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ウルトラマリン

 夏休み中の学校が好きだった。教室には人がいなくて、体育館や武道場から声が聞こえる。弓道の射場から的を射る音がする。グラウンドがにぎやかで、音楽室からは吹奏楽局の気配が濃い。目的がはっきりした活動をする学校の雰囲気が、私は好きだ。

 廊下の端に立ち、カメラを見る。「無表情に」「やがて、笑みを浮かべる」。脚本のト書きにはそう書いてある。それから、言う。

「ありがとう。私、この世界で生きていく」

 音声役の柚月がマイクブームを頭上で保持している。重そうでかわいそうだ。

「はい、カット」

 カチンコが鳴る音と森の声がした。身体の緊張を解く。

「いちおうこれで撮影は終了だ」

 森が満足そうに丸めた脚本で手を叩いている。

「順撮りするつもりはなかったけど、結果的にはラストシーンが最後の撮影になったのはよかったな」

 森が書いた脚本でドラマを撮って、放送専門学校主催のコンテストへ送る。



 教室


ソト「チカ、キミが僕たちの世界にあらわれた理由は、もうわかったんだ。キミは必要とされてこの世界に来た」

チカ「この世界で、私はこのまま生きて行っていいの?」

  窓を向くチカ。

ソト「この世界はまだ閉じていないから。キミがここにいる必要があるんだ」

  チカを引き戻そうとするソト。手が伸びる。

  チカ、振り切るように廊下へ。


 廊下


ソト「チカ、キミがいた世界と僕たちの世界は地続きでつながっているんだ。キミが離れてしまうと、その接続は切れてしまう」

チカ「それが、私がこの世界に存在する理由なの?」

ソト「違う。……僕たちがキミを必要としているからだ」

  チカ、振り返る。無表情に。やがて、笑みを浮かべる。

チカ「ありがとう」



 どういうドラマかというと、「隣の世界」から「この世界」に転移した「チカ」――私が、「この世界」での存在意義を問う、その答えを「ソト」――二年生の中田に伝えられ、チカは自分の価値を見直して、この世界に残り、生きていくことを決意する、という。なんだかよく分からない内容だった。私は一応主演。でも、出番のないシーンではケーブルをさばいたり、マイクブームを持ったりした。人が限られているからこうなる。

「森ってよく分かんない脚本書くよね」

 柚月がお疲れ様の顔をして言った。

「確かによく分かんない。面白いのかどうかも分かんない」

「『ジェンダー・レス』のほうが分かりやすかった。とりあえず森君は新海誠が好きってことが分かった」

「どうせなら全部アフレコにすればよかったのに。同録にしようとするから、局長の柚月がマイク持ったりしなきゃならないわけで」

「現場の音が欲しいらしいよ」

 その森も片づけを始めている。廊下は一番人気が少ないという理由で、一年生の教室のほかは図書室や文系科目の準備室が並ぶ四階になった。もちろん、学校の許可を得て、口の字になっている校舎の廊下両端では通行規制もかけて。

「吹奏楽局、演奏してなくてよかった」

 織部がビデオカメラを三脚から外して言った。三脚に乗せるにしてはすごくかわいらしいカメラだった。ドキュメントを撮るときはこの軽さがとてもいいらしい。

「ほかの部活に迷惑かけられないからな」

「だからアフレコにすればって言ったのに」

 森に言う。演技しながらセリフを言うなんて、専門じゃない。演劇部だった宏佳なら、きっとうまくやれたに違いない。

「画面見ながら自分のセリフ入れられる?」

 森が少し意地悪そうな顔をして言うので、

「そういう環境を整えてくれたら出来ます」

 と答えてやった。

「まあ、ツモリンも逢瀬もよかったよ。やっぱり発声練習してるとぜんぜん声の届き方が違う」

「俺もアナ教受けたんだけど」

 中田がケーブルを八の字巻きしながら不満げに言った。

「即席でしょ。積み重ねって大事なんだなぁーって思ったわ」

「もう出ないぞ」

「そう言わず」

「まあまあ楽しかったけどね」

 森に花を持たせるつもりではなかったけれど、カメラの前で演技するというのもちょっと面白くて、答えてみた。

「おっ、そう言ってくれると嬉しいわ。サンキューツモリン。さあ、これから編集だな」

 私たちは四階から二階の部室へ下りた。

 夏休み中、活動は週に三日。お盆を含む週は活動なし。ただし、お盆明け早々に二学期が始まるので、活動自体は二週間程度。私たちはテレビドラマを一本と、ラジオドラマを一本作成した。

