ロズの初恋
ロズの初恋のひとは、『ひだまりの丘』のマスターであるミールだった。
故郷を出て、この町で働き始めたばかりの頃。
ロズは平民の出であり、安く使えることもあって運よく伯爵家に拾っていただいた。伯爵はとても良い方だ。ロズ自身も家政婦業とは相性がよかったようで、令嬢のお付きにまでさせてもらえた。
ご令嬢は綺麗な方で、有力な財閥の御曹司との結婚を控えていた。恋とか、そういうことには無縁だったロズにとって、それは大層ロマンチックなことに思えた。
お使いを頼まれたある日。ロズは困り果てた。一年中霧のかかるこの町で、地図を描いてもらった紙を落としてしまったのだ。水たまりに着地し、尚も降り注ぐ雨に濡れた地図を手に、ロズは途方に暮れた。右も左もわからない新しい土地。頼りの地図を失い、完全なる迷子であった。
そんなとき、助けてくれたのがミールである。たまたま買い出しに出ていた彼はしょぼくれるロズを見つけ、目的地まで案内してくれた。何回も頭を下げるロズをお店に誘い、美味しい紅茶までごちそうしてくれたのだ。
その紳士的な態度と甘い声音に加え、がっちり胃袋を掴まれたロズは、生まれて初めての胸のときめきを覚えたのだった。
ご令嬢のお暇に付き合ってその話をしたとき、彼女には笑われた。うぶねえ、と。
「ロズったらまるでお子さまね。美味しい物につられるなんて」
「でもお嬢様。マスターは本当に素敵な方ですわ」
「それは聞き飽きたわ。あなたの話すことはその喫茶店でのことばかり。まさか初恋のひとまでそのマスターだなんて」
始まりは、ロズがお嬢様に婚約者の人となりについて尋ねたことだった。そこから初恋の話につながり、あなたは恋をしたことはないの、と逆に尋ねられてしまったのだ。
「それなら、お嬢様のお話こそ可愛らしいですわ」
5歳のころの家庭教師の先生に恋していたなんて、いつものつんとしたお嬢様からは想像ができないお話を聞いてしまった。
「早々にわかっていたわよ。叶わない恋だということは」
そこで、ちらりと顔を伺われる。あなたもそうでしょう?といった目だ。
確かに、ミールとは年も離れすぎている。ロズは喫茶店のマスターである彼しか知らないし、彼もロズのことを子ども扱いしかしてくれない。だから今は、ミールは恋のお相手ではなく、素敵なお友だちだ。人生の先輩であり、相談相手である。かけがえのない存在だが、考えてみれば、いつしか胸のときめきも、初めのころとは違ったものになっている気がする。
「あなた、他にいいひとはいないの?」
「うんと……その、交遊関係が」
正直に、故郷を出てから同年代の友人がいないことを明かす。お嬢様は大いに驚いてくれた。
「まあ!……それじゃあ男性に免疫がないはずよね。初対面の老人に惚れるくらいですもの」
「老人って……せいぜい中年ですわ」
「どちらでもよろしい。あなた、欲のない子よね。お給金はどうしているの?」
そこで、ロズは指折り数えてみる。
「昨日、紙とインクに使いました。あとお茶のお代。残りは貯金ですね」
「年頃の女の子でしょう?お洋服とか靴を買えばいいのに」
「お屋敷の服が一番上等なんですものー」
侍女に与えられる綿の制服を引っ張り、ロズは笑う。お嬢様は呆れたようにため息をついた。
「いいお嫁さんにはなっても、その若さからじゃ取っつきにくいわよ」
「そ、そうなんですか……?」
そんなことがあったのだと、ロズは紅茶片手にミールに話す。初恋云々の話は、内緒にしたけれど。
どうしたらよい出会いがあるでしょう、と頭を悩ますロズに、ミールはにっこり笑ってみせた。
「運命の相手というのは、探して出会うものではありませんよ。心配しなくてもよろしい」
「でも不安になっちゃいます。お嬢様はあたしより少し年上なだけなのに、婚約者までいらっしゃるんですよ」
「ご令嬢にはご令嬢の人生があり、ロズさんにはロズさんの人生があるのです。比べる必要はありません」
確かに、伯爵家の人間と自分を比べるのもおかしな話だ。
「マスターは、初恋っていつでした?」
「遠い昔の話です」
「じゃあ、恋したことはあるんですね!! 」
これはいいことを聞いた。ミールは笑顔のまま、コーヒー豆を煎っていた手を止める。
「恋はいいものです。生活が喜びに満ち溢れます」
「うわあ……なんだか、大人ですねー」
「大人ですからね」
ロズは嬉しくて、緩む口許を隠すのに必死だった。初めてミールが恋についてまともに話してくれた。紅茶がますます美味しい。
「あたしもいつか、素敵な恋がしたいです」
「ロズさんならばいずれ、よい出会いがありますよ。自分を磨いて、待っていればよいのです」
ロズはにこにこしながらミールを見つめた。初恋のひとと結ばれないのは寂しいけれど、ミールがそういうのなら、その通り待ってみようと思う。