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戦国陰陽師  作者: 湯呑猫
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第2話

完全に捉えたと思ったが、彼女の体は視界から消え、世界が反転する。

 まともに受身も取れぬまま、椿は背中から木の床に叩きつけられた。

「いっ!」

 その衝撃に声が漏れ、顔が歪む。

 息が詰まり、椿は背中に走る激痛にのたうち回る。

「……だらしないわねぇ」

 黒い胴着に身を包んだ月見は、背中を押さえてゴロゴロと左右に転がる椿を見下ろし、瞳を細めた。

 わずかに乱れた襟を正しながら、彼女は呆れた声で言う。

「ほら、立ちなさい」

 月見に促され、椿は息も絶え絶えにゆっくりと立ち上がる。

 額から噴き出す汗を拭い、椿は少しでも痛みを紛らわせようと、深呼吸をして息を整える。

 しかし、肉体は疲労を感じて、声にならない悲鳴を上げていた。

 秀吉に褒美を貰い、自宅である丹波山中の神社に帰ってきたのが昨日のこと――

 今朝方には月見に叩き起こされ、神社の隣にある小さな道場にて、武術の特訓が始まった。

 先日の魔招門封印の件からここまで、まともに休養を取っていない。

 そもそも、陰陽師が武術を学ぶ必要があるのだろうか。

 こんな事をするなら呪術の訓練をした方がよっぽど有意義ではなかろうか。

 その考えはどうやら顔に出ていたらしい。

 月見がわずかに眉を寄せ、口を開いた。

「何か言いたい事があるの?」

 椿は口を尖らせ、言った。

「……武術を学ぶ必要なんてあるのかなって。僕は陰陽師だし……」

 その言葉に、月見は小さく溜息をこぼした。

「……あのね、椿。戦いにおいて、一番信頼できる武器はなに?」

 月見に問われ、椿は視線を上に向ける。

「えっと……刀、かな?」

「違う。己の体よ。最後に頼れるのは己の体――刀を扱うのも、呪術を唱えるのも、己自身なのよ。椿は基本がまだ出来てない。それじゃあ、先代を超えれないわよ。あなたには如月家の名を継ぐに相応しい人物になってもらわないと困るんだから」

