序章 ―― 長夜
――1936年、北アメリカ大陸。
KANATA自治領、ドロンド市。
夜の帳が下り、市街地は完全に闇に沈んでいた。
環境条件の厳しい北米大陸において、ドロンドは元々人口の少ない都市だ。ましてや深夜、さらに豪雨と重なれば、幹線道路に人影が消えるのも無理はない。
路肩に立つ一本の街灯だけが、かろうじて数メートル先を照らしている。
だが、その光は、脇に延びる細い路地には届かない。
――ざばっ、ざばっ。
水たまりを踏みつける切迫した足音が、路地の奥から連続して響いてきた。
音は、急速に近づいてくる。
「……ッ!」
次の瞬間、「ばしゃり」という音とともに、スーツ姿の中年男が路地から飛び出し、路上に転倒した。
男は慌てて両手で地面を支え、濡れたアスファルトから顔を背けるように体をひねる。
だが、起き上がる暇はなかった。
胸の上に、黒いブーツの右足が容赦なく踏み下ろされる。
男は苦痛に顔を歪めながら見上げたが、その視線は相手の手に握られた小さなナイフに釘付けになった。
黒いジャケットにジーンズ、金髪の若い男が、にやりと笑う。
「だから言っただろ。無駄に逃げるなって。ほら、びしょ濡れじゃねえか。触る気もしねえ」
一歩踏み込み、さらに体重をかける。
「仕方ねえ。靴に働いてもらうか」
鈍い衝撃が何度も胸を打ち、悲鳴が雨音に溶けて消えた。
激痛に耐えきれず、中年の銀行員は意識を失った。スーツの内ポケットから財布が滑り落ちる。
金髪の男はそれを拾い上げ、慣れた手つきで中身を確認し、現金だけを抜き取った。
混ざっていた名刺を見て、鼻で笑う。
「大手銀行の職員か。上流様だな」
空になった財布を捨てようとした、そのとき。
「ん?」
中に、運転免許証が残っている。
男は意地の悪い笑みを浮かべ、それを引き抜いて下水溝へ投げ捨てた。
渦を巻く水を見下ろしていると、道路の先に小さな光点が現れる。
徐々に明るくなり、近づいてくる――車の前照灯だ。
男は舌打ちし、財布を放り捨てると、再び闇の路地へと身を潜めた。
「……?」
運転席の少女が異変に気づいた。
後部座席の同乗者に視線で確認を取った後、彼女は車を路肩に寄せて停める。
道幅は十分にあるにもかかわらず、後続の三台も同時に停止した。
少女が車を降りる。黒い長髪が闇と溶け合う。
地面に倒れたスーツの男を一瞥し、彼女は真っ暗な路地へと向かった。
明暗の境界で一歩踏み込み、目を細めて中を窺う。
そして、何も言わず引き返し、後部座席のドアを開ける。
――次の瞬間、黒いロングブーツが地面に降り立った。
最悪の一日だった。
銀行でのミスを上司に叱責され、無理やり残業。会社を出た途端に土砂降りに遭い、書類鞄を頭に乗せて走る羽目になった。近道のつもりで入った路地で男に呼び止められ、そこからは命がけの追走劇。鞄もいつの間にか失くしていた。
踏みつけられながら、中年の銀行員は朦朧とした意識の中で一日を振り返っていた。
目尻から流れた涙が、雨と混じって頬を伝う。
街灯の柱にもたれ、横向きに倒れたまま、彼は再び意識を手放す。
……車の音と、足音が聞こえた気がした。
加害者が現れるのではという恐怖を押し殺し、男はゆっくりと目を開ける。
路地の入口を向いているはずなのに、視界が何かに遮られている。
必死に意識を繋ぎ止め、視線を地面から上へと移す。
ブーツと、黒いコートの裾。さらに上には、街灯に照らされた灰白色の髪。
腰より上で髪先が見えるということは、女性だ。
そして彼女は、犯人が潜む路地へ、静かに歩みを進めていた。
呼び止めようと口を開くが、喉から出たのは紙が裂けるような音だけだった。
(だめだ……)
