第6話
ぽつり、ぽつり、と空から落ちてくる雫は徐々に勢いを強め、小雨となって地面に降り注ぐ。
秋の冷たい雨は、足早に行軍する宗司達の身を打ち据え、吐く息を白く染め上げた。
街道に立ち込める薄い霧のせいで悪い視界は雨によってさらに悪化し、そのうえ、雨音が亡者の呻き声や気配をかき消す。
「……まずいわね。この状況で山に入るのは――」
目前に迫った山を見上げ、月見が舌打ち交じりに呟いた。
空を覆う黒く分厚い雲が太陽の光を塞ぎ、大地は夜の如き闇に覆われている。
「劣悪な環境じゃが……。雨が止むのを待っている暇はない」
猫又が低い唸り声を上げた。
「先に行った僧兵達が、もう魔招門を封じてしまったとか……ないかな?」
椿は言う。
それは願望にも近かった。もしそうなら、どれだけ楽だろうか。
しかし、隣を歩く月見がその願望を容易く打ち砕く。
「それはないわね。ほら、あれ」
月見が指差す。
霧に覆われた山の山頂近く――薄っすらとしか見えないが、巨大な黒い塊がそこには存在した。
時折、青白い閃光を放つそれは、間違いなく魔招門だ。
それも……とてつもなく大きい。
山の麓からでも分かる、桁違いな大きさ。
「……なんだよ、あれ……」
僧兵の誰かが、呆気に取られたように、呟く。
「あんなデカイ魔招門、見たことないぞ……。デカイとは聞いてたが……これは……」
「……冗談だろ……。一体、どれだけの亡者がここに居るっていうんだ……」
「あの大きさじゃあ、間違いなく、知能を持った亡者も出てきてるぞ……」
困惑と怯え。
多くの者達の間から、ざわめきが起こる。椿も、その巨大さには言葉を失った。
魔招門は延々と亡者を生み出すわけではない。一定の間隔があり、一度に現れる亡者の数は魔招門の大きさに左右される。
以前、椿が封じた人の頭ほどの大きさであれば一、二匹で済む。
だが、あの大きさなら間違いなく、一度で数十にも及ぶ数は生み出すであろう。
いや、それ以上かもしれない。
重く、陰鬱な空気が広がっていく中、宗司が叫んだ。
「先行した仲間は既に戦いを始めている! 我々も続くぞ!」
彼の表情も決して明るいものではなかった。
だが、恐怖というものは驚くほどの早さで伝播する。
大きな戦いが必然となった状況でそれを許せば、部隊は壊滅しかねない。
その事を素早く察した宗司は自身も抱く恐怖を抑え込み、言葉を告げる。
「顕如も言ったはずだ。この戦いは、我々の働きに全てが掛かっている! ここで逃げ出すわけにはいかない! 死を恐れずに突き進め!」
柄にもない事をしているな、と宗司は思ったに違いない。
命令を終えた後、苦笑交じりに頭を掻いた彼の姿を、椿は目にしていた。
山へと足を踏み入れた宗司と夜刀神に、僧兵達が恐る恐るといった足取りで続く。
「存外、優秀な男じゃ。ここで死なすには惜しい」
「陰陽師としての腕も悪くないし、夜刀神も居るわ。そう簡単にはやられないでしょ。安心して先陣を任せましょう」
この二人――特に月見が他者を素直に褒めるのは非常に珍しい事だ。
それだけ、宗司の持つ能力が高い、という事だろう。
改めて、宗司に対して強い信頼を抱くと共に、わずかな嫉妬も覚えた。
猫又はまだしも、月見が椿の事を素直に褒めた回数は両手……いや、片手で足りるくらいだ。
そう、この十五年間でたったそれだけなのだ。
飴と鞭、とはよく言うが、彼女の場合、明らかに飴が少ない気がする。
椿の視線に気付いたのか、月見が左目を細めた。
「……なに? どうしたの?」
「いや……ちょっと考え事を……」
「余計な雑念は捨てなさいよ。ここから先は、ちょっとした油断が命取りになるわ。私の傍を離れず、常に気を張っておくこと。いいわね?」
山の中に一歩、足を踏み入れれば、そこには黒く咲き誇る花が一面に広がっていた。
(こんなところにまで、黒百合が……。あの魔招門のせい? それとも……)
他にも小さな魔招門が至るところにある、ということだろうか。
椿は視線を巡らせてみたが、霧と小雨、それに黒い雨雲によって光が遮断された山林の中では、魔招門の有無を確かめようがなかった。
猫又が言ったように、劣悪な環境だ。
視界が悪いだけでなく、草木に当たる雨音が周囲に響いている。
これでは視覚だけでなく、聴覚も当てにならない。
さらに、場の乱れも酷く、これではいつ新しい魔招門が開いても不思議ではない状態であった。
顕如達が先を急いだのもよく分かる。
ここに長時間、留まるのは非常に危険だ。
椿達はいわば、亡者の本陣に後方から奇襲を仕掛けた形であり、現在は敵陣のど真ん中である。
そう簡単に増援は望めない。
宗司を先頭にした部隊はじわじわと山頂に向けて前進をしているが、荒れ果てた山道と小雨によってぬかるんだ地面は歩き辛く、思うように進めないでいた。
椿の隣で、月見が舌打ちをする。
「ああ、もう、鬱陶しいわね。足が泥だらけになっちゃったし……。水浴びしたいわ」
月見の言動に、椿は思わず苦笑した。
彼女には緊張という概念は無いのだろうか。
月見が怖がっている様子や、恐怖しているところを見た覚えはない。
