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漂礫

作者: 成河誠司

 ――暗くも暖かい微睡(まどろみ)の中、聴覚を(つんざ)く様なアラームが響いた。私は共通思考領域から自我(エゴ)を追い出され、意識は暖かい夢の暗闇から冷たい現実の躯体(くたい)へと還る。この感覚は失楽園にも似ていると私は思う。現実に打ち込まれた楔とでも言うべき躯体に意識が墜ちるのを、誰が喜ぶだろうか。もし居たとしても精々が唯物論を唱える者ぐらいだろう。


 安眠装置(クレイドル)に横たえられた自分の躯体に意識が戻って最初に思うのが、全身に万遍無く掛かってくる重さであり重力だ。人類が創り出した世界とも言える共通思考領域では、神に因る天地創造は為されておらず、林檎から手を放したとしても落ちる事はない。宇宙への進出ではなく、宇宙を創出する事で人々は無限と錯覚してしまうような膨大な空間(スペース)を手に入れたのだ。


「……はて、どうしたものか」


 瞼を動かす事ですら大儀に思えた。仰向けで寝ていると胸部に圧迫感があるのも不愉快だ。肉体があるとこうも煩わしいものか。うつ伏せだと胸の均整が崩れてしまうのも面倒だ。


「アラームが鳴ったって事は何か機器類に不調かな……」


 口唇はやたらと滑らかに動く。長い間、自分の肉声を聞いていないからか、他人が喋っているようだ。ともすると五感で受ける総ての情報が他人というマスクを通しているようにも思う。主体性を感じられない。


「安眠装置から出て物理的にメンテナンスをする必要があったらどうしよう」


 瞼が開いた。いや、瞼を開けたと言った方が正しいのだろう。私が能動的に行ったのだから、他人行儀の言葉では不相応だ。ニュアンスで大体の事が上手くいく共通思考領域に適応して、私の言語野は退化という名の進化をしたようで、ヒトとして劣化しているのを感じる。


 私の網膜に映し出されたのは安眠装置のくすんだキャノピー、そしてその向こうに見えるリノリウムの天井。どうやら現実に於ける私の躯体は昼間にあるらしい。いや、電燈という線も考えると昼間とも断定できないか。


 淡黄色に変色したキャノピーの様子から鑑みるに、安眠装置に入ってから想像をしたくない月日が経っていそうである。新品は透明だったのだが変性したのだろうか。どれだけ人類の科学が進展しても万能ではないという事か。


「えーっと、――オープン――」


 音声認識機能によって安眠装置のキャノピーは開く。頭部の方から縁が上昇していき、足元の方にある番を支点に一二〇度まで開くとキャノピーは停止した。しかし駆動音が止んでも私は安眠装置の中から出ようと踏ん切りをつける事が出来ない。アラームは未だにけたたましく私を急き立てるが、人造大理石(テラゾー)の床石がひやりと冷たいかもしれないと考えると躊躇してしまうのだ。


「ええい、(まま)よ!」


 一気に上半身を跳ね起こす。その勢いで安眠装置から床に下り、そして床に這い(つくば)る情けない形で着地。左肩部に軽度の捻挫、右膝蓋を強打。涙で目の前が霞む。ぶつけた所が痛い。ああ、本当に現実って奴は……。


 皿が割れたかもしれない、と思ったりもしたが意外にも躯体は丈夫である。躯体の主人と言うべき意識が共通思考領域で遊んでいても、安眠装置が身体機能の低下を防ぐような設計が為されているお陰だ。ただ、運動音痴が安眠装置を以てしても直らないのは見ての通りである。


「――これは一体全体どういうことだ?」


 私は床に落ちていた綿埃の付いた石片を拾い上げ、未だに躯体を丸めていて低い視線まで持ってくる。足元の人造大理石は私が右膝をついている辺りから放射状にひびが入っていた。どうやら私の失態が招いた不慮のニーキックが床に炸裂したようだ。


「ハハハ、不動産に(きず)をつけるなんてお転婆は何年振りだろうネ」


 私は誤魔化しが効かないと知りつつも拾ってしまった石片を元にあった場所に嵌め直した。周囲の細かい礫が隙間に入り込んだのか、うまくは嵌まらない。


「……劣化が、激しくないか」


 立ち上がり、部屋の中を見渡してみる。水銀灯が照らす白亜の部屋の中には、安眠装置が私の物を含めて四台あるが、どれもキャノピーに埃を被っていて中の様子はよく分からない。見る限りどれも筐体が死んでいて電源ランプが点いていなかった。


