インディアン・サマー
退院の日、お母さんが迎えに来てくれた。三か月以上になってしまった入院。一階の待合室まで、なじみになった看護師さんが送ってくれた。お母さんは精神保健福祉士と何か話をしていた。受付ですべての手続きを終えて、病院の外へ出ると、暖かかったが、夏はどこかへ行ってしまって、舗道の上には落ち葉が舞っていた。病院の周りは住宅とマンションばかりでそもそも季節感なんてなかったんだけど、見上げる空は高くて、刷毛でかすったような雲が流れていて、もう夏ははるか遠くへ去ったのだと思い知らされた。
正面玄関前にお母さんの車が止まっていて、わたしは抱えた着替えやジャージや履物を後部座席に載せた。
「長い間、お疲れさま」
病院を出て、コンビニの前の交差点を左折する。通りの突き当りは丁字路になっていて、信号で止まると、目の前は北大の広大な敷地だった。農場、ポプラの木、その奥に大学の建物。なんだか、キャンパスがはるか彼方に存在しているように思えた。わたしとは無縁の世界のような。
「まっすぐ帰る? どこかに寄りたい?」
お母さんがわたしの外着を持ってきてくれていたから、どこへだって行ける。学校へ行きたかった。今日は平日だから。
「このまま帰る」
制服も着ていないし、わたしは休学している。来年の四月、二回目の二年生をすることになった。そのことで、ひどく落ち込んだ。もう、緑理や菜摘やかすみと同じ教室で会えない。わたしは今の一年生たちのことをよく知らない。演劇部で一緒だった子たちが何人かいる。その程度。きっとわたしは浮いてしまう。今の一年生たちと一緒に二年生をやるなんて。
「疲れたよね。おうちに帰ろうか」
お母さんは車を高速道路の入口へ向けて走らせているようだった。
シートに身体を預けて、しばらく聞いていない声のことを思っていた。
車がトンネルに入った。横を向くと、車のガラスにわたしの顔が半透明に浮かんだ。三か月以上になった入院で、声や、わたしを否定する存在のことを、ある程度無視できるようになった。消えたわけではなくて、かろうじてわたしが優位の状態で共存しているような、不思議な状態。
未佳はほぼ毎日メッセージをくれる。あの子が自分のカウンセリングの日は、会いに来てくれた。
修学旅行のこと。未佳は行くのを渋っていた。だから言った。わたしのことを背負っているなら、それは下ろしてと。未佳の身体で背負うなんて無理だから。その代わり、支えてほしいと伝えた。
〈お姉ちゃんへ。修学旅行、行ってきます。今日お父さんにも言われました。お姉ちゃんの分も、たくさん楽しんできます。来年、お姉ちゃんが修学旅行に行ったときは、お土産待ってます〉
未佳はお父さんと折り合いが悪そうだった。わたしのせいだと思っていた。わたしが病気になったことではなくて、もっと昔の、何か別のことで。どんなふうにお父さんと未佳が話し合ったのかは分からない。ある日を境にして、ふたりの関係が軟化したのは間違いなかった。
車はトンネルを抜けた。北十八条。学生が大勢信号待ちをしていた。
「お母さん」
「なあに」
「わたし、これからどうなるんだろう」
「どうなるって?」
信号が変わった。車が動き出す。
「学校は休学して、来週からデイケアに通って。元の生活に戻れるのかな」
「そのために病院へ通うんでしょ。心配なことは何もないわ。一年遅れてしまうのは残念だけど、来年の四月から、きちんと学校にも戻れるから。あなたの歳の一年は大きいかもしれないけど、きっと無駄にはならないわ。私も貴佳さんも、未佳もついてる。大丈夫よ」
お母さんは笑顔で言った。
車は国道に出た。何度も信号で止まった。そのたびに、お母さんはわたしを見やった。子どもを見守る母親のように。そうだ、そのとおりなんだ。
「家に帰ったら、まずは一息ついて、少し休みなさい。病院は不慣れだから、疲れたでしょう」
「うん」
「少しふっくらしたかな」
「そうかな」
「気のせいかな」
「わたしはお母さんのご飯が食べたい」
「じゃあ、今夜は一緒にご飯食べよう。未佳も、一緒に」
「……うん」
「未佳が、あなたのことを待ってる。面会にも来てたわね」
「何度も」
「ふつうに話せそう?」
「きっと。大丈夫だと思う」
「未佳は、ずっとあなたの味方だから。心配しないで。あなたのことを乗っ取ろうなんて思う子じゃない」
分かってる。未佳がそんな子のはずがない。だけどわたしはそう思ってしまった。強く。確信的に。直感的に。説明できない怖さとともに。きっとこの気持ちはずっと消えない。そのことが悲しい。一度疑ってしまったわたしの心は、もうさかのぼって修正することができない。行き先を変えることはできるかもしれない。未佳は味方だ。かけがえのない、わたしの片割れ。
「この時間は高速も空いてるわね」
車は料金所を通り過ぎると、坂道を上がり、するするとスピードを上げた。お母さんの運転は手慣れている。きっとずっと昔から自分の車を持ち、自分で行き先を決め、走ってきたんだ。
迷っただろうか。立ち止まったりしただろうか。
「お母さん」
高速道路に乗ると、防音壁で街は見えなかったけど、空が広かった。
「どうしたの」
「ごめんなさい」
「なぜ謝るの」
「わたし、こんなことになるつもりじゃなかった」
「こんなことって」
「一所懸命に勉強して、大学に行って、お父さんやお母さんの期待に応えられる子でいるはずだった。でもこんなになっちゃった。どうしてかわからない。わたし、何悪いことしたんだろう」
「宏佳……」
「学校祭に緑理たちと行きたかった。修学旅行だってそう。制服を着て、いつもどおりに家を出て、授業に出て。演劇部だって続けたかった。わたし、一年生のとき、役に選ばれた。わたし、何者かになれるって思った。でもなれなかった。病気にさえならなければ、演劇部を続けて、もっと別の生活をしてた。未佳も高等部から碧星女子に来てくれて、一緒に通えてたかもしれない」
秋の空が青い。病院の外に出たときに思ったが、十月とは思えないほど暖かかった。
「未佳はわたしのために進路を変えた。きっと公立に行くつもりなんてなかった。未佳の人生も変えてしまった。それに……」
