第五章 最強のヒーローに
母はよく言っていました。サトルくんがお腹に宿ったせいで好きな人は離れて行ったと。
こうも言っていました。お前が居るから好きな人と一緒に暮らせない。お前に食事を与えないといけないからあたしはやりたくない仕事をやるしかないと。そんな時の母はいつだって泣きながらサトルくんを叩いて、その後ごめんねと謝ってきました。サトルくんは身体は痛くなかったけど、身体とは別の所は息がつまるように苦しいと感じていました。
ある時サトルくんは母が連れてきた知らない男の人にぶたれました。母はそれを見て凄く怒ってくれました。サトルくんはなぜか悲しい気持ちと嬉しい気持ちになるのでした。
しかし知らない男の人が居なくなると今度は母に思いっきりぶたれました。その後、母はいつもよりもすごい勢いでワンワンと泣きました。サトルくんはそれを見て、自分は泣いていけないと我慢しました。それ以降母は男の人と関わることがなくなりました。代わりにお酒をたくさん飲むようになりました。
いつしか母はお酒を飲むだけじゃなくなり、自分自身を傷つけていました。そんな時サトルくんはそれを見るのが嫌でいつも母にバレないように布団に包まって静かに泣きました。
母はお前のせいでアタシは不幸だ。アンタがあたしを苦しめるんだと言い出すことが多くなりました。サトルくんはどういう顔をしたらいいか分からず、ただ母に捨てられないようにみんなに優しく、母に優しくして良い子でいました。
やがてあと一日でクリスマスイブの日のことでした。サトルくんと母は久しぶりに出かけました。サトルくんは嬉しく、母の機嫌を損ねないようにいつもより良い子でいるようにしました。
出かけた先は山の奥でした。車で行きました。途中から歩きました。そこでサトルくんは母に殺されそうになりました。しかし直前で母はサトルくんを殺すのをやめて、代わりにごめんねと今までで一番優しく抱きしめられました後にさようならと母から別れを告げられました。
そして母は自分で自分を殺しました。母は倒れます。
サトルくんは母に縋りつき、言葉をかけます。何度も何度も今まで思っていたことを母に言います。しかし母は屍となって返事はありません。サトルくんの世界はそこで光を失うように目の前は暗くなりました。
しばらくすると大きな大きな妖怪が母を喰らいます。サトルくんは何にも出来ませんでした。母の肉を咀嚼する音を合図にサトルくんは狂ったように泣きました。でも妖怪は相手にしません。妖怪は母を食べ終わるとそのまま消え、サトルくんは一人になります。サトルくんは一人になってもしばらくは泣き叫びましたが、声が枯れると悲しみすら出すことは出来ませんでした。感情さえ消えていく感覚に陥ります。
母が死んだ場所ではもう何もありません。サトルくんに唯一残ったのは母の血とその匂いに、母が死んだのは自分が生まれてきたせいだという事実だけでした。
「…………まあこんな感じかな? ごめんね。少し卑屈に聞こえたかもしれないけど、これもたぶん僕が背負ないといけない事実で、僕が感じているこの痛みは罰なんだ」
メアリーとゆびきりげんまんをして、約束をした後にサトルくんは自分の知られたくない過去をメアリーに話しました。
彼女にこの事実を話せば同情をされるかもしれない。気持ち悪がられるかもしれない。元の関係に戻れないかもしれない。サトルくんはそれが嫌で怖くて、だから誰にも知られないようにずっと隠していました。
しかしそれでもこんなにありのままに自分の過去を、感じたことを話したのは先ほどのメアリーの言葉に心を動かされたのも事実で、また知られたくないのと同じくらいにメアリーに自分を知って欲しいというのも恐らくは事実なんだろうとサトルくんは思います。
「…………」
「メアリー?」
メアリーは何も答えません。ただサトルくんの目の前に立ったまま下を俯いたままで、表情は見えません。サトルくんはそれだけでメアリーにどう思われているのかと心配になり、座っていた状態から立ち上がり恐る恐るメアリーの肩に触れようとします。
「サトル」
しかしその前にメアリーは声を発します。その声に反応してサトルくんは動きが止まってしまいます。直後にメアリーの体はゆたりと揺れたかと思うとそのままサトルくんにもたれかかり、まるで押し倒すかのように二人は体ごと床に倒れます。
「痛っ!」
メアリーに倒されてサトルくんはそのまま床に倒れた衝撃を受けてしまい、痛みを訴えます。
「……痛い」
対するメアリーも痛みを訴えます。でもメアリーは押し倒しただけで痛いのは全部自分だとサトルくんはメアリーの乱暴な行為に思わず抗議しようとしますが、
「…………」
