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第七章 ―― 机の下の帳簿

一度来た道だ。総督の肖像画が並ぶ廊下を抜け、キンの執務室へ向かう。


扉が少し開き、金縁眼鏡の中年が顔を覗かせた。

深褐色の髪を撫でつけ、鏡越しに訪問者を見る。


「おお、ようこそ。イリサ殿下」


秘書――バーナが来客を確認し、扉を開ける。


「こんにちは、バーナ。少し……いい?」


イリサが室内の、腰壁の中央にある閉ざされた両開き扉を指差す。


バーナは視線を追い、


「総督は現在、財務大臣と会議中です。お取り次ぎしましょうか?」


「いいえ。少し待つわ。ここで」


イリサは秘書室へ入り、クレアも続いた。


「中は手狭です。私は一階ホールで待機します」


ユウは廊下に残る。


「うん、あとでね」


イリサが手を振り、扉を閉めた。


バーナが革張りの椅子へ促す。

クレアは座ったが、イリサは礼をしてから、会議室の扉へ近づいた。


盗み聞きのつもりはない。……ないのだが、声が大きく、内容が漏れてくる。


「……それでは政府の権威が損なわれる。行政効率も落ちる。社会の安定にも影響が出る……!」


知らない男の激した声。財務大臣だろう。


キンの、少ししゃがれた声が返す。


「ジョー、懸念は分かる。だが今さら何を言う。自治、あるいは王国からの離脱を求める声は年々強い。抑え込めば過激化する。なら、適度に出口を作ってやるほうが――」


財務大臣の声がさらに高くなる。


「だが、下院を設けて立法権を与えればどうなる? 無意味な条例で我々を縛るだけだ! 公務員の士気は下がり、政府運営は麻痺する。局外者に口を出させれば混乱しか生まない!」


キンが咳払いする。


「政策は総督の裁可が必要だ。上院も盾になる。……それに、政府は公共の意思決定を担うはずだろう。“公共”なのに、決定に公衆が関与しないのは不自然じゃないか」


(……キン、意外と綺麗事を言うのね)


本心かどうかは別として。


財務大臣の声が尖る。


「公衆は多くの場合、自分が何を必要としているか分からない! 我々が方向を示すべきなんだ。……とにかく、もう一度殿下を説得してくれ。でなければ――」


一拍。


イリサは壁にもたれ、さりげなく耳を扉へ寄せる。

バーナは止めない。新聞を読みながら、僅かに笑っている。


キンが静かに返す。


「……でなければ?」


「行政の混乱が起きる。殿下の評判も傷つく。本土に伝われば不利だ。私は殿下のためを思って――。失礼する!」


椅子脚が床を叩く音。


キンは、相手が離れていく分、声が大きくなる。


「分かった。説得は難しいが、意見は伝えよう」


足音が近づく。


(まずい、このタイミングで顔を合わせるのは気まずい……!)


