#09
美月たちが予想したように、二年三組の高橋は早々に、戸辺山田の指示だと明かしてしまった。しかしその高橋が、それこそ親兄弟が人質に取られているかの如き様相で、表沙汰にしてくれるなと泣いて頼んで謝ってきたのと、政治上というか、『除霊ビジネス』業界の力関係の問題のため、戸辺山田本人への追求は出来なくなってしまった。わざわざ美月にそのことを伝えに来た久井本が、美月に申し訳なく思っているのは良く分かった。とはいえ、一番の被害者の久井本が矛を収めざる得なくなっている上、美月も事を荒立てたくない心情なので、特に不満はなかった。むしろそれで二年一組の生徒や、棒・槍・杖術の部の部員たちが収まるのかと心配になったが、久井本は清々しい笑みと共に言い切った。
「大丈夫。何もなかったということは、体育祭で三組が、少々手荒すぎる、報復措置とか仕返しとしか思えない扱いをされたとしても、そうされる理由がそもそもないのだから、三組の被害妄想ということで終わる」
つまりは、徹底的にやってよろしい、とのお触れが回ったらしい。内々で収めるということは、内々でやり返される危険を孕むわけで、高橋が選んだ道が後悔しないで済むものになるかは定かではなかった。
一組全体の三組への対処は決まったわけだが、一方、美月に何かされないという保証が出来たわけではない。久井本への嫌がらせがあってから、学院祭の前日まで、美月の生活様式は少しだけ変化を強いられた。簡単に言えば、常に誰かに付き添われているようになったのである。それまで朝食は大体一人で摂っていたが、八重樫が一緒になるようになり、授業が終わった後は、棒・槍・杖術の部の見学というか、棒・槍・杖術の部の面々の目の届く範囲にいるように強制された。武道場での活動の時はまだしも、運動場で走り込みなどしているときは、野外故に課題をすることも出来ず、はっきり言って暇だったが、心配される理由も分かる以上、文句も言わず、黙って従っていた。
ただ、美月の所属する生物部も、当然文化祭では活動報告を兼ねた展示をする。一年生部員が美月だけで、二年生も一人、三年生が二人という低調な活動の部である。展示の内容も、主要になるのは二年生と三年生の一人で共同で行っているもので、美月ともう一人の三年生の出展はおまけ扱いだったが、それでも学院祭の前日の授業後は、まるまる理科室で過ごす必要があった。
二年生と三年生部員による共同研究の内容は、妖怪として伝えられているものの正体として可能性のある、実在の生物について考察したもので、割合真面目だった。もう一人の三年生の研究は生物部なのに何故か天文観察で、美月の研究は毒蛇に関するものである。美月は別に蛇が好きなわけでも、興味があるわけでもない。むしろ苦手なのだが、夏休みに行ったキャンプ場で、体長二メートルにおよぶ青大将と遭遇したという弟妹が蛇に毒されてしまい、自由研究も蛇を調べると言い出したので、仕方なく蛇センターに連れて行って、ついでにまだ手付かずだった自分の展示品も作成しただけである。
それなのに、その日理科室に向かう美月のもとに、二年三組所属の調理部の部員が現れて、蛇料理を作りたいから助言をくれと言われた。幸い、二年生部員が、蛇というより爬虫類全般が大好きなひとで、そのひとがそれはもう嬉しそうに応対してくれたので、美月はその間、隣で黙々と準備に精を出していた。調理部の部員は恐らく八重樫に頼まれて来ただけだろうに、帰るときにはすっかり蛇料理を作る気になっていた。頼むから文化祭では出してくれるなと美月は願った。
美月が、調理された蛇が動き出す悪夢から覚めると、学院祭当日の朝だった。良くない目覚めの中、制服を身に着け、朝食に向かう。生徒の大半は、すぐに体操着に着替えることになるのだが、それでも朝のホームルームまでは制服の着用が義務付けられていた。ホームルームが終わり、他の生徒が体操服への着替えを始める中、美月は一人、紙袋を手に、美術室に向かった。美術部は展示規模が文化系の部の中で最大なので、武道場を展示場所にしており、美術室は『女装アイドル総選挙』の準備室というか控え室にされていた。衣装など、かさばるものは手元に届いた直後から美術室に置いて良いことになっていたが、美月は何かされることを恐れてずっと自室に置いていた。紙袋の中身は、その女装用具一式である。美月が、施錠されていない美術室に入ると、意外なことに先客がいた。里崎だった。
「おはよう」
挨拶を交わし、美月は美術室の壁際一つを占拠している、真紅に金糸銀糸で刺繍を施した、見事な振袖に目を見張った。
「これが…」
「そう」
里崎は、微妙な笑みを漏らした。改めて眼前にしてみると、煌びやかなことこの上ない。別の壁際には、白地に小花模様の生地に、黄色やピンクのフリルやレース、リボンをあしらった、美月が二人は入れそうなワンピースを着、リボンと造花をあしらった麦わら帽子が掛けられたトルソーがあり、普段であればそちらもかなり目を引くだろうに、全く存在感が無かった。