 部屋の扉は使われた様子がなく、扉のある壁の対辺には窓が設けられているが、ブラインドが掛かっているために外の様子は窺う事が出来ない。


「…………」


 安眠装置はアラームを発し続けている。しかし安眠装置の不具合どころではなさそうだ。


 意を決して窓辺に近付く。埃の柔らかなクッションが私の足に付いて気持ちが悪いが、一々払っていても仕方がないように思えた。ブラインドを上げようと紐を引いてみたら、少しの力を加えた所で基部からもげて床に転がる。窓枠の向こうの光景が突然に視覚情報として入ってくる。


 一面の緑。


 それが私の抱いた感想だった。




 ――環境変化。昔々、地球で暴威を振るっていた人類を滅亡へと誘った事象群の事を指す言葉で、人為に因る変化も含めて言うそうだ。今日の歴史の授業ではヒトの生誕から滅亡まで、種の興亡史をやる事になっている。だから誰しもが知っているし、人類史を語る上では外すことの出来ない重大な語句だ。


 ただ、中にはお偉いさん方の指導要領なんて知った事ではないお子様達――私もこの勢力の一部であったが――もいるわけで、滅亡の淵に立った人々は教育を通じて青史を伝えていく事が上手くいかず、その内に人類の歴史は学士の一派が伝える程度の趣味の範囲のものに収まってしまった。


 この例からも分かる通り、人はただ滅びを受け入れるだけの生き物ではない。血を、遺伝子を、知識を、技術を、生きていた証拠を、あらゆるモノを世界に残そうとした。安眠装置はそういった気運の中で、生きた情報源を残す為に、という名目で各地に造られたものの一つだ。延命装置とも言えるこの装置は生きたがり(ゴキブリ)ホイホイなんて呼ばれ方もしたが、生存欲求に抗えない私を含む多くの人々は滅亡よりも先に、いつ覚めるとも分からない、もしかしたら覚めないかもしれない眠りに就いた。


 しかし、穏やかじゃないモノも世界には残された。中には傷痕すらも自らの痕跡とした者がいたのだ。


 結果、人類の滅亡は加速度的に近付いて来て、ついに「世界終末時計」は零時を指した。数多の遺留品を残した積極的自殺がヒトの最後だった。




 

 そんな自殺者の一人であった私の目の前に現れた緑は人工物ではなく自然由来の緑だった。崩壊した文明を食らわんとばかりに、植物はかつての人の所領で繁茂しているのだ。葉の表面でロウが照り返す光が眩しい。茫然とするしかない。安眠装置で眠りに就いていた時に、共通思考領域を通じて森林浴の追体験をした事があった。情報量としては同じはずだが、自分の目で見るとそれとは別物だ。微風(そよかぜ)で枝先が揺れる。ただそれだけなのに感情が動かされる。それだけ、なのに。なぜだか心が揺さぶられる。


 人が造りだした建造物は骨格を露わにしながらも未だに形を残しており、枝葉の向こうに輪郭を見る事ができた。道路はあちこちに亀裂が走り、土瀝青(アスファルト)を押し退けて樹木が屹立していたりもする。この人工物と自然の混淆(こんこう)した無秩序な空間を一言で表すならば、廃墟とでも言えばいいのだろうか。人類の落とし子は自然に食われつつもまだ生きていた。


「あ、アラームをどうにかしなきゃ」


 そう、アラームは止んでおらず鳴り続けているのだ。もし不調があるならどうにかして原因を取り除いてやらなくてはいけない。――でも、何の為に?


 安眠装置は私にとっては安住の場所という訳ではない。終末を乗り越え、自然本来の力によって浄化された世界へと再び至る為の方舟(はこぶね)なのだ。到着すべき時代に来たのではないか、そう思った。小型ディスプレイには「生存に適した環境になりました」とメッセージが吐き出されている。


 確かに、草木が生えるぐらいには環境は整っているのかもしれないが。でも、違うだろう。もっと、こう、私達の文明の残り香がなくなって一からスタートみたいな感じじゃないのか。


 操作パネルを触ってみるとアラームが止んだ。トップ画面に戻ったので少しばかり弄ってみると、安眠装置はどうやら生きている観測ユニットから環境データを受け取っている事が分かった。情報を(ふるい)に掛けて、中の人間を吐き出すに相応しいと判断したようだ。大気組成、放射線量、雨量、気温等々のデータが大量に残っている。あまりにも膨大な量に目が眩みそうだ。数週間ほど遡ってみたところで見るのを放棄した私を責められる者はいないだろう。そもそも物理的に周囲に誰もいないのもある。