 その言葉に、椿は内心で溜息を吐いた。

 何十回、何百回と聞いてきた言葉だ。

 彼女が如月家の名に拘る理由は知っている。

 だが、事あるごとにそれを持ち出す彼女に、辟易している部分はあった。

 俯き、無言になった椿を見て、月見は軽く息を吐き、壁際に歩いていく。

 壁には数本の木刀が掛けられており、彼女はそこから一本を取り出す。

「椿」

 名を呼ばれ、顔を上げた椿に向けて、月見は木刀を放り投げた。椿は慌ててそれを受け止める。

「いつも通り、素振り千本――道場の掃除をした後、戻ってくる事。私はご飯を作ってるから」

 月見はそれだけを言うと、道場を出て行く。

 静まり返った道場に残された椿は、掌の上にある木刀に視線を落とした。

「……先代か……」

 父は優秀な陰陽師だった。

 多くの人に期待され、頼りにされていたし、椿にとっても自慢の父だった。

 しかし……二年前の戦いで父が戦死して以来、その頼りになる存在は

 とてつもなく大きな壁となって椿の前に立ちはだかった。

 如月家十三代目――当主。

 その肩書きが、重くのしかかる。

「……ダメだ、弱気になるな。早く一人前になって月見姉さんを見返さなくちゃ」

 椿は軽く頭を振り、手にした木刀を正眼に構え、ゆっくりと素振りを始めた。

 月見が厳しいのは期待の表れだと猫又は言っていたが――果たして本当だろうか。

 彼女の本心は――失望ではないのだろうか。

 いつまでも強くならない自分に対しての……。

 もしそうなら……。

 雑念を抱いたまま、椿は木刀を振り続ける。

 その回数が百回に到達した頃――道場の扉がゆっくりと開かれた。

 最初、月見が戻ってきたのかと思ったが、違ったようだ。

 現れた影は小さく、椿の半分ほどしかなかった。

「……あの」

 小さな影は遠慮気味に言葉を発する。

 椿は素振りを止め、扉の方へ体を向けた。

 そこに居たのは小さな子供だ。古びた着物を身に着けた女の子が、椿の顔をじっと見つめている。

「……何か用かな?」

 流れ出る汗を拭いながら声をかけると、少女はびくりと肩を震わせた。

「あの――」

「ん?」

「お母さんが……」

 椿は少女に近付いていく。

「お母さんが、どうしたの?」

 少女は目の前にまで来た椿の顔を見上げ、泣きそうな表情を浮かべた。

「……お母さんが、裏山に山菜を取りに行って……戻ってこないの。村の人はみんな鬼を怖がって、きちんと探してくれなくて……。それで、如月神社の人なら……」

 椿はそれを聞いて眉を潜めた。

 この辺りの山は修行の一環もあって、定期的に巡って場を強めてある。

 そうそう簡単に魔招門が開く事はないはずだ。

 しかし――他の場所から亡者が流れてきた可能性は否定できない。

 その時、ふと先日の事を思い出した。

 美濃山中に赴いた時、あの時――月見は言っていた。

 ……亡者の数が少ない、と。

 椿が黙った事で不安を煽ったのか、少女の瞳から大粒の涙が溢れ出る。

 それを見た椿は屈みこみ、少女の涙を指先で拭って笑顔を見せた。

 疲労感はあったが、ここで少女の頼みを断るわけにもいかない。

「分かった。僕が探しに行こう。ちょっと待ってて、今――」

 椿は立ち上がり、一歩踏み出した所で足を止めた。

 月見を呼びに行こうと思ったのだが――

 亡者が居ると確定したわけでなく、仮に居たとしても、近くに魔招門が無ければ数も大した事ないだろう。数匹程度の亡者なら、椿も呪術を用いて、戦った事はある。

 最も、月見の援護があっての事ではあったが……。

 とはいえ、先日に比べればこの程度の小事、自分一人でも大丈夫だろう。

 一人で依頼をこなせるという事を試すには良い機会かもしれない。

 だが、月見の性格を考えれば、この話を正直にすると――

 自分が見に行くから、椿はここに残って素振りをしていろと言うだろう。

 ――私がいないと何もできない。

 月見は普段からそういう言葉を椿にこぼしていた。

 そんな彼女を見返してやりたい。椿はそう思った。

 椿はわずかに迷った後、月見を呼びに行く事を止める。

 前回の、秀吉からという大口の依頼を無事に終えた事で、自信が付いた事もあった。

(人探し程度、僕だけで十分だ)

 上手くこなした後、それを報告すればいいだろう。そう結論付ける。

 椿は再び少女の前に屈み込み、その頭を優しく撫でた。

「それじゃあ、君はお家に戻ってなさい。僕がお母さんを連れ戻してあげるから」

 少女は小さく頷くと、頼りない足取りで駆け出していく。

 その背を暫く眺めた後、椿は立ち上がった。

 念のため、最低限の準備はしていくことにする。

(せっかくだ。この際、刀も持っていこう)

