第3話
今でも、あの顔は忘れられない。
弱々しくなっていく呼吸――死を間近に迎えながら、それでも彼女は笑っていた。
その強さが、驚きだった。
初めて会った時、彼女は気弱で病弱で、そして暗い少女だった。
家族を亡者に殺され、自身も殺されかけたのだから仕方は無い。
あと少し、神楽の到着が遅ければ彼女も死んでいた事だろう。
身寄りのなくなった少女を神楽が引き取り、神社を訪れたのは二十年以上前の事。
当時の彼女は言葉を発する事すらなく、月見の姿――厳密に言うなれば神楽以外の者を見るだけで怯えていた。その事に酷く腹が立ったのを覚えている。
月見を見る少女の怯えた目が、かつての事を思い出させたからだ。
化け物と呼称され――多くの人間から追い回される日々の事を。
だから、彼女の姿を見る度にイライラした。
そんな二人の関係を知ってか知らずか、神楽は月見と少女をよく二人にした。
料理をするのも、洗濯をするのも、常に二人でするようにと月見に命じた。
当然、嫌だったが、式神の契約を結んだ主の命令は優先しなければならない。
少女が細かいミスをする度に、月見は怒鳴り、少女をより一層、怖がらせた。
少しでも、自身から遠ざけようとしていたのかもしれない。
彼女が、月見と一緒に居る事を嫌がれば――それでいいと思っていた。
だが、予想に反して少女は怒鳴られながらも、月見の傍を離れようとしなかった。
そんな状態が一月ほど続いた。
少女は相変わらず喋る事はなかったが、少なくとも、月見の姿を見ても怯える事はなくなっていた。
料理や洗濯も徐々に要領よくこなすようになり、月見が怒鳴る事も少なくなった。
お互いが無言のまま、淡々と作業をこなす。
この二人の微妙な関係を解消したのは、一輪の花だった。
夕刻――自宅裏の井戸で少女と二人、水を汲んでいた月見の目に、一輪の花が映った。
赤から黒へ変わり、闇に染まっていく空と正反対に、白く、純白の美しい花びらを咲かせる花。
月見草――それは月見の名の由来になった花だ。
彼女を打ち負かした陰陽師。神楽の父と戦った際に、その場所に生えていた花であり、絡新婦という人間が付けた妖怪の名しか持たない彼女の為に、与えてくれた名前だった。
月見は動作を中断し、その花に近付いた。
「……花が、好きなんですか?」
月見は驚いて振り返る。
初めて聞く、少女の声だった。
「え、ええ」
「……私も、好きです」
少女は笑う。
初めて見る、笑顔だった。
「……あなた、名前は?」
「……夏です」
「――そう」
その日の会話はそれだけであった。
ただ、この日を境に、二人は少しずつ会話をするようになっていった。
そして――運命の日がやってくる。
全ての原因は、自分にある。
手ごたえはあった。確かに、倒したと思った――
「月見! まだじゃ! まだ生きておる!」
猫又が警告の言葉を発した時には、すでに遅かった。
「……我はただでは死なん……。貴様達にとって、最も大事な物を道連れにしてくれる。己の未熟さを悔いるがいい――グゥウ……」
膝を付き、荒い息を吐く巨大な鬼は、そう言い残し、絶命した。
蒼い炎に包まれて消えていく鬼の言葉だけが、月見の耳にいつまでも残り続けた。
その時はまだ何が起こったのか分からなかった。
亡者を倒し、神社に戻った月見達を出迎えたのは、居間で倒れる夏の姿。
鬼が残した言葉の意味を、理解する。
夏の体は呪いに蝕まれ、衰弱していった。
神楽と二人、古い文献を読み漁り、ようやく呪いを解く方法を見つけた時、月見は言葉を失った。
――どちらかを、犠牲にするしかない。
神楽が涙を流したのは、後にも先にも、あの時だけだ。
結局、二人は全てを夏に打ち明け、彼女の決断に任せた。
そう……逃げたのだ。決断を下すという事が、二人には出来なかった。
彼女が、どちらを選ぶのかなんて分かっていたはずなのに……。
それから数ヵ月後――
夏は無事に一人の赤子を生む。名前は夏がずっと前から決めていた「椿」になった。
椿――花言葉は「誇り」
花が好きだった彼女が、最も好んだ花の名前から取ったという。
月見は彼女が子供を生み終え、最後の時を迎えるまで、ただ見守るしかなかった。
あの日ほど、己の無力を悔いた事はない。何百年と生き、何千という人間を殺しておきながら、目の前で死に逝く大切な一人の者を救えない。
寝室で横になった夏は、初めて会った時よりも、弱々しく見えた。
夏が、布団の中から震えた手を月見に向けて差し出す。
慌ててその手を握り返し、月見は夏の青白い顔を見つめた。
「……月見……私の代わりに、守って、あげて……」
「――分かった。私が……この命に代えても守ってみせる」
月見の隣で、生まれたばかりの子を抱いた神楽はその様子をただ黙然と見つめていた。
夏は部屋の隅で丸くなった猫又を見て、それから神楽と、赤ん坊の顔を見る。
「……私の子……お願い……」
夏が笑う。
初めて見た、彼女の笑顔を思い出す。
「――すまない」
神楽が発した言葉は悲しみに軋み、震えていた。
夏の呼吸が浅くなる。
「……ありが、とう……」
それが、友が残した最後の言葉だった。
初めて出来た、対等の友――
ただ純粋に、立場も概念も関係なく、接する事が出来た相手。
月見の瞳から涙が溢れ出て、それは頬を伝って畳の上に雫となって落ちた。
初めて流した涙。妖怪の自分にも、涙があるのだと、そのとき知った。
彼女が残した命――椿を守る為なら、喜んでこの命を差し出そう。
