表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/6

序章 ―― 長夜

――1936年、北アメリカ大陸。

KANATA自治領、ドロンド市。


夜の帳が下り、市街地は完全に闇に沈んでいた。


環境条件の厳しい北米大陸において、ドロンドは元々人口の少ない都市だ。ましてや深夜、さらに豪雨と重なれば、幹線道路に人影が消えるのも無理はない。


路肩に立つ一本の街灯だけが、かろうじて数メートル先を照らしている。


だが、その光は、脇に延びる細い路地には届かない。


――ざばっ、ざばっ。


水たまりを踏みつける切迫した足音が、路地の奥から連続して響いてきた。


音は、急速に近づいてくる。


「……ッ!」


次の瞬間、「ばしゃり」という音とともに、スーツ姿の中年男が路地から飛び出し、路上に転倒した。


男は慌てて両手で地面を支え、濡れたアスファルトから顔を背けるように体をひねる。


だが、起き上がる暇はなかった。


胸の上に、黒いブーツの右足が容赦なく踏み下ろされる。


男は苦痛に顔を歪めながら見上げたが、その視線は相手の手に握られた小さなナイフに釘付けになった。


黒いジャケットにジーンズ、金髪の若い男が、にやりと笑う。


「だから言っただろ。無駄に逃げるなって。ほら、びしょ濡れじゃねえか。触る気もしねえ」


一歩踏み込み、さらに体重をかける。


「仕方ねえ。靴に働いてもらうか」


鈍い衝撃が何度も胸を打ち、悲鳴が雨音に溶けて消えた。


激痛に耐えきれず、中年の銀行員は意識を失った。スーツの内ポケットから財布が滑り落ちる。


金髪の男はそれを拾い上げ、慣れた手つきで中身を確認し、現金だけを抜き取った。


混ざっていた名刺を見て、鼻で笑う。


「大手銀行の職員か。上流様だな」


空になった財布を捨てようとした、そのとき。


「ん?」


中に、運転免許証が残っている。


男は意地の悪い笑みを浮かべ、それを引き抜いて下水溝へ投げ捨てた。


渦を巻く水を見下ろしていると、道路の先に小さな光点が現れる。


徐々に明るくなり、近づいてくる――車の前照灯だ。


男は舌打ちし、財布を放り捨てると、再び闇の路地へと身を潜めた。


「……?」


運転席の少女が異変に気づいた。


後部座席の同乗者に視線で確認を取った後、彼女は車を路肩に寄せて停める。


道幅は十分にあるにもかかわらず、後続の三台も同時に停止した。


少女が車を降りる。黒い長髪が闇と溶け合う。


地面に倒れたスーツの男を一瞥し、彼女は真っ暗な路地へと向かった。


明暗の境界で一歩踏み込み、目を細めて中を窺う。


そして、何も言わず引き返し、後部座席のドアを開ける。


――次の瞬間、黒いロングブーツが地面に降り立った。




最悪の一日だった。


銀行でのミスを上司に叱責され、無理やり残業。会社を出た途端に土砂降りに遭い、書類鞄を頭に乗せて走る羽目になった。近道のつもりで入った路地で男に呼び止められ、そこからは命がけの追走劇。鞄もいつの間にか失くしていた。


踏みつけられながら、中年の銀行員は朦朧とした意識の中で一日を振り返っていた。


目尻から流れた涙が、雨と混じって頬を伝う。


街灯の柱にもたれ、横向きに倒れたまま、彼は再び意識を手放す。


……車の音と、足音が聞こえた気がした。


加害者が現れるのではという恐怖を押し殺し、男はゆっくりと目を開ける。


路地の入口を向いているはずなのに、視界が何かに遮られている。


必死に意識を繋ぎ止め、視線を地面から上へと移す。


ブーツと、黒いコートの裾。さらに上には、街灯に照らされた灰白色の髪。


腰より上で髪先が見えるということは、女性だ。


そして彼女は、犯人が潜む路地へ、静かに歩みを進めていた。


呼び止めようと口を開くが、喉から出たのは紙が裂けるような音だけだった。


(だめだ……)


