序話
戦国時代を背景にしていますが……正直、歴史は詳しくないです。
なので、その辺りは大目に見ていただけると幸いです。
ちまちまと更新していく予定なので、良かったら読んでください。
それは凄惨な光景だった。
淡い月明かりに照らされて浮かび上がる眼前の光景に、男は顔を顰める。
山の麓に築かれた小さな村は静寂に支配されていた。
辺りに転がるのは、人の死体。
子供から大人、女に老人。そのほとんどが体を引き裂かれ、絶命していた。
周囲に漂う血臭と腐臭が鼻腔を刺激し、いやおう無く気分を害させる。
こみ上げる吐き気を抑える為に口元に手をやると、男の隣に立つ女が声をかけた。
「ちょっと、大丈夫?」
凛とした女の声は、この凄惨な場に相応しくないほど落ち着いていた。
女の長く伸びた黒い髪は月明かりを浴びて艶やかに輝き、深い紺色をした左の瞳が男の顔を覗き込む。女の右目は閉じられており、その瞼の上には大きな傷があった。その傷は刀傷で右瞼から顎先にまで達している。
闇に溶け込む黒い装束と袴を身に付け、どこか妖しげな雰囲気を持つ女は、呆れた表情を浮かべて、溜息を吐いた。
「まったく、だらしないわね、椿。この程度で……」
椿、と呼ばれた男は女の顔を一瞥し、眉根を寄せて口を開く。
「……無理言わないでよ、月見姉さん。久しぶりの封印なんだから……。ただでさえ緊張してるのに、こんな酷い光景……」
「そんな様子じゃあ、先代に笑われるわよ。あなたと同じ十四の時には、もう一人前で立派に……」
「……また、それだよ。そう言うくせに、僕が何かやろうとするといつも……」
「何か言った?」
「いや……なにも」
椿は月見から顔を背け、闇に覆われた山を見上げる。
その山こそ、今回の目的地だ。
手にした錫杖に力を込め、椿は緊張した面持ちで山を見据える。
「心配しなくても、私が守ってあげるから。椿は魔招門を封じる事だけを考えて動けばいいわ。大丈夫、きっとうまくいくから」
月見は腰に差した刀の柄に手を置き、言った。その言葉に、椿は頷きを返す。
魔招門――それは、この世とあの世を結ぶ、地獄の扉。その扉からは亡者、と呼ばれる化け物達が溢れ出してくる。
「……それにしても、猫又のやつ、十日もどこをほっつき歩いてるのかしら。騒ぎになったら困るから、あんまり勝手に出歩くなって、あれほど言ってるのに」
「……猫又なら大丈夫だよ。きっとそのうち、戻ってくるって」
「――まあ、ここの魔招門を小さいようだから
私達だけで問題ないけどね。さっさと片付けちゃいましょう」
山に向かって歩き出した月見の後を追って、椿も足を進める。
美濃の山中で亡者の姿が見受けられるようになったのが一月ほど前だという。
この辺り一帯は信長が治める領土であり、比較的、治安は安定していたが、魔招門はどこにでも開く可能性がある。
亡者討伐の依頼を受けた椿は月見と共に、この地へ乗り込んだ。
椿の家系である如月家は陰陽師として代々、呪術を用いて、この手の事を生業としてきた。
歴史の裏側で暗躍する亡者や妖怪を討伐する事は、椿にとって家訓でもあるのだ。
妖怪と亡者――この二つはよく混合されがちである。
それは、両者の性質が詳しく解明されていない為であるが、幾つか分かっている事はある。まず、妖怪は高い知能を持ち、魔招門から現れる訳ではないという点だ。
妖怪は古くからこの国に存在し、独自に、そして個々に成長してきた。
それに対し、亡者は魔招門から現れ、己の欲望に忠実で、人々を襲い、喰らう。
また、弱い亡者はそれより強い亡者に付き従う為、群れる習性を持つ。
強力な亡者ともなれば、妖怪のように知能を持つ者も居るが――そういった者は少数である。亡者の大半は食欲に支配された化け物でしかない。