それは出来ませんでした。彼女は、メアリーは青色の瞳に涙を浮かべていたからです。そのくせ彼女はその涙を流すのを我慢するように目に力を入れて細めていました。
「痛いの。とっても痛い。サトルがママの話をしてる時あなたの心の痛みがアタシに流れ込んで来てとても痛かった。今までのあなたの心の痛みよりずっと痛くて、悲しくて、それにあなたが自分自身の心を何度も押し殺して、感情を消していたのが分かったの。ごめん……ごめんねサトル。アタシあなたの友達だったのに、力があるのに今まであなたのこの苦しみに何もしてあげられなかった。本当にごめんなさい」
そこでメアリーはついに涙を流します。ポロポロと大きな青い目から流れる水滴は透明でサトルくんは綺麗だなと感じ、なぜかそのメアリーの姿に笑みさえ出てきます。
「メアリー大丈夫だよ」
その言葉と共に自然サトルくんの腕はメアリーの目元まで伸びて、彼女の涙を拭っていました。彼女の涙に触れるとサトルくんの指はじわりと静かに暖かくなっていきます。その暖かさが愛おしく、一瞬だけ母との悲しい思い出ではなく楽しかった思い出が頭によぎりました。
その思い出が何をしていたのか、なぜ楽しかったのかサトルくんは覚えていません。でもあったのです。確かに母との中で暖かな思い出が存在していたのです。
「例えきみがもっと早く僕が隠していたことを僕に言ったとしても僕はやっぱりパニックになるし、その後は大好きな友達のきみに甘えちゃうかもしれない。それでもね、きっと消えることはないんだ。きみに話しても、おじさんやポチたち知ってもらえて僕が悪くないと慰められてもこの傷は消えない。事実だから。全部事実で僕はそれを忘れることなんて出来ない絶対に」
サトルくんは知っています。
母が好きだった人と一緒になれなかったのも、ずっと夢だった仕事を自分が居たから諦めるしかなかったことを知っています。
自分をぶつとき母が同じくらい痛がっていることだって知っています。再び好きになった男の人も自分を守るために別れという選択を選んだこと、頼る人が居なくなったからその不安を、苦しみをお酒でしか癒せなかったことも痛いほどに知っているのです。
母の人生は不幸だったことを、そして自分で自分を殺した時に母が苦しみから解放されたように清々しい顔をしていたこともサトルくんは全部知っているのです。
ただ一つだけ分からないことがあります。なぜ母は自分を殺さなかったのかだけはサトルくんには分かりませんでした。母にとって自分は重りであるはずなのに、不幸を呼ぶ存在だったはずなのに。
その答えが分かるまではきっと自分は永遠にこの傷に苦しむことになるだろうとサトルくんは覚悟しています。これは自分自身の永遠の罪なのです。
「サトル……」
「メアリー、でもきみが泣く必要なんてないんだ。僕はきみに思いっきり自分の醜いとこを見せた。そんな僕をきみはヒーローだって言ってくれた。どんなに痛い傷を背負っても笑っているって。……きみの言う通り僕はいつも笑うようにしてた。悲しい顔をしていたらおじさんたちに嫌われちゃうと思っていたから。だから笑っていると思っていた」
今までずっとそう思っていました。それはきっとこれからも変わらないし、同じようにサトルくんはそんな思いを抱えながら笑っていくのでしょう。しかし今のサトルくんにはもう一つ分かったことがあります。
「でもねそれだけじゃなかった。僕がきみの前で、みんなの前で笑っていたのは嫌われたくないだけじゃないんだ。……楽しかったんだよ。おじさんとポチと居ることが楽しくて、ケンタくんやケンタくんのお母さんやおじいさんたちと居ると暖かい気持ちになって、……メアリーと一緒に居ると楽しいとか暖かいとか考える前に笑顔になっちゃってるんだって」
もうきっとサトルくんは大丈夫だと自身で思います。どんなに苦しくても、嫌われる不安になろうが、その程度の痛みは笑い続けてみせようと思いました。それでサンタたちと居られるならサトルくんは頑張れる気がするのです。だって自分はヒーローなのですから。そんなの屁の河童です。
それに気付かせてくれたのは自分をヒーローと呼んでくれた女の子です。その女の子に、恋をした女の子にサトルくんははっきりと告げます。
「ありがとう。もう僕は大丈夫。きみが居てくれたから」
はっきりとサトルくんは自分の心の中にある言葉を吐き出します。そこに嘘はありません。
しかし嘘偽りの無い言葉に返ってきたのは、
「嘘つき!」
「へ?」
まさかの嘘つき呼ばわりです。これにはサトルくんもビックリです。
「大丈夫なわけないじゃないっ! サトルの嘘つき!」
「メ、メアリー?」
今まで涙を流すだけで我慢をしていたメアリーはついに泣き出します。大きな声で泣き始めます。
「どうしたのメアリー!?」