「とりあえず寝直すのも悪くないが、外も……気になる」


 ――それに、誰かと話したい。


 安眠装置に吐き出された誰かと会うかもしれない。そこまで思い至った時にやっと気付いた。検査衣のようなものしか着ていないし、足元も裸足で心許無い。こんな時でさえも人は自分を良く見せたいと思い着飾ろうとするのか。



 突っ掛けを履いて外に出てみて分かった。空気に味というか匂いというものがある。清浄器によって整えられた空気よりもこっちの方が豊かな感じがした。土や草、水を感じ取れる気がするのだ。


「んー、驚くぐらいに静か……」


 すこぶる天候がいい。日差しは柔らかく、風が時折吹くのが気になるが気温も寒すぎず暑すぎずで、何もなく快適に過ごせそうだ。何もないのが問題なくらいだ。


「――うぁーっ!」


 あまりの静寂に喚きたくなる衝動が湧いてくる。風に(そよ)ぐ葉の擦れ合う音しか聞こえないこの空気を破ってやろうという気にもなるというものだ。


「…………はふぅ」


 何をやっているのだろうか、私は。この状況は整理して考えると逼迫しているのだけど、根拠のない全能感が今の私にはある。走ろうと思えば走れるし、叫ぼうと思えば叫べる。躯体を忌避していたのが嘘のように、楽しくて仕方がない。躯体は意識を現実に繋ぎとめる楔である、なんて思っていたが久方の運動によって昂揚(こうよう)している。


「でも、誰も、いないのか」


 私が目覚めた部屋には四台の安眠装置があったが、いずれの筐体も機能が死んでいた。当然の事だが安眠装置には生命維持機能が備えられていて、私はそのお陰で躯体を良好な状態のまま保てているのである。死んだ安眠装置の中にいた人はおそらく乾涸(ひから)びてミイラになっているのだろう。キャノピーに積もっていた埃を払ってまで、中を覗こうとは思えなかったから実際に見てはいない。私には死者を辱める趣味はないのだ。


 建物の中は見回る事が出来るような感じではなかった。部屋から出る時に分かったのだが、扉が内側から施錠出来るようになっているのだ。部屋から出てみると正面にはまた同じような扉があり、通路が右方に伸びていた。廊下の突き当たりに部屋はあったらしい。正面の扉は鍵が掛かっている上に頑丈で、私が体当たりをしてみてもビクともしなかった。どうやら床は砕けても扉を破れはしないようだ。同様に施設内はどこの部屋もしっかりと施錠が為されていた。だから私は施設内を探検する気分だったのを切り替えて外へと冒険に出る事にしたのだ。


 そして、孤独に散歩している現状に至る。これまでに人っ子一人おらず、それどころか人がいるという痕跡というか気配もなかった。埃の積もった通路に足跡はなく、エントランスを使用した様子もなかった。


「まるで、かくれんぼみたいだ」


 この状況を遊びに置き換えてみると、意外にやっていけそうな気がしてくる。隠れている間に死んでいる者も多そうに思えるが、私が見付けだして仲間に加えてやるのだ。


 何はともあれ、人のいそうな場所を見付けださなければ始まらない。安眠装置に入った以前の事は曖昧ながらも引き出せる。ただ、自分の記憶をあてには出来なさそうだ。様々な知識はあるのに、こと私が眠りに就いた時については明確には思い出せないのだ。施設の事などを覚えていないのはどういう事だろうか。

 


 周囲を探索してみると、この施設を除いた建物は(ことごと)くが原型を留めていなかった。屋根と呼べる物を失った家屋は当然のこと、基礎を残すのみの建築物も少なくない。建てられた時代によって技術や資材の質が変わるのを、まざまざと見せつけられた。形を残していた事を考えると、どうやら私が目覚めた建物は人類史における建築技術の粋を集めて造られたようだ。窓硝子が砕けていないのも、よく考えれば大したものだろう。


 どうやらこの辺りは丘陵地帯のようで、緩やかな起伏が体力を着実に削り取る。植物が繁茂していて草が足に絡み、更に木の根が節操なしに地面から顔を出しているので足を引っ掛けそうだ。足元に注意を向けて歩く必要があるせいで、相乗的に体力の消耗が大きくなっていた。一番高そうな場所に居ても見晴らしがいいわけでもなく、ただ木立が延々と遠くまで続いているのが見えるだけだ。


 此処に至って、漸く私はアドヴェンチャーなんて言ってはいられないのを骨身に沁みて感じたのかもしれない。何か使えそうな物はないかと視線をあちらこちらへ向けて見るものの、逞しく大地に根を張る木々と青葉しかない。身一つでサバイバル……とな。やってやれないことはないだろう。どうせライフラインは死んでいるのだ、あの建物は安全な寝床ぐらいに考えておけばいい。