それが、せめてもの償い。
――月見の腰に巻きついた椿の手に、上から手を重ね、強く握り締める。
その行動に、椿が反応した。
「……月見姉さん?」
肩口から、こちらの顔を覗き込んだ椿が言った。
その声は駆け抜ける風に混じり、後方へと流れていく。
月見と椿を背に乗せた猫又は、甲斐に向けて山道を疾駆している。
月見は顔を半分ほど振り返らせ、背後に居る椿に向けて微笑した。
「……なんでもないわ。振り落とされないように、しっかり掴まってるのよ」
「え? あ、うん」
今更の言動に椿は首を傾げる。
月見の手に包まれた椿の手は、細く、しなやかで、夏の物とよく似ていた。
その手をしっかりと握り締めながら、月見は苦笑した。
まさか、自分にこれほど母性というものがあるとは思ってもいなかった。
確かに――夏から椿を託された事は事実だ。
しかし、いつからか椿の成長を楽しむ自分が居る事を、彼女は自覚していた。
いまや、椿は月見にとっての全てであり、生きがいでもあった。
椿の父である神楽は出会った当初、すでに物心が付いた子供であり
月見の事を式神として見ていた。
それに対して、椿は赤子の時から月見が面倒を見て、育ててきた。
猫又には過保護過ぎると言われた事もあったが、月見は椿の事を何よりも優先してきた。
その甲斐もあって、まだ頼りない部分も多いが、彼は魅力的な男に育ちつつある。
椿の父――神楽は非常に優れた陰陽師であった。
しかし、椿の陰陽師としての才能は父である神楽を遥かに超えている。
特筆すべきは呪術に対する耐性だ。精神を大きく磨耗させる呪術を、彼はほとんど消耗せずに使いこなしている。その耐性は妖怪である月見や猫又すらも凌駕していた。
この特異な性質は、猫又の考察では夏が受けた鬼の呪いの影響ではないかという。
夏のお腹の中で、椿は呪いの影響を受けながら、育った。
それが、運よく良い方向に作用したのではないかというのだ。
理由はどうであれ、彼の性質は陰陽師として最高の才能といっていい。
己の力を過信したり、自惚れないように月見は厳しく当たっているが、これからの成長を考えると、月見の口元には自然と笑みが浮かんだ。
こんな楽しい事がこの世界にあるとは――
自分を倒しに来る人間とひたすらに戦う妖怪時代には思いもしなかった。
「……椿」
月見が名を呼ぶと、椿はすぐに反応した。
「なに?」
「寒くない?」
「大丈夫だよ。月見姉さんこそ、寒くない?」
「私は大丈夫。寒かったら、もっとくっついていいのよ」
月見がそう言うと、肩口から顔を覗かせていた椿が頬を赤く染めた。
「だ、大丈夫だよ」
「なによ。別に遠慮なんてしなくていいのに。恥ずかしいの?」
大きな咳が二人の会話を遮る。
「ふむ。お主ら……我が必死に走っているというのに、暢気なものじゃな。もっと乱暴に走ってもよいのだぞ」
猫又が、木々の隙間を器用にすり抜けながら、そう呟いた。
馬以上の速度で駆け抜けつつも、猫又のしなやかな体躯は、乗り手である二人にわずかな衝撃しか与えない。これほど乗り心地がよく、便利な乗り物はそうないだろう。
月見は疾走する猫又の頭を軽く撫でてから、言った。
「一度、休憩しましょうか?」
「……これは驚いた。お主にしては良い気遣いじゃ――我にも、椿にしておるように常に優しく接して欲しいものじゃな」
「あら、それは心外ね。私は平等に優しくしてるつもりだけど……」
「ほう……。お主の平等には随分と差があるようじゃ」
月見は猫又の言葉に、少し顔を険しくした。
「どこにそんな差があったっていうのよ」
「椿がお主の好きな饅頭を勝手に食べた時は怒っておったのぅ。酷い言葉で、椿を罵倒しておった」
「それは、当たり前でしょ」
「……我が食べた時は尻尾に火を付けられたが……」
「――月見姉さん、そんな事したの?」
背後から椿が声をよこす。
月見は暫く沈黙した後、口を開いた。
「……そうだったかしら? もう覚えてないわ」
猫又と椿の溜息が重なる。
「なによ、この私が悪いみたいな雰囲気。元はと言えば、勝手に人の饅頭を食べた二人が悪いんじゃないの?」
「……ふむ、それもそうじゃ。さて……」
猫又の速度が緩む。
「この辺りに川がある。そこで一休みするとしようかの」
猫又は跳ねるような動きで山道を抜け、ゆっくりと足を止めた。
前方には山の中を流れる小さな川がある。
月見は猫又の背から降り、大きく伸びをする。その後ろで、椿ものそのそと猫又の背から降りようとしていた。
月見は深く深呼吸をし、山の中の澄んだ空気を体の中に取り入れる。
「……猫又、今ってどの辺り?」
椿が猫又に尋ねる。
「ここは飛騨辺りじゃな――この川は飛騨川に続いておる」
「へぇ……詳しいね」
「我は普段、街道を歩けぬからな。山中には嫌でも詳しくなる。我が街道を歩けるのは、封印術で札の中に入っている時か、闇に紛れる事が出来る深更だけじゃの」
巨大な猫の姿をした猫又は、人の多い街道には近づけない。
亡者と勘違いされるからだ。
特に今のご時世――人々は人外の物に対して非常に敏感になっている。
街道を走れば、もっと早く目的地の甲斐には着けるのだが、こればかりは仕方の無い事だった。行く先々で面倒を起こしていくわけにもいかない。
この辺りの地理について話している椿と猫又を尻目に、月見は帯を緩めた。
腰に差した二本の打刀と脇差を抜き取り、木の幹に立てかける。