サトルくんは戸惑うばかりです。動くにもメアリーは馬乗りになっているので上手く動けません。
そんなサトルくんにメアリーはまるで小さな子供のように胸に縋り付いて、まだ泣き続けます。
サトルくんはメアリーがしてくれたようにゆっくりと背中を擦ることしか出来ません。数分泣いた後、まだ泣きじゃくってはいますがメアリーは落ち着いてきたようです。
「嘘つき嘘つき!」
でもメアリーはまだ怒っているかのようにサトルくんが嘘つきだと訴えます。
「あなたがお母さんのお話をしているとき、サトルが過去を思い出すたびアタシには過去のあなたの傷の痛みや悲しみが流れてきた。痛かった。今のあなたの傷と同じくらい酷い傷だった。でも痛いとか悲しいだけじゃない。サトルは過去に何度も死にたいって、消えてしまいたいって強い思いを持っていた。そうでしょう!」
メアリーは感情的になってサトルくんに言います。それは事実です。ついさっきだってこんなに苦しいなら死んでしまいたいと思ったことはあります。でもそれは考えるのが嫌になって、思考を停止して出した惰性から出てきた考えでしかありません。
ただ母と暮らしていたときは母のためにサトルくんは死にたいと思っていました。愛されないなら本気で消えてしまいたいと毎日考えて、それでもいい子にしていたら愛してくれるかもしれないと幼いながらもわずかに希望を持っていました。
希望があるからこそ当時はあんなに苦しかったのかもしれません。希望があったからこそ少しでも現状が良くなるように歩き続けたのです。でも結局歩いても出口なんてありませんでした。傷ついて、ぶたれて、罵倒されて、泣くのを堪えての笑顔を作るの繰り返しでした。それは幼いサトルくんにとって地獄でした。
きっとその時の感情の苦しみがメアリー流れたのでしょう。だからこんなに苦しみの涙を浮かべているのだとサトルくんは罪悪感で一杯になりながら思いました。
メアリー苦しい思いをさせてごめん、そう謝ろうと言葉を発しようとしたとき、
「生きてて良かった」
メアリーは自分も体を倒しながらサトルくんを強く抱きしめて、心底安心したようにその言葉を呟きます。
「……っ」
「あなたが死なないで本当に良かった」
メアリーの涙は苦しみなどではなく、安堵の涙でした。
「…………っ!」
サトルくんは不意にメアリーを抱きしめ返したくなりました。いつも母との過去での苦しい発作と同じような衝動で胸は、頭は一杯になるのでした。ただの衝動は苦しいというよりも激しい高揚と熱いくらいに体が熱くなる感覚になるのです。
その激しい感情からくる衝動に従い、サトルくんはメアリーを強く強く抱きしめたいのです。それは恋からくる愛しさなのか、感謝から来るものとはちょっと違うのだとなんとなく理解します。何せそのままメアリーを全部自分のものにしてしまいたいという傲慢な意志が沸々と湧いてくるのです。同時に怖くなります。
このまま衝動に従ってしまえば、自分が自分でなくなってしまいそうで怖いのです
「メアリー僕は……、」
サトルくんはメアリーを強く力一杯抱きしめ返します。気付けば体の上下は逆転して、サトルくんがメアリーを組み伏せている状態になっているのです。
こうして上から見ると彼女の青い瞳はやっぱり綺麗で、彼女の肌は驚くほど白くてその肌に自分の跡を残したいなとサトルくんは破裂しそうな胸の中でその思いがどんどん膨れ上がってきます。
もうどうでもいい。自分が自分でなくなるとかそんなことはどうでもいいと感じました。それよりも彼女の心の中に少しでも自分が存在したい。彼女に少しでも近づきたい。だから彼は、サトルくんは言うのです。自分の『想い』を。
「僕はきみがす……」
「Hey! メアリー話は終わったかい!」
……すいません想いは言えないようでした。突然の乱入者アメリカサンタジョニーの登場です。
「…………」
「ワオ」
「…………?」
今部屋に居る三人の反応はみんな違います。
サトルくんはこれは完全にアレな感じと勘違いされると確信し、走馬灯が流れてきそうな自分を鼓舞するために固まっています。
ジョニーはとりあえずビックリしています。
メアリーはメアリーでなんで人が真剣にサトルの身を案じていたのに案じられた本人が急に上に乗ってきたのかよく分かりません。あと祖父のジョニーがビックリしているのもよく分かりませんでした。そもそも状況がよく分からないのです。
「……サトルそのごめんなさい。重いんだけど?」
「へ? あ! ご、ごめん!」
メアリーの言葉でサトルくんは凄い勢いで飛び退きます。そして飛び退いた先には、
「HAHAHA! サトル、メアリーからお前が元気ないと言っていたからわざわざ協会を脱走までしたが、この様子じゃもう元気みたいだな。特にその下の方は」
