霧の夜に黒馬車は誘(いざな)う~死者と話せる石を買った令嬢の話~
石造りの大橋の欄干に手をかけ、夜の河を見下ろす。
月光の下、水音は意外なほど近く聞こえた。
真っ黒な河面に映る満月が、歪な輪郭で私を見返している。
なぜ今夜、ここに来てしまったのだろう。
眼下に流れる河の流れは、私から大切な人を奪ったのに。
「……エイダン」
闇に向かって、愛しい人の名を呼んでみる。
当然、返事はない。
もう、疲れた。
いっそ、このまま夜の河に身を投げてしまいたいくらいに。
三年前のことだ。
エイダンーー私の婚約者の命は、王都を貫いて流れる大河に飲みこまれた。
「誰か救けて! うちの子が流された!」
河岸で泣き叫ぶ母親の声を聞いて、エイダンは迷わず激流に飛び込んだという。
そして溺れる子供を岸に押しあげたあと、自分は力尽き、沈んでいったのだ。
前日に雨が降ったせいで、河は増水していた。
下流の中洲で亡骸が発見されたのは、二日も経ってからのことだった。
王立騎士団の若き騎士だったエイダン。
ふたつ年上の幼馴染みの彼は、優しくて勇敢で、正義のもとに行動する人だった。
目の前で死にかけている子どもを放っておける人ではなかった。
いまごろは天国で笑っているだろう。
「あの子の命が助かってよかったよ」と。
人々はエイダンを英雄と呼び、彼の棺は花で埋まった。
数か月後には私と二人、結婚式で祝福の花に囲まれるはずだったのに。
エイダンは正しいことをした。
私だって、頭ではわかっている。
でも、心はついていけない。
彼が死んだ日に、私の時間も止まってしまったような気がする。
おしゃべり、生意気、口の減らない娘。
そう言われていた私が、エイダンの喪が明ける頃には、すっかり無口になっていた。
反対に、両親の口数は増すばかり。
「あなたの気持ちはわかるわ、ルーシー。でも、エイダンのことは忘れなくちゃ」
「そろそろ前を向きなさい。父さんが必ず良い結婚相手を見つけてやるから」
母も父も、私を心配して言ってくれている。それもわかってる。
でも、前を向いたって意味がない。
どこを探しても、もう彼はいないんだもの。
一年が経ち、二年が過ぎ。
三年目になると、家族の慰めの言葉は咎める口調に変わっていった。
「いいかげんに見合いをしろ」
「女の子ひとりで、どうやって生きていくつもり?」
「新しい結婚相手を見つけるんだ」
「若いうちが花なのよ」
次々に縁談を持ってくる両親。断る私。日に日に険悪になっていく空気。
追い打ちをかけるように、私は大金を失った。
エイダンの墓に花を捧げた帰り道、自らを霊媒師と嘯く男に怪しげな石を売りつけられたのだ。
「この石があれば、死者と話すことができますよ。特別にお譲りしましょうか?」
整った顔立ちなのに年齢が読めない、妙な空気を纏った男だった。
彼が差しだしたのは、黒い石のついたペンダント。
蚤の市の屋台で売られていそうな、いかにも安っぽいそれに、私は飛びついてしまった。
奇跡は起きなかった。
ペンダントを身に着けても、エイダンの声が聞こえることはなかったのだ。
詐欺に遭ったと悟ったときには、霊媒師は姿を消していた。
「なんて馬鹿な娘だ、ルーシー!」
「これ以上ひとりにしておけないわ。今度こそ、お見合いをなさい」
激怒した両親と喧嘩になり、私は泣きながら家を飛び出した。
気づいたときには、ここでひとり佇んでいたのだ。
真夜中近くの橋の上には、他に人影はない。
昼は人であふれる王都でも、こんな時間に、こんな場所を歩く人なんて、そういないのだ。
いるとすれば、よほどの変わり者か、私のように事情を抱えた人――あるいは、人ではない何か。
「エイダン」
もういちど呼びかける。
