偽りの聖女と悪役令嬢
「クラリス・レインフォード。お前との婚約を破棄する」
王立学院、卒業舞踏会。
その夜、第一王子アルベルトは会場中に響く声でそう告げた。
周囲の貴族たちが息を呑む。
私は扇を閉じ、静かに彼を見る。
「理由を伺っても?」
「まだ惚けるのか」
アルベルトの隣には、白いドレスを纏った少女がいた。
聖女エミリア。
平民出身でありながら、女神の加護を授かった奇跡の少女。
誰にでも優しく。
誰からも愛され。
王都中の人間が、彼女を“本物の聖女”と讃えている。
エミリアは涙を浮かべ、震える声で言った。
「クラリス様……私は、ただ仲良くなりたかっただけなのに……」
その一言で、会場の空気が変わった。
「可哀想に……」
「やはり悪役令嬢だったのね」
「聖女様を虐めるなんて」
悪役令嬢。
いつからか、私はそう呼ばれるようになっていた。
王子の浪費を注意したから。
学院の寄付金不正を暴いたから。
貴族令嬢たちの派閥争いを止めたから。
そして何より。
皆が愛する聖女エミリアを、私だけが疑ったから。
「クラリス」
アルベルトが冷たく言う。
「お前はエミリアの紅茶に毒を混ぜ、階段から突き落とし、社交界で孤立させようとした」
「証拠は?」
「証人ならいる」
数人の令嬢が前に出る。
「見ました。クラリス様が聖女様のカップに何かを入れるところを」
「階段でも、クラリス様が手を伸ばしていました」
「いつも聖女様を睨んでいて……恐ろしかったです」
私は、その令嬢たちの目を見る。
皆、少し濁っている。
憎しみではない。
熱に浮かされたような、奇妙な正義感。
ああ。
やはり、そうなるのですね。
「エミリア様」
私は彼女を見る。
「貴女は、本当に私に毒を盛られたと思っているのですか?」
エミリアはびくりと肩を震わせる。
「わ、私は……」
「階段から突き落とされかけたと、本当に思っているのですか?」
「……怖かったんです」
エミリアの瞳から涙がこぼれる。
「クラリス様は、いつも私を見る目が冷たくて……私、何かしてしまったのかなって……」
会場中から、私への敵意が膨れ上がる。
泣く。
震える。
傷ついた顔をする。
それだけで、世界は彼女の味方になる。
だが。
私は知っている。
彼女は嘘を吐いているわけではない。
本当に怖かったのだろう。
本当に傷ついたのだろう。
そして本当に、自分が被害者だと思っている。
だからこそ、厄介だった。
「クラリス。お前を北方修道院へ送る」
王子が宣告する。
「公爵家からは除籍。王太子妃候補の資格も剥奪する」
事実上の追放。
会場の誰もが、それを当然だという顔で聞いていた。
私は、ゆっくり息を吐く。
「そうですか」
「反省すらないのか」
「反省すべきは、私だけでしょうか?」
「何?」
私は一歩、前に出た。
騎士たちが警戒する。
だが構わない。
ここで終わらせなければ。
この国は、いずれ“善意”に潰される。
「皆様に、お尋ねします」
私は会場を見渡した。
「聖女エミリア様を、疑ったことはありますか?」
誰も答えない。
「彼女の言葉が本当か、調べたことはありますか?」
沈黙。
「彼女が泣いた時、その涙の理由を確かめましたか?」
貴族たちの表情が揺れる。
私は続ける。
「皆様は、エミリア様を信じていたのではありません」
エミリアの顔色が変わる。
「信じたくなっていただけです」
「やめて……」
小さな声。
私は彼女を見る。
「貴女の加護は、癒やしではありません」
会場が凍り付いた。
「クラリス!!」
王子が怒鳴る。
私は止まらない。
「貴女の加護は、“好意を集める力”」
エミリアの瞳が揺れる。
「近くにいる人間は、貴女を守りたくなる」
「疑えなくなる」
「貴女を傷つける存在を、悪だと思い込む」
周囲からざわめきが起こる。
「まさか……」
「そんなはずが……」
「でも、確かに……」
「違います!」
エミリアが叫んだ。