「比叡山の馬鹿僧侶も面倒な事をしてくれたものよね。魔招門を開くだけならまだしも、禁断の秘術で場を不安定にしていくんだから……」
月見の呟きに、椿は言葉を返す。
「その秘術のせいで、各地で魔招門が開きやすくなっている――て事だよね?」
「そういうこと。魔招門なんて昔からあったけど、普通は戦場跡とか、想いが強く残るような場所にしか開かないものなのよ。
それに、開いても小さいものばかりだし。でも、秘術のせいで空間が歪んだから……。まあ、そのおかげで私達のような者が駆り出されて、世間に名を売れるわけだけど」
月見は腰に差した刀をゆっくりと引き抜いた。鞘走りの音が静まり返った夜の闇に溶け込んでいく。
彼女の瞳が淡い光を宿し、細められる。
その唐突な行動に、椿は首を傾げた。
「月見姉さん?」
「……亡者が居るわ。近いわよ」
月見の声を遮るように、低い、獣のような呻き声が木々の中を駆け抜けた。
重々しい足音と、低い呻き声は徐々に近付いてくる。
周囲には木々が立ち並び、細い山道以外は生い茂る草木に覆われている。
薄っすらと差し込む淡い月明かりだけが唯一の光だった。
椿は着込んだ袈裟の中に手を滑り込ませ、そこから一枚の札を取り出した。
陰陽師が扱う呪術は、口頭の術式だけでも唱える事は可能だが、札を触媒とする事でより安定し、強力な術を行う事が可能だ。
特に椿の場合、まだ腕が未熟である為、札による術の安定は必須であった。
慣れない亡者との戦いに緊張で手が震える。
それを目にした月見が口を開く。
「下がってなさい。私だけで十分よ」
「いや、僕だって戦え――」
「いいから、下がってなさい」
月見は一歩、前に踏み出した。
手にした刀が月光を浴びて怪しく煌めく。
やがて、木々の向こうから巨大な影が現れた。
赤黒い肌に、飛び出した鋭い牙、手には木の棒を持ち、腰には申し訳程度に布を巻いた人外の者――その大きな体は椿の倍近く、耳元まで裂けた口からは低い唸り声が漏れていた。
人々から「鬼」と呼ばれ、恐れられる亡者だ。
その鬼の足元には小さな影が三つ。
こちらは子供のような大きさで、灰色の肌をしている。腹の部分が妙に膨らんだ姿をしており、手からは鋭い爪が生えていた。
こちらは「餓鬼」という名の亡者だ。
月見は鋭く息を吐くと、鬼達に向かって一気に飛び出していった。
その速度は人が出せる速度を遥かに凌駕している。
あっという間に間合いを詰めた月見は、手にした刀を横薙ぎに一閃した。
餓鬼の一匹がそれによって頭部を刎ね飛ばされ、首元から赤い血を噴き上げながら、その場に崩れ落ちる。崩れ落ちた餓鬼は蒼い炎に包まれ、灰も残さず消えていく。
返す刀でさらに隣に居た餓鬼を切り倒し、そこでようやく鬼達が反応した。
鬼は木の棒を振り上げ、唸り声と共にそれを月見目掛けて振り下ろす。
流れるような動きで月見はそれを避け、飛び掛ってきた餓鬼を上段から振り下ろした刀で真っ二つに切り裂いた。
勢いそのままに、月見は鬼の側面に回りこみ、太ももを斬り付ける。
鬼は巨体を傾かせつつも、再び木の棒を振り回した。
月見は身を低くして鬼の攻撃を回避し、鬼の脛に刀身を滑り込ませた。
鬼がたまらず片膝を付く。
次の瞬間には、鬼の頭部が宙を舞っていた。
鬼の巨体がゆっくりと前のめりになり、重々しい音を立てながら崩れ落ちる。
倒れ付した鬼の巨体が蒼い炎に覆われる。亡者の遺体は決して残らない。彼らは死を迎えると、温度の無い蒼い炎の中に消えていくのだ。
月見は刀を振り払い、刀身についた血糊を払い飛ばした。
「……さあ、椿、行くわよ」
甲高い鍔鳴りの音を響かせ、月見は刀を鞘へと戻す。
一瞬の攻防に、椿を目を瞬かせた。