ゆらゆら揺れる水面の満月が、涙で滲んだ。
どれだけ嘆いても、エイダンは生き返らない。
だけど、私は人生を続けていかなくちゃいけない。それが辛い。
女性が職業に就くことが一般的でないこの国で、下級貴族の娘が選べる未来は限られている。
家を継ぐのは弟だし、我が家には未婚の居候を抱える経済的余裕もない。
妻に望んでくれる人がいるうちに嫁ぎ先を決めなければ、家族にも迷惑がかかる。
でも私は、まだエイダンを忘れられない。
彼が生きていたときより、想っている。
少し頑固なところがあったエイダンとは、喧嘩した思い出だってたくさんあるのに。
プロポーズのときでさえ、ちょっとした言い争いをしていたのだっけ。
――あれは、私が十八歳になったばかりの春の出来事。
エイダンの額の擦り傷の手当をしながら、私はぷりぷり怒っていた。
『いつまでも現れないと思ったら……窃盗犯を捕まえた、ですって?』
『そう、だからこれは名誉の負傷』
にっこり笑って、エイダンは胸を張る。
一緒に出かける約束をしていたのに時間になっても迎えに来ず、やっと現れたと思ったら怪我はしているし上着は泥だらけ。
心配と驚きで、つい口調がきつくなる。
『相手は三人組で、ナイフを持っていたのよね? いくらあなたでも、一人で立ち向かうなんて危険よ。怪我で済まなかったらどうするつもりだったの』
『盗まれた財布を取り返してあげたかったんだよ。僕は騎士だ。困っている人を放っておくわけにはいかない』
『正義感を発揮するのもいいけれど、命知らずなのはどうかと思うわ』
『ルーシーこそ、あまり気が強いと嫁の貰い手がつかないぞ』
『よけいなお世話です!』
頭にきて、ぐいぐいと手荒に包帯を巻く。
痛い痛いと騒ぐエイダンに、
『お嫁に行けなければ働くまでよ。私、看護婦になろうかしら。最近は女性の教師だっているし、流行りのデザイナーもいいわね。そうだわ、いっそ騎士団に入って御前試合でエイダンをやっつけるっていうのはどう?』
『ごめん、ごめん! 君なら全部実現できそうだ』
包帯だらけの顔で笑い、彼は続けたのだ。
『でもさ、ルーシー。騎士団に入る前に、まず僕と結婚してみるっていうのはどう?』
本当に嬉しかった。
子供のころから一緒にいるせいで、なかなか素直になれなかったけれど、このときには、もう彼を愛していたから。
看護婦も教師も口から出まかせだ。私は彼の妻になりたかった。ずっと。
『死ぬまで一緒にいよう、ルーシー』
そう言ってキスをしてくれたエイダンの、透きとおるブルーグレイの瞳。
夢が叶ったあの日の空は青く澄んで、雲は甘い綿菓子のように白かった。
庭の木蓮は満開で、薄紅色の花が風に揺れて、美しかった。
彼の隣で見る世界は、色あざやかに輝いていたのに。
今、私はひとりぼっちだ。
彼のいない世界で生きて行けるほど、私は強くない。
「会いたい……会いたいわ、エイダン」
ひとり呟き、うずくまる。
そのとき、しゃらりと金属音をたてて、足もとに何かが転がった。
身に着けていたペンダントの鎖が切れて、落ちたのだ。
いんちき霊媒師に「死者と話せる」と売りつけられた、黒い石のペンダント。
詐欺と知ったあとも未練がましく持ちつづけた、私の愚かさの象徴だ。
「こんなもの……!」
壊れたペンダントを拾い、欄干の外側へと投げ捨てる。
石を飲みこんだ水面が揺れ、映る月がグニャリと歪んだ。
まるで、水の中で誰かが笑ったみたいに。
リィーン、ゴォーン……
リィーン、ゴォーン……
頭上から突然鳴り響いた音に、私はビクッと肩を震わせた。
河岸にそびえる大聖堂の鐘が鳴りはじめたのだ。
時計塔に灯がともり、文字盤の針が午前零時を指しているのが見える。
――なぜ、こんな時間に?