「ジョジョジョ、ジョニーさん!」
いつものようにフランクな笑みを浮かべるアメリカサンタのジョニーがサトルくんのすぐ傍まで居ます。しかし同時にその笑顔からは似合わない殺気をビンビン感じます。
サトルくんはサンタの家族ということで過去にテロリストや妖怪に何度か命を狙われたことがありますが、ジョニーの殺気はその妖怪たちの殺気を遥かに凌駕しています。もう意識を保つだけでサトルくん精一杯です。
「ジョニーさん? あのジョニーさんが誤解するのは分かります。でも、その、本当に誤解なんです。僕は変なことをするつもりはなかったんです! ただメアリーの涙を見ていたらなんか変な気持ちになってですね! 気づいたら僕が上になって抱きしめて、彼女の肌に触りたいとか指紋を残したい的な、その、…………すいませんこれちゃんと誤解溶けてます?」
サトルくんは嘘が上手ではありません。むしろ自分から誤解するように真実を暴露しています。
「ああ!」
「ジョニーさん!」
ジョニーは歯を見せて、ニカッと笑います。それにはサトルくんもパッと顔を輝かせます。嘘が上手かどうかそんなのは関係ないのです。大事なのは真心だとサトルくんは実感します。
「つまりだ。お前がメアリーにファックしようとして、そして俺に懺悔してくれたってことだろう」
「…………」
大事なのは真心ではありません。どんな状況でも上手く誤魔化せる口こそが本当に大事なのだとサトルくんは実感しました。
「Heyサトル。何も俺は交際を反対しているんじゃないさ。俺はお前んとこのジジイと違って寛容なのさ。でもな、ゴムをつけないで無理矢理女を押し倒す獣に神の慈悲は必要かい?」
「い、イエス?」
「答えはNOさ。そしてそんな獣にはしてやらないといけないことがあるのさ。なんだか分かるかい?」
言いながらジョニーの手元には魔法的なもので用意されたハサミっぽいものがあります。なんだかよく切れそうです。特に先っちょ的なものは実によく切れそうです。
「AreyouOK?」
「……ノーでお願いできます?」
「HAHAHA! そのお前の願いは当然NOさ」
「アハハ。ですよねー。いやー本当に誤解なんですけどねー。あー……失礼します!」
一応礼儀としてそう言った後、サトルくんは足に全力の力を込めて駆け出し、カラオケルームから去りだします。これは逃げているのではありません。戦っているのです。自分の男としての象徴を守るために全力で戦っているのです。
「HAAAAAA! 逃がれると思うのかッ!」
当然ジョニーも追いかけます。ジョニーが追いかける速さは常人を遥かに凌駕しています。さすがサンタです。
「だから誤解ですって!」
サトルくんは走りながら未だに自身の潔白を主張します。彼は彼で幼い頃から妖怪より強いポチと鬼ごっこ等で脚力を鍛えられたため足がとんでもなく速いのです。体育の成績も通信簿で5です。さすが優等生です。
「誤解でなぜそうなる! サトルお前どう見てもファックの体勢だっただろうッ!」
「違います! アレはたまたま直前までは結構っていうか本当に真剣な話を……」
「家庭を築くなどキッズにはまだ早い!」
「そういう真剣な話じゃなくて! ああ! もう嫌だああああああああ!」
「ヒャハッアアアアアアアアア!」
この後二人のパイプカットの攻防は約一時間後にジョニーの居場所を突き止めたサンタ協会の人たちがジョニーを捕獲されるまで続くことをまだ二人は知りません。
ちなみにその後のジョニーはサンタ協会の一番偉い人にめちゃくちゃ怒られた挙句に大量の仕事と反省文に、なかなかの額の罰金を支払うはめになるのでした。それを知ったサトルくんは少しの罪悪感とわずかなザマぁという気持ちを生まれて初めて味わいました。
「プッ! つまりおじいちゃんはアタシがサトルに襲われそうと思っていたって訳? テレビとかであるエッチな感じの? フフ…………アハハハハッハハハッッハ!」
ジョニーがサンタ協会の人たちに連れ去られた後、サトルくんはラウンドツーの休憩室でなぜジョニーが怒り狂ったのかをメアリーに話すとメアリーはお腹を抱えて笑っていました。
「笑いすぎだよメアリー」
「ヒー……ヒヒッー。ハァハァ……フー。あーやっと収まった。しょうがないじゃない面白いんだもの。だってサトルがエッチなことをするって世界一似合わないもの。全く想像できないわ」
「ぼ、僕だって少しは興味があるよ」
メアリーの言葉にサトルくんはムッとします。好きな女の子にそう言われると少し傷つくのです。何より実際サトルくんは顔が良い子みたいな顔をしていますが、なかなかのムッツリなのです。