イリサは周囲を見回し、小部屋を見つけた。


「ちょっと借りる」


バーナの頷きを確認し、イリサは椅子のクレアの腕を掴んで引きずり込む。


扉を閉めた直後、会議室の扉が開いた。


隙間から覗くと――


「終わりましたか」


バーナが立ち上がり、濃灰のストライプスーツ、金髪短髪、少し腹の出た中年へ声をかける。


財務大臣はジャケットのボタンを外し、息を吐く。


「相変わらず説得が難しい。もし彼が改革議程について何か漏らしたら、私に知らせてくれ。……失礼する」


黒い山高帽を取り、バーナに頷いて去っていく。


「承知しました、大臣」


見送ったバーナの背を見ながら、イリサは小部屋から顔を出した。


「……もう出ていいみたい」


クレアは元の椅子へ戻り、太腿を揉む。


「別に隠れなくても良かったと思うけど」


「私の話題で揉めてたんだもの。面と向かったら気まずいでしょ」


「あなた、次の総督でしょ? その“気まずい”はどこに置いてきたの?」


「……今はまだ、でしょ。いいの!」


イリサはクレアを置き、会議室の扉をノックして入った。


初日と同じく、キンは眼鏡をかけ、長机の中央に座っていた。

ただ今日は、周囲の机に木箱がいくつも開かれ、書類が詰まっている。


イリサは扉を閉める。


「キン、お久しぶり」


「お久しぶり、殿下。……数日ぶりですがね」


キンは書類を置き、微笑む。


「今日はどうされました」


「散歩のついでに寄っただけ。……車を数台貸してもらえます? 湖のほうに停めたままで、歩いて戻るのが遠すぎて」


「その程度ならもちろん。後でバーナに言ってください」


キンは向かいの席を手で示す。


「ちょうどいい。公共安全大臣から連絡がありました。市内の警察施設で、殿下の求める即応部隊を、数十名規模で収容できるそうです」


彼は報告書を取り出した。


「基本装備に加え、各員に半自動小銃。軽装甲の小型兵員輸送車を十台――軍から回した中古ですが」


イリサは頷く。


「悪くないわ。募集と選抜は護衛隊がやる。軍と警察、両方の経験があるから。……ところで自動火器は? サブマシンガンとか」


「今のところは無しです。市街地では精密射撃のほうが適切だ、と判断したのでしょう」


「うーん……でもドロンドは合衆国に近い。銃の密輸リスクは高いわ。火力は多めに。備えあれば憂いなし、でしょ」


キンは納得したように頷く。


「伝えておきます」


(本音を言えば――“反乱した警察”を止められる火力が欲しい)


そう思いながらも、イリサは表情を崩さない。


(……杞憂だといいけど)


危機感は悪ではない。

たとえば、駅のホームに立つだけで「線路に落ちて轢かれる自分」を想像して寒気が走り、自然とホームの中央へ寄る――そんな癖と同じだ。


即応部隊の話が一区切りつき、イリサは別の話題を切り出した。


「さっき、ここから出ていく紳士を見かけたの。誰?」


なるべく軽い調子で尋ねる。


「ああ。ジョージ・スミス。財務大臣です。……もう会ったのですか」


キンが眼鏡を外す。想定外だったのだろう。


「正確には会ってない。向こうは気づいてない」


イリサは手を振った。


「で、面白い話はしてた?」


「予算の話が主です。……それと、体制改革と将来について」


イリサは両手を机の上で組んだ。


「彼は、どう言ってた?」


「ええと……大胆で、気骨のある行いだ、と」


キンは言葉を選ぶように間を置く。


――今の扉越しの会話と、随分違う。


イリサは目を細め、にこやかに笑った。


キンは視線を落とし、苦しそうに息を吸う。


「政府の場ではですね……“大胆で気骨がある”というのは大抵――」


イリサがじっと見ているのに気づき、言葉が途切れる。


「……ただし、重要な改革であることは間違いありません」


「理解してくれたなら嬉しいわ」


イリサが怒っていないと分かり、キンは僅かに肩の力を抜いた。

この少女の機嫌一つで、自分の政治生命が揺れる――それくらいは理解している。


「では、殿下の大綱をもとに作成した、新体制の設計を報告しましょう」


イリサの目が輝く。


「お願い!」


キンは報告書に目を落とし、淡々と読み上げる。


「殿下は総督として、内閣から上がる政策を裁可し、法案に署名する。加えて、議会の解散権、恩赦権、内閣と上院議員の指名権、行政命令権などを持つ。さらにKANATA三軍統帥の地位も――平時の運用は本土が担うが、緊急時の最高指揮権は殿下にある」


イリサは満足げに頷く。

(うん、私が考えた枠から外れてない)


「そして私は“首相”として内閣を率い、殿下が権限を適切に行使するのを補佐します」


(総督の仕事、少しは楽になるかもしれない。……もちろん、架空にされる危険もあるけど)


