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第四章 ―― 施洗ヨハネ学院

施洗ヨハネ学院は、ドロンド大学でも最古参に数えられる学院のひとつで、中央芝生の反対側に建っていた。

灰黒の石レンガ造りという点では大学学院と同じだが、あちらが主棟一棟で完結しているのに対し、こちらは連結した建物群が四角く囲みを作り、いわゆる中庭型――「四合院」のような構えになっている。


(さて。どこが“面白い”のか、見せてもらおうじゃない)


中へ入ると、正面玄関の先は長い廊下だ。

左に寮とホール、右に教室。まっすぐ進めば露天の中庭に抜ける。


「ちょうど昼前ね。ここで食べましょう」

イリサがそう提案した。


三人はホールへ向かう。


ホールといっても、薄い赤の床タイルに、数十人は座れる濃い茶色の長卓が平行に何列も並ぶこの部屋は、昼時になると食堂として機能するらしい。


室内奥には一段高い壇があり、精緻な彫刻の施された長卓と十数脚の椅子が据えられている。学院の管理層用――そう見て間違いない。


突き当たりの色ガラス窓の前には、木彫りの磔刑像が置かれていた。


(聖書由来の名にふさわしい、ってところね)


左端の卓には料理が山と積まれ、騒がしい学生たちが列を作っている。


三人も最後尾へ。


イリサは壁の時計を見上げ、眉をひそめた。


「十二時ぴったりが授業の切れ目……ついてないわ」


「今日は急ぎじゃないから、まあ」

クレアが肩をすくめる。


「……」

ユウは視線を忙しく動かし、近づいてくる学生がいないか警戒している。


「力を抜いて。ここで身分を晒す気はないの」

イリサは軽くユウの肩を叩いた。


「人混みで警戒が強くなるのは分かるけど、ここで過剰反応は厳禁よ。もし“それ”を抜いたら、面倒が増えるだけ」

クレアも念を押す。


ユウは息を吐いた。

「了解しました」


列はゆっくり進む。――そのときだ。

数人の小集団が、列を無視して先頭へ割り込んだ。


「……並ばない人がいる」

イリサは不快そうに眉を寄せる。


「何か文句でも?」


先頭の背の高い男が振り返った。

だぶだぶの黒い上着とズボン。金髪で、横は短く刈り上げ、上だけを長く残して左右へ流している。


怒りを見せるでもない。

ただ顎を少し上げ、目を細め、イリサを見下ろした。


ユウの手が腰へ伸びるのが視界の端に映り、イリサは即座に空気を和らげにかかる。


「いえ、なんでも。ただ……耳がいいんですね、と思って」


だが通じない。男は鼻で笑った。


「名前は?」


「えっと……ク、クレアです」


(咄嗟にいい偽名が出ない。ごめん、クレア)