新年を除いて、時報がわりに鐘が鳴るのは午後八時までだ。
おかしい。なぜ今夜に限って、真夜中に打ち鳴らされているのだろう。
聞きなれたはずの鐘の音が、闇の中で不気味に響きわたる。
急に気温が下がった気がした。
まるで白い帳を引くように、霧がたちこめる。
視界が閉ざされ、時計塔も月も見えなくなった。
鐘が止み、代わりに別の音が聞こえはじめた。
……ガツ、ガツ、ガツ、ガツ……
……ガラ……ガラ……ガラ……ガラ……
不気味なほどの緩慢さで、その音は近づいてくる。
馬の蹄と、車輪が軋む音だ。
やがて濃い霧の中から、一台の馬車が姿を現した。
ぞっとするほど美しい馬車だった。
二頭立ての馬は、どちらも闇を切り取ったような黒い毛並み。
大きく立派な車体は、やはり漆黒に塗られている。
御者も黒い服を着ているけれど、顔は霧に隠されて見えない。
馬車が止まる。
漆黒の扉が開き、中から光が溢れ出た。
煌々と明りが灯る車内から、ひとりの男性がこちらを見ている。
彼の顔を認識したとき、文字通り心臓が止まりそうになった。
「エイダン……?」
呼びかける声が掠れる。
微笑みながら馬車を降りてきたのはーー
三年前に死んだはずの、私の恋人だった。
「エイダン……エイダンなの?」
ありえない。
エイダンの遺体は墓地に埋葬されている。
でも、彼だ。
少し癖のある栗色の髪も、ブルーグレーの瞳も、生きていた頃の姿そのまま。
愛しいエイダンが、目の前に立っている。
「ルーシー」
懐かしい声が私の名を奏でたとたん、疑念と一緒に理性や恐怖も崩れ去った。
「エイダン!」
駆け寄る私を抱き止めてくれるエイダンの腕の温もりは、三年前と少しも変わらない。
「エイダン! エイダン……どうして、ここに?」
「きみが望んでくれたからだ、ルーシー」
そう言って、エイダンは私の髪を優しく撫でた。
「私が望んだから……?」
さっき、私は「エイダンに会いたい」と願ったあと、ペンダントを河に投げ入れた。
まさか、それで……?
脳裏に、あの霊媒師の面影が過る。
すっかり騙されたと思っていたけれど、彼から買った「死者と話せる石」は本物だったの?
「エイダン……会いたかった。あなたがいなくて寂しかったわ」
訴えかけるあいだにも、あらたな涙が溢れる。
優しく頬を拭ってくれながら、エイダンは何度も頷いた。
「僕もだよ、ルーシー。君が恋しくてたまらなかった」
私を見下ろす瞳も、言葉も、限りなく優しい。
思いが堰を切ったように溢れだし、私はエイダンにしがみついた。
「あなたの勇気を、みんなが誉めてるわ。私だって誇りに思ってる。でも、でも生きていてほしかった。英雄にならなくていいから、そばにいてほしかったの」
「すまなかった。寂しい思いをさせたね」
「お父様もお母様も、あなたを忘れて他の人と結婚しろというの。嫌だと言っても聞いてくれないのよ」
「ひどいね、辛かっただろう」
「戻ってきて、エイダン。お願いよ」
「それはできないんだ。僕だって君のそばにいてあげたいけど」
エイダンが悲しげに首を横に振る。
落胆が襲ってきた。彼の胸を叩き、かきくどく。
「また置いていくのね。私、エイダンがいないと何もできないのに。もう嫌、こんな人生いらないわ。連れていってよ、あなたのいる場所へ……!」
「嬉しいよ、ルーシー」
エイダンが、にこりと笑う。
……その笑顔に、かすかに違和感を覚えた。
「エイダン……怒らないの?」
「そんなこと、するわけがないよ」
私の左手を、エイダンの右手が優しく包みこむ。
「かわいそうに。冷たい手だ」
いとおしげな呟きと温かいキスが私の手におりてくる。
そのまま甘い声で、彼は囁いた。
「疲れたね、ルーシー。もう頑張らなくていいんだよ』
「エイダン……」
もう片方の手を私の背中にまわし、彼は馬車の方へと向き直った。
「さあ、一緒に行こう。あちらは静かだ。ひどいことを言う人もいないし、寒くもない。素晴らしい場所で、僕が永遠に君を守ってあげる」
馬車の中は、不思議なほど光に満ちている。
紅い革が張られた椅子に二人で座り、エイダンの言う「素晴らしい場所」に行けるなら――それは、とても幸せなことに思えた。
エイダンの手が私の背中を押す。
「おいで。ルーシー」
笑いかける顔も、大きな手も、たしかに私が知っているエイダンだ。
……なのに、なぜだろう。
彼が話すたびに、言い知れぬ不安が湧きあがる。
やわらかな声は、背後の河から響いてくるような気がする。
触れられている背中から、夜霧よりも冷たい何かが這い上がってくる。
不自然なほどの優しさに、胸の奥がザラザラと疼く。
隣にいる人は、本当にエイダンなんだろうか――?