わたしは自分の右手の甲をじっと見る。あのときの感触はまだ残っている。未佳の柔らかい頬に食い込み、その下の硬い部分へ達した、わたしの右手の感触を。
「未佳を傷つけた」
「宏佳、みんな、病気のせい。いまは、そう思いなさい。ううん、ずっと。あなたは何も悪くない。仕方のないことだったの。誰もあなたを責めない。それに、あなたは回復の途中。完全に元の生活には戻らないかもしれない。でもね、聞いて。あなたは病気を得て、きっと大きくなれた。成長の途中にあるの。病気を取り込んでしまうの。わたしはあなたの苦痛をぜんぶ理解なんてできない。分かち合うことはできる。未佳も苦しい思いをした。あなたたちは双子の姉妹。どんな姉妹よりも近い。支えあいなさい。それがベストよ」
道路が緩やかに右カーブ。正面に野幌の原生林が見えて、それが左手に移る。家がどんどん近づいてくる。わたしの日常が、帰ってくる。
「宏佳、知ってた? 双子はね、遺伝子まで同じなのは知ってのとおりだけど、指紋や、目の光彩のパターンは違うの」
「えっ?」
「何もかも同じじゃないの。個人認証をするとき、スマホのFaceIDをあなたちは突破してしまう。でも、指紋認証は突破できない。虹彩パターンもそうなの。静脈のパターンも違う。何が言いたいかって、あなたたちは一見同じように見えて、ちゃんと別人だってこと」
知らなかった。わたしは何もかも、未佳と同じだと思っていた。
「だから、未佳があなたを乗っ取ろうとしても、物理的に出来っこない。合理的に考えるとそうなのよ。もし、またあなたが声を聞いて、乗っ取られるって思ったときは、このことを思い出すといいわ。絶対に無理だから。安心して声を聞きなさい。そして答えなさい。やれるものならやってみなさい。わたしの周りはみんな味方。入れ替わろうとしたって無駄なのよ、って」
わたしは内田さんのことを思い出していた。病気を飼いならすと言っていた。いまお母さんが言っていることと大きく違わない。わたしは、わたしなんだ。わたしと未佳は、別の個人なんだ。
かけがえのない、わたしの片割れ。
未佳に会いたいと思った。今日は平日だから、まだあの子は学校だ。わたしが病気で苦しんでいるのに、未佳はけろっとした顔で登校している、そう思ったこともあった。病棟の四階で、わたしの幻影があらわれて、わたしを否定しようとしたとき。はめ殺しの窓で、天井付のカーテンレールに、フックの類がひとつもない病室。そこに閉じ込められたようにして、わたしは呪ったことがある。未佳、どうしてあなたは自由なの、と。
違っていた。未佳は苦しんでいた。医大に救急搬送されたとき、久しぶりに未佳の顔を見た。妹だと認識していた。声が強かったのだ。
あの子は未佳じゃない、乗っ取ろうとしている。あの子は宏佳だ。お前は、ニセモノだ。
あのときも心無い言葉を未佳に投げてしまった。
謝りたい。
「ねえ、お母さん」
「なあに」
「わたしと未佳は、まったく同じ人間だと思っていた」
「見た目はね、本当によく似ている。入院しているあいだ、あなたは髪の毛が伸びたから、見た目も少し変わったけどね」
「わたし、未佳に謝りたい……」
「そう、」
「わたし、未佳をたくさん傷つけた。病気のせいにしたくない。傷つけたのは、わたしなんだ。きっと未佳は気にしてる。わたしから謝りたい。でも、許してくれるかどうかわからない」
「未佳はずっとあなたのことを気にしているわ。許すとか許さないとか、そんなお話じゃない。あの子はあなたのたった一人の妹なのよ。信頼しなさい。だから、……あの日のことを言っているんでしょう。あなたが未佳のことをぶってしまった」
「うん」
「そのことで、あなたも十分に傷ついた。未佳と同じくらい、心に痛みを負った。それでいいとは言わないわ。宏佳が謝るというなら、未佳は受け入れてくれるはず。受け入れないのなら、あの子は面会になんて来ない。そういう子よ。あの子はおとなしく見えるけど、はっきりしている。大丈夫。あなたたちは元に戻れる」
「いつ、どうやって、わたしはあの子に謝ったらいいんだろう」
「会っていきなり、ごめんなさい、っていのも、ね。分かるわよ」
「どうしたらいいかな、お母さん」
「私が案を出してもいいけど、それでいいの?」
「そうだよね。……考える」
車が高速を降りた。丘陵にびっしり並んだ住宅街。見慣れた景色。小さなときから知っている、ご近所の風景。
「未佳、まだ学校だよね」
「あの子、部活に一所懸命だから」
「十一月に大会があるんでしょ」
「知ってるのね。未佳とそこまでやり取りができているんだ?」
「うん。準備をしてるんだって言ってた。来年は全国大会へ行きたいんだって」
「未佳、すごいよね。夏の全道大会では入賞したしね」
「あの子が放送局をやるなんて」
「ずっとひとりで朗読やってたわね」
「知ってる」
「あなたはピアノ、あの子はアナウンス。不思議ね」
「未佳の声を聞いていると、私もこんな声なのかなって思う。ねえお母さん、わたしの声と未佳の声って同じなの?」
また信号で止まった。
「そうね。同じ声。いまは、発声練習をやっているから、未佳の声とあなたの声は違うわ。未佳の声は、耳によく届くようになった。なにごとも練習って大事なのね」
「確かに、未佳の声は強かった。こんな声をしているのかって思った」
談話室で話したときに感じた。低く抑えているのに、身体全体から音が出ているようだった。演劇部の発声練習を思い出した。
「ふだんの話し方も、少し変わったわ。声が一本芯が通ってて、飛んでくるみたいな。昔は甘えん坊の妹だったのにね」
ねえ、お姉ちゃん。無邪気な笑顔でわたしに寄ってくる未佳のイメージがまだあった。談話室で対面した未佳は、わたしの目をまっすぐに見て、はっきりとした声が鋼のようだった。
「姿勢もよくて、凛々しくて……何かに立ち向かっているような感じがしたよ」
「そうね。未佳と話すと、声のポテンシャルってこんなにあるんだって思うわよ。あなたも習ってみたらいいわ。未佳が教えてくれる。あの子はアナウンサーになればいいのにね。あるいは、声を職業にする仕事」
「未佳は、何者かになったんだ……」
お母さんの言葉を受けて、未佳が先へ進んで行ったんだと感じた。今までは、わたしのあとをついてきた。周りを気にしながら、わたしの歩いた足跡をたどるような。いま、わたしの前に、未佳の足跡が見える。追いつけるだろうか。