その声に、何人かの貴族がびくりと反応する。
彼女は泣きながら首を振る。
「私は、ただ皆と仲良くしたかっただけです!」
「皆が笑ってくれるのが嬉しかっただけです!」
「私を好きになってくれる人がいるのが、嬉しかっただけなのに!」
その言葉は、本心だった。
だから、胸が痛んだ。
エミリアは悪魔ではない。
狡猾な偽聖女でもない。
ただ、愛されることしか知らない少女だ。
けれど。
それで傷つく人間がいる。
それで歪む判断がある。
それで、悪役にされる者がいる。
「クラリス様」
エミリアがこちらへ歩いてくる。
その瞳は潤み、唇は震えていた。
「どうして私をそんなふうに言うんですか?」
会場の空気が再び揺らぐ。
人々の視線が、また私へ戻ってくる。
冷たい目。
責める目。
“聖女を泣かせた悪女”を見る目。
私は奥歯を噛む。
やはり、加護はまだ生きている。
「私、クラリス様と仲良くしたかったんです」
エミリアは私の手を取ろうとする。
「なのに、どうして……」
私はその手を避けた。
エミリアの表情が、初めて固まる。
「触れないでください」
「……っ」
会場に、明確な怒りが広がる。
「なんて冷たい……」
「聖女様が歩み寄っているのに」
「やはり悪役令嬢だ」
私は静かに笑った。
ええ。
そうでしょうね。
貴女を拒めば、私は悪役になる。
貴女を疑えば、私は悪役になる。
貴女を止めようとすれば、私は悪役になる。
ならば。
「分かりました」
私は扇を閉じる。
「そこまで仰るなら、喜んで悪役令嬢になりましょう」
懐から、小瓶を取り出す。
銀色の液体が揺れる。
アルベルトが目を見開いた。
「クラリス、何を――」
私は小瓶を床へ叩きつけた。
甲高い音。
砕けた瓶から、銀色の霧が舞い上がる。
聖女の加護を一時的に無効化する禁制薬。
会場中の人間が、はっと息を呑んだ。
「……あれ?」
「私は、どうして……」
「なぜ聖女様を、あんなに信じ込んで……?」
熱が引いていく。
視線が変わる。
崇拝が、困惑へ。
正義感が、恐怖へ。
そして。
エミリアは初めて、誰からも愛されない場所に立たされた。
「……待って」
彼女は周囲を見渡す。
誰も駆け寄らない。
誰も守らない。
誰も、彼女の涙だけで動かない。
「どうして……?」
エミリアの声が震える。
「どうして皆、そんな目で見るの……?」
私は彼女の前に立つ。
「これでようやく、話ができますね」
エミリアは私を見た。
その瞳に浮かんでいたのは、怒りではなかった。
初めて味わう、恐怖だった。
「クラリス様……」
彼女は小さく呟く。
「私、何か悪いことをしましたか?」
私は答えなかった。
答えられなかった。
なぜならその問いこそが。
彼女が“偽りの聖女”である、何よりの証だったから。
「私、何か悪いことをしましたか?」
エミリアの問いに。
誰も答えられなかった。
会場は静まり返っている。
つい先ほどまで、彼女を崇拝していた貴族達は困惑し、互いの顔を見合わせていた。
「……私は」
アルベルト王子が、自分の額を押さえる。
「何を、していたんだ……?」
その声は震えていた。
私は静かに彼を見る。
「ようやく、ご自分で考え始めましたか」
「クラリス……」
王子の顔色は悪い。
当然だろう。
今まで、自分が絶対に正しいと思っていた感情が、“加護によって増幅されていた”可能性を突き付けられたのだから。
「違うんです……!」
エミリアが一歩前へ出る。
「私は誰も操ってなんか……!」
「ええ」
私は頷いた。
「貴女は操っているつもりなどないのでしょう」
それが一番厄介なのだ。
悪意がない。
だから、自分を疑わない。
「私は、ただ……皆と仲良くしたくて……」
エミリアの声が小さくなる。
「皆が優しくしてくれて……嬉しくて……」
「その結果、周囲の人間がどうなったか考えたことは?」
「っ……」
私は会場を見渡した。
「皆様も同じです」