 そう思い立ち、椿は道場の奥に飾られた二本の刀に近付いた。

 一本は父が生前使っていた刀である。もう一本は月見の愛刀だ。

 椿は迷うことなく父の刀を選び、それを手に道場を後にした。

 そして、月見に気付かれぬよう、こっそりと神社裏の自宅に戻り、自室から着慣れた袈裟と錫杖に数枚の札を取り出す。

 幸い、月見は料理前に洗濯を終わらせる事にしたようで、裏口の井戸の傍で鼻歌を歌いながら洗濯に勤しんでいた。

 おかげで気付かれずに済みそうだ。

 椿は忍び足でそのまま自宅を後にし、道場で着替えを終わらせた。

 持ち出した刀は腰に差し、神社前の石段を下る。

五十段ほどの石段を下り終えると、古びた鳥居があり、鳥居の向こう側には小さな橋が架かっている。山の麓を流れる川を渡る為のものだ。

 椿はその橋を渡りきったところで一息をついた。

 振り返ると、連なる山に、その麓を流れる川と鳥居、そして石段の上――山の下腹部に建てられた神社の姿を視界に収める事ができる。

 椿はその光景を眺めた後、軽く頭を掻いた。

 月見に黙って出てきた事は、きっと怒られるに違いない。

「……でも、人助けだし、別に悪い事をしてるわけじゃないんだから、いいよね」

 椿は村のある東の方角へ向かって駆け出した。

 神社から村まではそれほど離れていない。

 すでに、視界の先には立ち並ぶ家々が小さく映り込んでいる。

 季節は秋――椿の右手側には田園が広がり、そこには収穫を間近に控えた稲穂が、陽光を浴びて黄金色に輝きを放っていた。

 見慣れた光景ではあるが、稲穂が頭を下げながら、田園を埋め尽くす様子は心落ち着く。

 今年も、良い収穫ができそうだ。

 田園風景を横目に農道を少し進むと、山裾から外れ、南へと流れていく川を渡る為の大きな橋があり、村はその橋を渡って、すぐの場所にあった。

 その村の北側には紅葉で赤く染まった山が連なっている。

 椿は農道から外れ、山の方へ向かった。

 この辺りの山は定期的に通っている為、歩きやすい地形や獣道を把握しており、山を上る事にはそれほど苦労しなかった。

 あの少女の母親は、山菜を取りに行ったと言う話だが――

「この辺りで、山菜が生えてた場所って……どこかあったかな……。あんまり奥深くまでは入り込んでいないだろうから……」

 生憎、山菜には詳しくない上に、そんな事を意識して山を回った事がない椿には予想の付け所がなかった。

 邪魔な草木を手にした錫杖で払いながら、椿は山の中を歩き回る。

「おーい! 誰か居ませんか!」

 定期的に声を上げてみるが、反応はない。

 椿は足を止め、ゆっくりと頭を巡らせた。

 虫の音と、風によって揺れる梢の音、そして空高くで旋回する鳶の鳴き声――

 入り混じった音が聴覚を乱し、人の気配を打ち消す。

 椿は困った表情で頭を掻いた。

 意気揚々と飛び出してきたのはいいが、山の中で一人の人間を探し出すという作業は大変なものだ。山中での迷い人は本来、大勢の人間が総出で探し出すものである。

 しかし、亡者の恐怖が蔓延る、このご時世――

 一般の者に協力を仰ぐのも難しい。

 少女の頼みを断った村人が冷酷というわけではない。むしろ、ほんの少しだとしても、山に入って探してくれただけで僥倖というものだ。

(適当に歩き回っても、無駄に時間を消費するだけ……)

 椿は瞳を閉じ、この辺りの地形を記憶の奥底から引っ張り出す。

 確か、この近くには山裾の川へと繋がる小さな川が流れていたはずだ。

 川の近く――水の傍なら山菜が生えているのではないだろうか。

 椿はそう単純に考え、ひとまず小川のある方向へ向けて歩き出した。

 どうせ亡者は居ないだろうという先入観によって生まれた油断、そして山中を歩き回った事で増した疲労による集中力の欠如――

 さらに、山の中に存在する様々な雑音が、その者の気配を完全に殺していた。

 木々を押し退け、椿の眼前に現れたのは巨大な影。

 見上げるばかりの巨体は赤黒い肌に覆われており、白濁の双眸が椿の小さな体を見下ろした。

 鬼の手が振り上げられ、横薙ぎに払われる。

 咄嗟に持ち上げた錫杖によって直撃は避けられたものの、その驚異的な膂力は椿の体を枯葉のように吹き飛ばした。

 木の幹に叩き付けられた椿は、そのままその場に蹲る。

 息が出来ない。視界が歪む。激痛が背中から全身に駆け巡り、必死に空気を取り入れようと開かれた口からは血と涎が零れ落ちた。

 鬼が低い呻き声を上げ、草木を踏み締めながら近付いてくる。

 椿は錫杖を支えに、なんとか立ち上がった。

 だが、視界はまだ歪んでおり、体は痺れてまともに動かない。

 間近に迫った鬼が、椿の臓物を食そうと大きく口を開いて、両手を伸ばす。

 逃げられない――迫り来る死の恐怖に足が震えた。

 必死に抗おうと試みるが、痛みに揺れる腕では腰に差した刀の柄に触れるのが精一杯だった。

 鬼の手が椿の体を掴み、持ち上げる――

(……嫌だ、死にたくない!)