「エイダン。ひとつだけ、訊いてもいい?」
馬車へと踏み出す足を止め、私は尋ねた。
「なんだい?」
「溺れていた子どもを助けたこと、後悔してる?」
その質問に、エイダンは深く頷いた。
「ああ、後悔している。僕は軽率だったよ」
声も、表情も、穏やかで優しい。
だけど。
――わかって、しまった。
「……あなたは、エイダンじゃないのね」
彼の顔を見上げ、呟く。
「あなたは、私。……私の未練と、執着だわ」
ずっと思っていたことがある。
誰にも言わず、心の中でだけ。
あの日、水に入る前。
エイダンは私のことを考えなかったのか、と。
もしも自分が死んだら恋人の私がどれほど悲しむか、どんな目に遭うか。
それを想像できたなら、見ず知らずの子どもを救けたりはしなかったんじゃないか、と。
正しい行いを貫くより、生きて私と家庭を築いてほしかった。
私を、私との未来を、誰よりも何よりも優先してほしかった。
だから今、彼から返ってきた答えは、私が欲しかった言葉そのものだ。
……でも、違う。
エイダンは、そんな人じゃない。
困っている人がいたら、助けずにいられない。
そのために命を失ってしまっても、「後悔している」なんて言わない。
まして、残された私に「もう頑張らなくていい」なんて、決して言わない。
私が愛してしまったのは、そういう人だ。
「……ごめんなさい」
小さな声で詫びる。
ここではない、どこか別の場所にいるエイダンの魂に向けて。
「ごめんなさい、エイダン。私の弱い心が幻をつくりだしたの。あなたの姿で嘘を言わせてしまった。あなたは嘘が嫌いだったのに」
私を抱く腕から、そっと逃れる。
意外なほどあっさりと、エイダンの幻は私を解放した。
「残るのかい、ルーシー」
尋ねる声は、陶器のように無機質だ。
そして、やっぱり河の底から聞こえるような気がする。
「……そうするわ」
「また辛い思いをするよ」
「でしょうね。私は弱いから」
「二度と僕に会えないよ」
「ええ、寂しいけれど」
幻のエイダンを見上げ、私は頷いた。
本物の彼じゃないと、わかっている。
それでも、愛しい人の姿を目に焼き付けたかった。
「じゃあ、置いていくよ」
エイダンの幻は私を見おろし、静かに言った。
すう……と、滑るように、その姿が馬車の中へと吸いこまれていく。
車内を煌々と照らしていた灯が、唐突に消えた。
馬車の内部は真っ暗に沈み、何も見えなくなる。
そのとき、またエイダンの声がした。
「君は弱くなんかない」
「……え?」
最後のひとことだけは、馬車の中から聞こえたような気がした。
それさえも、私の願望にすぎないのかもしれないけれど。
「ありがとう。さようなら、エイダン」
馬車に向かって告げる。
返ってきたのは、沈黙。
もしかしたら、私の想いが、今日までエイダンを縛りつづけていたのかもしれない。
どうか、彼の魂が安らかな場所へと導かれますように。
まだ私は、そこには行けないけれど。
そのとき、ふと気配を感じた。
後ろを振り返る。
「……!?」
驚きのあまり声も出なかった。
いつのまにか、御者が背後に立っていたのだ。
目深に被った帽子のせいで、やっぱり顔は見えない。
でも、形の良い唇に見覚えがある気がした。
……あの霊媒師に、似ている。
無言のまま、御者が距離を詰めてくる。
逃げようとして足がもつれ、転んでしまった。
「嫌よ、馬車には乗らないわ」
逃げ道を塞がれ、尻餅をついたまま後退りをする。
背中に橋の欄干が当たった。
この先は冷たい夜の河だ。落ちれば確実に死ぬ。
私に向かって、御者が更に一歩、前に出た。
「やめて……来ないで!」
思わず叫んだ、そのとき。
「そ、そこ! なな、何をしてるんだ!」
