03.謎の鳥
水しぶきを高く跳ね上げ、船はゆっくりと海に身を委ねた。
白い波が船腹を打ち、低く鈍い音が港に響く。
黒塗りの木製船体は、長い年月を海と共に過ごしてきたかのような深い艶を帯びている。
その先端には女神の船首像が据えられており、石とも木とも判別しがたい表情で、遥か彼方の水平線を見据えていた。
船体より一回りも大きい黒い帆は、風を孕みながら、まるで生き物が静かに呼吸するかのように緩やかに揺れている。
「これが俺の船だ。」
他の船とは明らかに一線を画すその威容に、思わず息を呑む。港を行き交っていた人々も足を止め、無言のまま船を見上げている。
ざわめきさえも、この船の前では慎重に距離を取っているようだった。
「今から出発したいところなんだが、まだ船内に荷物を運びきれてなくてな。すまないが、出発は一時間遅れそうだ」
※※※※※※
「なんか怪しそうだな」
俺たちは古びた小屋の前で立ち止まった。木製の扉は劣化が進み、ひび割れて色あせている。
出発までの一時間で、王都で買うつもりだった剣を先に手に入れようと鍛冶屋を探してきたのだが……この職場環境を見る限り、あまり良い鍛冶屋には思えない。
「入ってみたら、案外良店かもしれないよ」
フィルはそう言って、きしむ扉を開いた。
次の瞬間、外見からは想像もできないほど張りのある声が飛んでくる。
「いらっしゃい」
店内は外観とは裏腹に清潔に保たれており、壁という壁に多種多様な剣が掛けられていた。
店主は坊主頭で筋骨隆々。いかにも腕の立つ“職人”といった風貌だ。
「彼に合う剣が欲しいんですけど」
「ちょっと待ちな。ぴったりのがある」
そう言うと、店主は店の奥へ消え、やがて黒くくすんだ剣を一本持って戻ってきた。
「このおっさん、俺たちをぼったくろうとしてないよな」
小声でフィルに囁く。
「見た目が良ければいいってものでもないだろう。一度、剣を握ってみたらどう?」
店主から剣を受け取る。
付けられたタグには『炎系魔法・高耐久』と書かれていた。
「それは勇者レグナスが魔王討伐の際に使ったと言われていてね。普通なら十万ヴァロールはするが、なかなか買い手がつかなくてね。今回限り百ヴァロールにまけとくよ」
「おっさんが作った剣じゃないのかよ」
勇者が使ったという逸話で、ますます胡散臭く感じたが、柄を握ってみると意外にも手に馴染み、振りやすい。
五十ヴァロールでお茶一杯。つまりこの剣は、お茶二杯分の価値というわけだ。
使い物にならなければ、また別の剣を買えばいい。そう思い、気軽に購入した。
「まいどあり」
店を出ると、俺は剣を片手に、フィルと並んで船へと走り出した。
※※※※※※
「船長。お疲れ様です。」
船員がロープのはしごを垂らす。
船長が先に登り始め、俺たちもそれに続いた。甲板の上では十人ほどの人影が整列し、乗船を待っている。全員が灰色のローブを羽織り、背には星の刺しゅう。無言で立つその姿は、いかにも魔法使いと呼ぶにふさわしかった。
船員に導かれて操舵室へ入る。
この船には客室がないらしく、操舵室を客室としている。つまり航海中は船長と同じ部屋で過ごすということだ。
そもそも、部屋と呼ぶには奇妙な空間だ。進行方向を見渡すためだろう、舵の正面の壁は吹き抜けになっており、もはや「部屋」という概念を放棄している。
船長が出航の合図を出した。
船体が小さく震え、木がきしむ音が腹に響く。
重力が裏返ったかのように、船は垂直に上昇し始めた。
胸の奥が、怖さよりも先に、得体の知れない高鳴りで満たされる。
「すごい...」
フィルの声が、風にさらわれそうになる。
「どうだ。初めての浮遊船は」
俺たちの驚きを隠せない表情を見て、船長は誇らしげに笑う。
見る間に地面が遠ざかり、家々が小さくなっていく。風に乗せられ、王都の方角に動き出す。
肌を刺すほどの強風。
その流れに乗り、浮遊船は常識を置き去りにする速度で、空を滑っていった。
しばらくして、地平線の向こうに姿を現したのは、言葉を失うほど広大な大地だった。
思わず息をのみ、俺は反射的にアタッシュケースを開く。中から取り出したのは、小型の望遠鏡だ。
レンズ越しに世界を切り取る。
海に面した町が、くっきりと視界に収まった。えんとつを備えたレンガ造りの家々。石畳の広場では子供たちが走り回り、少し離れた丘には羊の群れが白い点となって散らばっている。穏やかで、どこにでもありそうな風景――のはずだった。
さらに倍率を上げ、細部を確かめようとした、その瞬間。
視界が、一面の青に塗りつぶされた。
「――っ」
何が起きたのか理解するより先に、心臓が跳ね上がる。
俺は慌てて望遠鏡から目を離した。
船長が大声を出す。
「高度を下げろ!」
瞬間。
船上に衝撃波。
帆が破裂し、音を立てて裂ける。
――風?
