第三章 ―― KANATA到着
1936年6月21日。
遠くで、塔楼の鐘が十回鳴り響いた。
ウェストミンスター宮殿の正門前では、赤い制服に黒い熊皮帽を被った近衛兵たちが小銃を手に、花に囲まれた庭園の石畳に沿って二列に整列している。
道の先の小広場には、中央に白い大理石の彫像を据えた噴水を囲むように、六台の黒塗りの高級車が半円を描いて停められていた。
黒い軍服に金色の勲章をいくつも下げ、杖を手にした国王と、白いコートと帽子に身を包んだ王妃が手を取り合い、その少し前を歩くのは灰色のコートを着たイリサと、黒いコートのクレアだった。
その脇には、黒いスーツに金色の短髪を整えた首相が、無言で付き従っている。
車に乗り込む前、イリサは振り返った。
「行ってきます」
国王と王妃の目を見つめた瞬間、瞳が滲む。
(次に会えるのは……いつになるのだろう)
国王は小さく頷いた。
「道中、気をつけるのだ」
王妃は帽子を外し、丁寧に編まれた白い長髪を胸元へ落とす。
涙をこらえながら、イリサの隣に立つ金髪の少女を見た。
「クレア……イリサを、よろしくお願いします」
クレアは深く一礼した。
「お任せください」
出発日が決まってから、イリサは毎日、指折り数えてきた。
それでも、この日はあまりにも早く訪れた。
「最後に確認だ。荷物はすべて揃っているな? 私が渡したものも」
国王は目を細め、厳しい声で言う。
「すべて収めてあります。ご心配なく。現総督にお渡しする手紙も」
イリサはそう答え、帽子の影で必死に涙を拭う王妃に、精一杯の微笑みを向けた。
重い空気を断ち切るように、少女たちは国王夫妻と首相に一礼し、待機していた車へと乗り込む。
窓越しに手を振り続け、二人の姿が見えなくなったところで、イリサはついに白いハンカチを取り出し、溢れる涙を拭った。
向かいの席では、クレアも顔を背けて外を見ている。
数分後、何事もなかったかのように、イリサは声をかけた。
「そういえば、飛行機は途中でいくつかの島に寄るみたいね。海の景色、見られるかしら」
「楽しみですね」
二人とも目尻が赤いままだったが、そのことには触れなかった。
――機は大洋の孤島にある軍事基地に一度降り、夜を越してから、翌日の夕刻、KANATA総督管区の首府ドロンド市に到着した。
道中は夜だったため、外の景色はほとんど見えない。
到着後、専用車で市中心部の政府中央庁舎へ向かう。
職員に案内され、イリサはキングの執務室へ通された。
クレアは一階のホールで待機する。
天井の大きなガラスのシャンデリアが、広い部屋を照らしている。
白いクロスを掛けた長机と、両脇に並ぶ椅子が空間の大半を占めていた。
中央の席で書類に目を落としていた老人――キング・マッケンジーは、数年前とほとんど変わっていない。
白髪は相変わらず左右に整えられ、老眼鏡の奥の視線には鋭さがあった。
来客に気づくと、彼は書類を置き、前へ出る。
「ご苦労だった」
イリサはコートの裾を軽く摘み、礼をする。
「ご無沙汰しております、総督閣下。夜分に失礼いたします。最後にお目にかかったのは、閣下が本土へいらした時でしたね」
「あれは三、四年前だったな」
キングは右手を差し出し、イリサはそれを握った。
「気軽にキングと呼んでくれていい。……そういえば、いつも一緒だったあの子は?」
「クレアなら下のホールで待っています。お呼びしましょうか?」
「いや、今日はいい。長旅で疲れただろう。私の頃は船だったからな……今思い出しても地獄だ」
軽く笑い、続ける。
「今週は休むといい。屋敷へはすぐに送らせる。具体的な話は来週にしよう」
イリサは頷いた。確かに、疲労は隠せない。
「ありがとうございます。それと……こちらでの私の身分についてですが」
「心配無用だ。すでに整えてある。学業も続けたいのだろう? ドロンド大学には話を通してある。書類はすべて住まいにある。必要があれば連絡を」
「助かります」
簡単な挨拶を終え、キングが侍従に合図する。
用意された車で、イリサとクレアは総督府へ向かった。
衛兵の立つ門をくぐると、花と楓に囲まれ、中央に白いガゼボのある庭が広がり、その奥に欧風の館が姿を現す。
「……大きい」
それが、イリサの第一印象だった。
主棟だけでなく、左右に短い翼棟が伸び、逆U字型を成している。
(まるで本土の学院みたい……)
外観は古風だが、街灯の反射で二階に巨大なパノラマ窓があるのに気づく。
(ずいぶん前衛的ね)
一階の灯りが外まで溢れ、ホールには十数人の少女が待っていた。
「もう着いていたのね」
イリサが手を振ると、黒いコートに身を包んだ少女たちは一斉に直立し、右手を挙げて礼をする。
合図とともに手を下ろし、先頭の黒髪の少女が前に出た。
「はい。飛行機を降りて、そのままこちらへ」
彼女が振り返ると、他の少女たちは再度敬礼し、散っていく。
「事前の点検です」
「ありがとう、ユウ。部屋に案内してくれる?」
「こちらへ」
ユウは階段へ向かう。
彼女たちは王立衛隊――戦災孤児から選抜され、幼い頃からイリサに仕える護衛だった。
二階の扉の前で、ユウが説明する。
「こちらが執務室です。奥に寝室へ通じる隠し扉があります。クレアさんの部屋は向かいです」
中に入ると、巨大な窓の向こうに庭が広がる。
床は灰白の絨毯、手前には応接用のソファとテーブル。
奥には大きな木製の机と革張りの椅子、書類と電話。
壁にはKANATA総督管区旗――赤地に、左上のユニオンフラッグと、楓葉に寄り添う金の王冠。
暖炉の横で、ユウが壁のスイッチを押す。
隠し扉が開き、寝室が現れた。
「廊下からも入れます」
イリサは感嘆しながら電話を取る。
国王へ無事を伝え、書類袋を開く。
「お疲れさま。自由にしていいわ」
ユウは頷き、クレアはすでにソファで寝転がっていた。
「今すぐ仕事ですか?」とユウ。
「急ぎじゃないけど……今のうちに」
イリサは電話を取り、陸軍司令に繋ぐ。
「こちら国防部。ようこそKANATAへ、殿下」
「到着の報告です」
「了解しました。三軍総司令の権限は、今より殿下へ移行します。非常時、全軍は殿下に忠誠を誓います」
電話を切り、イリサは小さく息を吐いた。
(これで、切り離されても……)
袋の中には、空欄の身分証と学生証。
「準備がいいわね……」
証を配り、ユウを見送る。
クレアが学生証を眺める。
「使う気?」
「もちろん。勉強は続けたいもの」
「試験、免除できないかしら」
イリサの目が輝く。
「行けるわ。校長に頼みましょう!」
――翌日、ドロンド大学。
灰色の石造建築、鐘塔の下で三人は立ち止まる。
学長室で、老学長は即答した。
「構いません、殿下」
ただし、試験のみ免除。課題は提出する。
去り際、学長が言う。
「七つの学院があります。六つは学生自治。……興味深いでしょう?」
「どんな学院が?」
学長は微笑む。
「一つだけ、特に」
「名前は?」
「施洗ヨハネ学院――ジョン・カレッジです。行けば分かりますよ」