 しかし、鬼の大きな手によって両腕ごと抑え込まれ、持ち上げられた椿には成す術はなかった。鬼が腕に力を込める。

 体の骨が軋み、開いた口から絶叫が迸ろうとした矢先――椿を掴む鬼の両手が突然、消失した。

 椿の視界に、宙に舞う鬼の手と、赤い血飛沫が映る。

 鬼の拘束から開放された椿の体は重力に従って落ち、そのまま尻餅をつく。

 椿の前に立っていた鬼はよろめきながら、絶叫を上げた。空間を震わせる絶叫に、山の中で身を休めていた鳥達が慌てて飛び立つ。

 よろめく鬼の腕は二の腕の部分から切断されており、赤い血が噴出していた。

 突然の出来事に、椿は尻餅をついたまま、目を瞬かせる。

 一体、何が起こったのか。

 その答えは、椿の前に躍り出た人影にあった。

 その人影は、そのまま鬼に飛び掛り、手にした刀で鬼の頭部を刎ね飛ばす。

 頭部を失った鬼は仰向けに倒れ、蒼い炎に包まれて消えていく。

 椿はよろよろと立ち上がりながら、目の前に立つ人影を呆然と見つめた。

 その人影は、ゆっくりとこちらに顔を向ける。

 鬼以上に凄まじい形相をした女――月見が、視界に映り込む。

 何か、言わないと。

「……あ、と……その」

 抜き身の刀を鞘に納めた月見は、無言のまま椿に歩み寄る。

 そして、乾いた音が山中に響き渡った。

 強烈な平手打ちは椿の頬にくっきりと手形を残し、その体をよろめかせた。

「何を考えてるの!」

 椿は頬を押さえて、口篭りながら呟いた。

「……いや、あの……女の子に頼まれて……」

「馬鹿じゃないの、あんた! 勝手に刀まで持ち出して!」

 普段なら、素直に謝っていただろう。

 しかし今は、死への恐怖感、助かった事での安堵感、それに、戦いの高揚感――

 様々な感情が綯い交ぜになっており、思考は混乱したまま、言葉だけが口から流れ出る。

「でも、女の子に母親を探してくれって頼まれて……。それに、魔招門が無いなら、僕一人でも……」

「そんなの私に言えばいいでしょ! 勝手な行動はするなとあれほど注意したのに! まともに刀も使えない癖して!」

 月見は手を伸ばし、椿が腰に差した刀を無理やり、ひったくる。

 彼女は続けて、はき捨てるように言った。

「私の言い付けも全然、守らないで……。だから、いつまでも未熟で、そんな体たらくだから先代に追いつけないのよ!」

 彼女の言葉に、椿は激しい苛立ちを覚えた。

 またしても、先代――父だ。

 苛立ちは言葉となって、思わず口をついて出た。

「またそれだよ! 何をしても先代、先代って。そうやっていつまでも、何をしても父と比べるのはやめてくれ! うんざりなんだよ! 放っておいてくれよ!」

 もう一度、平手打ちが飛んでくると思っていた。

 だが――

 椿の言葉に対して、月見が浮かべた表情は怒りでも、驚きでもない。

 彼女が見せた表情――それは、激しい悲しみに必死で耐えるかのような、見る者の心を不安にさせる顔だった。

 だが、その表情も一瞬で掻き消え、月見は無言のまま椿の横を通り抜ける。

 横切る瞬間、月見の左目には薄っすらと涙が滲んでいるように見えた。

 慌てて振り返るが、山を降りていく月見の背に掛ける言葉は出てこなかった。

 彼女は見る見る内に小さくなっていき、そのまま藪の中に消えていく。

 静まり返った山の中で、椿は呆然と立ち尽くしていた。


     *


 日は傾き、山の向こうに隠れ、大地は斜陽に照らされて、赤く染め上げられていく。

 夜は近い。

 赤から黒に変わっていく日の光を眺めながら、椿は神社前の石段に座り込んでいた。

 結局、少女の母親は椿と入れ違うようにして家に戻ってきたらしい。

 なんでも、山菜を取っている最中に足を滑らせた結果、足を挫いてしまい、それゆえに帰宅が遅れただけの事だった。

 夜が近くなった為、仕方なく捜索を諦めて少女の家を探し当てた椿にとって、気の抜けるような結末だった。

 何はともあれ、少女の母親が無事だった事は幸いだ。

 何度もお礼を言う少女と母親に軽く頭を下げ、神社の前まで戻ってきたのはいいが、ここからどうするべきか、椿は迷っていた。

 ――素直に、謝るべきなんだろう。

 心では分かっていたが、あの月見の表情を思い出してしまい、気まずい。

 まさか、彼女があんな表情をするとは思わなかった。

 何と言って謝ればいいのだろう。

 ぼんやりと、夕刻に曝された田園風景を眺めていると、椿の頬を柔らかに撫でていく緩やかな風に乗って、声が流れてきた。

「……ふむ。我が出掛けておる内に、何かあったようじゃの」

 その年寄り臭い口調に、椿は思わず立ち上がる。

「猫又?」

 巨大な影が音もなく、椿の前に降り立った。

 黒く巨大な猫が、二つに分かれた尾を振りながら、椿の顔を見据える。

 その黄金の瞳は、どこか楽しげな光を宿していた。

「情けない顔をしおってからに。なんじゃ、月見と喧嘩でもしたのか?」