「あなたも、一人の人間よ。未佳は未佳になった。宏佳は、宏佳になっていく。あなたはあなたを取り戻すのよ」
刹那、制服姿の未佳の背中が見えた。わたしの中に生まれたのは、嫉妬でも焦りでもない、それは安堵だった。今度は、未佳の後をついてくのはわたしだ。手を携えて。未佳はわたしの手を取ってくれるだろうか。
「あなたたちは双子。一見よく似てる。親戚でも間違うくらいにね。輝き方は違う。未佳はあなたの病気をばねにして輝きだした。例えば部活ね。あの子にあんなポテンシャルがあるなんてみんな知らなかった。
あなたは小さい頃から輝いていた。ピアノは誰よりも上手。あなたも全道大会で優勝しているわ。いまは、少し休んでいる。これからは、未佳とあなた、それぞれの場所で輝くのよ。あなたはいま、休んでいるだけ。これからもっともっと輝ける。宏佳も素晴らしいものを持っている。例えばピアノね。その道に進みたいなら私も貴佳さんも全力で応援するわ。あなたも輝くための努力を惜しまない。あなたたちはそういう姉妹なのよ」
「……うん」
「さあ、次の信号、捉まらないで家まで行けるか」
お母さんはおどけて私に言った。街路樹が黄色、橙、赤に染まっている。道行く人、今日は暖かいからコートを着ていない。
わたしの季節は、初夏のままで止まっていた。にぎやかで騒がしい夏は、病棟から眺めるだけだった。今日の気温は、わたしへ空が配慮してくれているようだ。少し動けば汗ばむような、暖かさ。一陣強い風が吹き、色づいた葉がいっせいに散った。あとひと月もすれば雪が降る。来年の夏、わたしはどうしているだろう。未佳と手を携えて、歩いているだろうか。歩きたいと思った。速足でわたしを追い抜いて行ったあの子を、わたしはこれから追いかける。わたし自信を取り戻して。
信号待ちの間、窓を開けた。空気に冷たさはない。小春日和のことを、「インディアン・サマー」っていうんだ。
病院の作業療法室から見たアジサイが、わたしの夏の記憶。内田さんと高野さんをオーディエンスに弾いたピアノが、夏の思い出。
私服姿でリビングに下りる。ダイニングを見ると、テーブルには制服姿の未佳がいる。ご飯茶碗を持ち、わたしに言う。
「おはよう、お姉ちゃん」
わたしは答える。
「おはよう、未佳」
お父さんはもういない。誰よりも早く会社に行き、誰よりも遅く帰ってくる。
「宏佳、おはよう」
お母さんが言う。そしてわたしは未佳の隣に座る。
ご飯を食べる。
未佳は北区の高校まで通うため、家を出るのが早い。わたしはもっと遅い時間に起きてもよかったけれど、三人でご飯を食べたかった。
「行ってきます、お姉ちゃん」
未佳が食器を食洗器に入れて、カバンを持ち、家を出ていく。
「行ってらっしゃい。気を付けて」
しばらくリビングで過ごす。九時半に病院へ着けばいい。バスで新札幌駅に出て、JRに乗る。乗り換えは一回。碧星女子へ通っていたときと同じ回数。
「行ってきます、お母さん」
わたしは小さなショルダーバッグを襷がけにして、家を出る。
一枚秋物のコートを着て。日に日に寒くなる。
デイケア室に入ると、やはり私が最年少だった。月曜日から金曜日までプログラムがあったが、すべてに参加する必要はないと言われていた。
内田さんの姿があった。わたしとは別のプログラムで、リワークに通っている。退院し、通ってきているわたしのことを見つけて、昼食は一緒にとるようになった。
「ここ、お昼が一番おいしいよね」
水曜日は麺類の日。温かいおそばをすすりながら、少しラフな服装の内田さんが言う。
「だいぶん落ち着いた?」
「はい。わたし、自分を取り戻すんです。それから、妹に謝るの」
「あまり強く意気込んじゃだめだよ。少しずつだよ。私自身にも言い聞かせてるんだ。すぐにでも職場に戻りたい、前みたいに仕事をしたい。でもそんなことしたらまたダメになる」
おそばを食べ終わり、ゼリーをスプーンで口に運びながら、内田さんは脂っけのない髪の毛を揺らして言った。置いてあるテレビがちょっと騒がしい。その音はしかし、テレビからきちんと発せられている。あの声は今は聞こえない。耳に届くわけではないのだ。わたしの意識に直接話しかけてくる。
「共存できそう?」
内田さんはいたわるような口調だ。
「頑張らないように、頑張ってます」
「そうだよね、すぐにはね」
内田さんは退院前、メッセージアプリのアカウントを教えてくれていた。つらいとき、私でよかったら頼ってね。私がつらくなってるときは既読がつかないと思うけどね。
未佳と同じように、ときどきやり取りしていた。わたしが退院したと知った内田さんは、短く、「お疲れさま。お帰りなさい」と送ってきた。
「きっと、私とあなたは出会う世界線で生きていなかった」
食器を配膳車に戻して、テーブルを挟んで座り、内田さんが言う。
「ふつうに暮らしていたら、会うことはなかったよね」
「そうですね。そもそも、内田さんとは歳が離れてるし」
「そうねえ。すごく歳の離れた妹……そんな気がしているよ」
「そう思ってくれてるんですか」
「まあね。いずれ私のことを、入院してたことと一緒に、きれいさっぱり忘れられるようになったら、いいんだろうけど」
「わたし、内田さんのことは忘れません」
「宏佳ちゃん、表情が出てきた。いいね。もともと明るい子なんでしょ」
「……分かりません」
「ウチの会社に来ても、すぐに戦力になりそう。何か指示しても、『内田さん、私こうしたほうがいいと思うんですけどどうですか?』って言ってきそう」
そのときの内田さんは、職場の顔をしていたかもしれない。頬杖をついて顎を少し突き出し、わたしを見る視線が大人そのものだった。
「宏佳ちゃんはバイトとかしてた?」
「したことないんです」
「勉強と、ピアノか」
「そうですね。お稽古事とかはいろいろやってました」
「いろいろやっておくと、それは全部自分の財産になるからね。きっと入院してたことだって、宏佳ちゃんの糧になる。私もそう思うようにしてる。少なくとも、部署の中でメンタルヘルスに一番詳しいのは私だ。自立支援医療のことだって、ここの精神保健福祉士さんに言われなきゃ知らなかったよ」