そして、そのまま身に着けた黒い装束と袴を脱ぎ始めた。
その行動に、椿が驚いた声を上げた。
「ちょ、ちょっと、月見姉さん。何をして――」
「水浴びをしようと思って。椿も一緒にどう?」
脱いだ着物を木の枝に引っ掛け、月見は椿の方に体を向けた。
木々の隙間から降り注ぐ陽光に、月見の柔肌が晒される。
その白い肌には幾つもの傷跡があった。
矢傷に、刀傷――過去、多くの人間によって付けられた傷跡だ。特に目を引く、右瞼から顎先にかけて負った刀傷は、かつて名のある剣豪によって付けられた傷であった。
裸になった月見を見て、椿は慌てて視線を逸らす。
「ぼ、僕はいいよ」
顔を真っ赤にした椿に、月見は微笑した。
たまにこうやって、彼をわざと困らせる事がある。
今のように、顔を赤く染めて視線を逸らす――
その動作は、月見の事を「女」として見ている事に他ならない。
妖怪としてではなく、式神としてでもない。
椿の素直な反応は、たまらなく嬉しかった。
「そう? 気持ちいいわよ」
苛め過ぎるのも可哀想だ。からかうのは程々にして、月見は川へと足を踏み入れた。
流れも緩やかな小さな川で、深い所でも月見の太もも辺りまでしか水に浸からない。
月見はゆっくりと腰を下ろした。そうすると、肩まで水に浸かる事ができる。
秋の川の水は月見には心地よい冷たさであったが、人間である椿には少し冷た過ぎるかもしれない。
椿が風邪を引いても困るから、水浴びしなかったのは正解だったか。
しかし――最近は一緒の布団で寝てくれないので、わざと風邪にさせて、弱った椿の布団に無理やり潜り込むのも一興かもしれない。
そんな妙案を思い付き、にやにやしていた月見の耳に、猫又の声が届いた。
「……椿よ、あんながさつな女の裸を見て、恥ずかしがる事などあるまい。ましてや、あの姿はまやかし――あやつの本性はな……」
月見は水中にあった拳大の石を拾い上げ、それを手に立ち上がった。そして、大きく振り被る。
「猫又、危ない!」
椿の忠告の声と同時に、手にした石を猫又に向けて全力で投げつける。
「うぬっ!」
猫又は咄嗟に四肢を折り畳んで、月見の投げた石を回避した。
狙いの逸れた石は猫又の頭部を掠めて、その先にあった木の幹に深く突き刺さる。
「……馬鹿者が。我を殺す気か」
木の幹に突き刺さった石を見て、猫又は声を荒げた。
「椿に変な事を吹き込むのは止めて。椿、猫又の話なんて真面目に聞いたら駄目よ。適当な事しか言わないんだから」
「戯言を……。どちらがより誠実かは明白の事じゃろう。適当な事しか言わんのはお主の方じゃ」
「なんですって。馬鹿言わないで。適当なのは、あんたの方でしょ」
「ふむ。そんなこと、椿に聞けばすぐに分かる。どちらがより誠実か、などな……」
月見と猫又の視線が、同時に椿へと向いた。
彼は交互に二人の姿を見比べ、困惑していた。
「椿、分かってるわよね」
月見は声のトーンを少し落とす。
その声色に椿の顔が引きつる。
「椿よ、脅しに屈する必要はない。素直に意見を述べればいいのじゃ。どちらが誠実だと思う?」
「……あの」
「どっち――じゃ」
椿は後ずさり――
「ちょっと散歩してくる」
それだけ言い残して、身を翻すと駆け出して行った。
月見はその光景にくすくすと笑い出す。
猫又はその場で丸くなり、瞳を閉じて小さく吐息をついた。
「まったく……。趣味が悪いのぅ」
「なによ、あんただってちょっと楽しんでたでしょ?」
「……からかい甲斐はある」
月見は再び腰を下ろし、水に浸かる。長い髪を濯ぎながら、口を開いた。
「……猫又、椿の事をお願い」
「やれやれ――お主は相変わらず過保護じゃのぅ。この辺りは場も安定しておる。放っておいたところで、別段、何もあるまい」
「……それでも心配なの」
ゆっくりと立ち上がった猫又は、大きく欠伸をしてから歩き出す。
「まったく……。お主の水浴びは長い。我らはこの辺りで勝手に休んでおくぞ」
「……ええ。分かったわ」
猫又は椿の後を追って、木々の向こうに姿を消した。
それを見届けた後、月見は仰向けになり、水の上に身を委ねた。
流れは非常に緩やかなので、足先に少し力を入れておけば、流される心配はない。
空の頂点から降り注ぐ陽光の眩しさに瞳を閉じ、月見は揺蕩う。
(……この感じ……なんだろう……)
今朝からずっと、月見の心は妙なざわつきを覚えていた。
昨晩――夏の夢を見たからだろうか。
彼女の夢を見るのは随分と久しぶりの事だった。ここ最近は、まったく見なくなっていたのだが――
今朝、この胸騒ぎを覚えてから、甲斐に向かうのを止める、という事も考えた。
少し迷ったが結局、月見はその事を言い出す事はなかった。
椿の、如月家の今後もある。この合戦に参加する事は名誉を手にするだけでなく、椿自身の成長に大きく繋がるはずだ。
それに何より、自分が常に傍に居てやれば、椿を守り切る自信はあった。
月見は閉じていた瞳を開く。
何があっても、彼だけは守る。命に代えても。
もし、彼の身に危険が迫ったのなら、その時は――この姿を捨ててもいい。
たとえその結果……椿に「化け物」と侮蔑されようとも……。
*
甲斐源氏武田氏の居城である躑躅ヶ崎館を機軸に形成された甲府の城下町は多くの人々で賑わい、整備された街路脇には立派な建造物が立ち並ぶ。
城下町の北面には武田家臣の屋敷があり、南面には商人や職人達の家屋があった。