「凄いな」
机の上に置いてある、吹輪を挿した鬘も豪奢なものである。里崎はあくまで役者の風体を装おうという建前なのだから当然なのだが、女装というより舞台衣装である。髪の結い方がどうなっているのかと、鬘の後ろ側を覗き込んだとき、美月は机の上に置いてある封筒に気が付いた。A4判用で、若竹色をしている。中に何か入っているのか厚みがあるが、封筒そのものは良くある、表側の下部に企業名や団体名などがあらかじめ印刷されている型のものだった。それは良いのだが、美月の目に留まったのは、印刷されている内容が、白抜きで涙型の縁の中に篆書体で『朧』という文字が書かれている社標と、その横にこちらは黒で『朧露堂』の屋号、住所や電話番号だったからである。
「…里崎、この衣装、まさか朧露堂で購入したものなのか?」
若干引きつつ、美月は尋ねた。真紅の振袖を眺めていた里崎は振り返ると、机の上の封筒を凝視している美月の姿を見た。
「ああ」里崎は屈託なく笑うと、若竹色の封筒の下になっていた、数枚の印刷物を取り上げて、美月に示した。「そうだよ。でも大丈夫。問題のあるものじゃない。地方の劇場が閉鎖したときに、少々厄介な代物があって、それを引き取るときに、一緒に供養を頼まれたのだそうだ。何もなくても、長年舞台で使われていたというだけで、心情的に普通の処分はし難いそうで」
里崎が示してくれた印刷物は、目の前の振袖の説明書になっていて、カラー写真と共に、名称、取り扱う際の注意書きに加え、引き取った日付、元の持ち主、由来などが一通り記載されていた。振袖については納得出来たが、その他の印刷物に書かれた内容を見た美月は、別のことが気になり出した。
「…これ、目録のもの全部送られて来たのか?」
別の印刷物は目録になっていた。『振袖(赤、主に赤姫役用の舞台衣装)』『かつら(かんざし付、姫役の舞台小道具)』などは分かるのだが、それ以外にも雑多な品物が羅列されていた。そしてその品物の数だけ、写真付きの説明書もあるようだった。
「『日本人形(八重垣姫、作者不明、欠損部分有り)』は、参考資料として分かるんだけど、『さるぼぼ人形(高さ三十二センチ、破損部分有り)』とか『オルゴール(木製、曲:イギリス民謡)』とか『赤い靴(サイズ二十六センチ、紳士用)』とか『六尺ふんどし(色:赤)』とかまであるんだけど」
「ああ、それね。そこにあるよ」
里崎は、苦笑しつつ、美術室の隅を指した。朱塗りの葛篭が置いてあり、紙で封をされていたらしいが、今は切られていた。
「大崎が、大崎って言ううちのクラスの奴が朧露堂で衣装を調達したんだけど、そいつの実家の寺で付喪神化した道具の供養をいくつか引き受ける代わりってことで、ただ同然で入手したんだそうだ。その道具たちは衣装とは別に、大崎の実家に送られる筈だったんだが、何の手違いか全部まとめてこちらに来ちゃったらしい」
不気味そうに葛篭に目を向けている美月に、里崎は安心させるように、穏やかな口調で続けた。
「葛篭の札は破れているけど、中の、個々の品は、朧露堂の札で押さえられている。もともと供養が面倒だが、危険性の薄いものばかりだということだし、どうせこの着物も使い終われば大崎の実家に送るしで、今日、総選挙が終わったら、全部一緒に送ればいいかということになった」
「どうりで、三十キロにもなる筈だ」
美月は半ば独り言ちた。寮に届いたという三十キロの荷物が、この衣装とその他の小道具だったという確証はないので独断である。だが、里崎が否定しなかったところを見ると、当たっていたらしい。
「じゃあ、俺は行くけど、須賀、衣装をここに置いておくつもり?」
里崎は美月の手にある紙袋を見て心配そうな表情になった。今日一日、美術室は基本鍵が開けられたままである。衣装をどうこうされるという危惧を、里崎も持ったようだった。美月は首を横に振った。
「いや、今から着る」
里崎は目を丸くして美月の顔を見た。
「俺は競技には出ないし、白衣姿だから、救護テントにいてもおかしくないしな」
それが美月が考えた、衣装を変更せずに、生徒たちに印象を植え付ける作戦である。『女装アイドル総選挙』の投票は午後であり、生徒は基本、午前中は競技に参加するため体操服を着ている。そのため女装は昼食後から、というのがこれまでの常だったが、競技に不参加の美月であれば午前中から着ていられる。森南を通して実行委員に確認したが、いつから女装するかについて規定はないとのことだったので、決めた。
「ああ、『S系女医』だっけ」
「S…ってなんぞやそれ」
里崎に言われ、美月は初めてそのように伝播されていることを知った。