「はいはい。あなたが変態だってことはよく分かったわ。でも安心してね。あなたが変態でも誤解だってことはアタシが解いておくわ。ちゃんとアタシが最初に押し倒したって言うから」
「うんそれはそれで今度はまた別の誤解が生まれるからやめようね」
「そう? じゃあいいけど……あっそうだ! サトルおじいちゃんが部屋に入ってくる前に何か言おうとしてなかった? あれは何を言おうとしていたの?」
思い出したように口にするメアリーにサトルは困ったように頬を人差し指で掻きます。
「あーそれは……まあまた今度ね」
今更告白なんて言える雰囲気ではないとサトルくんは判断し、言葉を濁します。そもそも勢いで言おうとしただけで普段彼にそんな度胸はありません。
「……そう。じゃあいいわ」
「うん?」
普通ならここでメアリーがもっと食い下がり、無理矢理薄情させようとサトルくんにスリーパーホールドの一つでもやってきそうなものですが、メアリーは何もしてきませんでした。
「…………」
「あの……メアリー?」
「何?」
「……いや、その、なんでもないよ」
「そう。ジュースでも買う?」
「あー……うん」
そう言って、二人は自販機で互いにジュースを買った後は、
「…………」
「…………」
沈黙です。缶ジュースに口をつけるか黙るかのどちらかしかやっていません。
「では、メアリー様アメリカに帰りましょう」
不意に沈黙を破ったのはサンタ協会の人たちです。彼らは連行されたジョニーの代わりにメアリーを自宅に送り届けるようです。
「OK。……じゃあサトル、またね。今度は春頃にでも遊びに来るからその時はお花見でも連れて行ってね」
メアリーは笑顔で言います。しかしその笑みは儚げで、まるで雪のようにいずれは溶けてしまいそうなものでした。
「…………」
サトルくんはメアリーが好きです。彼女の笑みも大好きです。でも違うのです。
「メアリー待って!」
彼女の笑みが好きでも、彼女の儚げな笑みは好きではないのです。彼が好きなのは彼女のバカみたいにニンマリした子供っぽい笑顔なのですから。
「あの……すいません! 協会の人たちももう少しだけ彼女と話す時間をくれませんか?」
サトルくんは協会の人たちに頼み込むと協会の人たちはそれぞれで目を合わせると出来るだけお早めにとだけ言い残して、休憩室から居なくなってしまいました。
「どうしたのサトル?」
先程ジョニーを捕獲する際にサンタ協会がラウンドツーを本日貸し切りにしてしまったので、今この休憩室にはサトルくんとメアリーの二人しか残っていません。
「あのさ、メアリー。僕はまだきみに言わないといけないことがある」
サトルくんは彼女の隣に立ち、壁に背にもたれながら話し出します。彼は考えました。
なぜメアリーがさっきまであんなにしおらしかったのかと。
サトルくんだって本当は分かっています。彼女はまだ聞きたい言葉があるのです。それは愛の告白だなんて甘いものではないのです。
「さっきも言ったけど、僕は大丈夫だよ。確かに昔の僕は……辛かった。本当に辛くて、息が出来なくて、死にたかったのかもしれない。母さんに必要とされてないと思うと今でもどうにかなりそうだ。本当にあの時は辛かった」
「…………」
隣に立っているメアリーの表情は見えません。でもいいのです。サトルくんはメアリーに伝えたいだけなのですから。
「これもねさっきも言ったけど、この痛みは決して消えないと思うんだ。このモヤモヤとした感情はなくならない。それでも僕はこれからも無理してでも笑って見せる。どんなに死にたいくらい辛い過去を思い出しても、僕のことを思って泣いてくれるきみや僕の家族が居る限り笑うよ。楽しいからメアリーたちと居るのが。好きなんだメアリーたちが」
サトルくんは彼女と今日話して唐突に沸いたこの感情を今から伝えます。それが伝えたかったのです。その感情の名前は彼にはよく分かりません。でもあえてつけるならきっとこの感情の名前は――――
「だからこれから例え母さんとの過去より辛いことが起ころうと自分から死のうとしない。決めたんだ。僕がきみのヒーローだって言うなら今度はもっとちゃんときみを助けられるようなヒーローになるって」
――――誓いです。彼はそう初恋の少女に誓ってみせるのです。
「……あなたはそれで平気なの? 痛いままで平気なの?」
メアリーは確認するように訊ねます。
「痛いままなのはもちろん嫌だよ。でもきっとこの痛みは母さんが死んだ時から、母さんを喰われた時から治すことは出来ない。……平気ではないよ。平気ではないけど、耐えて見せるよ。それが大丈夫にするためにもヒーローみたいに強くなるよ。心も体も」
「…………ねえサトル、あと二週間もすればクリスマスイブね」
唐突にメアリーはイブの話をします。
「そうだね」