キンは続ける。


「下院選挙を行っても、当面は現内閣を維持し、政府運営の安定を優先する。将来、理論上は下院多数党に応じて内閣改組を行うとしても、閣僚の任期は設けない。閣僚は各省の大臣として省庁を統括し、総督へ政策を上申する。ここまでよろしいですか?」


イリサは首を振る。問題はない。


「よろしい。次に上院です。下院の立法権を抑制するため、上院を設けて審査機関とする。経験者が必要ですので、約百名の候補名簿を作成しました。存命の前政権高官、元大法官、現職判事、貴族、各州代表……殿下、後でご確認を」


数枚の紙が渡される。


「任期は置かず、実質的に終身任命です。下院の法案に反対するなら否決、あるいは修正して差し戻す。もちろん、全員殿下の任命ですから心配はいりません」


キンは小さく片目をつぶった。


イリサは指先を弄びながら笑う。


「望むところよ」


「下院の選挙区は人口分布で分割します。ただ、いかに有利に引くか――ゲリマンダリング(Gerrymandering)の研究も進めています。殿下はご存じですか?」


イリサは背筋を伸ばし、目を輝かせる。


「ええ。合衆国の例ね。反対派の票を少数の選挙区に押し込めて、他では当選できなくする。選挙区の形がトカゲみたいに歪で――だから『ゲリマンダー』」


キンは椅子にもたれ、感心したように頷く。


「よくご存じで。われわれも露骨にならぬ形で応用できます。方式は単一選挙区・単純多数制。合衆国が使っている方式で、大政党が議席を得やすい」


彼は続けた。


「法案提出権は政府側と両院の議員に与える。下院は五年ごとに選挙。なお、われわれは既に水面下で“われわれの党”を組織しています。仮称は保守党。宣伝攻勢と現状の支持率があれば、今回の選挙で多数派を取れる――つまり、下院があっても当面は“扱いやすい”」


キンは言葉を選び、手を振った。


イリサはゆっくり息を吐く。


(準備、すごい。私の論文、薄っぺらく見える……)


「……ここまでやってくれて、ありがとう」


「共通の利益のためです。候補者も十分に用意しました。近く実施する都市開発計画も共有し、彼らは公約として掲げられる」


また別の束が差し出される。


「保守党の資料です。興味があればお持ちください。……そして私が党首を務めます。議会制の国では、多数党党首が首相を務めるのが通例ですから」


イリサは束を見つめながら口を尖らせる。


「先に首相を確保してから党首になる、って順番はさておきね」


キンは笑う。


「否定はしません。細部に移りましょう。上院は最終的に百名程度。下院は選挙区の確定次第ですが、三百議席前後。上院の定足数は十名――形式的な手続きが中心ですから。下院は五十名以上」


キンは両手を広げる。


「開催は事前通知を必須とします。反対派が不在の隙にこちらが五十名を集めて可決――などとやれば、体裁が悪すぎる」


イリサは頷いて笑う。


「それを許したら、反対派も同じことをするもの」


「ええ。法案提出は議員本人に加え、他の議員十名の署名が必要。下院で三読会――第一読会(宣読)、第二読会(討議)、第三読会(採決)。可決は出席者過半数。討議の細部は――ここでは省きましょう」


「それ、話してたら日が暮れるわ。ところで選挙の条件は?」


「二十一歳以上、無犯罪、KANATA居住の連合王国市民。加えて候補者は選挙区内の住民五十名以上の推薦が必要です。投票は無記名ですが、票の番号で追跡は可能――争議時の保険です。投票権は同条件に加え、期日前の有権者登録が必須。投票所と開票は選挙区ごとに行います」