男性の声がした。
見れば、霧の中から走ってくる人影がある。
御者が動きを止め、踵を返した。
馬車の扉が音もなく閉まる。
欄干の側にへたりこんでいる私のもとへ、男性が息をきらして駆け寄ってきた。
転がり込んできた、といったほうが近い様子だったけれど。
「誘拐犯め、か、彼女から離れろ!……あ、あれ?」
私を背中に庇い、馬車へと向き直った男性の言葉が途切れる。
濃くたちこめていた白い霧が、嘘のように晴れていた。
満月の光が周囲を照らし、橋の下を流れる河音が聞こえる。
怪しい御者は姿を消していた。
あの美しい黒馬車とともに。
「どういうことなんだ。馬車ごと消えてしまうなんて……」
男性が呆然と呟き、私を見る。
背広に眼鏡の、真面目そうな印象の人だった。
まだ若い。私より少し年上くらいだろう。
「立てますか?」
月明かりの中、彼が手を差し伸べる。
躊躇いながら握ると、その指先が細かく震えているのがわかった。
「お怪我は無さそうですね。とりあえず、よかった」
ほっとしたように言ったあと、彼は大きく息を吐いた。
「はあ……怖かった! あ、いや、すみません、あなたのほうが怖かったですよね」
笑いかける顔が、とても優しい。
ありがとうございます、と蚊の鳴くような声で口にすると、
「あ、いや、僕は何も。それにしても、不思議な出来事だったなあ……」
さっきと同じような言葉を繰り返し、男性は照れたように首の後ろに手をあてた。その指先が、かすかに震えている。
こう言っては失礼だけど、さほど腕っぷしが強そうには見えない人だ。
でも、霧の中で悲鳴を聞いて、勇気を振り絞って救けにきてくれたのだ。
見ず知らずの私のために。
溺れた子どもの救助に向かった、あの日のエイダンのように。
目頭が熱くなって、私はそっと下を向く。
「お嬢さん、家はどこですか。送ります」
「いいえ……家族が驚きますので」
「あっ、ああ、そうか、そうですね。では河岸まで一緒に歩きましょう。じき夜明けです」
「夜明け……?」
「ええ、ほら」
彼が前方を指さす。
時計塔の向こうの空が、うっすらと明るくなっていた。
真夜中に鳴るはずのない時計塔の鐘が十二時を告げてから、そんなに長い時間が経ったとも思えないのに。
男性と一緒に岸へ渡り、時計塔の向こうに昇る朝陽を見た。
こんな人気のない時間に、なぜ彼は橋の上に現れたのだろう。
疑問に感じたものの、質問するのはやめた。
自分のことも話さなくてはならないと思うと、憚られた。
つかず離れずの距離を保って、彼は隣にいてくれた。私に事情を尋ねることもなく。
ただ、昇る朝陽に目を細め、呟いた。
きれいだなあ、と。
返事を求める口調でないことに甘えて、私は黙っていたけれど。
朝焼けの空は、たしかに泣きたくなるほど美しかった。
「感謝します。なにも聞かないでくださって」
別れ際、そう言った私に、彼は微笑んで首を横に振った。
「誰にだって、言いたくないことはありますから。ただ、困っているなら連絡してください。あっ、僕、怪しいものじゃないです。たまたま仕事で通りかかっただけで、でも、力になれることがあれば、ぜひ。僕の名前は……」
彼がポケットから手帳とペンを取り出す。
連絡先を書きつけて渡そうとしているのを察して、止めた。
「あの。お気持ちだけで、充分です」
名前を聞いたら、この人に縋ってしまうかもしれない。
現実と向き合うのは、まだ怖いから。
でも、それじゃ、私は変われない。
いちど口をつぐみ、言葉をさがす。
自分に言い聞かせるように、続けた。
「もう少し、頑張ってみたいので」
「……わかりました」
気を悪くした風でもなく、男性は手帳をポケットに戻す。