サトルくんもメアリーに話を合わせます。
「アタシね、今は自分の力のコントロール出来てるし、最近段々と使いこなせるようになって、今では相手の傷だけじゃなくて、相手が幸せな時に感じる幸福な気持ちも感じられるようになってきたの」
「幸福な気持ちを?」
「ええ。例えば好きな男の子に可愛いって言われたとか、スポーツの試合で活躍しただとか、他にも純粋な幸福ではないけど虐めに打ち勝った人たちをアタシの目で見れば、その人たちの喜びや幸福を目を通して感じられるのよ。もちろんプラスな感情だけが流れるとは限らないけど、それでも確かに感じられるようになってきた」
「すごいね」
それは本当に凄い力だとサトルくんは思います。誰かの痛みだけじゃなく、幸福まで分かることが出来るのはきっとすごくいいものだとサトルくんは思ってしまいます。
「ええ、幸福な気持ちを受けるたびにおいしいドーナツに出会った気持ちになるわ!」
「……さっきの説明の割には意外とスケールが小さいんだね」
サトルくんはもしかしたら案外大したことじゃないように思えてきました。
「何よー! 人が教えてあげてるのに失礼しちゃうわね」
「だってたかがドーナツを食べるくらいが限度の幸せしか感じられないんでしょう」
「ドーナツをバカにしないで! おいしいのよドーナツ。もうアナタがアメリカに遊びに来てもおいしいドーナツの店は教えてあげないわ!」
「いや別にドーナツそこまで好きじゃないからいいけど、でもごめん謝るよ」
「うんちゃんと謝ってるから許してあげる。じゃあ問題! そんなドーナツを一杯食べられる日はいつでしょう?」
「…………ドーナツ工場の感謝祭的な日?」
サトルくんはメアリーからの問題が分からず、それでも一生懸命に答えます。しかしメアリーから返ってきたのは、
「はぁ?」
辛辣なものでした。綺麗な青い瞳はあきれ返っています。
「あなたは何度も言うけど、本当に鈍っ感よ! これでもサンタの家の子?」
「むぅ。また鈍感って……。サンタの家の子とか関係な……あっクリスマスイブ!」
「Yes! クリスマスイブ。おじいちゃんたちサンタが起こす『聖夜の奇跡』。優しい光の雪。あの雪はみんなを、世界中を希望で包み込んでくれる」
「…………」
サトルくんはメアリーの話でふと昔を思い出します。『聖夜の奇跡』には彼自身も忘れられない出来事があるのです。
「でも希望の光はやっぱり雪で、すぐに溶けてしまう。ただ溶けてもそこには雪解けの水が残る。つまりその雪は幻ではないのよ。事実なの。それさえあれば希望の種はいずれ花を咲かすことだって出来る。クリスマスイブってすごいことよね」
「……すごいよ。サンタは本当にすごい」
赤い服に、喋るトナカイとハイテクなソリを乗り回すサンタたち。
彼らは普段はどこにいるただのおじさん。
ちょっとすぐに弱音を言ったり、魔法が使えて、その魔法で働きたくないから人類を滅そうとしたり、自分がモテたいがために世界中の女性に魅惑魔法をかけようとするたびに二足歩行のトナカイに殴られる迷惑で最低でネガティブなおじさん。ただネガティブなおじさんはその分背もたれすると柔らかく暖かいお腹を持っていて、その暖かいお腹のように柔らかく優しいおじさんなのです。それがサトルくんの知っているサンタです。
「だからイブに外に出ると甘いドーナツがたくさん食べている感覚に最近になって感じられるようになった。本当にみんな幸福な人ばかりで、甘すぎて、糖尿病になりそうなくらい。だからアタシ、クリスマスイブが一年で一番大好きなんだと思う」
「そっか……」
声を弾ませて語る彼女は本当にイブが好きなのでしょう。ただサトルくんは素直に頷くことは出来ませんでした。彼にとってある年のイブでの出来事は一生忘れられないことであると同時にサンタたちが家族の彼にとっては一年で一番孤独を感じられる日なのです。
「でもね」
メアリーの話はまだ続きます。
メアリーの話はさらに続きます。その声は先ほど違い、少しだけ沈みます。未だに隣に立っている彼女の表情はサトルくんには分かりません。
「みんなが幸せに感じているから分かる。アタシの目には『聖夜の奇跡』でさえ救えない傷を負った人たちが居るのが。イブでみんなが幸せだからこそその傷はまるで晒されるように分かるの。世界中にはそんな人がたくさん居る。……あなたもその一人だった」
「……きみは本当によく見えるんだね」
昨年のイブ。メアリーと過ごしたケンタくんの家で彼女はきっとサトルくんの傷を嫌という程見たのでしょう。
「生まれつきだもの。しょうがじゃない」
「じゃあお節介なのも生まれつき?」
