異世界に渡りました
無意味な人生だった。
俺、神峰悠はそんな事を思いながら、帰宅路に足を運ぶ。
無意味な男だ、何をするにも無気力で、たまに頑張れば無謀と言われて蔑まれる。
家に帰れば意地の悪い叔父と叔母が俺を道具の様にこき使う毎日が始まる。
きっと帰宅するや否や、"義務教育など無意味だ"、と叔父は酒瓶で俺の頭を殴りつけるのだろう。
"ただでさえアンタは生活費が掛かるんだ、家の掃除は全てアンタがやりな"と、平手打ちで頬を叩きつけて、掃除を強要させるのだろう。
もし、両親が生きていればこんな事にはならなかっただろう、家族でドライブしていた道中、親父とお袋は信号無視した大型トラックに潰されて死んだ。
俺は身が小さかったから車の中の隙間で運良く助かった、けど、両親の体から滴る臓物は、俺の精神を壊すのには十分すぎた。
そうして俺はあの家、叔父と叔母の家にやって来た、その二人は親父とお袋の保険金目当てで、俺が正式に迎え入れた時に、その叔父と叔母は、俺をゴミの様に扱い、保険金を湯水の様に扱った。
最終的には金がなくなると、俺はお払い箱、けれども彼らは俺を道具として扱い始め、炊事、家事、この身で出来る事は全て行い、風邪でも病気でも、彼らは関係ないと言って俺を酷使する。
『ゴミ』『死ね』『愚図』『馬鹿』、そんな言葉を噛み締めて、俺は一生懸命働いた、俺が生きる為に。
そうして俺は十五歳になり中学三年生、あと一年待てば義務教育は終了し、ようやく彼らの手から離れられる歳までなった。
もう直ぐ、もう直ぐで自由が得られる、自分の人生が、これから始まる。
まだ観ぬ未来に心を躍らせながら、微かな希望を胸に抱いて。
その時だった、学校の帰宅中、よく使用している道の横断歩道。
直ぐ近くには公園があって、この時間帯は子供達がよく遊んでいる。
道路の先からは大型のトラックが走ってきて、そしてその道路の先に、可愛いキャラクターがインプットされたボールが飛び出してくる。
―――其処から先は覚えていない、その瞬間、自分が慌てて道路に飛び出した事しか記憶に無かった。
世界に見える景色は、とてつもなく鈍色で、鉄の様に張り詰めた臭いしかしない。
血色が飛び散る、赤くて綺麗な健康色、鮮血が顔に掛かる度に、高温と化した液体がこびり付く。
どくどくどく、何処から聞こえてくる血流は、まるで嵐の川だ、激しく蠢いて、今にも結界寸前まで波を打つ。
何処かで人の声が聞こえる。騒ぎ出し、喚いて、忙しそうに声を張り上げる。
人の声だと分かるが、その言葉が何を言っているのかは、今の自分じゃ聞く事も出来ない。
ただ分かる事は、その人たちは俺に向けて喋っている、それだけだ。
何を叫んでいるのか、その人々の慌てぶりはさも可笑しくて、口元が歪む、けれど突如悪寒が走り、嘔吐物を撒き散らす。
急に腹部から逆流する感触が今もまだ残っている、胃が痛い、焼けるように熱く、それでいて針を突き刺したかのように腹痛がやって来る。
あまりの痛さに手で腹部を抑えるも、腕がうまく作用しない、腕の所有権利を剥奪された様な気分だ。
言葉が続く、声が大きくなる、既に鼓膜が破れそうなほどの叫び声、それでも自分の耳には聞こえない。
もう少しゆっくり喋ってくれ。
言葉は乱暴に、声は奇声に、最早人としての声量を越える程の絶叫、それでもなお、言葉はさらに遠くなる。
体の神経が焼け切る、皮膚は壊死を起こし、脳には酸素が回らない。
けれど、少しばかりの満足が、心の隅に微かに存在する。
意識が朦朧とする、既に痛みへの恐怖はない。
どうやら俺は死ぬのだろう、これからの人生に希望を寄せて、これからの自由に夢を向けて。
………まったくもって、意味の無い人生だった。
……けれども、この終わり方は自慢が出来る。
例え天国だろうと、地獄だろうと、俺のこの出来事は、来世に渡っても忘れる事はないだろう。
それが唯一の、俺の誇りとなったからだ。
―――舞台は暗転、闇に染まる空間に立ちながら、自分は今何処に居るのだろう、と首を捻る。
「あっ、れ?」
そう、確か俺は、子供を助けようとやっけになって、子供の変わりに車に轢かれた筈………。
「ふむ、そなたが、願望者かの?」
―――少女の声が耳に響く愛らしい幼い声、振り向けばその声の主が座っていた。
いや、座っていた、という表現は少しおかしい、その少女は座っているにも関わらず、オレと同じ目線、言うなれば、宙を浮いていると言えばこの表現に一番似合う。
服装は和服でひな祭りのお雛様の様な豪華な着物、髪は黒く、滝の様に長く伸びていて垂れたままだ、それなのに頭の天辺は豪華な装飾でまるで東洋のお姫様。
そして今一番驚いている事は、後ろを振り向いた直後、黒一色だった世界が、辺り一面和式の部屋へと模様替えしていたのだ。
「ふむ、名は神峰悠、じゃな?わらわは叶姫、全人類、ありとあらゆる生物の内、貴様の願いを叶える事にした」
「は。あ?何だよ、此処は、つか、誰だ、アンタ?」
現状況を理解できる奴がいれば、そいつはきっとエスパーだ。
その、叶姫と自称した和服の少女は、ひとつ欠伸を掻くと、いかにも面倒臭そうに溜息を漏らす。
「説明するのも面倒じゃのう。いや、そういえば既にわらわは説明を済ませた筈じゃ」
そう云って、ポン、と手を叩けば、オレが佇んでいた場所に亀裂―まるでガラスを割ったかのようにぼろぼろと崩れる―が走り、畳を無視して黒い穴が開く。
「ふむ、こんなところかの」
「っ、何だよ、これ!!おい、アンタ!!オレに何をしようってんだ!!」
黒い穴は足を飲み込むと、沼に嵌るかのようにその穴に包み込まれていく。
抵抗しようと足をあげたり、両手で畳にしがみ付くが、まるで意味が無い、身体は段々と穴に吸い込まれる。
「ふむ、何を可笑しなことを、貴様は自由が欲しい、そう心の隅で思ったはずじゃ、わらわはそれを叶えるだけ」
そんな馬鹿な話がある訳が無い、叶う訳が無い、そう口にしようとも、今の現状を答えてくれる人間は誰も居ない。
詠唱、―――――歓喜せよ。喝賽
そんな声が聞こえた直後には、既に自分は、穴の中に飲み込まれていた。
―――そうして始まる浮遊感、両足が地面に着いていない事と、自由落下によるふわりとした感覚だけが脳裏を走る。
意味が分からない、何故こんな目にあっているのか、けれど分かる事が一つある。
先に見える光、其処がおそらく出口だろう、そして眩い光を纏いながら微かに見えるその先の世界。
辺り一面真っ白、それが雲だと理解できた時には、既に自らの意識は途絶えていた。