上空には巨大な陰が飛行している。
蒼天を写したかのような体毛。ダイヤモンドのように澄み渡り、光を幾重にも反射している爪。雲の中から『鳥』が姿を現した。
翼が脈打つとともに船が揺れ、立つこともままならない。
明らかな悪意の暴風に、俺は無意識に剣を掴んでいた。
鳥の胴を貫けるように剣を天高く掲げる。
いつでもこい――
俺が構える隣で、フィルの指先がわずかに動く。
同時に、周囲の大気が熱を帯び、すべてが一点に収束していく。赤く燃え上がる球体が人差し指の先に浮かび、目にも止まらぬ速さで鳥に向かって放たれた。
乾いた空気を引き裂く、雷鳴のような衝撃音。爆発が空間を揺るがし、炎があたりを包み込む。熱波が肌を焦がすかと思うほどだ。
しかし、煙と火花の中から、姿が現れる。
黒焦げになった毛が舞い上がる中、鳥はまるで炎そのものから生まれ出たかのように、火を引き裂いて飛び出してきた。身にまとった炎がその動きに合わせて揺らめき、まるで獣の体が一瞬で再生していくように見える。
甲板に亀裂が入る鈍い音とともに鳥が目の前に姿を現す。
その瞳は底しれない深淵を宿しているようだった。炎の中から出現したその姿は、ただの動物ではなく、何か異形のものに変わっている。
熱をもつ爪が鋭く光り、羽ばたくたびに火花を散らす。
船長は鳥と睨み合い、甲板の中央で仁王立ちになっていた。
まさに一触即発の空気。
…………、
しかし次の瞬間、鳥はくるりと身を翻し、空の海へ溶けるように消えていった。
「……なんだったんだ」
嘘のように静まり返った船上で、俺は思わず呟いた。
船長は周囲を見渡し、腹の底から声を張り上げる。
「船から落ちた者はいないか!」
「全員無事です、船長。しかし帆が破壊され、これ以上の航行は困難かと...」
「着水しろ。海流に乗って浜辺まで向かうぞ」
まるで何事もなかったかのように、船長と船員たちはそれぞれの持ち場へ散り、迅速に行動を始めた。
隣を見ると、フィルが啞然と立ち尽くしている。
やがて船長が俺たちのもとへ近づき、ほんの少しだけ申し訳なさそうに言った。
「悪かったな。お前たちを王都まで連れて行くことはできそうにない。浜に着いたら、俺たちは船の修復をしなければならん」
そして続ける。
「上陸したら、世界樹の見える方角へ歩け。いずれ王都に辿り着く」
※※※※※※
船は浜に乗り上げ、大陸に到着した。
それは到達というより、引き渡しに近い。
見上げるほどの巨木が、無言で立ち並んでいる。
重なった枝葉が光を遮り、森は前方を静かに、そして確実に塞いでいた。
「船長。短い間でしたが、ありがとうございました」
「あぁ。またな」
船から離れ、進路を森へ定める。
目指すのは王都――この大陸の中心だ。
湿り気を含んだ地面を踏みしめながら、俺たちは歩き出した。
背後で船が軋む音がしたが、振り返ることはなかった。
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