横目で見ると、当のクレアが呆れた顔でゆっくり首を振っていた。


「聞いてるのはそれじゃない」

男の声は冷たい。


「姓だ」


イリサは頭の中を猛スピードで探り、


「……ウェンディ。クレア・ウェンディ」


衛隊の誰かの名を、口から滑らせた。


男は、不穏な笑みを浮かべる。


「知らない姓だ。新入りか。なら特別に忠告してやる」


一歩、距離を詰めてくる。


「俺はジョン。ジョン・スミス。この学院の名の通り――ここでは俺が“管理者”だ」


そう言い捨て、男は踵を返した。


――新入りなら、あの程度の無作法は仕方ない。

筋のいい苗なら、少し教えれば“尊重と服従”を覚える。


……だが。


「会えて光栄よ、ジョン」


ジョンは足を止め、振り返る。

白髪の少女が、悪戯っぽく笑っていた。灰色のコートの裾をつまみ、挑発するように頭を下げる。


顔を上げた瞬間、光の反射で瞳が一閃した。


ジョンは目を細める。


――教えが足りない。


貴族としての礼節は身につけている。だが、挑発を飲み込めるほどの度量はない。

血が熱くなり、午前中の疲労が霧散した。


それでも、礼は崩さない。


ジョン・スミスはゆっくり向き直り、右手を胸へ当て、微かに会釈した。


「こちらこそ。クレア・ウェンディ。施洗ヨハネ学院へようこそ」


顎を上げたその目は、氷のように冷たい。


――ジョン一派が席に着くと、三人は意識して遠い卓へ移った。

食事中もユウは、彼らが近づかないか目を離さない。


「どう思う?」

イリサはフォークで皿のピザを刺す。


クレアはティーカップを置いた。


「さあ。報復の機会を探すんじゃない?」


「違う。身分よ。姓にこだわってた。貴族筋じゃない?」


「姓はスミス……そこから何か引けるかも」


クレアはカップの取っ手を指でなぞり、考え込む。

本土ではありふれた姓だが、彼女の知る貴族にスミスはいない。


そのとき、背後から慎重な声が落ちてきた。


「……すみません。盗み聞きするつもりはなかったんです。でも、確かに――ジョンの父親は貴族で、政府の要職です」


イリサが顔を上げると、三メートルほど離れた席に、黒縁眼鏡の黒髪(中くらい)の男子学生が座っていた。


イリサは皿を持って少し近づく。クレアとユウも続いた。


「助かるわ。もう少し詳しく教えて。……私はイリサ。会えて嬉しい」


右手を差し出す。


男は躊躇いながら、軽く握り返した。


「グレン・ブライアンです。こちらこそ。失礼ですが……さっき、あなたはクレアと名乗ってましたよね」


「あ……」


イリサは視線を逸らし、頬を掻く。


「偽名よ。今のも偽名かもしれないけど」


言いながら、内心で舌打ちする。


(うっかり真名を出した……認識されたら最悪。もっと慎重に……!)


だが幸い、誰もが王室に詳しいわけではない。

グレンはただ頷いた。


「賢明です。スミスは必ず名前から家を洗います。家族を人質に取る――そういうやり方をずっとしてきた。ここはもう、完全に彼の庭です」


クレアが眉をひそめる。


「監督役は? 抗議や通報は?」

彼女は名乗る。

「クレア。よろしく」


「よろしく。監督教授はいます。学院ごとに何人か。ですがスミスと仲間は、表向きは決定的な違法をしない。汚れ仕事は他人にやらせます。通報もありましたが、証拠不足だの何だので潰れる。その後、通報した学生はもっと酷い報復を受けた。スミス家の影響力を考えれば、管理側や警察が買われてても不思議じゃない」


グレンは力なく首を振った。


イリサは周囲をちらりと見回す。こちらを見ている者はいない。


「転院は?」


「当然考えました。でも、転院には監督役の承認が要る。そこでスミスに知られます。妨害される。彼は“支配してる感覚”が好きなんです。人がいなくなれば、命令する相手が消える」


クレアが、午前中に学長が語った話を思い出し、問いを重ねる。


「学生自治って言ってた。最初からこう? それとも最初から彼が管理者に?」


「本来は全員投票で管理者を決めるはずでした。候補者も多かった。でも……ほとんどが辞退した。脅されたんでしょう。結果、スミスが買収と威圧で過半数を取り、学院長に。あとは自分の取り巻きを管理側に据えて、今に至る。彼は成績もいいし、資源の使い方も上手い。……まあ、父親の資源ですが」


イリサが身を乗り出す。


「父親って?」


「財務大臣です。それにKANATAで最も名望ある貴族――スミス家」


クレアが紅茶でむせ、慌ててナプキンで口元を拭いた。


「一番名望があるのって、普通は総督のキング・マッケンジーじゃないの?」


「総督個人の評判はいい。でも本土貴族の傍流で、KANATAでは地盤が薄い。一方スミス家は何世代も前にここへ移り住んでいる。KANATAの人間は“身内”として見がちです。しかも大恐慌の対応が評価されてる。だから……」


グレンは両手を広げた。


イリサは腑に落ちた。


「なるほど。筋が通るわね」


グレンは拳を握り締め、俯いた。


「家の力で好き放題なのに……」


白髪の少女も、無言でティーカップを強く握る。


気づいたクレアが、そっと肩に手を置いた。


「ジョンの問題は、“権力を持ってる”ことじゃない。“権力を濫用してる”ことよ」


「……うん。そうね」


イリサはふっと表情を戻し、立ち上がる。


「面白くなってきた。食事も終わったし、私たちは先に失礼するわ。グレン、また会いましょう。いい話だった」


「僕も、会えてよかった」


クレアも礼をして、ユウも無言で頷く。


「こちらこそ」


周囲の視線がないのを確認し、グレンが声を落として続けた。


「スミスはあなたたちを目をつけました。最後の一言は、彼には挑発にしか見えない。必ず報復してきます。ここで彼の権威に異を唱える者は、もう長くいなかった。――本当に気をつけて」