一時から次のプログラムになる。昼食は十一時半に配膳されるから、一時間半もお昼休みがある。まだ十二時だ。
「練習してる? ピアノ」
カフェインフリーのお茶を飲みながら、内田さんが訊いてくる。
「たくさん弾いてます。デイケアから帰ったら、ずっと弾いたりしてます」
「すごいね。指つりそうだ。いいね。弾いてると落ち着く?」
「うん……、自分で自分をちゃんとコントロールできてるような気がします」
「まだ時間があるから、聞きたいな。宏佳ちゃんのピアノ」
「聞いてくれますか?」
「ただで聞くのがもったいないくらいだよ。お金取れるよ、あなたのピアノは」
そう言うと内田さんは立ち上がり、別の患者さんと談笑しているスタッフに話しかけた。作業療法室のピアノ? あ、いまなら大丈夫だと思うけど。いいですよ、案内しますね。そんな声が聞こえた。作業療法士の高野さんは病棟担当だから、ここにはいないのだ。
作業療法室に入る。夏の日、窓の外で咲いていたアジサイはもうなかった。眩い夏の光も、穏やかな秋の光になっていた。日なたと日影のコントラストがくっきりしていて、まだお昼だとは思えなかった。季節が巡っていると、そのときまたわたしは思ったんだ。
今日のオーディエンスは、内田さんだけ。
電子ピアノの電源を入れて、一度「ド」の音で音量を確認。それから椅子の高さを合わせた。あの日以来誰も弾いていないのか、ぴったりだった。ちらりと内田さんを振り返り、その日は二曲弾いたんだ。
十一月になった。ポプラの葉も落ち、ナナカマドが真っ赤に染まっている。道を歩くと、ドングリがたくさん落ちていた。デイケアのプログラムを終えて、帰宅途中。新札幌駅からのバスを降りて、家までの道、学校帰りの小学生や中学生と一緒になって歩く。私服姿で歩いているのは、まだ慣れない。制服を着て歩いていると、帰属意識が満たされる。いまわたしはどこにいて何を目指しているのだろう。髪の毛を切った。入院前と同じ髪型にした。耳が冷たかった。うなじに風が吹き込んだ。こんなに短い髪だったのかと驚いた。
カラスが大きな木の実を割ろうとしてか、道路にそれを置いて車が通るのを待っていた。なんとなく、その木の実を拾って、高く放り上げた。歩道に落ちた木の実は割れた。すると、カラスが駆け寄って、中身を食べ始めた。わたしは通り過ぎようとした。カラスがわたしを見た。甘えたような声で二回鳴いた。昔、カラスに気に入られたことがあったっけ。学校で……緑理がカラスに威嚇されていて。
立ち止まらず、家へと歩く。そっと振り向くと、カラスは木の実を食べながら、ちらちらとわたしを見ていた。顔を覚えられたかな。未佳が通りかかったら、あのカラスは区別ができるだろうか。ちょっと試してみたい気もした。
家に帰ると、お母さんがいて、ノートPCを開いてしゃべっていた。世間話ではなく、仕事の話のようだった。正社員ではないのだけれど、お母さんはお父さんの会社に籍がある。わたしが落ち着くようになって、ときどき出社もしているようだった。お母さんは仕事が好きなんだ。そっと横を通り抜けると、わたしに気付いて、「おかえり」と言ってくれた。
手を洗って、鏡を見る。恐る恐る。どうしてもそうなる。顔を上げると、そこにはわたしがきちんといてくれた。目を動かす。ついてくる。口を開ける。あちらも開く。笑ってみる。あちらも笑った。未佳の笑顔を思い出す。笑った顔は、やっぱりよく似ていた。
これは、わたし。わたしが笑っている。未佳によく似ているけれど、違う。
練習室に向かう。
夕食まで、ピアノを弾く。
ご飯をわたし、未佳、お母さんの三人で食べる。ときどき、お父さんも間に合って帰ってくる。お父さんはいつでも無口だ。なのに、最近は未佳がお父さんに話しかける。「〇〇の新刊が出たんだけど、読んだ?」「読んでない」「面白いのに」「朗読の練習はしてるのか」「今度聞かせる」「私の朗読を越えられるかな」「もう越えてます」。そんなやり取りをするようになった二人の姿に、わたしは驚いた。お母さんは平然としていた。わたしは胸からお腹にかけて、カイロを貼ったみたいに温かくなるのを感じていた。
ずいぶん冷える夜だった。部屋の中は暖かい。机に教科書やノート、参考書を広げて、これまでの授業をなぞっていた。苦手な科目もあったし、もう一回二年生をやるにしても、毎日続けなければ学力だって鈍ってしまうと思ったから。背中が強張っていた。運動不足。デイケアのプログラムでは、毎週月曜日の午前中がウォーキング。松山さんからは「動きやすい服装で来てね」と言われたから、わたしは碧星女子の体操着とジャージ姿で参加してしまった。リワークプログラムと共通だったから内田さんもいて、「やっぱり現役の子は似合うよね」とよく分からない褒められ方をした。
カーテンを開いて、外を見た。
「あっ」
雪が降っていた。レースカーテンも開けた。わたしは部屋の灯りを消した。
窓の外。空は夜なのに明るい。冬の空だ。いつ降り始めたのか、もう地面は真っ白になっている。街灯がある場所は、白く、またはオレンジ色に。
一片が大きな雪だった。ベージュの空からは、無数の雪が降り、街を白く埋め尽くそうとしていた。雪が降る音が聞こえそうだった。
「きれい……」
窓ガラスに触れると冷たく、熱いのと勘違いしそうだった。
電車が走る音が、今日は小さく聞こえる。きっと雪に吸収されるんだ。
部屋を出て、未佳の部屋をノックした。すぐにドアが開いた。部屋の中は真っ暗だった。
「お姉ちゃん」
「未佳、雪が降ってる」
「知ってる。さっきから見てた」
わたしと同じことをしていた。部屋の灯りを落として、カーテンを開けて。
「一緒に見てもいい?」
言うと、未佳はうなずいた。
久しぶりに入る未佳の部屋。わたしとは違う匂いがする。ハンガーにかけられた新琴似高校の制服。もう、絶対に着たりしない。だってこれは未佳の大切な制服だから。
「ベッドと椅子、どっちがいい?」
「ベッドでいい」
「じゃあ私もベッド」
ベッドに上がると、未佳が一緒に乗ってきた。揺れた。わたしは未佳の肩に頭を預けた。
「すごい雪」
未佳は窓の外を眺めていた。野幌の原始林が見通せない。街が雪に煙っている。