 鋭い指摘に、椿は顔を顰めた。

 それを見た猫又が低い笑い声を上げる。

「かっかっか――図星か。我に話してみい。何があった。あやつの好きな饅頭でも勝手に食べたのか?」

「……違うよ。実は――」

 猫又は如月家三代目当主の式神であり、古くから如月家に仕えてきた。

 温厚な性格をしており、月見と違って父の話を持ち出したり、比べたりしない為、椿にとっては非常に話し易く、良い相談相手であった。

 幼い時はその背に乗って、色々な場所に連れて行ってもらったものだ。

 最も、今でも遠距離を移動する際には月見と二人、その背に乗せてもらって移動しているが……。

 椿がここに至るまでの経緯を話している間、猫又は黙って話を聞いていた。

 やがて、椿の説明が終わると猫又は小さく溜息を零す。

「……ふむ。なるほどのぅ――まあ、お主の気持ちもよく分かる」

 猫又はそう言って、石段の上に佇む神社を見上げた。

 その双眸が心なしか、悲しげに細められる。

「じゃが……月見の気持ちも分かってやれ。あやつはな、怯えておるんじゃ」

「怯えてる?」

 予想外の言葉に椿は聞き返す。

 月見ほど、怯えという感情から程遠い存在はない、と思っていた。

 猫又は頷いた。

「あやつが初めて仕えた主――先々代、そして先代。この二人は亡者との戦いで命を落としておる――椿よ、お主もそうなるのではないかと、あやつは怯えておるんじゃ。ましてや……」

 猫又はそこで椿に視線を向けた。

「お主には子供がおらん。その死はすなわち、如月家の滅亡に繋がるのじゃ」

 そう言われて、初めて椿は自身の存在を意識した。

 確かにそうだ。

 自分が死ねば、如月家はこの世から消えてなくなる。

「それに、月見はお主の母と……」

 猫又はそこで口を閉じた。

 言葉を取り消すように、猫又は低い唸り声を上げたが、椿は聞き逃さなかった。

「母? 母さんが、なにか関係してるの?」

 椿には母の記憶がない。

 物心付いた頃には既に居なかったし、父や猫又、それに月見に尋ねても、答えをはぐらかすだけだった。

 母はどうなったのか。どこに居るのか。生きているのか。死んでいるのなら、どうして死んだのか。

 常々、疑問は感じていたが、それに答えてくれる人物はおらず、悶々とした想いだけが胸の内にあった。

「猫又、お願いだから……ちゃんと教えて」

 椿は猫又の顔を正面から見据え、言った。

 猫又は逡巡するように暫く視線を彷徨わせていたが、やがて小さな吐息と共に言葉を吐き出す。

「そう、じゃな。もうお主も大きくなった――良い機会じゃ。そろそろ話しておいてもいいじゃろう」

 猫又は後ろ足を折り畳み、その場に座り込む。

 そして、日が沈み、黒く染まった空を見上げて、当時の事を思い出すように呟いた。

「お主の母――夏が子を宿し、腹も存外に大きくなった頃、お主の父である神楽と我、そして月見は亡者の退治に出向いていた。その亡者の名は、幽邪鬼という。非常に強力な亡者でな……戦いは三日三晩続いた。そして、ようやく討伐寸前までいったのじゃが、ほんの少しの油断――それが全てじゃった。幽邪鬼は死の間際に呪いを残したのじゃ」

 猫又はそこで一息をつき、それから椿の顔を見た。

 黄金の瞳は夜の闇の中で、爛々と輝いていた。

「奴が残した呪いは……お主の母に掛けられた。呪いは夏の体を確実に蝕み、衰弱させていった。呪いを解く方法はあった。じゃが、それは酷く負担をかけるものでな……。お腹の子――つまり、お主の死は避けられなかった。もうすぐ生まれる子を見殺しにして自身が助かるか、それとも……」

 椿は黙って話を聞いていた。

 初めて知った母の存在。

 吐き出された息は、震えていた。

 猫又は深く、長く息を吐く。

「夏は、生まれた子の顔を見て、そして満足気に笑って死んでいった。最後に、その子の事を月見に託してな。なにせ、夏の身内は既に亡者の手によって殺されておった。ここに来てから、身近に居る同姓は月見だけじゃったからな。二人はまるで姉妹のように仲良くしておった。月見にとって、初めて出来た対等の友じゃったであろう。夏にとっても同じ事じゃがな」

 そこで猫又は少し笑った。

 黒い体毛に覆われた猫又の顔は闇に紛れ、その表情は窺い知れなかったが、苦笑したように見えた。

「我はかつて、月見に助言したことがある。生まれたばかりで物心が付いていないお主に対して、落ち着くまでは母を演じてはどうかとな。あやつは何と答えたと思う?」

 椿は無言のまま首を横に振った。

 猫又は闇に輝く黄金の瞳を閉じる。そうすると、その姿は闇に溶け込む。

「夏が子を見た時の顔を見てしまった。何より――友が夢にまでみて、手にする事が出来なかった立場を、できるわけがない。いずれ真実を話す。そのとき……椿が母を守れなかった式神に対して罰を与えるなら、喜んでこの身を捧げよう」