 落ちていた手頃な長さと太さと重さを兼ね備えたいい感じの枝を杖代わりに、探索行為を続けていると林が途切れているのが見えた。下草を薙ぎ払いながらその方へと歩を進めていくと、繁みの向こうに川があるのが分かった。だが利用は出来なさそうだ。と言うのも手前が丁度カーブの外側になっているからだ。流れる水の音は激しいとまでは言わないが、とても穏やかとは言えない。(よう)として分からないが、滔々(とうとう)と流れる水は恐らく此方の河岸を抉っているに違いない。


 つうっと視線を足元から上げてみると陽光を返し輝く砂礫の川洲の向こうに、白亜の建造物が見えた。私が目覚めた場所のように見える。だが、川を越えた憶えはないので恐らくは同じような施設の別の棟なのだろう。――もしかしたら、あそこには人がいるかもしれない――そう思った。


 しかしながら渡河の方法に泳ぐという選択肢はないので、これ以上、下手に近付いて足元が崩れても困る。そっと下がってから作戦を練るために胡坐を掻いて落ち着いた。上流へと川沿いを遡って流れの緩い場所を探し、泳いで渡……るのはこのポイントの事を考えると危険か。でも下流を探して流れが緩かったとしても、その更に下流で似たような場所があったら……。




 ――橋を使えばいい。こんな簡単な事をすぐに思い付かなかったのが馬鹿らしい。


 この結論へと至るのに要した具体的な時間は分からないが、今がどんな時間帯なのかは分かる。太陽が本格的に傾いできて、樹下の闇がより濃密になってきているのだ。今のところ直接的には獣に出会(でくわ)していないが、何か動く者の気配は感じる事は多々あった。可及的速やかに建物に戻らねば。


 私は手にした棒を振るい元来た道を広げながら帰った。宵闇の迫る森にはただの一つも文明の火は灯っておらず、道中で見かけた街頭は首を失い根元から折れていた。自然は息を吹き返しているが、今の地球は私にとって間違いなく終末の世界だ。今はただ安眠装置の狭小な空間が恋しい。


 何事もなく自分の寝ていた場所へ帰ると、私は改めて泥のように眠ったのだった。




 翌朝、私は件の川に沿って歩いていた。橋があれば渡って対岸に移り、昨日見つけた建物を探索する予定だ。新しくいい感じの枝をまた見付けたので、歩くのがだいぶ楽になった。ただの棒切れもなかなかに役立つものだ。


「よっこらせっと」


 時折、川の近くまで寄って行って上流の方を窺う。


「おおっ、あった!」


 川の上を横切るような遠影は輪郭を滲ませながら私の目に映る。川霧のせいか、はっきりと見えはしないものの紛れもなく橋である。距離があるのが辛く思えるが、濡れるよりも何倍もマシだろう。それに溺れる危険もない。急がば回れ、とは今こそ使うべき言葉だ。


 周囲よりも土地が低くなっている川縁から離れ、かつては舗装された道路だっただろうところを歩く。植物の間隙を縫いながら暫く行くと、十字路であっただろう広めの空間に出る。流石にここで迷うような私ではない。川の方へと曲がると、すぐに橋が目前に現れた。


 今にも崩れそうな石橋だった。もしこの石橋を金槌で叩こうものなら、すぐに崩れてしまいそうだ。欄干ごと崩落したのか、道幅が狭まっている所もある。湿度が高いからなのか、地衣類が表面を覆っていた。踏もうものなら転倒からの落下も有り得るだろう。更に橋がアーチになって傾斜がついているのがとても憎たらしく思える。しかし不幸中の幸いと言うべきか、それでも橋は向こう岸まで繋がっていた。正直、渡河の危険度が下がった気はあまりしない。


「ま、転ばぬ先の杖も二本あることだしね。大丈夫、絶対に大丈夫」


 大丈夫。そう自分に強く言い聞かせる。しかし、何故だろうか。口に出して強がった後の方が余計に不安になる。下手な気休めなど言うべきではなかったのか。


 足を踏み出す前にまず枝で橋を軽く(つつ)いてみる。すると石材の硬い感触が返ってきた。女性一人分の重さぐらいなら容易に耐えそうだ。いや、ここは慎重を期して枝で叩き付けておくべきか。


「えいやっ」


 橋とぶつかった枝の先が欠け、先端部分はそのまま川に落ちて行った。橋の方は削れた微量の木屑で白くなっているが、傷などは見当たらない。風化(くさ)っても石のようで、そこらに落ちているような枝には負けはしないか。