「積もってるね」
未佳の肩に頭を載せたままで言う。すると、未佳はわたしの手をそっと握った。
「積もってるね。溶けるかな。このまま根雪かな」
未佳の手のひらが温かい。
「冬だね」
未佳が小さくつぶやいた。
「うん」
わたしはうなずく。
「誰か歩いてる」
未佳が頭を動かし、視線を変えたのが分かった。わたしも倣った。
「足跡」
転々と、しかしはっきりとした足跡が路地に続いていた。
「どこへ行くのかな。こんな時間」
「家に帰るのかな」
「未佳、いま、わたしはあなたの足跡が見える」
比喩だってわかってほしい。幻を見て言っているんじゃないんだ。
「うん?」
「いままでは、未佳がわたしのあとをついて来ている感じがしていた」
しんしんと降る雪。続く足跡。それをじっと見ている未佳。
「いつのまにか、未佳はわたしを追い越していた」
「そんなことないよ、お姉ちゃん」
「わたしは、頼れるお姉ちゃんを演じてきたんだと思う」
未佳は答えない。
「未佳がわたしを追い越そうとして、わたしと入れ替わろうとしているんだって思っていた」
未佳の肩がぴくりと動いた。
「違ってた。ずっと前に、もう未佳はわたしの先に行っていた」
「ううん、お姉ちゃん。そうじゃない。私はいつも、お姉ちゃんと一緒に歩いてきた。お姉ちゃんが先を歩いていたわけでも、私が先に進んだわけでもない。いままでもこれからも、私はお姉ちゃんと一緒に歩いてる」
「ありがとう、未佳。でもね、わたしには、あなたの足跡が見えるの。くっきりした、頼もしい、一人の人間としての足跡。大げさだけど」
「……お姉ちゃん、私、お姉ちゃんがうらやましかった」
「どうして?」
「英会話も、ピアノも、学校の成績も。なにもかも私より上だから。同じ顔をして、同じ見た目なのに、どうしてこんなに違うんだろうって」
「比べられるのがもう嫌だって、未佳、昔言ってたね」
「そう思ってた。間違ってた。私はお姉ちゃんになれないし、……お姉ちゃんは私になれない」
「わたしになる必要なんてない。まだ声は聞こえるけど、わたしはわたし、未佳は未佳なんだ。分かっているよ」
「もし足跡がついているのなら……、もしお姉ちゃんが私の足跡だって思うなら、私はお姉ちゃんの手を引く。引っ張っていく。そして、今までどおり、一緒に歩いて行く」
「未佳」
「雪が溶けても、その足跡は消えない。今度はお姉ちゃんの姿を探す。そしてまた一緒に進むんだ」
力強い声だった。発声練習の賜。強く芯のある、よく届く声。未佳の声。わたしとは違う声。
「お姉ちゃん、明日、お願いがあるんだ」
「なあに?」
「ピアノ、弾いてほしいんだ。私と一緒に」
未佳の肩から頭を離し、姿勢を直して、未佳を見た。
「お姉ちゃんのピアノ、聞かせてほしい。そして、一緒に弾いてほしい。昔みたいに」
「……いいよ」
「約束」
「約束。わかった」
すると今度は、未佳がわたしの肩に頭を載せてきた。わたしはそっと、未佳の肩を抱いた。
そうしてわたしたちは夜が更けるまで、ずっと降り積もる雪を眺め続けていた。
青い冬
目覚めると、雪を踏みしめる音がどこかから聞こえた。私は布団の中で、冷えた空気を顔や鼻で感じていた。
部屋が明るかった。カーテンを開けたままで寝たのもあるが、外の雪が日の光を反射して、ふだんは届かない場所まで明るくしていた。
高校の制服はハンガーにきちんとかけて昨日のままだ。きっともうこの制服を宏佳が着て出かけるようなことはない気がした。そう願いたかった。
私はパジャマ代わりのスウェットから、冬を意識した温かい服装に着替えた。午前七時前。目覚ましをかけなくても学校へ行く時間は私の身体に刻み込まれているみたいだ。でも今日は土曜日。授業はない。部活もない。
約束があった。昨夜、宏佳と交わした約束が。
階下に下りると、もう母が起きていた。朝食も準備が終わっていた。
「土曜日なのに、早起きね」
「お母さんこそ」
「今日は会社へ行くから」
「そっか。運転、気をつけてね」
「地下鉄で行くわ。冬の初めだし。みんな運転に慣れていないから」
宏佳が下りてきた。私と同じような服装だった。
「二人とも、どこかへ行くの?」
揃って外出もできそうな服装だったから、母が訊いてきた。
「今日は、ピアノの発表会だから」
宏佳がいたずらっぽく笑った。私はそれを見て安堵した。昔の宏佳が時折見せる顔だったから。
「発表会? どこで?」
「家で」
宏佳が言うと、母は楽しそうに笑った。
「いいわね、あなたたちの発表会なのね。私も見たかった。未佳、あなた、一緒にピアノを弾けるようになったのね」
驚いたことに、父はまだ家にいたらしく、直後になって現れた。だから、朝食は四人でとった。父はさっさと済ませて、先に出て行った。娘たち二人が揃っていることに、どことなく安心した様子だった。
「どこかへ行くのか」
母と同じことを訊いた。今度は私が答えた。
「お姉ちゃんと、私の、二人だけのピアノのコンサートだよ」
それを聞いた父は、驚いたことに微笑みを浮かべたのだった。私は宏佳と顔を見合わせた。宏佳がくすりと笑った。
「大雪が降ったが、そういうことか。だが、仕事がうまく行くかもしれないな」
私と宏佳とそれぞれに柔和な視線を向けた。
「お父さん」
宏佳が呼んだ。
「どうした」
「……気をつけてね」
「ありがとう」
そして父は玄関へと姿を消し、めったに聞いたことのない、父の「行ってきます」を聞いた。
宏佳はピアノの前に座ると、流れるような指さばきで、スケールをひととおり弾いた。ハンマーが弦を叩く音、ピアノそのものが音を反響させて、私の身体に直接届いてくる。宏佳はスケールを弾き終えると、ツェルニーの三十番練習曲を弾いた。私は椅子を隣に置いて宏佳の横顔を見た。恐ろしく真剣な表情だった。それから、四十番、五十番の順に弾いた。全身を使ってリズムを取る。
外は日差しが雲に隠れて、雪が降り始めていた。この窓も防音仕様だ。内からの音が漏れない代わりに、外の音も聞こえない。雪は音もなく降っている。最初は穏やかだったが、ツェルニーの五十番に合わせたかのように、降り方が激しくなっていた。宏佳の右手が鍵盤の上を自由自在に踊っている。