貴族達がびくりと肩を震わせる。
「誰も、確かめなかった」
「誰も、疑わなかった」
「誰も、自分の感情を不自然だと思わなかった」
私は静かに続ける。
「“聖女様がそう言うなら”
“聖女様が泣いているから”
“聖女様が可哀想だから”」
その言葉に、何人もの人間が顔を伏せた。
図星なのだろう。
「……私は」
一人の令嬢が震える声を出す。
「クラリス様のこと、嫌いでした」
私は彼女を見る。
「聖女様に冷たくするから」
「怖い人だと思っていました」
彼女の瞳に涙が浮かぶ。
「でも今思えば……ちゃんと話したことも無かったんです」
周囲がざわめく。
すると別の貴族も口を開いた。
「私もだ……」
「クラリス嬢は厳しかったが、間違ったことは言っていなかった」
「寄付金不正の件だって、本当だったじゃないか……」
空気が変わり始める。
今まで“悪役令嬢”という言葉で思考停止していた人間達が、ようやく自分で考え始めていた。
「やめて……」
エミリアが小さく呟く。
「お願いだから、そんな目で見ないで……」
彼女は怯えていた。
今まで向けられたことのない視線に。
崇拝ではない。
熱狂でもない。
疑問。
困惑。
恐怖。
それらを真正面から向けられることに。
「エミリア様」
私は静かに呼びかける。
彼女がびくりと顔を上げた。
「貴女は、“愛されること”に慣れすぎたのです」
「……違う」
「だから、嫌われることを異常だと思っている」
エミリアの呼吸が乱れる。
「違う……」
「否定されることを、攻撃だと思っている」
「違うッ!!」
その瞬間。
凄まじい聖力が爆発した。
轟音。
会場のシャンデリアが砕け散る。
「きゃあああ!!」
悲鳴。
貴族達が倒れ込む。
純白だった聖力に、黒い靄が混ざっていた。
私は目を細める。
やはり。
この力は不完全だ。
「皆、私を好きでいてくれたのに!!」
エミリアが泣き叫ぶ。
「どうして急にそんな顔するの!?」
彼女は本気で理解できていない。
だからこそ危うい。
「エミリア!」
アルベルト王子が叫ぶ。
だが彼女は止まらない。
「私はずっと頑張ってきた!」
「皆のために笑った!」
「優しくした!」
「救ってきた!」
涙が零れる。
「なのにどうして、皆離れていくの……?」
その言葉に。
私は、胸の奥が少しだけ痛んだ。
この子は、本当に孤独なのだ。
“愛される”ことでしか、自分の価値を確かめられない。
だから、愛が揺らいだ瞬間に壊れる。
「クラリス様……」
エミリアが私を見る。
その目は、迷子の子供みたいだった。
「私は、どうすれば良かったんですか……?」
会場が静まる。
私は少しだけ黙って。
そして、静かに答えた。
「嫌われれば良かったのです」
エミリアが目を見開く。
「……え?」
「誰にでも好かれようとしなくて良かった」
私は彼女へ近づく。
「貴女を嫌う人間がいても」
「否定する人間がいても」
「離れていく人間がいても」
彼女の胸元へ、そっと手を当てた。
「それでも残ってくれる人を、大切にするべきでした」
エミリアの瞳から、ぽろぽろと涙が零れる。
「……分からない」
「ええ」
私は頷いた。
「貴女は、今まで知らなかったのですから」
愛されることしか。
知らなかったのだから。
「愛されることしか、知らなかったのだから」
その言葉を聞いた瞬間。
エミリアの聖力が、ゆっくりと揺らいだ。
純白の光。
だが先ほどまでの圧迫感は無い。
まるで迷子の子供が、泣き疲れて立ち尽くしているみたいだった。
「……私は」
エミリアが震える声を漏らす。
「間違っていたんでしょうか」
誰も答えない。
会場は静まり返っていた。
アルベルト王子も。
騎士達も。
貴族達も。
皆、初めて“聖女”ではなく、“エミリア”を見ていた。
私は静かに息を吐く。
「間違っていたかどうかは、私が決めることではありません」
「……っ」
「ですが」
私は彼女を真っ直ぐ見つめた。