次の出来事を想像する前に、張り詰めていた意識の糸が切れた。




「一枚、二枚、三枚……少ねえな」


闇の中で戦利品を数え、金髪の男は舌打ちする。


この場所で稼ぐようになって長い。両側は廃れかけた低層住宅で、目撃者の心配もない。


住人が少ないせいで外壁は荒れ放題。昼間なら近道に使う者もいるかもしれないが、夜に選ぶのは愚か者だけだ。


そして愚か者は、必ず代償を払う。


天候も悪い。今日はこれで終わりだろう。


明日は何時に来るか――そんなことを考えながら、男は鼻歌交じりに路地の奥へ進んだ。


その旋律に、異音が混じる。


水たまりを踏む音。自分以外の足音だ。


男は立ち止まり、振り返った。


傘を差した二つの人影が、ゆっくりと近づいてくる。視線が合うと、相手も足を止めた。


暗闇に慣れた目で観察する。風に揺れる髪、開いたコートの下、スカートとストッキング。


――女。


しかも、せいぜい十七、八歳。


思わぬ獲物に、男は口角を上げた。


何食わぬ顔で歩みを進めつつ、右手をポケットへ。ナイフの柄を握り締める。


そして――


一気に踏み出した瞬間、頭上に気配。


男は反射的に止まり、見上げる。


そこには、闇しかなかった。


「な――」


理解する前に、闇が落ちてくる。


次の瞬間、重力が叩きつけられ、男の意識は途切れた。




「お疲れさま」


後から来た長髪の少女が声をかける。


闇に溶け込む黒髪の少女が、倒れた男の上から自分のコートを拾い上げ、埃を払って羽織り直す。


背中で束ねた長髪を、コートの隙間から一気に引き抜いた。


無表情で、昏倒した男を見る。


「……処理は?」


長髪の少女は軽く笑い、男の顔を覗き込む。


白目を剥き、泡を吹いている。後頭部を強く打てば死にかねないが、かすかに呼吸はある。


しばらく観察した後、彼女はコートの内側から拳銃を抜き、消音器を取り付けた。


背後で、短髪の少女が眉をひそめる。


「さっきまでは正当防衛だけど……今は――」


「分かってる」


淡々と答える。


遠くで稲妻が走った。


少女は腕を伸ばし、銃口を眉間に据え、引き金に指をかける。


黒髪の少女は背を向けた。


数秒後、雷鳴。


――だが、白煙は上がらなかった。


長髪の少女は苦笑し、銃をホルスターに戻す。


コートのボタンを留め直し、光のある路地口へ歩き出す。


「警察を呼びましょう」


その言葉を残し、二人は去った。




「……聞こえますか?」


肩を揺すられ、中年男は目を覚ました。


白い長髪の少女が、片膝をつくようにして覗き込んでいる。


街灯の下で、白髪は柔らかく輝き、左側の髪に赤いリボンが結ばれていた。


灰色のコートの内側、きちんと留められた白いシャツ。赤いリボンタイ。


雨に濡れてもなお、大理石のような美しさ。青い瞳が視線を捉える。


男は慌てて目を逸らす。


肩を支える彼女の手、裾を汚さぬよう持ち上げたもう一方の手。微かな香り。


隣では、金髪の短髪少女が大きな傘を差している。


「大丈夫ですか?」


「……ええ、多分。不幸中の幸いです」


財布がないことを告げると、少女は路地を指した。


「中に倒れている人がいます。警察には連絡しました」


やがてサイレンが近づく。


「それでは、失礼します。――またいずれ」


優雅に一礼し、彼女は車へ戻った。


男が見たのは、黒服の人々と、四台の車。


「……あなたは?」


呼び止めると、少女は微笑んだ。


「きっと、すぐに分かります」


車列は去り、残された男のもとに警官が駆けつける。


年配の警官が呟いた。


「白髪の少女……? いや、知らんな」


そして、続ける。


「だが今夜は総督閣下の車列が通過する予定だった。四台編成でな」


男は、ただ呆然と、道路の先を見つめていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