次の出来事を想像する前に、張り詰めていた意識の糸が切れた。
「一枚、二枚、三枚……少ねえな」
闇の中で戦利品を数え、金髪の男は舌打ちする。
この場所で稼ぐようになって長い。両側は廃れかけた低層住宅で、目撃者の心配もない。
住人が少ないせいで外壁は荒れ放題。昼間なら近道に使う者もいるかもしれないが、夜に選ぶのは愚か者だけだ。
そして愚か者は、必ず代償を払う。
天候も悪い。今日はこれで終わりだろう。
明日は何時に来るか――そんなことを考えながら、男は鼻歌交じりに路地の奥へ進んだ。
その旋律に、異音が混じる。
水たまりを踏む音。自分以外の足音だ。
男は立ち止まり、振り返った。
傘を差した二つの人影が、ゆっくりと近づいてくる。視線が合うと、相手も足を止めた。
暗闇に慣れた目で観察する。風に揺れる髪、開いたコートの下、スカートとストッキング。
――女。
しかも、せいぜい十七、八歳。
思わぬ獲物に、男は口角を上げた。
何食わぬ顔で歩みを進めつつ、右手をポケットへ。ナイフの柄を握り締める。
そして――
一気に踏み出した瞬間、頭上に気配。
男は反射的に止まり、見上げる。
そこには、闇しかなかった。
「な――」
理解する前に、闇が落ちてくる。
次の瞬間、重力が叩きつけられ、男の意識は途切れた。
「お疲れさま」
後から来た長髪の少女が声をかける。
闇に溶け込む黒髪の少女が、倒れた男の上から自分のコートを拾い上げ、埃を払って羽織り直す。
背中で束ねた長髪を、コートの隙間から一気に引き抜いた。
無表情で、昏倒した男を見る。
「……処理は?」
長髪の少女は軽く笑い、男の顔を覗き込む。
白目を剥き、泡を吹いている。後頭部を強く打てば死にかねないが、かすかに呼吸はある。
しばらく観察した後、彼女はコートの内側から拳銃を抜き、消音器を取り付けた。
背後で、短髪の少女が眉をひそめる。
「さっきまでは正当防衛だけど……今は――」
「分かってる」
淡々と答える。
遠くで稲妻が走った。
少女は腕を伸ばし、銃口を眉間に据え、引き金に指をかける。
黒髪の少女は背を向けた。
数秒後、雷鳴。
――だが、白煙は上がらなかった。
長髪の少女は苦笑し、銃をホルスターに戻す。
コートのボタンを留め直し、光のある路地口へ歩き出す。
「警察を呼びましょう」
その言葉を残し、二人は去った。
「……聞こえますか?」
肩を揺すられ、中年男は目を覚ました。
白い長髪の少女が、片膝をつくようにして覗き込んでいる。
街灯の下で、白髪は柔らかく輝き、左側の髪に赤いリボンが結ばれていた。
灰色のコートの内側、きちんと留められた白いシャツ。赤いリボンタイ。
雨に濡れてもなお、大理石のような美しさ。青い瞳が視線を捉える。
男は慌てて目を逸らす。
肩を支える彼女の手、裾を汚さぬよう持ち上げたもう一方の手。微かな香り。
隣では、金髪の短髪少女が大きな傘を差している。
「大丈夫ですか?」
「……ええ、多分。不幸中の幸いです」
財布がないことを告げると、少女は路地を指した。
「中に倒れている人がいます。警察には連絡しました」
やがてサイレンが近づく。
「それでは、失礼します。――またいずれ」
優雅に一礼し、彼女は車へ戻った。
男が見たのは、黒服の人々と、四台の車。
「……あなたは?」
呼び止めると、少女は微笑んだ。
「きっと、すぐに分かります」
車列は去り、残された男のもとに警官が駆けつける。
年配の警官が呟いた。
「白髪の少女……? いや、知らんな」
そして、続ける。
「だが今夜は総督閣下の車列が通過する予定だった。四台編成でな」
男は、ただ呆然と、道路の先を見つめていた。