弾き終わり、ふー、一息つくと、宏佳は私を見た。弾いて。弾けるでしょ? そう言っている気がした。私がうなずくと、宏佳が立ち上がった。交代。
少し指先が冷えている。変に力まないように気を付けて、握ったり広げたりを繰り返す。それから指を、舞い落ちる雪を表現するみたいに動かした。お姉ちゃんの前でピアノを弾くなんて、二年ぶりだ。
椅子に座る。千里は私がピアノを弾くことを知らない。怜も綾乃も知らないし、森も知らない。瑠璃も知らない。須藤さんだって知らない。高校の誰にも言ってない。朗読の練習と並行して、私がピアノの練習を続けていたことも知らない。宏佳の親友の緑理だけが知っている。
この日のためだった。いまはそう言える。誰に聞かせるのでもない。宏佳と一緒に弾くためだ。
私は鍵盤の上に指を移動させた。
宏佳と同じようにスケールから始めた。指さばきでは絶対に宏佳には敵わない。華奢で細い指から、どうしてあんなに力強くつややかな音が出るのか不思議で仕方ない。
私はツェルニーの三十番練習曲を弾く。一日一時間は練習すること。つらくても投げ出さないこと。幼いに父が私たちに約束した言葉。今でもよく覚えている。ああ、右手がまだよく動かない。私と宏佳では音の質が違う。ピアノに反射して宏佳の顔が見える。私と同じ顔が嬉しそうに私の指先を見ている。左手で弾むように音を出す。だんだん身体の緊張が抜けて、かわりに楽しさが湧きあがる。子どものときの発表会だ。楽しくて仕方なかった。私は不思議と緊張しなかった。
なんでそんな試合慣れした雰囲気あるわけ?。
小さなころから発表会に出ていたから。発表会のときだけ着せてもらえる衣装が嬉しかった。履きなれないストラップシューズも、フリルのついたブラウスも。今はそんな服なんて着られないけどね。
お姉ちゃんも妹さんも上手ね。
そう言ってもらえのが嬉しかった。
ツェルニー四十番練習曲。指が暖まってきたから、もうつらくない。楽しさが上回る。練習曲なのに。ずいぶん泣かされた。私たちのレッスン講師は厳しかったから。宏佳と私では曜日が違っていたので、週に二回も先生の顔を見るのだ。怖い怖い! 笑いながら宏佳がいつも言っていた。本当は優しい先生だった。練習室に入ると豹変するのだ。また習ってみたい。
「未佳、嬉しいよ、わたし」
四十番を弾き終えた私に、宏佳が笑みを浮かべて言った。
「……こんな日が来ることを、待ってたの」
私はそっと返した。
勇気を振り絞って五十番を弾いた。ツェルニーを練習するころになると、宏佳は練習室を占拠して出て来なくなった。一日四時間も五時間も弾いた。相対的に私の練習時間は減ってしまったのだけれど、そのころにはもう、技量の差が埋めがたいほど広がっていたから、あまり気にはしなかった。ピアノの演奏に深くのめり込んだのは宏佳で、それは小学校低学年のときにはそうなっていて、代わりに私は本ばかり読むようになっていた。宏佳がピアノに夢中になったころ、私は自分の声で本を読むようになったから。
弾き終わった。ちゃんと弾けた。
「上手じゃない、未佳。練習、続けていたんだね」
「サボってたよ」
「サボってたらこんなに弾けない」
宏佳は嬉しそうだ。鏡があったら、きっと私も同じ顔をしているのが分かったと思う。お姉ちゃんが帰って来てくれた。二人で練習室にいられることが奇跡のように思えた。
「じゃあ、次はわたしね」
席を変わった。外を見た。雪が降り続いている。朝の青空はどこへ行ってしまったんだろう。でも、降り続ける雪が美しく、何もかも真っ白に染め上げ行く様を、私は見惚れるように眺めてしまう。
宏佳が椅子に座りなおす。ギッ、と椅子が音を立てる。四歳から十七歳になったいままで、この椅子は私たち姉妹を支え続けている。
宏佳の指が鍵盤に伸びる。きれいな指だ。バスケットボール部は楽しかったけれど、レッスン、やめなきゃよかったな、初めて私は思った。
宏佳が弾き始めたのは、『水の戯れ』だった。大好きな曲。そして、ものすごく難しい。私は練習もしていない。
練習室の中に、一つの水流が生まれて、弾け、あふれ、噴水のように湧きあがり、部屋を満たす。私はその流れの中にいる。外は雪だったが、曲と舞い散る雪の動きが合っているようにも思えた。入院していた三か月と少し、宏佳はピアノにほとんど触れていないはず。デイケアに通うようになってからは、それを取り戻すみたいにして、毎日練習室でピアノを弾いていた。間隙を縫うように、私もこっそり弾いた。
今日のために。
弾き終わった宏佳が、また、ふー、と息を大きくついた。楽器の演奏には大変な集中力が必要だ。宏佳の心が気になってしまう。ピアノに没頭することで、あの声がまた姉を支配するのではないかと。それは逆なんだよ、と宏佳は言ってくれた。ピアノを弾いている間、わたしがわたしでいられる。誰もわたしを乗っ取ろうなんてしない。ピアノが邪魔をさせないから、と。
拍手をする。涙がこぼれて止まらない。
すごいよ、お姉ちゃん。私はその言葉だけを繰り返す。
「ありがとう、未佳。指がやっと、わたしの思うように動くようになった。未佳に聞かせても恥ずかしくないくらいに」
「やっぱりお姉ちゃんはすごい。さすが私のお姉ちゃんだ」
「次は未佳の番だよ」
私は宏佳に促されて、椅子に座った。同じように椅子が軋んだ。
ここでも最大の勇気を振り絞る必要があった。プロのピアノストの前で演奏をするような気分だ。もう、私と宏佳の腕前は比較にならない。あ、そうか。比較されることはないんだ。私は私のピアノを弾けばいいのか。そう思ったら、突然楽になった。
鍵盤にそっと指を送る。右足はペダルを踏めるように。宏佳が見守ってくれている。ミスタッチなんて気にしない。でも、ひとつひとつの音符を、正確に宏佳の耳へ届けたい。朗読と同じだ。間の撮り方、アクセント、強さ、呼吸。通じるものがあるんだ。
私は『亜麻色の髪の乙女』を弾く。
音の数から、難易度はさほど高くないと思ってしまいそうになるが、決してそんなことはない。リズムの揺れ方、要所要所での和音の慣らし方、みんな難しい。特にテンポが全体的に一定ではないから、私の中の軸がしっかりしていないと、曲の印象がまるで変ってしまう。
お姉ちゃんが譜めくりをしてくれる。息が合う。嬉しかった。