会釈して背を向けた。
優しい人だ。名前を知らないままでよかった。
ここで別れたら、もう会うことはないだろう。
「あの……お嬢さん!」
歩きはじめた私を、男性の声が呼び止める。
振り向くと、彼が両手を拳に握って立ち、真剣な目で私を見ていた。
「僕は職業柄、いろいろな事柄を見聞きします。良くない話もあるし、自分の無力を思い知ったり、悔しくなることもしばしばで……それでもね、この世ってやつは、ときどきですが美しいと思うんですよ」
首を傾げる私に向かって、彼は続けた。
「ええと、何が言いたいかというと……そう。頑張って」
偉そうにすみません、と付け加え、彼は帽子を取ってみせた。
胸に熱いものが込み上げる。
ありがとう、という言葉さえ声にできず、頷くのが精一杯だった。
今度こそ、私は家路に就いた。
まだ人気のない早朝の河岸を、泣きながら歩く。
夜が終わる。
世界に光が満ちていく。
黒い馬車の姿は、もう、どこにもない。
色彩を取り戻していく景色の中で、穏やかな河面がキラキラと輝いていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
陽射しが降り注ぐ河畔を、両親が待つレストランへと急ぐ。
大聖堂を仰ぎ見れば、時計塔の大時計の針は十一時四十五分を示していた。
約束の時間は十二時ちょうど。
十五分前、なんとか間に合った。
待ち合わせ場所のレストランは、実に瀟洒な建物だった。
アプローチでは見事な木蓮の樹が私を迎える。
薄紅色の蕾は、やっと解けてきたところ。
今年は春が来るのが遅いと、みんなが言っている。
霧の中で黒い馬車に出会った夜から、二年半が過ぎようとしていた。
あの不思議な出来事の記憶は、日を追うごとに現実味が薄れ、今では夢だったのかとさえ思う。
それでも、
『君は弱くなんかない』
馬車の扉が閉まる前に聞いた声は、はっきりと覚えているのだ。
エイダンを忘れることなんて、一生できない。
今だって、何かにつけて彼を思い出す。
それでいいんだ、と思えるようになった。
忘れなくていい。愛したことを。
囚われず、大切に胸にしまって、受け入れればいい。
エイダンは、もういない。
だけど、私は生きていく。
強くなって、前を向いて、私のままで。
――とはいえ現実は、今日もなかなか忙しない。
予約済みの個室に入った私を見るなり、母はあからさまな落胆の声を漏らした。
「ああ、ルーシー! どうして、きちんとした服を着てこなかったの!」
「たしかに色気のない服だけど、きちんとしているわよ。午前の診療時間が長引いて、着替える時間がなかったの」
コートを給仕に預け、席につく。
私が着ているのは紺一色の簡素な長袖ドレス。
実はこれ、勤めている職場の制服なのだ。
白エプロンと制帽は脱いできたから、仕事着には見えないはず。地味なことは否めない。
黒馬車から逃れて家に戻った私は、自立をめざして看護学校に入学した。
仕事を持つなんてますます嫁の貰い手がなくなると両親は大反対だったけれど、今は王立病院の看護婦として働いている。
自分で自分を食べさせることができれば、家族のお荷物にはならない。
なにより、看護の仕事にやりがいを感じている私がいる。
最近では、もう独身のままでいいとさえ思うくらい。
でも両親は、あいかわらず私の夫探しに躍起なのだ。
今日ここにやってきたのは、父が久々に取り付けてきたお見合いのため。
今回ばかりは断りきれなかった。相手の男性が大貴族の親戚筋で、まずはお見合いを成立させないと角が立つといわれたせいだ。
「ドレスに着替えてくればよかっただろう。せっかくの縁談を台無しにする気か」