 猫又は立ち上がり、ゆっくりと椿の横を通り過ぎて、石段を上り始めた。

「お主の父、神楽も後悔し続けておった。親として、旦那として、陰陽師として……両方の命を救えたのではないかと。あれが最善の選択だったと言い切る事はできん。我らの油断が生んだものじゃからな」

 椿は振り返り、石段を上っていく猫又の気配を見つめる。

 猫又はゆっくりと顔だけをこちらに向けた。

「あやつが先代と比較するのは、お主に強くなってもらいたいからじゃ。同じ悲劇が二度と起こらぬようにな。そして、夏との約束もある。お主を立派に育てるという……。まあ少々、行き過ぎている部分もあるが……。なにはともあれ、これが全てじゃ。月見が必要以上に面倒を見ようとする理由も、神楽が母について語ろうとしなかった理由も。後は、お主自身がどうするべきか判断するのじゃな。我らを恨むのも、自由じゃ」

 猫又はそれだけを告げると、軽やかな足取りで石段を上っていった。

 椿は視線を上に向け、黒く染まった夜空を見る。

 無数の星が煌めき、半分に欠けた月がこちらを静かに見下ろしていた。

 なぜ、月見の事を母のように扱うと怒るのか、その理由が分かった。

 流行病によって高熱を出した時……あの時、不眠不休で看病してくれたのは彼女ではなかったか?

 石段で転び、怪我した時も、泣き声を聞いて真っ先に駆け付けたのは誰だった?

 そう――彼女は常に、誰よりも、椿の事を優先して動いていたのではなかったか?

 今回の件もそうだ。月見は、助けに来てくれたではないか。

 わかっていた。彼女が本当に椿の事を大切にしているのは、分かっていたはずだ。

 それから目を背けたのは……。

 椿はそっと息を吐く。白く染まった吐息は、夜風にさらわれて、霧散した。

 視線を正面に戻し、椿は石段を上る。

 神社裏の自宅には淡い光が灯っており、椿は一度、深呼吸をしてから玄関を開けた。

 無意識に慎重になる足取りで居間まで辿り着き、目の前の襖を椿は眺める。

 謝る――それは心に決めていた事だが、言葉が思いつかない。

 俯き、第一声を試行錯誤していると、襖が静かに、開いた。

 顔を上げると、そこには無表情の月見が立っていた。

「あ……」

 月見は何も言わない。ただ、無言で椿の顔をじっと見ている。

 椿は視線を泳がせ、それから暫くの沈黙の後、俯き加減で恐る恐る口を開く。

「あの……その……ごめんなさい」

 重い沈黙。上目遣いで月見の様子を窺うが、彼女は相変わらずの無表情だった。

 冷や汗が頬を伝う。

「何が、ごめんなさいなの?」

 ようやく、月見が言葉を発した。

 抑揚のない口調で、彼女が告げる。

「その……勝手に刀を持ち出して……」

「……それだけ?」

「いや、あの……何も言わず出掛けた事も……」

「他には?」

「えっと、他は……」

 椿は汗を流しながら、思い出す。

 他に何かあったか?