また城下町の南端、一条小山には一連寺の門前町があり、その町並みはどこか京に似たものがある。
街路を行き交う人々に混じり、椿と月見は城下町の中を並んで歩いていた。
西の山に向かって沈み始めた太陽は徐々に淡い赤を纏い始め
ゆるゆると流れる雲に遮られた陽光は、町に薄い闇を落とす。
街路の片側は躑躅ヶ崎館を覆う外堀になっており、堀を流れる水の音と、そこを根城とする鴨の鳴き声がひっそりと城下町の中を漂っていた。
椿は右隣を歩く月見の横顔を盗み見する。
彼女は眉を寄せ、非常に不機嫌な顔付きをしていた。
その理由は簡単だ。
甲斐に一番乗りしたのはいいが、肝心の面会は拒絶され、門前払いを受ける結果となった。陰陽師や僧侶を募集しているのは間違いないようだが、現在、躑躅ヶ崎館では武田に上杉、そして北条の三大名による評定が行われているらしい。
そのため、椿達の面会は当然の如く断られた。
門番曰く、五日後まで城下町で待機、との事だ。今はその帰りである。
「まあ、仕方ないよ。月見姉さん。少なくとも、僕達の名前は伝えられたわけだし」
「門番にね」
「……きっと、武田氏に伝えてくれるよ」
「ええ、そうね。そうだといいけどね――気に入らないわ」
月見の機嫌はなかなか直りそうにない。
そして、こういう時に限って、厄介ごとに巻き込まれるものだ。
軽い、乾いた音――何かがぶつかるような音は椿のすぐ傍で鳴った。
「……待ちなさい」
月見の口から吐き出された言葉は、驚くほど冷たい響きを含んでいた。
その声にびっくりして、椿は横を歩いていた月見の顔を見る。
先程までの不機嫌な表情は消え、代わりに能面のような、のっぺりとした無表情がそこには宿っていた。
「あ、俺に言ったのか? お嬢ちゃん」
月見の数歩、後ろに居た男が乾いた笑い声を上げながら振り返る。
その顔は真っ赤で、離れていても漂ってくる酒の臭いから、男が酔っている事はすぐに分かった。身なりも悪く、ぼさぼさの頭をした壮年の男だ。
恐らく浪人だろうが――野盗に間違われても文句は言えない姿だった。
「……今、鞘が当たったわよ」
月見は、はき捨てるように言った。
男はおどけた動作で両手を広げ、へらへらと笑う。
「おお、そうかい、そいつは失礼」
月見は男の態度に左目を細め、刀の柄に触れる。
それを見た男は、また笑った。
「おおっと。こんな所で抜くのか? 面白い、女の分際で俺とやろうってのか」
剣呑な雰囲気を悟ったのか、椿達の近くに居た町民がざわつき始める。
椿は刀の柄に触れた月見の手を押さえ、耳元で囁いた。
「月見姉さん、ここで戦うのは不味いよ……。いっぱい人が居るし、こんな酔っ払いなんて放っておいたら……」
「黙りなさい。鞘が当たったのよ。それがどういう意味か――相手が酔っていようが関係ないわ」
月見は椿の手を払いのけ、刀を抜こうとする。
酔った男は相変わらず、にやけた笑みを浮かべ、余裕の態度をみせていた。
彼は月見の強さを知らないからだ。ここで戦えば、どちらが死ぬかは明白だ。
そして、そうなれば椿達の名は悪い方で広まる事になる。
なんとかして止めなければいけない。思考する椿を尻目に、月見の手がわずかに刀を引き抜く。
彼女の動きを制したのは、横合いから伸びてきた男の手だった。
「まあまあ、落ち着きなさい。こんな往来で斬り合いをするものではないよ」
落ち着いた口調でそう語ったのは、月見の横に立つ男――
いつの間に、そこに現れたのか。
柔和な笑みを顔に刻んだ男は、酔った男と同じ年頃――四十半ばくらいだろうか。
しかし、こちらは身なりがしっかりとしており、精悍な顔付きをしていた。
身長も高く、横に並んだ月見よりわずかに高い。
腰には刀ではなく、何故か木刀を一本だけ携えていた。
「あ、なんだてめぇは」
酔った男は唾を撒き散らしながら叫ぶ。
男はすでに刀を引き抜いていた。月見の動きに反応して、咄嗟に抜いたのだろう。
「私か? 別に名乗るほどの者でもない」
「ふざけんじゃねぇぞ。いきなり現れて、邪魔するんじゃねぇ! 関係ない奴は引っ込んでろ」
酔った男は刀を振り回し、言った。
いまにも飛び掛ってきそうな勢いで、身構える。
刀を抜いた以上、退けなくなったのだろう。
それに対して、月見の動きを止めた男は軽く頭を振ってから一歩、前に歩み出た。そして腰に差した木刀を引き抜く。
「どうしてもやるというのなら、私が相手しよう」
男は木刀をだらりと下げた状態で言った。
突然、始まった決闘に町民達は足を止め、その様子を眺めていた。
椿は隣に立つ月見を一瞥する。
彼女は相変わらず無表情であったが、少なくとも纏っていた殺気は消えていた。
月見の視線は木刀を手にした男に注がれている。
「木刀で俺の相手をするってのか! この野郎……なめるんじゃねぇ!」
酔った男は刀を振り被り、駆け出す。
それを見て、ようやく木刀を手にした男は構え始める。
それは非常に緩慢で、戦いの最中とは思えないほど緩やかな動きだった。
「危ない!」
思わず椿が叫ぶ。
酔った男は一気に間合いを詰め、上段に構えた刀を振り下ろした。
その一撃は木刀を構えた男の頭部に吸い込まれ――そこで不思議な光景が起こる。
木刀を構えた男の体がわずかに揺らぎ、次の瞬間には酔った男の手から刀が零れ落ちていた。
「ぐあっ」
酔った男は顔を歪め、腕を押さえながら跪く。
一体、何が起こったのか。椿は目を瞬かせる。酔った男が刀を取り落とした事から、手に木刀を打ち込んだのだろうか?