「貴女は、一度も立ち止まらなかった」
エミリアの肩が震える。
「皆が好きと言ってくれる」
「皆が褒めてくれる」
「皆が守ってくれる」
私は続ける。
「だから、自分が正しいかを考える必要がなかった」
それは幸福だったのだろう。
同時に、不幸でもあった。
「クラリス様は……」
エミリアが涙を流しながら笑う。
「ずっと苦しかったんですね」
私は少し驚いた。
「私のこと、嫌いだったでしょう?」
「嫌いでした」
即答だった。
会場がざわめく。
だがエミリアは、泣きながら続けた。
「だってクラリス様だけだったから」
「私に、そんな目を向ける人」
彼女は俯く。
「皆、優しかった」
「皆、私を好きになってくれた」
「でも……」
小さく唇を噛む。
「誰も、本当の私を見てくれなかった」
私は目を細める。
その瞬間。
ようやく彼女は、“聖女”ではなくなった気がした。
「クラリス」
アルベルト王子が前へ出る。
顔色は酷かった。
「俺は……お前に酷いことをした」
「ええ」
私は頷く。
「しましたね」
王子が苦しそうに顔を歪める。
「俺は、自分で考えているつもりだった」
「でも違った」
拳を握る。
「皆がそう言うから」
「聖女が泣くから」
「お前が悪役令嬢に見えたから」
彼は俯いた。
「……最低だな、俺は」
私は少しだけ沈黙して。
そして、小さく笑った。
「ようやく、自分で考え始めたではありませんか」
王子が目を見開く。
私は扇を閉じる。
「私は、貴方を許しません」
周囲が息を呑む。
「ですが」
私は静かに続けた。
「今の貴方なら、“誰かに流されるだけの王”にはならないかもしれませんね」
アルベルトは何も言えなかった。
その時だった。
「クラリス様」
エミリアが、ゆっくりこちらへ近づいてくる。
もう彼女の周囲に、あの異様な熱狂は無い。
ただ、一人の少女として立っていた。
「私、怖いです」
彼女は小さく言った。
「もし誰からも愛されなくなったらって考えると……怖い」
その姿は、あまりにも普通だった。
どこにでもいる。
弱くて。
寂しくて。
愛されたくて仕方ない少女。
私は少しだけ考える。
そして。
「でしたら、嫌われる練習をしなさい」
エミリアがきょとんとした。
「……練習?」
「ええ」
私は静かに笑う。
「人は、全員から愛されることなどできません」
「だからこそ」
「それでも傍に残ってくれる人が、本当に大切なのです」
エミリアの瞳から、涙が零れる。
「……はい」
その返事は。
今までで一番、人間らしかった。
すると。
「クラリス嬢」
一人の老貴族が頭を下げた。
「我々は、貴女を誤解していた」
続いて、他の貴族達も頭を下げ始める。
「申し訳なかった」
「我々は、聖女様ばかり見ていた」
「貴女の言葉から目を逸らしていた」
私は、その光景を静かに見つめる。
以前なら。
きっと少し嬉しかったのだろう。
でも今は違う。
「……別に構いません」
私は淡々と言った。
「貴方達は、“悪役令嬢”という言葉に安心していただけです」
皆、顔を伏せる。
「誰かを悪者にすれば、自分は正義でいられる」
「考えなくて済む」
「責任を持たなくて済む」
私は会場を見渡した。
「ですが、それを続ければ、また同じことが起きます」
静寂。
誰も反論しない。
そして。
エミリアが、そっと口を開いた。
「……クラリス様」
「何ですか」
「私、貴女みたいになりたいです」
私は思わず目を瞬かせた。
「おすすめしませんよ」
「どうしてですか?」
「嫌われますから」
その瞬間。
エミリアが、初めて声を上げて笑った。
作った笑顔ではない。
誰かに愛されるためでもない。
ただ自然に零れた笑顔だった。
後に歴史は語る。
“偽りの聖女”と。
“悪役令嬢”と呼ばれた二人を。
だが。
その記録の最後には、こう残されている。
『誰より嫌われた令嬢だけが、誰より正しく人を見ていた』