曲が盛り上がり、そして静かに冒頭のフレーズが登場して、終わりに向かう。
慎重に弾いた。雑な力加減では雑な乙女になってしまうから。
弾き終わり、余韻を私は感じていた。防音室だから、音はすぐに吸収されて反響しない。音が反響したのは私の心の中へだった。宏佳にも届いているはずだ。まだ私の横顔をじっと見ている。
宏佳が拍手をしてくれたのは、曲が終わって両手を腿の上に置いて少ししてからだった。
「ありがとう、未佳」
今度は宏佳が涙を浮かべていた。あふれ出して、頬を濡らす。
「素敵な演奏だった。こんなに弾けるなんて。未佳、すごくよかったよ」
宏佳が肩に手を置いた。私はその手を握る。真正面から見つめあった。本当に鏡を見ているよう。
「今日、一緒に弾けて、本当によかった。こんな日がまた来るなんて、思っていなかった」
宏佳が涙を拭いながら言う。声が震えていた。
「それに、あんなに楽しそうにピアノを弾けるなんて。小さい頃を思い出す。あなたは、いつでも楽しそうに弾いてた。私は与えられた課題曲をどうやって弾くのかを考えて練習してたけど、未佳は弾くことが大好き、音を出すのが楽しくて仕方ない、そんな感じだったよね。私はあなたがうらやましかった。何ごとも奔放で、自由で、でも芯が通っていて」
「……そんなことないよ。私はお姉ちゃんのことがいつもうらやましかった。うらやましすぎて、嫉んだこともある。何でもできるお姉ちゃん、不器用な私。比べられるのが嫌になったこともある。同じ顔をしていても別の女の子なのに。でも今は、ちゃんと弾けた自分をほめたい。お姉ちゃんありがとう。こんなに楽しく弾けたのは久しぶりだよ。……指つりそうだよ」
「まだまだ練習が足りないな。この程度で指がつるようじゃ、コンサートなんてできないよ」
「ちょっとそれは、コンサートなんて無理」
「当分は、二人だけのコンサート、やろうよ。未佳にリクエストも考えておく」
「リストとかラノマニノフとかはやめてよね」
「うーん、あえてリクエストしようかな」
「サティにして。練習するから」
クスクスと宏佳が楽しそうに笑った。私も笑った。
雪はまだ降り続いていた。部屋の中は暖かい。
宏佳の匂いがした。ピアノを弾くと、身体が熱くなる。少し汗ばんだのかもしれない。私もだ。宏佳から漂ってくるのは、懐かしい、お姉ちゃんの匂いだった。
私たちはコートを着て、マフラーを巻き、冬靴を履いて外に出た。
「積もったねー」
玄関は熱線が入っていてタイルの上は雪が溶けているが、道路までの通路は雪が足首よりも深く積もっている。二人でスコップを持ち出して、除雪をした。私が雪をわざとかけると、宏佳がやり返してきた。小学生の子供がやるように、私たちは雪で遊んだ。
雪は止んでいた。空は一面の雲だ。まだ降りそうな気もするし、そうでもないように見える。
路地に出て、一筋一人が歩ける幅しかない足跡が続く歩道を、私と宏佳は歩く。
公園まで行ってみよう。
宏佳が言い出した。雪が降った街を歩きたい。
圧雪になった道路を、雪煙を上げてバスが走る。木々はもう枝だけになって、そこに雪をまとい、赤いナナカマドの実が美しかった。
途中、オレンジ色のファサードサインのコンビニに寄る。紘子がバイトをしているコンビニチェーンだ。私たちは暖かいコーヒーを店内で淹れて、イートインでそれを飲んだ。雪が積もったおかげで、騒音が吸収されるのか、街はどこまでも静かだった。
暖を取った私たちは公園への道を進む。歩道が広くなったので、宏佳と手をつないだ。手袋をしているので肌の温かさは伝わらないが、宏佳の腕の重みが心地よかった。
公園までの道、あまりしゃべらなかった。吐く息が白く、マフラーから漏れる。
犬がはしゃいでいた。公園はまだ全面開業しておらず、工事車両の姿がまだ見えた。二年前を思い出す。私たちは申し合わせたように、あの場所へ行く。私が夏に発声練習をしたところ。あのときは夕方だった。丘陵に広がる住宅街の灯りは、私の心を強く締め付けた。当時、宏佳は遠くの場所にいた。私からずっと遠く離れたところに。物理的じゃなく、もっと別な。
丘の頂に立つ。新雪だ。ムートンの冬靴で正解だった。
しばらく、札幌の街並みを眺めていた。
届けよう、そう決意した。私の声で、私の思いを、いま宏佳に届ける。
「お姉ちゃん」
アナウンサーの発声で言った。穏やかに、よく通り届く声で。
「私、もう二度と、お姉ちゃんは帰ってこないと思っていた。お姉ちゃんは変わってしまった。病気のせいだけど、その病気はお姉ちゃんがどこかへ行ってしまう病気だった。とても怖い病気。私はすごく戸惑った。大好きなお姉ちゃんが、いなくなってしまったから」
宏佳は私と手をつないだまま、手稲山の方を向いて聞いていた。
「私はお姉ちゃんを避けていた。お姉ちゃんの名前を呼ぶのも怖かった。だから、『あの人』って呼ぶこともあった。避けていたし、怖かったから」
静かな間。
「お姉ちゃんは何でもよくできた。成績もよくて、ピアノも上手で、私の自慢。周りはそんな私たちのことを比べた。お姉ちゃんはいつだって輝いていた。お姉ちゃんは点で輝く一番眩しいシリウスA。私は伴星のシリウスB。いつの間にか僻んでいた」
また、静かな間。かすかに、犬がはしゃぐ声がする。
「本当は一緒に碧星女子に通いたかった。でもそうしたらまた私は比べられる。私は私なのに。私の前にはいつもお姉ちゃんがいて、私より輝いていた。それが嫌だった」
空にわずかな明るさが戻った。雲が薄くなっている気がした。
「中学校で、私は双子の姉がいることを誰にも言わなかった。みんなと離れるのが嫌だからって私は答えた。私、噓をついていた。合唱でピアノの伴奏を頼まれても、いやいやだった。どうして私がピアノを弾けるのを知ってるのか、すごく嫌だった。お姉ちゃんと何もかも一緒なのが嫌で、バスケをやった」
宏佳は黙って聞いていた。
「バスケ部ではずっと補欠だったけど、一所懸命練習した。試合には出られなかったけど。お姉ちゃんは碧星でずっと輝いていた。私は家に帰ると、お父さんがしてくれてたみたいに、本の朗読をやった。自分のために。私が私であるために、私の声を聞いていた」