だからこそ、数日前に彼女の涙を見て、椿は酷く驚いたのだ。
しかし、あれは見間違えだったのでは――
そう思わせるほど、彼女はいつも泰然とした態度をしている。
今もそうだ。
このような状況で、月見は自らが着込んだ愛用の袴についた泥に対して悪態をついている。
彼女の持つ純粋な力の強さや、心の落ち着き様は椿にとって憧れでもあったし、目指すべき到達点でもあった。
「……血臭じゃ。人の者じゃぞ」
猫又が不意に呟く。
「先行した本願寺の連中ね」
「ふむ……。強引に進軍を続けておるようじゃの。顕如という男、合理的で冷酷な性格をしておる。……大の為に小を切り捨てるのは組織の長としては間違いではない。しかし、この状況で人員を軽視し過ぎるのは少々、危ういかの……。急ぎすぎている様にも感じられる」
猫又は月見と違い、周囲の物事に強い関心を示す。
そして、それに対して独自の推測や考察を立てるのが趣味だと、公言していた。
興味の対象は人であり、風景であり、物であり、様々である。
随分と俗世的な猫又の趣味に苦笑した事があったが、その笑いを見て、猫又は少し寂しげに呟いた。
「こう長く生きておるとな……それくらいにしか楽しみが見出せぬのじゃよ」
猫又は三代目の頃から如月家に仕えてきた。単純に考えても、その年齢は五百歳を超えている可能性は高い。いや、妖怪の時代を入れれば、もっとかもしれない。
月見も妖怪時代が長かった為、意外と歳は取っているらしいのだが……
彼女に年齢の話は禁句である。
有無を言わさず、拳が飛んでくる為だ。
少し前方で起こったざわめきが椿の思考を現実に引き戻す。
「剣戟の音だ! 近いぞ! 顕如達か?」
宗司の声が降り注ぐ小雨を切り裂き、響き渡った。
それに追随して、怒号と甲高い鉄の音が椿の耳にも届く。
「よし、追いついたな。本隊と合流するぞ。亡者が近くに居るようだ! 全員、気をつけろよ!」
宗司が先頭で刀を振り上げて命令を下す。
幾人かの僧兵が足早になり、ぬかるんだ地面に足をとられて、転んだ。
亡者の襲撃を受けて分断された者達は元々、少数であり、さらに亡者の被害を受けている為、宗司が率いている臨時の部隊は数が少ない。
せいぜい、百人程度であろう。
ようやく本隊と合流できる――この不安な状況で、その思いが僧兵達の足と気を早めていた。
比較的、開けた山の中腹では本願寺の僧兵が亡者と戦いを繰り広げていた。
亡者の数はそれほど多くはない。
周囲の制圧は完了し、残党狩りをしている状態であった。
「……この辺りは少しだけ場が安定してるわね。本願寺の連中、思ったよりも使えるじゃない」
月見が呟いたように、他の場所に比べて場が安定している。
これなら、すぐに新しい魔招門が開く事はないだろう。
宗司達の接近に気付いた僧兵の一人が振り返る。
血に塗れた槍を持った年配の僧兵は、軽く目を見開いた。
「お主ら、無事であったか」
少し驚きの表情を浮かべ、僧兵は言った。
「ああ、おかげさまでな」
宗司は険の篭った声で言葉を返す。
容赦なく見捨てた相手に、好意を抱くはずもなく――
例えそれが、あの場での最善の選択であったとしても、にこやかな笑顔で答えられるわけがない。
宗司が険しい表情のまま、僧兵に尋ねる。
「顕如は?」
その問いに、僧兵の男は苦々しげに顔を歪めた。顕如を呼び捨てにした事に対しての表情であろう。
「顕如様はあちらだ」
立派な体躯を持つ顕如の姿はすぐに目についた。
残り少ない亡者の討伐は若い僧兵達に任せ、彼は年配の僧兵達と何かを話し合っているようだった。
その手には、常人では持つ事すら大変そうな、長大な槍を持っている。
宗司は眼前に立つ男に軽く礼をしてから、顕如が居る方向へと足を向けた。
ここまで同行してきた僧兵はその場に残る。
椿や野良法師達だけが、宗司の後に続いた。
顕如は素早くこちらの接近に気付き、僧兵達との会話を中断すると微笑を顔に刻んだ。
「どうやら、無事だったようだな」
その言葉に、宗司は耳たぶに触れながら答えた。
「まあ、なんとか。置いて行かれた時はどうなるかと思ったがな」
顕如はわずかに頬を歪める。苦笑、だろうか。微妙な表情の変化だった。
周囲に居た僧兵の鋭い視線を受けて、宗司は軽く息を吐いてから、口を開いた。
「それで、現状はどうなってるんだ?」
「うむ。先ほど、風魔衆の者が連絡に来た。どうやら、あちら側も戦いの準備は整ったようだ。後は、彼らの動きに合わせて――」
「顕如様!」
若い僧兵の大声が顕如の言葉を遮る。
「あ、あれを!」
駆け寄ってきた僧兵は、山の西側を指差した。
その場に居た全員の視線が、僧兵の指差した方角へ向けられる。
立ち込める霧と降り注ぐ小雨のせいでかなり見えにくいが……
うっすらと見えるのは空へと延びていく黒い、煙。
――狼煙だ。
そして、その狼煙が意味するものは……。
「撤退だと!」
叫ぶ僧兵。
「馬鹿な! 東三国が負けたのか!?」
一瞬で広がる困惑。
慌てふためく僧兵や椿達を尻目に、ただ一人――顕如だけは冷静だった。
彼は狼煙を見上げ、静かに呟いた。
「……やはり、無理をしていたか。義兄……」