しかし、そこに至るまでの動作がまるで見えなかった。
反射的に月見の顔に目を向けると、彼女も驚いたように左目を見開いていた。
「……お互い、無益な争いはこれくらいにしておかないか? あなたもこれ以上、恥を掻きたくないだろう」
木刀を腰に戻しながら、男は言う。
「ぐっ……。畜生、覚えてろよ」
酔った男はそれだけ叫ぶと立ち上がり、落とした刀も拾わずに逃げ出していった。
決闘が終わった事で、こちらの様子を眺めていた町民達がゆっくりと動き出す。
木刀を腰に戻した男はこちらに振り返り、微笑した。
「失礼。では、私はこれで」
男は軽く頭を下げる。
去ろうとする男を引き止めたのは月見だった。
「待ちなさい。あなた、何者なの?」
「しがない旅人ですよ」
「……馬鹿言わないで。あれは普通の動きじゃなかったわ――畿内の流派じゃないわね。どこかの道場の師範というわけでもなさそうだけど……」
男は浮かべた微笑を崩さない。
「……ふむ、あれだけで見抜くとは大したものだ。しかし……お譲さん。あなたの殺気は少々、凶暴過ぎる。あまり――」
「師匠!」
若い男の声が耳朶を打つ。
それは椿の背後からで、振り返った椿の視界に、二本の刀を両手に抱えた若い男がこちらに駆けてくる姿が映った。
「ちょっと、何やってるんですか! 居酒屋に置き忘れた刀を人に取りに行かせておきながら、勝手にふらつくなんて!」
刀を大事そうに抱えた若い男は叫びながら、月見と椿の横を走りぬけた。
「ああ、景兼――ご苦労さま」
男は駆け寄ってくる若い男を見て、言う。
「まったく! もうずっと腰に下げててくださいよ。大体――あ?」
景兼と呼ばれた若い男は、そこでようやく男と対峙する月見と椿に気付いたようだ。
彼の年齢は椿とそう変わらないだろう。ただ、その体付きは良く、椿よりも頭一つ身長が高かった。
景兼は自身が師匠、と呼ぶ男と椿達の顔を交互に見比べ、眉を潜める。
「……なんすか、この二人? 師匠に喧嘩売ってきてるんですか? こんな小僧と女、俺が相手してやりますよ。大体、なんで女が刀なんて――」
「こら」
景兼の手から刀を受け取った男は、それを腰に戻した後、景兼の後頭部に手刀を打ち込んだ。
鈍い音がして、景兼は後頭部を抑えながら、蹲る。
「その言葉遣いと態度を直しなさいと、何度も言っているでしょう」
「……くぅ……。だからってそんなに強く叩かなくても……」
景兼は後頭部を摩りながら、立ち上がる。目尻には涙が浮かんでいた。
「申し訳ありません。未熟な弟子でして……失礼な言動をお許しください。それでは、これで……」
そのまま身を翻して去っていく男の背に、月見はなおも声をかけた。
「せめて、名前ぐらい名乗っていったらどうなの?」
男は足を止め、半身を振り返らせる。
「上泉信綱――それが、私の名前です」
「そして、その一番弟子。俺が疋田景兼だ。いいか、お前ら、喧嘩したいなら――」
信綱はすたすたと歩き去っていく。
「あ! ちょっと師匠、待って下さいよ!」
景兼は慌ててその背を追いかけ、二人はそのまま町民の波に呑まれて、すぐに見えなくなった。
椿は、いつまでも二人が去っていった方角を眺める月見に声をかけた。
「どうしたの? そんなに人の名前に拘るなんて……珍しいね」
ここまで他人に興味を持つ月見を見るのは初めての事だった。
彼女は、椿以外の人間に対して興味を持つ事は滅多にない。
椿の言葉に、月見は表情を厳しくした。
「……あの信綱とかいう男、強いわ――いいえ、強いなんていう次元じゃない」
「え? そんなに? 月見姉さんよりも強いの?」
「……たぶんね。さあ、行くわよ」
月見の表情と声は硬かった。
彼女が負ける所など、椿には想像もつかない。ましてや、相手は人間である。
しかし、月見の真剣な顔付きから、恐らく冗談でも嘘でもないだろう。
負けず嫌いの彼女が素直に負けを認めるというのは、よほどの事だ。
それほど、あの上泉信綱という男は強いという事になる。
確かに――彼の放った木刀の一撃は椿には見えなかった。それに驚いたのは事実である。
だが、彼の発する雰囲気は穏やかで、月見のように人を圧倒するような気配はなく、それほど強いという印象は受けなかった。
「……そんなに強そうには見えなかったけど……」
椿がぼそりと呟くと、隣を歩いていた月見が顔を向けてくる。
「彼の一撃、見えなかったでしょ?」
「うん……。月見姉さんは、見えたの?」
「……まあ、ね。でも、あまりにも自然だった――打ち込まれた男も、何が起こったのか理解できてなかったはず。あんなに滑らかな動きは初めて見たわ」
「確かに。なんだかゆったりしてたね。構えとか……」
「どちらにせよ、もう会う事もないでしょう。それより椿――お腹すいてない?」
月見は、口元にささやかな笑みを浮かべた。
ようやく、彼女の硬い表情が崩れる。
それだけで、椿は心安らいだ。彼女の不機嫌な表情は心臓に悪い。
どんなとばっちりが飛んでくるか分からないからだ。
「あー、うん。すいてる」
夕刻を迎え、街路を行き交う人々の数も少なくなってきている。また、立ち並ぶ家屋からは夕食の香りが零れ出し、それが鼻腔を強く刺激した。思わず、椿の腹が小さな音を上げる。
椿は腹を手で軽く擦った。
「じゃあ、一連寺に戻りましょうか。猫又も待ってるだろうし……。そうね、おみやげにお酒でも買って帰りましょう」