 黙り込んだ椿に、月見は言った。

「私に対して、暴言を吐いたわよね?」

「ご、ごめんなさい」

「私にあんな事を言って、謝って許されると思ってるの?」

「まあまあ、月見よ。椿も反省しておる。それぐらいでいいじゃろう」

 見かねたのか、居間で丸くなっていた猫又が口を開いた。

 月見は猫又を一瞥した後、左目を細め、椿の怯えた双眸を覗き込む。

「……本当に、反省してるの?」

 椿はこくこくと、頷いた。

「……まあ、いいわ。ご飯、作ってあるから、食べなさい。それから、罰として今日はいつもより長く――いいえ、私が許すまで、按摩をすること。わかった?」

「はい」

 月見が椿に向かって手を伸ばす。

 思わず身を竦めたが、彼女の手は優しく椿の頭を撫でた。

 月見は口元を緩め、微笑を浮かべると、優しく囁いた。

「ほら、入りなさい」

 その優しい言葉に促され、椿は居間へと足を踏み入れた。


     *


「さてと、猫又。それじゃあ、そろそろ話してくれる? この十日間、なんの断りもなく勝手に飛び出して帰ってこなかった理由を」

 月見はうつ伏せに寝転んだ状態で声を上げた。

 彼女の上には椿がおり、背中を指で押さえている。

 その脇――居間の中央には囲炉裏があり、燃えた薪が乾いた音を上げていた。

 食事を終わらせた後、月見の体を按摩する事は椿にとって日課であった。

 彼女はそれを精神修行の一環だと語っており、幼い時は真剣に信じていたものだが、さすがにこの歳になると、その嘘は信じなくなった。

 しかし、この日課を止める事は許されず、以前に断りを入れた時は酷い仕打ちを受けたものだった。

 その仕打ちとは……翌日の修行が一層、厳しくなるのだ。

 その為、ここで月見のご機嫌を取っておく事は、椿にとって重要な儀式でもある。

 用済みになった食卓は部屋の隅に押しやられ、その食卓の上には行灯皿があった。そこにも火が灯されている。

「ふむ。そうじゃな……」

 椿の対面側――囲炉裏の傍で体を丸め、丁寧に体を舐めていた猫又は月見の言葉を受けて、その動作を中断した。

「実は、甲斐の方に足を運んでおったのじゃ」

「甲斐?」

 椿が按摩の手を止めて呟く。

「……手が止まってる」

 すると、月見が下から鋭く睨み付け、言った。

 椿は慌てて手を動かす。

 猫又は後ろ足で耳の辺りを掻いてから、小さく頷いた。

「あそこには知り合いの僧侶が居てな。月見は知っておると思うが……。一連寺の朝霞雲形という僧侶――まあ、住職じゃな」

「ああ、あの生臭坊主ね」

 月見の言葉に、猫又は苦笑した。

「東の情勢を見てくるついでに顔を出したのじゃが……。なかなかに面白い情報を聞かせてもらってのう。なんでも東三国が近々、大きな行動――合戦を起こすらしいのじゃ」

「東三国が?」

 月見が少し驚いて言う。

 ――越後の上杉、甲斐の武田、相模の北条。

 この三国を東三国と呼ぶ。

 彼らは亡者出現の際、いち早く手を組み、東北から雪崩れ込む亡者の大群に対抗した。

 そのおかげで亡者の進攻は押し留められ、安定した畿内にて一気に魔招門の封印が進んだ。

 現在の畿内の安定があるのはひとえに、彼らの力があってこそだと言われている。

 そして今もなお、東三国は東北から流れ込む亡者を抑え続けている。

「……彼らが無謀な行動を取るとは思えないわね。何か勝算でもあるのかしら」

「――風魔衆が、上野に巨大な魔招門があるのを発見したらしいのじゃ。それを封じてしまえば、亡者討伐の大きな前進となる。そろそろ、畿内でも僧侶や陰陽師を集う高札が立てられるそうじゃ」

 猫又はそう言うと、月見と椿の顔を交互に見比べた。

「どうじゃ、面白い話じゃろ? さて、そこで……我らはどうする? 如月家の名を売るには絶好の機会だと思うが……」

 今度は按摩の手を止めずに、椿は呟く。

「でも……大きな合戦になるんでしょ? 僕達にはまだ早い――」

「おもしろいわね。私達も参戦しましょう」

「……あの、月見姉さん……?」

「なによ? なにか文句でもあるの?」

「いや……あの、さすがに大掛かりな合戦に参加するのは、まだ早いんじゃ……」

 月見は小さく鼻を鳴らす。

「馬鹿ね。合戦に直接参加するわけないでしょ。そういう大掛かりな正面対決は武士の連中に任せておけばいいの。どうせ、私達は別働隊に配備されて、後ろから行軍することになるわ。そうなればやる事は今と大して変わらない。封印と、小規模な戦闘くらいよ」