「……うるさいわね。ええ、そうよ。これも生まれつき! 嫌なのよ! アタシが大好きな日に傷を負ったままの人が。傷が見えているのに救えない自分の歯がゆさを痛感させられることが。だからねサトル」
その時、ヒヤリとした柔らかな手がサトルくんの手を握ぎります。サトルくんはそれに驚いて手を握った人物の方へ顔を向けます。
「一緒にサンタにならない? おじいちゃんたちよりすごいサンタに!」
彼女は今にも目を輝かせてそう言っていたのです。楽しそうに、未来に希望を持っている顔で。
「サンタ……」
「そう! アタシたちがサンタになったらおじいちゃんたちが使ってる物騒な魔法なんかよりもっとみんなが幸せになる魔法を覚えるの! 例えば雪の代わりにドーナツに世界中の希望を降らせて、みんなに配るとか!」
サトルくんは思います。やはり彼女のこういう顔が一番好きだなぁと。
「それじゃあ世界中の人は幸せじゃなくて本当に糖尿病なっちゃうよ」
「ムッ! とにかくっ! なりましょうよ。アタシたちがサンタになったら誰もアタシが大好きな日に不幸な人だなんて出さないし、死人も出さない! みんなを幸せにするサンタになるの!」
メアリーの言葉にサトルくんは少しだけ戸惑います。彼女の言っていることは子供のサトルくんでも難しいことなのはすぐに分かります。それこそ本当に映画に出てくるヒーローでもないと出来そうにありません。
「……僕なんかでなれるかな?」
「当然よ。あなたはアタシのヒーローよ。アタシのヒーローなら世界中のヒーローにだってなれるわ」
サトルくんは自分がサンタになった姿を想像しますが、とてもではないですが思い浮かぶことはありません。何よりサンタになったらトナカイとパートナーにならないといけないのです。ポチみたいなトナカイを自分が乗り回すだなんて考えただけで大変そうです。サンタのサンタロウもいつもサンタの愚痴を聞かされますし、今さっきだってサンタ協会がジョニーを捕獲するとこを見ても恐ろしい所だと分かっています。
サトルくんは自分がサンタだなんてなれるとは思えないのでした。
「サトル、もう一回ゆびきりげんまんしましょう。アタシたちが最強のサンタになるって」
メアリーは指を差し出します。サトルくんは本当にサンタだなんてなれっこないと思っています。でもきっとそんなことは関係ないのでしょう。メアリーがなろうと言っているのです。好きな女の子に頼まれて断れる男の子など居るのでしょうか?少なくとも押しの弱いサトルくんには無理です。
何より彼だって本当はずっとなりたかったのだと思います。何しろ彼はずっとメアリーが語るヒーローの情けない後ろ姿や惨めな後ろ姿を、そしてそんな後ろ姿がたくさんの人を、自分自身に希望を与えてきたのです。憧れない訳がありません。
それでもその思いを今まで持たないようにしていました。自分みたいな汚い人間が誰かの憧れになってはいけないと思っていたからです。でももうそんなことは関係ありません。どっちみちもう彼はメアリーのヒーローになってしまったのですから。こうなったら一人も千人も万人も億人だって関係ないのです。
だから彼は二度目のゆびきりを彼女とします。
「メアリー、僕はきみみたいに自分のことを可愛いだなんて言えるような自信家でもないし、強くもない、魔法もない。むしろあるのは傷だらけの心だけ。……それでもなってみせるよ僕もサンタに。きみに負けないくらいのすごいサンタになるよ」
似合わない強気な言葉でサトルくんは目の前の少女に宣戦布告してやりますよ。
「……へー。つまりアタシたちはライバルってこと?」
少女は少女で実に活き活きと好戦的に笑います。
「そうだね。僕たちは友達だ。でもきみには負けたくない。きみだけには絶対に負けない。きみより僕がみんなを幸せにしてみせる」
「いいわ! フフ、面白いわね! やっぱりライバルが居ると燃えるもの! アタシだって絶対に負けない」
こうして二人の少年と少女の約束はお互い笑顔で終わりまし、
「頑張ろうね。……まあ僕が勝つけど」
……おや? どうやらまだ続くようです。
「ええ、頑張りましょうね。ただアタシが勝つって言ってるでしょう? 少し引っ込みなさい」
「僕が最初に負けないって言ったんだから僕が勝つで終わりでいいだろう」
「こういうのはレディに譲るものだってば。はいアタシの勝ちー! おしまい!」
「メアリーいくらきみでもそういうズルは良くないよ。僕の勝ち。はい今から勝ちって言うの禁止!」
「じゃあアタシの勝利! 勝ちって言ってないんだからいいでしょう」
「勝利も勝ちも同じ意味だろ! 本当にメアリーってこういうとこ子供だよ」
「はああぁあああ? アタシが子供ですって。子供って言う方が子供なのよ!」
「ううん、メアリーだってば」
「サトルの方が子供!」
「メアリーだって!
