった」
ポチから涙を拭われたサトルくんの目には相変わらず人食いトナカイのような凶悪な笑みを見せるポチの顔が映りました。
「そして俺は命を賭けて戦った上で生きてお前の目の前に居る。ちゃんともう一つの目でお前のことだって見えている。だからお前が悲しむ必要はねえ。俺は賭けに勝ったんだ。大勝だ。むしろ喜べ」
ポチの言葉にサトルくんは首を横に振ります。
「喜べないよ。喜べるわけないじゃないか! ポチがこんなに怪我して、右目が見えなくなったのに……」
ポチから拭ってもらった涙がまた目から新しく零れ落ちます。
「……そうか。そうだな。悪いなサトル。心配かけちまって。俺が弱っちいせいでお前を泣かしちまったな。だったら俺はもっと強くなる。傷ついた俺を見てお前が泣かないように強くなる。だからその誓いとして今だけは特別に泣いていいぜ。そして泣き終わったら今度は俺たちの話を聞いてくれ。お前が泣き終わるまで俺のデカい体でお前の泣き顔を隠してやるから。爺さんの長いシャワーが終わるまでたっぷり泣け」
最後にポチはごめんなと言いながらサトルくんの体を包みこむように彼を抱きしめました。
ポチの大きな体でサトルくんは本当に大きなトナカイの体に埋もれてしまいました。大きなトナカイの体は妙に暖かくて、でもやっぱり傷だらけで血の匂いと獣独特の野性的な匂いがしました。そんな匂いの中サトルくんは悲しくて、悔しくて泣いたのでした。子供のように大きく泣きましたが、その大きな泣き声は大きなトナカイの体によってかき消されます。
そうしてしばらくの間サンタの長いシャワーが終わるまでサトルくんは大きなトナカイの前で泣き続けたのでした。