 この言葉に、猫又も頷いた。

「まあ、そうじゃろうな。椿よ、お主も今年で十五になる。そろそろ、大きな戦いを経験しておくのもいいじゃろう」

「うーん、そうかなぁ……」

 椿は低く唸った。

 正直なところ、怖い。

 月見の言うように、後ろから付いていくだけだったとしても、合戦に参加する事はそれだけで気が引ける事だった。

 椿の不安を感じ取ったのか、月見は微笑した。

「大丈夫よ、何があっても、私が守ってあげるから。次、足」

 彼女の優しい言葉も、最後の一言で台無しだ。

 椿は体をずらし、そのまま足の按摩へと移行する。

「何事も経験じゃ、椿よ。いざとなれば逃げれば良い」

「そういうこと」

 猫又の言葉に、月見も賛同する。

 この二人にそう言われると、椿としては断る事はできない。

「……では、決まりじゃな。膳は急げ。明朝にはここを発つとしよう。一番乗りして、印象付けしておくのもよかろう」

 猫又は立ち上がり、居間の襖を前足で器用に開けると、そのまま出て行った。

 いつもの場所に向かったのだろう。

 猫又はこの地で眠る際、必ず神社の拝殿にまで行って、寝る。

 そこは猫又が初めて仕えた主――如月家三代目当主が亡くなった場所であり、心が一番安らぐ場所だという。

 妖怪達は自身の過去を滅多に語らない。猫又も同じだった。

 この話も、随分と昔に教えてくれたものだ。猫又が自身の過去について語ってくれたのは椿が幼い時だけで、他にも幾つかは聞いたはずだが、忘れてしまった。

「……あの、月見姉さん」

「なに?」

「……僕達も、そろそろ寝ようか」

 椿は月見の白く柔らかな足を按摩しながら、言う。

「……椿」

「はい」

「続けなさい」

「でも、明日、早いし……寝ないと」

 月見がわざとらしく、大きな溜息を零す。

「ああ……私、今日は凄く疲れたわ。だって、椿が急に居なくなって、慌てて家を飛び出したからね。おかげで転んで怪我もしたし、体中、痣だらけ。もう大変だったのよ。心配で心配で……」

 それは嘘だ。彼女の足や着物から見える肌に、新しい傷は一つもない。

 過去の戦いで負ったという古傷の痕だけが、点在した。

 ただ、心配をかけた事は間違いない。

「その時の事を思い出して、腹が立ってきた。椿、私に何て言ったかな?」

「……します。続けます」

「うむ、苦しゅうない」

 月見は笑いの欠片を含んだ声でそう言った。

 月見の足は白く、細く、柔らかい。よくこんな細い足であれほどの速度を生み出せるものだ。やはり、妖怪だけあって人間とは明らかに構造が違うのか。

 見た目はどう見ても、人間の、二十半ばの美しい女性なのだが……。

 最も、それが絡新婦という妖怪である。

 美しい女の姿で人を騙し、誘い、そして喰らう。

 本来は巨大な蜘蛛の姿をしているらしいのだが、月見がその姿を見せた事はない。

 絡新婦の話をすると露骨に嫌な顔をするし、そこで会話を断ち切ろうとする。

 彼女もまた、あまり自身の過去については語りたくないようだ。

「……椿」

「なに?」

「猫又から、何か聞かされなかった?」

 椿は返答に詰まった。

 思わず、手が止まる。

 恐らく……月見は気付いている。

 わずかな沈黙の後、椿はゆっくりと口を開いた。

「あ、と……うん。母の話を、ちょっと――」

 嘘はつけなかった。

 月見は足を軽く揺らし、按摩の続きを催促してくる。

 椿が手を動かしたのを確認すると、月見は言った。

「……そう――私の言葉に偽りはないわ。あなたには、私を恨む理由がある」

「……月見姉さん。僕は――」

 恨んでなんかいない――そう告げるよりも早く、月見は言葉を続けた。

「椿。いいの。答えは、あなたの中にあれば、それでいい。ただ……あなたが一人前になるまでは、私に時間を頂戴」

 月見は静かに息を吐く。

「私の望みはそれだけ」

「……わかった」

 椿は月見の意思を尊重した。

 彼女がそれを望むなら――

「それじゃあ、そろそろ寝ましょうか」

 ようやく按摩から解放される時が来たようだ。

 椿は心の中で安堵の溜息を零す。

「火の始末、お願いね」

 月見がのっそりと立ち上がり、椿を一瞥してから居間を出て行く。

 椿は言われた通り、囲炉裏と行灯皿の火の始末を終えてから、彼女の後を追った。

 居間を出て、対面にある寝室に足を踏み入れると、月見はすでに押入れから二枚の布団を引きずり出し、畳の上に敷き終える所だった。

「じゃあ、おやすみ」

 椿はそう言って、月見が敷いてくれた布団の中に入り込もうとする。

「待って」

「……なに?」

 体の下半分を布団に収めたところで、椿は首を傾げる。

 月見は椿の隣に敷いた布団に、同じように体半分を収めると、にっこりと笑った。

「まだ手が残ってるわよ」

「え?」

「手」

「……寝る……んだよね?」

「私はね」

 月見は布団に潜り込み、椿に向かって右手を突き出してきた。

「……」

 椿は、眼前に突き出された手を呆然と眺める。

 その手が、ゆらゆらと揺れた。

「早く」

「……はい」

 悲しみに満ちた椿の声は、闇に包まれた寝室の中に溶け込んで、すぐに消えていった。


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