「サトル!」
「メアリー!」
「「…………」」
いつの間にか両者は火花を散らしています。このままエスカレートして行くかと思いきや、
「……ッ。フフ。クフッ! アハハハ!」
メアリーが噴き出します。それに釣られてサトルくんも、
「ハハッ……クプッ! ククク! ハハハハッ!」
大きく大きく笑うのでした。二人の笑い声は実に無邪気で、実に幼い者でした。そんな互いの笑っている顔を見て、さらにお腹を抱えて笑います。
「フフ……あー笑った笑った。にらめっこは引き分けね」
しばらく笑った後、メアリーはスッキリした口調でそう言います。
「にらめっこなんてしてたっけ? 僕たちどっちがすごいサンタで争っていたような」
「バカねサトル。サンタは世界中のみんなを幸せにしないといけないの。つまりにらめっこの達人よ。それでアタシたちはどっちも笑ったから引き分け」
「……ぼくのおじさんはにらめっこ下手なんだけどなぁ。まあでも引き分けだね」
「ええ、引き分けよ」
どうやらいつの間にか二人の間でにらめっこ勝負にすり替わっていたようです。二人は微笑んだまま互いを見つめ続けます。
「んー本当にあなたに会いに行って良かった。アタシ自分で自分の心を見て感じることは出来ないけど、きっと今のアタシの心は砂糖たっぷりのドーナツみたいに幸福だと思う。さらにそのドーナツにブルーベリージャムとハチミツをたっぷりかけたくらいに甘いわ」
「……それはきっとまずいだろうね。逆に大丈夫きみの心そんなに甘くて」
「当然! 甘ければ甘い程いいのよ。アタシはもっともっと甘くなるわ!」
「そっか。きみが幸せなら僕はそれでいいや。……ねえ、僕の心はまだ傷だらけで見ただけで痛い?」
サトルくんは別れる前に一つ訊ねてみます。
「……ええ、とっても。痛くて泣きたくなるわ。でもその傷の痛みを耐えた後、あなたの心にもとても甘いドーナツがあるわ。砂糖たっぷりで、チョコレートソースがかかっていて、その上にキャンディーを溶かして、それで最後に砂糖を直接ドバドバかけたドーナツみたいな心の幸福がある。痛いし、辛いけど、でもそれに耐えれる幸福があなたの心にはあるわ」
「アハハ、胸やけしてきたよ。気持ち悪いね僕の心」
本当に気持ち悪いとサトルくんは思います。メアリーが言うくらい幸せな幸福でも癒せない傷。それはさぞかし気持ち悪いんだろうなと思ってしまうのです。しかしサトルくんはそれがきっと自分なのだと思うとこんな気持ち悪い自分のことが不意に悪くなんじゃないかなと思い始めます。
良くはないけど、きっと悪くはないのです。傷があってこその自分なのですから。きっとそうなんだとサトルくんは思うのでした。
「…………サトル。アタシもう行かないといけない。だからね最後に握手しない? ゆびきりより固い約束。アタシたちは友達でお互い負けないくらいすごいサンタを目指して、それでまたこうして会うの。そして一緒に笑う。そんな約束をしましょう。握手で」
「うん、約束」
先にサトルくんが手を差し出します。
「約束ね。絶対の約束!」
メアリーが差し出された手を握ります。
「…………」
「…………」
手を握り合っていある間、彼らは何も言いません。何を思っていたのでしょうか。ただ予想してみたら分かることです。何せ――――
「フフ、じゃあまたねサトル」
「ハハ。また今度だねメアリー」
――――彼らは手を離すとまた笑っていたのですから。どうせお互いのことでも想い合っていたのでしょう。
こうして日本人の少年とアメリカ人の少女は笑顔で別れるのでした。