坂東蛍子、イヤホンをつける
坂東蛍子は人の目がないことを確認すると、そっと斜面を下りた。山道は少し逸れるだけで、人の踏み入らない本来の自然を旅人に見せる。蛍子は旅人ではなく林間学校に参加しているだけの普通の女子高生であるが、彼女の目の前に現れた木々もまた、変わらず本物だった。夏を象徴する色濃い草木が大きく腕を広げ、当たりを木陰にうずめている。茂みの奥から漂うひんやりとした空気は、太陽に乗せられて発汗した蛍子の肌を優しく包み癒やした。少女は心地よさと少しの不気味さに、ふう、と息を吐く。
「思った通り。良さげな道端ね」
蛍子は足下の枝葉をどけて、座れる緑を斜面に確保すると、静かに腰を下ろした。森の静寂は厳かで、物音を立てると怒られるような気がした。
「さてと」
彼女が早朝から単独行動をとってこんな所に身を潜めているのには理由がある。今バッグから取り出したイヤホンがその答えだ。
「森の中で聴くクラシック!音楽を楽しむのにこれ以上の贅沢はないわ」
音楽を十全に楽しむためにはどうしたら良いだろう。最多回答は恐らく、スピーカーやヘッドホンに関することだろう。実際、ちょっとした建物の構造、スピーカーの高さの違いで、音の振れ幅や鳴りはそのニュアンスを変えてしまう。普通の人にはどうでも良い変化だとしても、音で商売する作曲家や、音で芽吹きを促す観葉植物や、音で感情表現する五次元生物にとっては大問題なのだ。生活のために環境を整えるのは、生き物のあり方の基本である。
最も多い回答はそれだとして、次に多いのは「何処でどう聴くか」、つまりシチュエーションの話になってくるに違いない。坂東蛍子が行っているのは、まさにそのシチュエーションによる音楽鑑賞の実践なのである。
森、海、田園、遮るもののない空、遠くに見える鳥居――人の気配のない場所というのが都会の人間にとって如何に貴重か、蛍子は今痛感していた。コンクリートに囲まれて暮らしていると風景に飢えるのだ。田舎の住人はこんな悩みがあるなんて想像もしないだろうな、と少女は思った。きっといつだって新鮮な世界の中で、子供の頃助けた鹿に乗って登校したりしてるんだ。なんて羨ましいんだろう。
「ほんと、良いところよねえ」と蛍子が呟いた。
「そうだな」
蛍子は「ひょ」と奇声を上げた。顔を上げると、彼女の降りてきた斜面の上に、級友である桐ヶ谷茉莉花がしゃがみ込んでいる。茉莉花は目を細めて森を見つめ、蛍子は目を見開き口をパクパクさせた。
坂東蛍子は桐ヶ谷茉莉花が嫌いだった。昨日、発信履歴の一番上に茉莉花が表示されていることに気づき、友人に片っ端から電話をかけて履歴を刷新したぐらい嫌いだった。履歴削除機能があることは、メカに疎い蛍子には想像も出来なかった。
「なんであんた・・・いや、いい!訊かない!」
今は話もしたくない、と蛍子は思った。会話して、イライラして、これから始まる音楽の時間に引き摺りたくない。ここは切り上げるのが賢い選択というものだ。私ったら山に入ってすっかり大人になったみたい。やっぱり大自然は人を強くするのね。
「なあ、坂東」と茉莉花が蛍子に声をかける。「これたぶん言っとくべきだと思うんだけど」
「アーアー、聞こえなーい」と蛍子はイヤホンをした。頭上からはそれっきり声はしなかった。諦めたのだろうか。
蛍子は早速この朝のために組んできた特別なプレイリストを再生した。まず流れてきたのはショパンだった。エチュードだ。悪くない出だし、と蛍子は体を斜面に預け、草花に埋もれる。これからとことんベタな曲を聴こう。そしていつもの世界を忘れて、主人公になるんだ。
蛍子は目を細めた。どうしてピアノってこんなに田舎に合うんだろう。フォークソングじゃなくて、琴や和太鼓じゃなくて、ピアノが一番原風景を引き立てるように感じるのはどうしてだろう。私がおかしいのかな。
おかしくて良いや、と少女は微笑む。おかげでこんなに木漏れ日で感動出来る。おかしくて良かった。
茉莉花は隣に立っている蛇注意の看板を見た。まあ坂東なら噛まれても平気だろう。それにしても、アイツは本当、何か考えてると周りが見えなくなるな。
桐ヶ谷茉莉花はイヤホンで耳を塞ぎ満足げな顔をしている蛍子に、その気持ちも分からんではない、と肩を竦めた。浸っている相手に声をかけて水を差すのも無粋だ。せっかくの気分を台無しにすることもないし、神経を逆撫でしたらそれこそ藪蛇になるかもしれない。人は情報一つでものの見え方がまるっきり変わってしまう。彼女は彼女自身の不良というあり方によって、そのことをよく理解していた。彼女の内面を一つ知るごとに別の見方を繰り返すクラスメイトたちの視線を、何度も経験しているのだ。
どうせ体を休めるなら、心穏やかな方が良い。
茉莉花は斜面の上からぼうっと森を見た。視界いっぱいに森が広がっている。終わりが見えない、深い深い森だ。光になぞられた青い葉の向こうで闇が揺れている。茉莉花は耳につけていたイヤホンを外して、目を閉じた。葉の擦れる音と、鳥の生きる音と、夏の虫の音。心地よい風に巻かれながら、二度はない組み合わせに心を集中する。自然は自然にしかない音楽を提供してくれる。音楽を楽しむ上で、これ以上の贅沢はない、と少女は幸福に耳を澄ませた。
【桐ヶ谷茉莉花前回登場回】
出題する―http://ncode.syosetu.com/n3028cw/