目の前に立つ女性――月見の強さは圧倒的だ。
かつては絡新婦と呼ばれ、人々から恐れられた妖怪だっただけはある。
椿の祖父である先々代が彼女と戦い、打ち勝って以来、彼女は如月家に式神として仕えてきた。
祖父の死後、彼女は椿の父に仕えていたが
椿の父は二年前、魔招門を封じる戦いの中で命を落とした。
それ以降、月見は椿の式神となっている。
妖怪が、亡者と大きく違う特徴がもう一つある。
それは、非常に誇り高い、という事だ。
妖怪の多くは敗北を悟ると死を望む。よって、陰陽師に付き従い、式神となる妖怪はどちらかというと珍しい。
月見はその珍しい妖怪の内の一人で、非常に頼りになる式神なのだが、いかんせん小言の多さだけはいただけない。
呼び捨てにすると怒るし、何かと先代――父と比べたがる。
「なに、ぼーっとしてんの」
月見の声に椿は意識を戻し、山道を歩き出した。
深い木々に覆われた険しい山道を暫く歩くと、周囲に薄い霧が立ち込め始める。
――魔招門が近い証拠だ。
漂う空気は冷気を纏い、肉が焦げたような独特の臭気が鼻につく。そして……地面に咲く黒い花々――夜の闇を吸い込んで成長したかのような漆黒の花は黒百合――呪い、の花言葉を持つ黒百合は、魔招門の近くに必ず生え、生い茂る。
「……あったわ。やっぱり小さいわね」
月見が指差す方向――そこだけは木々が存在せず、ぽっかりと円状の空間が作り上げられ、その空間は黒い百合の花によって埋め尽くされていた。
その空間の中央には黒い闇の塊が宙に浮いており、バチバチと音を立てながら
青白い閃光を小さく放っている。大きさは人の頭より、少し大きい程度だ。
宙に浮いた黒い闇の塊――魔招門。
「私が見張りをしててあげるから、さっさと封印しちゃいなさい。やれるわね?」
月見は椿の顔を見て、言う。
椿は頷き、黒百合を踏み潰しながら、魔招門に近付く。
そして、魔招門の前で錫杖を地面に突き刺し、瞳を閉じて精神を集中させた。
口の中で封印の術式を呟きながら、袈裟の中から一枚の札を取り出す。
術式を唱え終え、軽く息を吐くと、椿は閉じていた瞳を開いた。
手にした札を錫杖の先に貼り付けると、それを魔招門の中へと押し込む。
次の瞬間――魔招門は眩い閃光を放ち、周辺を白く、白く染め上げる。
椿の視界は閃光によって白一色に変化し、重い衝撃が錫杖から手、そして体の全身へと伝わり、突き抜ける。
椿はその衝撃に片膝を付いた。
魔招門が放っていた眩い閃光はゆっくりと空気の中へと溶け出し――消える。
「……ご苦労様」
片膝を付いた椿の傍に来た月見は呟いた。
椿はゆっくりと立ち上がる。
魔招門が消えている事を確認し、椿は安堵の吐息を漏らした。
「……よかった。無事に消えた」
立ち込めていた霧が少しずつ薄れていく。
「後は、また魔招門が開かないようにこの辺りの場を強めて、終了だね」
椿はそう呟き、月見に視線を向けた。
月見は怪訝な表情のまま、視線を彷徨わせている。
「どうしたの? 月見姉さん」
「……幾らなんでも、亡者の数が少な過ぎると思って……」
「ここから移動したんじゃない?」
「そうかもしれないけど……この辺りしか目撃情報が無かったでしょ?」
「うーん。確かにそうだけど……」
「まあ……いいわ。考えても仕方ないし――場を強めて、帰りましょう」
椿は再び錫杖を地面に突き刺し、先程とは別の術式を唱え始めた。
魔招門を封じた後は、必ず周辺の空間を正常化しないと、再び魔招門が開く可能性が非常に高くなる。
椿は、静かに息を吐いた。
「……これでよし。終わったよ」
「じゃあ、横山城に戻って、秀吉から褒美を貰いましょう」
月見はそう言って、歩き出す。
椿は彼女の後を追った。