緩い風が吹く。冷たい。私は宏佳に寄りそう。
「中学校の三年間、私はお姉ちゃんと比べられることもなく過ごした。お姉ちゃんはピアノのコンクールで優勝した。もう、比べられるレベルを超えたと思った。あきらめたの。そう思ったら、途端にお姉ちゃんのそばにいたくなった。高校は、お姉ちゃんと同じ学校に通いたいと思った。そしたら、お姉ちゃんが病気になった。私のせいかもしれないって思った」
「未佳、違う」
「分かってる。誰のせいでもないんだ。だから病気が憎たらしい。お姉ちゃん、聞いて。私はもう、お姉ちゃんのことを僻んだりしていない。誇らしい気持ちしかない。お姉ちゃんは病気と闘っている。すごく強い相手なのに、めげないで。なんて強いお姉ちゃん。私はこれからも、お姉ちゃんを誇らしく思う。私は自分を卑下したりもしない。お姉ちゃんはシリウスかもしれない。じゃあ、私は別の星。例えばポラリス。お姉ちゃんが戸惑ったら、私を見つけて一緒に進んで行くんだ」
「未佳……」
手袋越しに、宏佳が強くわたしの手を握った。
「未佳の声、本当に強い。身体全体から響いてくるみたい。まるでピアノのよう。未佳自身がひとつの楽器になったみたい。アナウンサーの練習、きっとものすごく頑張ったんだ。未佳の声、私の奥まで、届いてきたよ」
宏佳が私を向き、泣き笑いのような顔をした。
「わたしも、未佳に言いたいことがあるんだ。聞いてくれる?」
うなずく。
「わたしはまだ病気が治っていない。こうして一緒にいても、未佳がわたしと入れ替わるんじゃないかって、不意に思うことがある。それを打ち消してくれるのは、あなたの存在。わたしは未佳を信じてる。未佳はわたしを乗っ取ったりしない。鏡を見てるみたいに思えるけど、あなたは別の場所で私を導こうとしている。だから、わたしは声が聞こえても、その声に問い返せる」
宏佳の苦悩を、片鱗でも感じることができる。私も思う。本当は私が宏佳で、姉のほうこそ、本物の未佳なのではないか、と。強固なものではないから、私はそれに支配されない。宏佳はその声が〈操り声〉のように聞こえ、作用してしまうのだ。
「未佳、ごめんなさい」
少し身体を離し、宏佳は私に深く頭を下げた。
「あの日、あなたをぶってしまったこと。わたしがあなたの制服を奪おうとしたこと。ううん、その前から、あなたのことを疑って、傷つけたこと」
風が吹き、雪が舞う。
「ずっと言えなかった。間違っているって気づいてた。でもね、わたしには声がするの。未佳が、本当のわたしだって。わたしのことをニセモノだって。その声がいつまでも聞こえた……聞こえるのよ。それにわたしは抗おうとした。ダメだった。逃げようとした。逃げられずに、わたしは階段から落ちた。面会に来てくれたあなたを、また傷つけた。本当にごめんなさい」
もう一度、深く私に頭を下げた。
「わたしの右手に、まだあなたの頬の感触が残ってる」
宏佳は右手の手袋を外し、視線を落とした。私も頬の疼きがよみがえる。渾身の力で宏佳に殴られ、背後の学習机まで飛ばされて、教科書や参考書が落ちてきた。私は泣いた。子供のように。あの日、姉ははるか遠くの世界へ行ってしまった。
「未佳、許してください。わたしは取り返しのつかないことをした。今日一緒にピアノを弾けて幸せだった。楽しかった。未佳もそう思ってくれているのなら、あの日のことを、あの日のわたしを、どうか許して」
とっさに宏佳を抱きしめていた。
「未佳、」
強く、強く。足元で雪が鳴る。足踏みをするみたいに、何度も宏佳を抱きしめた。
「お姉ちゃん。あのときのことなんて、私はもう忘れた。あれはお姉ちゃんじゃなかった。病気がお姉ちゃんにさせていたの。私はこうして、お姉ちゃんが戻って来てくれたことが嬉しい。許すも許さないもない。だって、宏佳は私のお姉ちゃんだ。大好きなお姉ちゃんだ。これからも、いままでも、ずっと……」
途中から涙声になった。もう、アナウンサーの発声ができない。それでも懸命にお腹から声を出そうと努力した。
「私の声、届いて。お姉ちゃんに。お姉ちゃん、どうか、これからも私のお姉ちゃんでいてください」
「届いてる。届いてるよ、未佳……ありがとう、本当に、ありがとう」
宏佳も涙声だった。
顔を上げた。鼻と鼻が触れ合うような距離に宏佳の顔があった。涙が日の光を受けて輝いていた。日の光?
抱き合ったまま、向き直った。
「雲が割れてる」
宏佳が言った。
空が明るくなっている。すると、雲が割れた部分から、日が、札幌の街に降り注いでいた。まだ雪が降っている場所なのか、光を帯びた部分と雲に隠れた部分のコントラストが強い。光を受けた新雪、街がまぶしい。
「天使の梯子だ」
宏佳が言った。
「きれい」
私が言う。
二人同時に洟をすすった。ゆっくり、私たちは離れた。宏佳が照れたように笑っている。私は照れを隠さず、できる限りの笑顔を作った。ツェルニーを弾いたときのような。『亜麻色の髪の乙女』を弾いたときのような。
「未佳、スマホ持ってる?」
宏佳が訊いた。
「持ってるよ」
「セルフィ撮ろうよ」
「えっ」
「わたしと未佳で」
一瞬ためらって、答える。
「いいよ」
そうして、私たちは新雪も眩い冬の青空の下で並んだ。スマホを取り出して、インカメラを起動する。画面に、よく似た女の子二人が写っている。ショートヘア、はっきりした眉、二重の目……そして、笑顔の二人が。
「もっとくっつかないと」
右手を伸ばして、画角を調整する。
「撮るよ、お姉ちゃん。マフラー、少しどけて」
「うん。いいよ」
「三、二、一、」
撮った。寒さでチークを乗せたように、私たちの頬が赤かった。こんなメイク、してもらったことがあったっけ。一華の顔が浮かんだ。すると、千里や怜や綾乃、瑠璃の姿まで浮かんだ。私の日常の延長に、宏佳が帰って来てくれた。
「もう一枚撮ろう」
宏佳が言った。
目を雪と日差しの眩しさに細めながら、私たちはもう一枚、セルフィを撮った。
「あなたのポスト、ずっと見ていた」
宏佳が呟いた。
「これからも、見てるから」
私たちのセルフィは、私たちだけのもの。
丘の頂まで歩いてきた、二筋の足跡が見える。私はそれを、スマホで撮った。
雪雲は遠ざかり、空には冬の日差しと青い空が広がっているのだった。