ロズは前に進む
ロズは、シャウラに宛てて手紙を書いた。
ゆっくりと、丁寧な字で。少しでも真心が伝わるように、何度も何度も書き直した。
インクの瓶を何本も空けた。新しい便箋を何枚も無駄にした。夜通し書き続けたせいでランプの油も足りなくなった。
明け方になって、ロズはやっと満足できる手紙を完成させた。そう思っていたが、本当に大丈夫かな、と何回も読み直し、封筒に入れては出し、入れては出しを繰り返した。
それでもついに蝋でしっかり封をして、大切に鞄に入れる。
外は雨。
ロズはしっかりレインコートを着込んで、長靴を履く。
間違っても手紙が濡れないように、折角着たレインコートのボタンを解いて、もう一度念入りに着直したりもした。
今日はお使いではない。ロズの意思で、財閥のお屋敷に向かう。
雨がレインコートから滴って、ロズの髪を濡らす。ロズは鞄に水が染みないよう、ボタンの隙間をしっかり手で塞ぐ。あまり格好はよくないけれど、大事な手紙が入っているから。
水たまりを突っ切る。
向こうから、ゆっくりとした足音が聞こえる。どちらに避けようかと考えている間に、その足音は止まった。
顔を上げて、驚く。向こうも、驚いた顔をしていた。
「シャウラさま?」
「驚いた。あなたを訪ねようとしていたんですよ」
シャウラは黒い傘をさしていた。レインコートを着たロズを、中に入れてくれる。
ポケットから取り出されたのは、ロズのハンカチ。結婚式の日に、お嬢様に渡したものだ。
「それを、わざわざ?」
「お嬢様が、あなたに礼を伝えてほしいと」
ロズはお礼を言って、ハンカチを受け取る。しっかりアイロンまでかけられていた。
しかし、ただの侍女への届け物を、お屋敷の執事が引き受けるものだろうか?
ロズは思い出して、手紙を取り出しかける。でも、こんなところで出したらすぐに雨で駄目になってしまうだろう。
ふたりはしばらく黙っていた。
シャウラに手紙を渡したい。けれど、手紙を渡したいのでお屋敷まで伺ってもよろしいですか、と言うのも可笑しな話だ。ここで用件を言えばいいではないかと言われたら、どうしよう。
そんなことを考えて、ロズは言葉が出ないのであった。
「……今のはお嬢様からの依頼ですが」
口を開いたのはシャウラだった。
「実は、私もあなたに用事がありまして」
「なんでしょうか?」
シャウラは、じっとロズを見つめていた。
「あなたは時折、主人からのお使いで屋敷を訪ねて来ましたね。雨の日が多いですから、よくそのようにレインコートを着込んでいた」
「……そうですね」
なんだか照れくさくて、ロズははにかむ。
「いつしか、訪ねてきたあなたとお話しするのが私の楽しみになっていました。ひっそり営まれるというあなたの行きつけの喫茶店の話は、とても素敵なものでした」
嘘だ、と思った。ロズの話し方はとても拙くて、シャウラのようなひとを楽しませることなんてできなかったはずなのだ。
そんなことはわかっているのに、シャウラの褒め言葉が嬉しくて仕方がない。
「あたしもっ、あたしも、楽しかったです!とても、とても楽しかったんです」
ロズはたまらず、シャウラに一歩近寄った。水たまりが、ぱしゃりと跳ねる。
「シャウラさまともう会えないのが、嫌です。嫌でたまらないんです」
「……私もです」
ぐいっと腕を引かれ、ロズはシャウラの胸に飛び込んでいた。
傘を放り、雨にうたれ、シャウラはびしょ濡れのロズを抱き締めていた。
「シャウラさま……?」
濡れてしまう。風邪をひいてはいけない、とロズは身を引いたが、シャウラがぐっと力を込めて逃がしてくれなかった。
では、せめて。
ロズはフードを取り去り、シャウラと同じように雨にうたれる。
雨が襟口から入り込む。とても冷たいし、髪はもうずぶ濡れだ。
だけど……。
好きなひとの腕の中で、ロズはとても幸せだった。
「あたしも、シャウラさまを訪ねようとしていたんです」
「そうですか。どんなご用件です?」
「その、お手紙を渡したくて……」
ロズは言いかけ、思い直した。
今ならば。自分の口で言える気がした。
「あたし、シャウラさまのことを……」
瞬間、人差し指で口を塞がれる。シャウラは真剣な顔をしていた。
「私はあなたに、正式な婚姻を申し込みに来た」
ロズは目を丸くした。シャウラの強い眼差しに触れる。冷たい雨で冷えた頬に、熱い涙が伝った。
「……返事を聞かせて、リーゼロッテ」
喉が震えて、上手く言葉が出ない。そこでロズは一生懸命シャウラの背に腕をまわした。
「はい……はい。もちろんです。あたしでよければ、喜んで」
こんな余裕のない返事しかできない自分が恥ずかしい。けれどシャウラは嬉しそうに微笑んで、しっかりと抱き締め返してくれた。
そして、しばらくして……。
路地を何度も曲がって曲がって、ひょっとしたら見逃してしまいそうなところにある小さな喫茶店。薄暗く日の当たらない、だけどどこより落ち着けて、素敵なマスターのいるそのお店には、常連客が増えたという。
ひとりの女の子から、仲のよい夫婦になった。
今日も、扉が開いてベルが鳴る。
雨の日も、女の子はレインコートを着ることはなくなった。夫と共に傘に入り、今度は夫の分まで、濡れた服をハンカチで丁寧に拭いていく。
指定席は、今はふたつ。
熱い紅茶を用意して、喫茶店のマスターも彼らが来るのを待っていた。
「いらっしゃい」
日だまりのような明るい笑顔が、店内にぱっと花咲いた。