「お酒? 別にいいけど……あんまり飲んだら駄目だよ?」
月見は酒に強い。つまり酒豪なのだが、一旦酔うと手が付けられなくなる。
以前にも酔った彼女につき合わされ、猫又と椿は酒を飲まされた事があった。
おかげで、その翌日には二人とも酷い頭痛に悩まされた。
酔うと絡んでくる月見の性質は非常に厄介であり、その時の記憶もしっかりしているせいで無下に扱う事もできない。
最も、月見が酔う事は滅多にないのだが――それでも、あの時の事を思い出すと、彼女が酔う状態は何としてでも避けたい。
「少し飲むだけ――さっきの酔っ払いのせいで、お酒を飲みたくなっちゃった」
「……先に言っておくけど、僕は飲まないよ。猫又も、飲まないんじゃないかな……」
椿の言葉に、月見は口を尖らせた。
「なによ。付き合い悪いわね。大勢で飲んだ方が楽しいわよ」
「いやだよ、あんな飲み物。不味いし……」
「お酒のおいしさが分からないなんて、まだまだ子供ね」
月見は馬鹿にしたように言った。
しかし、その手には乗らない。
ここで見栄を張ったり、彼女の挑発に乗ってしまえば、飲まされる事になる。
「別に子供でいいよ」
さらりと月見の挑発を流す。
すると、彼女は思案するように視線を少し上に向けた。
しばらくして、ぼそりと呟く。
「これから五日間、私にみっちり修行を受けるのと、今日、一緒にお酒を飲むのではどっちがいい?」
月見の発言に、椿を目を丸くした。
「そ、そんなのずるいよ。それに、寺でお酒を飲むなんて駄目なんじゃ……」
「飲むのは私達なんだから、別にいいでしょ。第一、彼らだって般若湯とか言って、こっそり飲んでたりするのよ。まあ、あそこの住職なら、むしろ喜ぶと思うけど。
とにかく、私はそこの酒屋でお酒を買ってくるから、戻ってくるまでに、どちらにするか決めておくこと」
月見はそう言い放つと、近くにあった造り酒屋に入っていく。
造り酒屋の軒先に掲げてある茶色い杉玉を眺めながら、椿は思案した。
どちらの選択も嫌だが、強いて言うなら一度の辛抱で済む、お酒の方だろうか。
大体、こんな選択は理不尽である。
どちらを選んでも、椿には辛い結末しかない。
(でも、まあ、選ぶならお酒かなぁ……)
溜息を吐きながら、ぼんやりと考えていると、造り酒屋から声が聞こえてくる。
「あの……お客さん、本当に大丈夫かい?
幾らなんでも、それは……。何かに分けて入れた方が……」
「大丈夫よ。じゃあ、これ貰っていくから」
声色からして、嫌な予感がする。
造り酒屋の引き戸が勢いよく開かれ、そこから大きな樽を肩に担いだ月見が出てきた。
椿も、そして酒屋の主人も唖然とした表情で月見の姿を見る。
「椿、行くわよ」
酒の入った大樽を担ぎ上げた月見を呆然と眺める酒屋の主人を横目に、月見は颯爽と足を進める。
椿は慌てて彼女の後を追いながら、思う。
(修行の方がいいな)
やはり、彼女と一緒にお酒を飲むのは止めよう。それだけは決心した。
*
一連寺内にある客間は広々とした作りで、壁には高そうな掛け軸が掛かっていた。
開け放たれた襖から夜風が入り込み、部屋の隅にある置行灯の火がわずかに揺れる。
虫の音がひっそりと響く心地のいい夜だ。満天の星空には煌々と輝く満月が浮かび、地上を青白い光で包み込んでいた。
「……いい夜ですな」
そう呟いたのは、豪勢な如法衣を着た禿頭の男――歳は中老くらいで、白く染まった顎鬚を生やしていた。
彼の名は朝霞雲形。一連寺の住職である。月見や猫又とは知り合いらしく、椿の父である神楽とも面識があり、過去には一緒に戦った事もあるという。ここに着いた際、猫又がそう説明してくれた。
その猫又はつい先程、ふらりとどこかに出掛けて行ってしまった。
どこに行くのか、尋ねる間もなかった。
その理由は、客間の縁側――椿と雲形に挟まれて座る月見にある。
彼女は、大樽から瓢箪に移した酒をずっと飲み続けていた。猫又は酒が嫌いだ。だからこそ、月見の無茶振りがくる前にこっそりと退散したのだ。
星空に目を向け、縁側に腰掛けた椿は小さく溜息を零す。
椿の手には小さな盃が載っている。そこに注がれた酒はほとんど減っていない。
修行を選択したはずなのだが――結局はこうなる運命だったのだ。
「それで、さっきの話は本当なの?」
月見は口から瓢箪を離し、雲形に目を向けた。
彼の手にも赤い盃が載っている。こちらは椿の物より少し大きめだった。雲形は注がれた酒を少し口に含んだ。
月見が言っていたように、僧侶もお酒を飲むらしい。最も、宗派によっては完全に禁止されているところもあるらしいのだが。
雲形は酒を喉に流し込んだ後、そっと頷く。
「ええ。今回の戦、負けるわけにはいきませんからな。本願寺が動くのも、不思議ではありません。
近々、甲府入りするようですよ」
本願寺――この国において、絶大な力と勢力を誇る有数の大教団である。
その彼らが、今回の合戦に参戦するというのだ。
「……へぇ。まあ、武田とは繋がりがあるからね――でも、本願寺が動くなら、高札を立てて募集しなくてもよかったんじゃない?」
月見の呟きに、雲形は顎鬚を撫でながら、ふむ、と小さく唸った。
「その頃はまだ動くかどうか、未定だったのでしょうな。なにせ、本願寺は本願寺で様々な方面に手を伸ばしておりますし……。今回も、そう多くの僧兵は連れてこれないでしょう。腕の立つ者も恐らく少数かと。とはいえ、彼等が来るというのなら、頼りになる事は違いありません」