 安堵しつつも気を抜かないようにそろりそろりと歩いていく。一点に力を掛けないように、枝と足で体重を分散するように、重心を低くして歩くのはなかなかの負荷だ。到る所の関節と筋肉が悲鳴をあげる。腰を据えて落ち着きたいところだが、地衣類で服が汚れるのはイヤだ。立ち上がるのにもこれまた地衣類で苦労しそうに思うのもある。手に持っているのがただの棒ではなく(へら)だったのなら、(こそ)ぎ取ってやるのに。


 集中力が切れかかりながらも、休憩を挟みながら騙し騙し歩いていると何でこんなことをしているのか自分に問いかけたくなってくる。私のいた施設はしっかりと戸締りがしてあった。もし見つけた建物に入れなかったら? 誰もいなかったとしたら? 今している苦労は徒労に終わってしまうじゃないか。しかしもうアーチの天辺、橋の半ばまで来てしまっているのだ。どうせ戻るのも進むのも同じぐらいに辛いなら先へ、ひたすら先へ行った方が精神的に楽に決まっている。


 あ、そういえば前後以外にもいけないことはないな。


 ――迂闊だった。この状況で余所見なんかしている余裕がないことを、半分まで行った慢心からか僅か一瞬だろうと忘れたのだ。上り坂から下り坂になったのもあるだろう、足の置き方を間違えた。そのまま尻餅をつき、慌てて立ち上がろうとしたのに反動も合わさって(いたずら)に勢いがついた。右手に持っていた枝は石橋を叩いた際にダメージがあったようで、勢いのついた躯体を支えようとしたら折れてしまった。無論、その枝に重心を預けていたのだから、私の躯体は右方へと投げ出される。


 下を見れば川。ああ、こんな事ならやめておけばよかったな。好奇心は猫を殺すって言うもんね。猫、猫か。野生化していたりするのかな。ずぶ濡れで()ったら近付く前に逃げ出されるかもしれない。いいな、猫。走馬燈体験なのに猫だって。馬、走ってないじゃん。


 私は入水した。



 

 石に身を強かに打ち付けるような衝撃を感じた。身体が沈んでいく。水に流されながら、躯体を転がされる。緩やかな流れだな、なんて思う変な余裕が私にはあった。必死に手足をばたつかせても浮けはしないだろう。着衣のせいで抵抗を強く受けるのだから、流れに捕まってしまった時点でお終いだった。試しに水を掻く様に腕を動かし、足で水を蹴ってみる。水泳センスが圧倒的に足りないのか、少し浮き上がるだけだ。


 大体がおかしいのだ。今、こうして水の中にいるというのに息苦しさを全く感じない。ついでに言ってしまえばお腹も空かない。何かを摂取したい欲求もなければ排泄欲も起こらなかった。これではまるで、アレみたいじゃないか……。


 お前は人間か、と問われれば私は当然ながら是非に及ばず肯定する。なぜなら人間としての記憶があるのだから。感情があるのだから。私の中にあるモノを否定させはしないし、否定される謂れもない。


 でも。何なのだろうか、私は。




 ――気付いたら川原に打ち揚げられていた。何も考えられなくなってから、ふと水中の浮遊感が共通思考領域の環境設定に似ていると感じたのは覚えている。それからの事は覚えていない。私がアレだとするのならば、無意識に三原則とやらを遵守して己の身を守ったのだろう。


 川原で寝転ぶと、ごつごつとした石の感触が背中に伝わってきてマッサージのようだ。日向だから石が温かく、今やあるかどうか分からない心が穏やかになる。不思議な気分だ。


 この体勢のまま上を見上げれば、視界には目指していた建物が入るはずだ。わざわざ危険な橋を渡ろうとしてまで行こうとした場所だったが、私を衝き動かす原動力が切れてしまっている。


 私以外の人がいたら。もし私が人間でないと他者に断定されてしまったらどうすればいいのだろう。人間らしく振る舞うのもわざとらしいように思える。


 答えが欲しい。私でないなら何者でもいい。私を規定してくれる他者の答えが。その為には誰かに会わなくてはならない。……なんだ、結局は人を探す事になるのか。重い腰を上げ、濡れた髪と服を絞る。まずはいい感じの枝を探すところからまた始めなくては。私の探し物はまだ始まったばかりなのだ。


書き出しっぽいので、続ける事も出来そう。

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― 新着の感想 ―
[一言] お仕事の合間の執筆ですかね? 久しぶりの更新お疲れ様です。
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