イリサは顎に手を当てた。


「選挙はいつ?」


キンは眼鏡を外し、目元を揉む。疲労が覗く。


「一週間後、月末に下院設置を公表します。その一か月後――七月末に投票」


イリサは眉をひそめる。


「一か月? 拙速だと叩かれない?」


「正確には一か月と一週間です。短いのは承知ですが、準備は以前から進めていました。残念ながら、保守党の組織化は完全秘匿できず、自由派も動き始めている。時間を与えるほどリスクが増えます。党内予備選まで始めたという噂も」


「そんなに早く?」


「だから先手が必要です。こちらの候補者は一か月で何度も遊説できますが、あちらは予備選で時間を浪費する。脅威は限定的でしょう。その間に新版『英領北米法』草案の修正と本土審議、その他の雑法整備も進めます」


イリサは頷く。


「支持率が落ちるような炎上さえ避けられればいい。……それと、来週から内閣の提案を全部私にも回して。慣れておきたい。距離は車で十分だし、毎日取りに来させるわ」


キンは眼鏡をかけ直す。


「承知しました。来る前に電話を」


「定例の内閣会議は――あなたは中央庁舎に移ったけど、総督府でやるほうがいい。前と同じに戻しましょう」


(ついでにクレアも堂々と同席できるし。朝も少し寝られる)


キンは頷く。


「もちろん。あの大きい会議室のほうが閣僚も喜ぶでしょう。……ところで、殿下の就任を近く公表しますか?」


イリサは新聞に載る自分の顔を想像し、背筋がぞわりとした。


「急がない。街で騒がれるのも嫌。あなたは一週間後に選挙の件を公表するとき、あなたが選挙後に総督職を退く、とだけ言って。私の話は出さないで。漏れる可能性はあるけど……あなたなら止められるでしょ?」


キンは微笑む。


「ご安心を。ただ、投票前には公表したほうがよい。改革を誰が主導したか分かれば、有権者の判断にも影響します。……正式な就任演説は議会議事堂でいかがです? 改革を促した人物として、象徴的です」


「いい案ね。……でも議会はどこに?」


キンは左手で北西を指した。


「数か月前にドロンド大学から旧学院の建物を借りました。内部改修中です。まもなく議会議事堂として使えます」


気づけば一時間以上。

イリサは時計を見て立ち上がる。椅子に座り続けるのも限界だ。


書類の束を抱え、キンへ礼をする。


「長い時間ありがとう。では、失礼するわ」


キンも立ち、扉まで見送った。


「お気をつけて、殿下」


秘書室へ戻ると、バーナが机の前で何か話している。

クレアは椅子に座り、ユウもいつの間にか同席して静かに聞いていた。


イリサが扉を閉めながら言う。


「思ったより長かった」


「車の件は、ユウ。バーナに頼める?」


「もちろん」


短い打ち合わせの後、バーナは礼をし、ユウと一緒に出ていった。


クレアが近づく。


「で、順調?」


「まあね。新体制の細部――議会とか選挙とか。だいたい整ってるって。残りは細かい調整だけ」


なぜかクレアの目が少し鋭くなる。


「……例えば、“財産公開法案”みたいなのが出てきたら?」


イリサはきょとんとする。


「何それ?」


クレアはため息をついた。


「さっき秘書と話してたの。“下院ができたら反対派は何を出すか”、それに“こっちはどう受けるか”。その流れで、北欧に先例のある財産公開法の話が出た」


イリサは頷く。確かに、事前想定は必要だ。


「それは……問題ね。でも否決しないと、官僚が困る――」


言いかけて、イリサは固まった。


否決すれば、自由派は必ず騒ぐ。

「なぜ公開を拒むのか」と。

そこで正当化できなければ、支持率は落ちる。


彼女は、説得力のある否決理由を思いつけない。


――だが、逆に考えたら?


イリサの脳裏に火花が散る。目が輝いた。


「……否決は最悪。でも、うまく使えば……」


クレアが狡猾に笑う。


「チャンスよ。あなたが心配してた“あの件”を解決できるかもしれない」


イリサは目を細め、声を落とす。


「クレア。KANATAの主要銀行、全部リストアップできる?」



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