「……それは、そうだけど。それなら――まあ、いいわ。ところで、あなたも参戦する気なの?」
「そうですな。私達も武田家とは付き合いがありますし、参加しないわけにはいかないでしょう。この歳になると辛いものがありますが、仕方ありませんな」
雲形は乾いた笑い声を上げた。
「笑い事じゃないわよ。ちゃんと妖術はまだ使えるんでしょうね? 足手まといになるくらいなら、ここで静養してなさいよ」
月見の厳しい言葉に、雲形は禿頭の頭に手を当て、擦りながら笑う。
「はっはっは。これは手厳しい。しかし……わたしの妖術も衰えたとはいえ、まだまだ若い者には負けませんよ」
彼は隣に座る月見を通り越して、椿に目を向けてくる。
優しい笑顔を顔に刻んでいた。椿もその笑顔に釣られて、口元に微笑を浮かべる。
猫又が少し話してくれたが、彼の扱う妖術はかなりの強さだという。
妖術とは――僧侶が扱う術の事で、陰陽師が扱う呪術とは多少の異なりがある。
大きく分けて二つの違いがあり、その内の一つとして、呪術が対象の消滅や直接の干渉を主としているのに対して、妖術は封印や対象の弱体を主とする。
そのため、攻撃の呪術、防御の妖術と呼ばれる事が多い。
どちらの術がより優れているというわけではなく、単純に性質の違いだけなのだが、術を具現化するまでの術式に大きな差が現れてくる。
それがもう一つの大きな特徴で、呪術は自身の周囲にある自然の気を練り上げて術に変えるが、妖術は自身の体内に気を取り込み術に変える。
封印に長けた妖術は時に、物質に封じた気を偶像化さえする。それは陰陽師における式神のようなものだった。
この二つの特徴のため、両者の手法を高い次元で維持するのは非常に難しく、大抵の術師はどちらかに特化していく事になる。
自然の気と、体内に取り込んだ人工の気を同時に扱える人物など、過去にも限られた者だけだった。
「椿殿はまだお若い――この合戦、あまり無理はなされませんように」
「はい、そのつもりです」
椿がそう答えると、雲形はそっと頷いた。
元より、無理をする気など椿にはない。ただ、大きな戦いになる事は覚悟しておかなければならないだろう。
まだ怖い気持ちはあったが、ここまで来て逃げるつもりはない。
戦いになれば、自分の出来る限りの事はする。そう心に決めていた。
「澄んだ綺麗な目をしておられる。月見殿の言われたように、父上を超える存在になってくれそうな気がしますな」
「え?」
椿は彼の言葉に驚いて、月見の顔に目を向けた。
これまで、彼女が椿の事を素直に褒めた事は数少ない。
椿の視線に気付くと、月見は何故か顔を顰め、瓢箪を口に当てたまま小さく舌打ちをする。彼女は雲形を一瞥し、瓢箪を口から外して立ち上がった。
「私はそんな事、言ってないわよ」
「おや、そうでしたかな? 確か、以前ここに神楽殿と立ち寄られた際、生まれたばかりの椿殿の事を、嬉しそうな顔でそう語っておられた気がしましたが……」
「歳を取ってボケたんじゃないの? 記憶違いだわ」
月見は硬い表情で冷たく言い放つ。
もう随分と飲んだはずだが、その言動からは酔いの兆候は見受けられない。
彼女は瓢箪を手に振り返ると、客間の中央にどっしりと置かれた酒樽に歩み寄った。それは夕刻、造り酒屋で買ってきたものだ。
月見は蓋の上に置いてあった柄杓を手に取り、蓋を開ける。
濃厚な酒の臭いが広がり、その臭いだけで椿は酔ってしまいそうな気になった。
「それより、雲形。今回の合戦に参加するのはそれぐらい?」
柄杓を使って瓢箪に酒を移し替えながら、月見は言う。
問われた雲形は盃の中にある酒を一気に飲み干し、深く息を吐いてから口を開いた。
「そうですな。名のある僧侶や陰陽師……。それに名を売りたい者――まあ、この辺りは当然として、大きな組織は武田に上杉、北条に本願寺。後は風魔衆でしょうか。織田や浅井は動かんでしょうな。比叡山の監視もありますし、安定しているとはいえ、まだ畿内を完全に掌握したわけでもない。それに、最近では徳川領の遠江周辺で亡者の出現が確認されております」
「まったく……。消しても消しても沸いてくる。虫みたいなものね」
月見は酒を注いだ瓢箪を手に戻ってくる。
彼女は椿の隣にどっかりと腰を下ろし、その手元にある盃を見た。
「……椿。お酒、減ってないじゃない」
「あ、ああ、うん」
月見の目がわずかに細められる。
その冷たい視線に、椿は盃に残っていた酒を口に流し込んだ。
何か言われる前に対処する。
口から喉にかけて苦い味が広がり、酒の臭気が脳を貫く。こみ上げてくる吐き気をなんとか抑えつつ、椿は深呼吸をして息を整えた。
盃に注がれた酒を飲み干した事に満足したのか、月見はにっこりと笑った。
そして、瓢箪に入った酒を椿の盃に注ぐ。
「……あ」
再びいっぱいになった盃を椿は呆然と見下ろした。
「いい飲みっぷりね。さて、あとは……」
月見は笑い、縁側の下に置いてあった草鞋に足を通した。
彼女はそのまま、つかつかと一連寺の庭を歩いていき、庭の隅に生えた立派な松の木に歩み寄る。
そして、いきなりその幹を蹴った。
重々しい音が響き、木の上から黒い巨大な塊が落ちてくる。
「むぅ」
木の上から落ちてきた黒い塊――それは猫又だった。
ふらりと出て行った猫又だが、いつの間にか戻ってきて、松の木の上で隠れて眠っていたようだ。
