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朝の満員電車に揺られ、三十分。俺――春日勇樹は、そこから歩いて十分のところにあるIT企業でシステムエンジニアをしている。
ちなみにエンジニアと言っても、入社五年目で主任の俺は自分でプログラムを作ったりしていない。
主な業務は顧客との折衝で、文句を言ってくる顧客に対し「それは仕様です」と突き放し、時には謝り倒すのが仕事だ。
そうしてクレームをチームや会社へ届く前に遮断し、後輩やプログラマー達が開発作業へ専念できるようにしている。
「ただいまー」
午後十一時。この業界では残業が当たり前で、毎日へとへとになって帰ってくる。
「おかえり。あら、今日は早かったのね」
「あぁ。たまには休ませて貰わないとな」
「そうね。あ、見てみてー! 注文してたコートが届いたの。可愛いでしょー!」
新しいコートを着て、美玖がくるりとターンする。薄いピンクで、真っ白なファーの付いた可愛らしい冬ものコートだ。そもそも着ている本人が可愛いということもあって、街ですれ違えば皆振り向くだろう。
だがそれよりも俺は、有名なネットショップの空き箱が玄関に放置されているのが気になってしまう。
「そうだね。とっても似合ってるよ。でも、空き箱は片付けようね」
「えー、勇ちゃん片付けてー!」
「はいはい、ご飯食べたらね。それより、お腹空いたよ」
スーツを脱ぎながらリビングへ向かうと、テーブルの上に置かれているのは、黒い桶。
「あ、今日はお寿司頼んだの。もちろん勇ちゃんのもあるよー」
「う、うん。それは良いのだけれど、俺は美玖の手料理が食べたかったかな」
「ごめんね。今日は幼稚園のお茶会があって、帰りが遅くなっちゃたから。てへっ!」
てへっ! ……って、いやもう二十五歳なんだから。舌を出しながら自分の頭を小突く振りが許されるのは、女子高生までだ。それ以上は俺が許さん!
と思いつつも、テーブルを挟んだ目の前でニコニコと俺を見つめる妻は、十分に許せてしまう愛らしさを備えているから何とも言えないのだ。
「まぁ幼稚園のお母さんたちとの交流も大事だしね」
「そうそう。保護者同士の情報交換は凄いのよ」
実際、美玖が仕入れてくるクチコミ情報はバカに出来ない。
未優を出産する時には周囲の産婦人科の情報を。幼稚園を選ぶ頃には、私立と公立を含めた幼稚園や保育園の比較リストを。この家を買う時には、不動産会社から住宅ローンのデータまで揃えてきたのだ。
「ところでさ、勇ちゃん。例の事考えてくれた?」
「……転職の事?」
「そう。毎日帰ってくるの遅いし、休めないし。勇ちゃんが倒れたら嫌だもん」
俺の事を気遣ってくれるのは嬉しいのだが、今年ようやく主任となってチームを任されるようになったばかり。
それに家のローンがあって、妻と娘を養う必要があるのに、この年齢で他の業界へ転職するのはリスクが高すぎる。
そして美玖は知らない。学生結婚からそのまま主婦となり、働いた事がないから働くということを知らない。
新入社員から育ててもらって五年。ようやく独り立ちして会社のために利益を挙げられるようになったので、これから会社へ還元しなければならない事を。
「美玖。俺なら大丈夫! 確かに残業は多いけれど、体力には自信があるしね」
「でも、そんな事言いながら無理して残業してるじゃない」
「そうだけど、残業はどこの業界に行っても無くならないよ」
「でも、公務員なら残業なんて無いんじゃないの!?」
「美玖。今から俺が会社を辞めて公務員を目指すのは、ちょっと厳し過ぎるよ」
俺の中では、今は転職すべきではないと答えが出ている。なので、美玖の考えを一つずつ否定していったのだが、このやり方がまずかったようだ。
俺が桶の中の甘エビを口に入れようとした時、
「もー、勇ちゃんのバカー! 何でもかんでも否定ばっかりして! 少しは挑戦してみたって良いじゃない!」
「ちょ、ちょっと美玖!」
バタンとリビングの扉を閉め、話の途中で美玖が出て行ってしまった。
「ふー」
リビングで一人お寿司を食べながら、思わずため息が出てしまう。
今も昔と変わらず、可愛い容姿の美玖だが、見た目だけでなく中身も昔と変わらず、少し幼いのかもしれない。
美玖との想い出が走馬灯のように駆け巡る。
高校三年生の時、テニス部の新入部員として美玖と出会い、卒業時に告白して交際が開始。二年後には、俺の後を追うように同じ大学へ美玖が進学してきた。
俺が社会人となった夏に結婚。結婚しているにも関わらず、美玖は学祭でミスキャンパスに選ばれていた。
翌年には娘が誕生し、それから二年後。幼稚園入学前にとこの家を買ったのだ。
「って、これじゃ俺が死ぬ前みたいじゃないか。さて、後片付け、後片付け」
食べ終わった寿司桶を洗い、玄関の空き箱を片付ける。
ゆっくりとお風呂に浸かって、寝室へ行くと俺の布団から美玖が顔を出している。
「もー。勇ちゃん、遅いよー。それに何で追いかけてくれないの! あれは追いかけて抱きしめるシーンでしょ」
そう言って、美玖が布団に潜りこむ。
こんなに可愛く拗ねられると、俺が悪くなくても、俺から仲直りを持ちかけざるを得ないのであった。
感想にてご指摘いただき、主人公と妻の会話を修正しました。