「忠告、ありがとう」


イリサはもう一度手を差し出す。


今度はグレンが強く握り返し、何度も振った。


「簡単に屈しないでください」


――総督府に戻ると、クレアはメイド服に着替えた。

淹れたばかりの紅茶を載せたトレイを手に、執務室の扉を開く。


イリサは応接区の長いソファに寝転がり、天井のシャンデリアをぼんやり眺めていた。


クレアはカップを置き、褐色の液体を静かに注ぐ。


「学院のこと、気にしてる?」


紅茶の気配にイリサは起き上がり、目をこすってから、模様入りの磁器に指を伸ばす。


「まさか。あれは偽名よ。真名を知られても別に――熱っ!」


指を振ってから、取っ手を持ち直す。


クレアは自分のカップを右手で持ち、左手でソーサーを支えた。


「じゃあ何を? 内閣?」


イリサは頷き、湯気を吹き払う。


「内閣の支持は不可欠。ここは本土から遠い。緊急時に王室の影響力が届かないなら、完全に切り離されても彼らが私に従う仕組みが欲しい」


「危機の時に、乗っ取られるのが怖い?」


イリサはもう一度頷いた。


「妄想ならいい。でも財務大臣の息子が学院であれなら、父親も似たようなことをやりかねない。キングを疑ってるわけじゃない。けど最悪を想定するのは当然よ」


クレアが頷くのを見て、イリサは続ける。


「キングの息子は本土勤務……人質よね。でも逆もある。私がここにいる限り、私が人質になり得る。本土が自分のことで手一杯なら、キングが反旗を翻せば、内閣は雪崩を打って私から権力を奪う。私が人質なら本土も手を出しにくい。……結果、キングが実質の最高権力者になる」


「だから、内閣を改組する?」


「すぐじゃない。でも新しい人材を少しずつ入れれば、今の連中の影響を薄められる」


クレアは頷く。


「どういう人を入れるの?」


「できるだけ平民出身。普通は縁がなくて上に行けない。そこを私が引き上げるなら、忠誠は得られる」


イリサはカップを唇に近づけ、慎重に一口飲む。


「……あなた、紅茶の腕、上がった?」


クレアは鼻を鳴らす。


「話を戻す。あなたは、その少数の内閣を“万年内閣”にして権力の柱にするつもり?」


「そう。決定権はこちら。下院は抵抗できない」


クレアは数秒考える。


「でも、その内閣にどう報いる? 長期の支持はタダじゃない」


イリサはさらりと言った。


「権力そのものが報酬。一定の腐敗は許す。その代わり、私を支える」


「……わお」


クレアは感嘆したように、ゆっくり頷く。

気づけば友人は、政治家の顔をしていた。


「意外。……でも、あなたは軍を押さえた。政変の可能性は下がる。なら、忠誠を保つには“代替可能”だと教えるのがいい。例えば、下院選挙のたびに内閣を組み替える。政府はメディアも握ってる。親帝国派で下院を固めるのは難しくない。けど、党内で自分が切られないために、閣僚は不忠を見せられない」


イリサは考え、やがて小さく手を叩いた。


「それ、いい。少数を買うより、公共政策で有権者を“買って”、宣伝で下院を押さえるほうが、私の評判も上がる。検討するわ」


クレアはイリサの肩を軽く叩き、問いを投げる。


「ねえ。嫌われ者の支配者がいて、その周りの“汚れ仕事”の人間に、もっと高い値段を出す者が現れたら……どうなると思う?」


イリサは視線を上げる。


「つまり……。でもジョンは家がある。周りの忠誠は揺らがない。私よりむしろ安定してる。……だけど」


クレアが微笑む。


「方法はある。あなた、自分がどこに住んでるか忘れた?」


イリサの呼吸が、興奮で少し速くなる。


彼女はカップを持ち上げ、クレアのカップの縁に、軽く触れさせた。


「その通り。ジョンが裏でこそこそやるのが好きなら――少しくらい、こっちも悪戯しても罰は当たらないわよね?」

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