月見がそれに気付いたのは、猫又にとって不運だった。
「……なんじゃ、人がせっかく寝ておるというのに……」
不機嫌そうに呟いた猫又は、自身を見る月見の視線に気付いた。
その表情が歪む。
「むっ……。お主、少々酔っておるな」
「椿も、私のお酒を飲んだのよ。次はあなたの番」
「馬鹿を言うでないわ。猫に酒を飲ませる愚か者がどこにおる」
「ここに居るじゃない。大体、あなた妖怪でしょ」
月見が一歩、前に歩み出ると猫又は一歩、後ろに引く。
「……ええい、近寄るでないわ、酔っ払いめ!」
猫又が叫び、逃げ出す。
「あ! こら、待ちなさい!」
月見も瓢箪を片手にそれを追った。
一連寺の庭を逃げ回る猫又と、それを追う月見――二人の姿に椿は溜息を零した。
「相変わらず、仲が良いですな」
そう呟いたのは、椿の隣に腰を下ろした雲形だ。
彼の持つ盃には並々と酒が入っている。
どうやら、客間に置いてある酒樽から酒を注いできたようだ。
雲形は盃に入った酒をちびちびと飲みながら、庭を走り回る二人の姿を微笑しながら眺めている。
雲形の放つ穏やかな雰囲気は、どこか父に通じるものがあった。
椿の父、神楽も物静かで穏やかな男だった。
二年前、比叡山の戦いで戦死するまで、椿は父の元で多くの呪術を習った。
たくさんの失敗もしたが、怒られた記憶はない。
常に微笑を絶やさない、そんな父だった。
「どうされましたか?」
椿の視線に気付いたのか、雲形がにこやかな笑みを浮かべながら、こちらに目を向けてくる。
彼の落ち着いた口調や雰囲気は、月見が言ったような生臭坊主という表現からは掛け離れていた。
椿は軽く頭を振ってから、呟く。
「あ、いえ。月見姉さんがあなたの事を生臭坊主と呼んでいたので……。想像と違ったというか……」
椿がそう言うと、雲形は大きな声で笑った。
「はっはっは。なるほど――わたしが生臭坊主、ですか」
「あ、すみません。あの……」
「いえいえ、構いませんよ。そうですな……。月見殿と最後にお会いしたのは、今から十二年ほど前になりますから。そのとき、わたしは三十半ばくらいでしょうか。まだまだ血気盛んな年齢で、わたしも荒れておりました――未熟だったんですな」
雲形は酒を少し飲み、過去を懐かしむように双眸を細めた。
「それに、あの頃はまだ、わたしの父も生きておりました。跡継ぎを強制してくる父に対する反発や、周囲の評価にも嫌気が差しておりました。父が優秀でしたので、何をしても比較されたものです」
自分と同じだ、と椿は思った。
父に対して反発はなかったが、比較される事には嫌気が差していた。
数日前の件以来、反省して月見の言葉を素直に聞くようにはしているが、やはり比較されて嬉しい事はない。
「……僕も、そうです。月見姉さんにはよく父と比較されるし……。猫又も、きっと心の中では色々と思ってるはず……。父を知る村の人達もたぶん……」
急に沸いた親近感から、椿は思った事を素直に口にした。
雲形は顎鬚を撫でながら、言う。
「ふむ……。父親の顔が広く、優秀だと困るものですな」
共感を示すように、雲形は苦笑気味に呟いた。
そして、彼は星空を見上げ、盃の酒を煽る。
深い溜息が、雲形の口からこぼれ出た。
「しかし……ある時、わたしは気付きましてな。比較しているのは、己自身なのではないかと……」
「……比較しているのは、己自身?」
椿の言葉に、雲形は夜空を見上げたまま、頷いた。
「ええ、そうです。人々は、純粋にわたしの行動、言葉を評価しているのに、肝心の己は常に父を妄想し、その概念に囚われ――比較しているのは他でもない、己自身なのではないかと思ったのです。
無論、父を知る人物は比較もするでしょう。しかし、全ての人がそうではない」
雲形はそこで視線を落とした。
彼は椿の顔を真剣な顔付きでじっと見据える。
「他者の言葉に囚われ、惑わされぬ事です。大切なのは、己がどうしたいのか、何を成したいのか――それを心に持ち、信念を抱く事です。とはいえ……」
雲形は表情を緩め、微笑した。
「人々の言葉にまったく耳を貸さないのもいけません。それが単に嫉妬や悪口からのものだったとしても、時に真実を含んでいる事もあるものです。言葉を鵜呑みにするのではなく、そこに含まれる心理を噛み砕く事です」
「……難しいですね」
椿の呟きに、彼は笑った。
「そうですな。言うは易く行うは難し。まあ、椿殿はまだまだお若い――存分に悩み、存分に考える事です。それが、あなたを支える柱となる。若い頃に苦労すればするほど柱は太く成長するものです」
雲形はそう言って、立ち上がった。
彼が持つ盃の酒はいつの間にか飲み干されている。
「……そして、その柱が歪まぬよう育てるのが我々、大人の役目ですな」
雲形は椿に向けて軽く頭を下げると、身を翻した。
「それでは、わたしはこれで失礼します」
彼は盃を手にしたまま、縁側を歩いて寺の奥へと去っていく。
椿はその背を暫く眺めた後、一連寺の庭へと視線を移した。
そこでは、いまだに猫又と月見が激戦を繰り広げている。
椿はそっと瞳を閉じた。酔いが回ってきたのか、頭が重く、顔が熱い。思考もぼんやりとする。
ただ、気分だけは妙にすっきりとしていた。
同じ悩みを抱えていた人物に、思いを語ったのがよかったのだろうか。
――少なくとも、これまでよりは少し心の余裕が持てそうな気がした。