雨の日は紅茶とともに
扉を開けると、カランコロンとベルが鳴る。リボン付きの、少し滑稽な木の鳥で飾られた可愛らしいベルだ。喫茶店『ひだまりの丘』に訪れると、一番最初に目につくのがこれである。
外は雨。
ロズはしっかり雨粒を落としたレインコートを、傍らに用意されたハンガーに引っかける。お気に入りの黄色いレインコート。その隙間から入り込んでしまった雨粒をハンカチで拭いて、ロズはやっと席につく。このお店のマスターが用意してくれた、ロズのための指定席だ。
『ひだまりの丘』は、路地を何度も曲がって曲がって、ひょっとしたら見逃してしまいそうなところにひっそりとある、小さな喫茶店だ。ひだまりなんて名前はついているけれど、薄暗く日の当たらないお店。けれどいつもぴかぴかに掃除されているし、この落ち着いた雰囲気が大人っぽくて、ちょっと背伸びしたいお年頃のロズにはとても素敵な場所に思える。週に一度、ここで飲むあたたかな紅茶を、ロズは何より楽しみにしていた。
紅茶は大好きだ。いいにおい。それに、ミルクを入れた時、ふんわりと色が変わっていく優しい魔法。でも特別ロズがこのお店を選ぶのは、ここのマスターとの会話が、何にも換えがたい大切なものだから。
「いらっしゃい。ロズさん。今日は休日ですか?」
穏やかに問いかけてくるのは、この喫茶店のマスターであるミールさん。大きくはないのによく通る渋い声が素敵な、そろそろ中年の男性だ。スマートな体つきと優美な立ち振舞いで、ロズの中の紳士ランキングで不動の一位を取り続けている。
ロズは14歳。ミールとはふたまわり以上年の差があるが、ふたりはよき友人であった。
「はい。お嬢様がお暇をくださったんです。久しぶりの連休です!! 」
ロズはここらでは有名な伯爵の令嬢に仕える侍女である。やることといえば細々した針仕事やお使いくらいではあるが、それでも日々忙しい。連休をいただくのは、数ヶ月ぶりのことであった。
「明日ものんびりお寝坊できるって、幸せですねえ」
「おやおや。それでは今日の紅茶は格別でしょう」
「はいー。マスターの紅茶はいつも美味しいですけど、心のゆとりが最高の調味料ですよねえ」
これは、ミールがいつも言っていることだ。ロズは紅茶をごくりと飲み干し、ほうっと息をつく。
「そう言えば、この前言っていらした花嫁修業の方はいかがですか?」
「うっ……」
ミールはにっこりする。
「近ごろロズさんは私に料理を教わろうとしてくれませんから。少し寂しいんですよ」
「だって、マスターの作るお料理の方が、いつだって美味しくて、その……恥ずかしいんですよ」
ロズは料理が苦手だ。男心は胃袋と共に掴め、という故郷の母親の教えにならって、日々練習はしているのだが。
「いつでも待っていますよ」
「はいぃ……でも、もう少し、自分で練習してみます」
ロズにはもくろみがあるのだ。密かにお料理上手になって、ミールをあっと言わせようと。
店の中には、いつだって穏やかな空気が流れている。ミールが挽くコーヒーの匂いが鼻に優しくて、壁に灯るランプの火がちらちらと暖かい。マスターであるミールの人柄をよく表していると、ロズは思う。
「雨、止みませんねえ」
曇った窓ガラスの奥を見ながら、ミールがため息をつく。この町は雨が多い。湿潤な気候なので、雨上がりには町全体に霧がかかることが珍しくない。ミストタウンという呼び名まである。
けれどミールは晴れが好きなのだと言う。お洗濯も買い物も、お天気の方が気分も良いのだと。ロズとしては、雨が好きだ。冷えた体をこの喫茶店であたためる、この心地よさは捨てがたい。
「あたしは雨がいいです。紅茶は美味しいし、レインコートを着るのも、長靴を履くのも、面白いです」
ざあざあ降る雨から、レインコートに守られている感覚は好きだ。長靴で水たまりを横切るのも、行く手を阻むものは何もないのだという、不思議な自信が湧いて楽しい。
ミールは微笑んで、おかわりの紅茶をついでくれる。
「ロズさんは日常を楽しむ術を知っておられますね。とても素敵なことだ」
「そうでしょうかー……照れちゃいますね」
ロズは頬を緩める。ミールはいつもロズを子ども扱いするから、こうして素敵だなんて褒められると舞い上がってしまう。
「マスターは雨、嫌いですか?」
「嫌いではないですよ。ただ、晴れの日が待ち遠しいです。実を言うと……水、少々苦手でして」
「あらまあ。マスターにも苦手なものがあったんですね」
隙を見せない大人だから、気がつかなかった。ロズはにへへと笑う。
「もしかして、泳げないんですか?」
「泳げないんです」
「あたしは泳げますよ」
「それは羨ましいですね」
ミールはクリームをサービスしてくれた。
「ロズさんは明日、何をして過ごすんですか?」
ミールはロズが訪れると、毎回この質問をする。明日が仕事ならば、自分の役目の最終確認。休日ならば、楽しい楽しい、予定を立てる時間になる。
「両親に手紙を書こうと思っています。それから、その……花嫁修業を」
「火加減に気を配るだけで仕上がりは違ってきますよ」
「わ、わかってますよぅ」
あとはペンとかインクとか、消耗品を買い足しておかなくては。そうだ、街へ出たついでに……
「明日、また来ますね」
「お待ちしていますよ」
スコーンの乗ったお皿が、目の前に置かれる。こうしてサービスに甘えてばかりではいけないとわかっているが、ついついこの美味しい魅力に負けてしまう。最近お腹もぷよぷよしてきた気もするし、控えなければとは思う。思うのだが。
そうミールに伝えると、彼にしては珍しく、声をあげて笑われた。あくまで上品な、紳士然としたものではあったが。
「ロズさんもお年頃ですね。なに、その可愛らしさがあれば引く手あまたでしょう」
「冗談はよしてください。あたし、全然、そのぅ……殿方から声をかけられたことなんて、ないんですから」
「ふふふ。嫁入り前の娘さんであれば、それでよろしい。私が嫉妬してしまいますからね」
綺麗な渋い声で言われ、ロズは顔を赤らめてしまう。ミールならばもっと大人で、美人なお相手がいるだろうに。こうしてからかわれてはたまったものではない。
「マスターはどんな女性が好みなんですか?」
内心ドキドキしながらも、さりげなさを装って尋ねてみる。ミールはグラスを拭きながら、
「そうですね……一生懸命で頑張り屋さんな方は、見ていて幸せになりますね」
そう言って、ロズに向かってウィンクをしてみせる。ロズは恥ずかしくなって、カップの底を見つめた。
こうやっていつもごまかされてしまう。ミールの好みのタイプとか、恋人はいるのかとか。果ては結婚しているのかとか。色恋の立ち入った質問にはいつもこうだ。ロズのことを子どもとしてしか見ていない証である。
少し不機嫌になってお手製スコーンにかぶりつく。そうするとたちまち甘い魔法にかかって、ぱっとご機嫌になってしまうから不思議だ。
幸い、明日は休日。ロズの心には、いつも以上の穏やかさがある。
ならばこのまま不機嫌など忘れてしまってよいだろうと、ロズはスコーンをもぐもぐさせながら微笑むのだった。