私を引っ張り出すことに成功して上機嫌だったはずの父は、今は苦虫をかみつぶしたような顔をしている。
「仕方ないじゃない、今日は患者さんが多かったんだもの。それにドレスを着たところで私の歳は若くならないのよ、お父様」
「あいかわらず口の減らないことだ。仕事を持ってから輪をかけて生意気になった」
「ルーシー、他人のために頑張るのもいいけれど、自分の人生も大切にしなくちゃいけないわ。私たち、あなたに幸せになってほしいのよ」
「わかってるわ、お母様。ありがとう」
母の言葉に、くすっと笑いそうになる。
こんなことを、私自身が言われる日がくるなんて。
「とにかく、気に入られるように振る舞うんだぞ。お前のような変わり者と見合いをしてくれる相手は、真冬に咲く花くらい珍重なんだ」
力説する父の隣で、母は不安そうに首を傾げた。
「でも……とてもお忙しい方なのでしょう? 新聞社にお勤めなのはご立派ですけれど、記者というのは昼も夜もないお仕事と聞きますわ。結婚してもルーシーが寂しい思いをするのじゃないかしら。もっと良い条件の殿方はいらっしゃらなかったの?」
「条件の良い男はルーシーの顔を見ることさえ承知してくれんぞ。若くもない上に結婚後も外で働きたがる娘なんぞ、面倒すぎて普通は会う気にもならんからな」
「あなたったら、自分の子にそんな言いかたをして」
「喧嘩しないで、お父様、お母様。お店の方が見ているわよ」
言い合いを始めた二人を諌める。
ただ、父の気持ちもわからないではない。
いまや私は、ちょっとした変人として扱われているからだ。
「嫁きおくれ」といわれる年齢にさしかかりつつあるうえ、仕事を持つ女性は、まだまだ珍しい。それこそ、春に降る雪くらいに。
大きな窓からは、大聖堂の時計塔がよく見える。
もうすぐ約束の時間だ。
肝心のお見合い相手は、まだ現れない。
「ねえ、あなた。相手の方、遅くありませんこと?」
「記者は忙しいと言っただろう、仕事が押しているのさ。うちのルーシーだってギリギリの到着だったんだから……」
両親は明らかに焦りはじめている。
けれど、私はかえって安堵を覚えていた。
きっと、あちらも乗り気ではないのだ。
形ばかりの挨拶と弾まない会話、一度きりの食事をすませたあと、ご縁がなかったと断られるだろう。
それとも、このまま現れなかったりして……。
そのとき。
ダダダダ、と慌ただしく廊下を走る音が聞こえたかと思うと、入り口のドアが勢いよく開いた。
「お、遅くなりました! 申し訳ありません!」
飛び込んできた背広姿の男性が、帽子を取って頭を垂れる。
「……あ」
思わず、小さな声が漏れた。
眼鏡をかけた人のよさそうな顔に、見覚えがあったからだ。
相手も同じくハッとした表情になり、
「あなたは……」
と呟きかけて、言葉を飲み込む。
窓から入る陽射しを浴びて立っていたのは、あの夜、黒馬車から私を救ってくれた男性だった。
こんな偶然、ある?
言葉を探しているのか、男性が唇を動かす。
結局、はにかんだように微笑んで、彼は私に向かって言った。
「ハロルドといいます。よろしく」
「……ルーシーです」
二年半越しに、私たちは互いの名前を知ることになった。
窓の向こう、大時計の二本の針が、文字盤のいちばん上でピタリと重なる。
リィーン、ゴォーン……
リィーン、ゴォーン……
大聖堂の鐘が鳴りはじめた。
正午と、遅い春の訪れを告げるように。
お読みいただき、ありがとうございます。
(※作品の世界観に合わせて、敢えて「看護婦」という表現を使っています)
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