 音楽室の前を通った。練習中の吹奏楽局。一華がトランペットを吹いていた。瑠璃がいた。私に絡んできたときとは全然違う、とても真剣な表情でフルートを吹いていた。瑠璃があんな顔をするのか、と思った。膝の上にタオルを乗せて、楽譜を見つめて、細い指が動いていた。高慢な表情はどこかへ置き忘れてきたみたいな、一途、部活に打ち込む少女の姿をしていた。

「どうした、ツモリン」

 森に呼ばれるまで、瑠璃の姿を見ていた。慌ててみんなの後を追った。

 テレビドラマの撮影自体を終えてしまって、気持ちが軽くなっていた。前を行く森の背中を追っていた。

 私はこの世界にいてもいいの?

 ドラマのセリフが意味深げだなとも思った。この脚本、いつ書いたんだろう。私のことを当て書きしたとも言っていた。森には、私がそう見えたのだろうか。この世界で、存在理由を探しているような女の子に。

 三年生がいなくなり、二年生と一年生で部活を進めていた。局長になったのは柚月だった。アナウンスの技量がというより、一年生と二年生をまとめるのがうまいからだ。リーダーシップがあるのかどうかまではあやしいけれど、とりあえず私じゃなくてよかったと思った。

 部室前のホールに、何人かの生徒たちの声が反響していた。これも夏休み中だから。ふだんは生徒だらけで声が反響するのなんて聞こえない。日差しを受けた誰もいない教室。吹奏楽局の演奏がけっこうな音量で耳に届く。それも、放送局の部室のドアを閉めてしまえば聞こえない。

 アナ教を柚月がリーダーになって、美咲、私、一年生の和奏、彩夏と一時間かけてやった。それからおしゃべりをして、解散した。調整室に動画編集の機材が置けなかったので、森と織部と中田は、肩を寄せ合って、いつものデスクトップPCで編集を始めていた。撮り直しは勘弁してよー、と、出演した柚月が森の背中を叩いて、私たちは部室を後にした。

 

 午後四時。こんな時間にバス停にいるのも夏休みだからだと思う。学校祭のころより確実に日が短くなっている。玉ねぎの匂いがする。バスを待ちながら、メッセージアプリを開く。通知が二件。一つは千里。バレーボール部の休憩中に送ったらしい。大きなドリンクボトルとハンドタオルの画像が添付されていた。

〈暑くて死ぬ。撮影終わった?〉

〈部活お疲れ。熱中症注意。撮影は今日でおしまい。なぜ私がヒロイン〉

〈未佳は物語の主人公っぽい。出来たら見せてね〉

〈私がいないところで見て〉

 傾き始めた日差しも腕や首筋に浴びているとちりちりと暑かった。バスはまだ来ない。もう一件の通知は、宏佳だった。学校祭準備のころから、宏佳がメッセージをくれるようになった。

〈未佳、こんにちは。部活頑張ってる?〉

 部活中はスマホを見ないから、少し時間が空いての返信だ。

〈返信遅れてごめんね。テレビドラマの撮影をしていたよ。今日でおしまい。なんと私がヒロインです。見る目がないウチの部活の脚本家〉

 既読はつかなかった。作業療法を昼間はやっているとのこと。スマホは自由時間にしか見ないらしい。

 バスが来た。ほかにも数人、バス待ちの生徒がいたが、知り合いはいなかった。いまでもときどき二年生からは「窓際の君の人」と呼ばれる。それでいいと思った。瑠璃の言葉を借りれば、私の言葉がそれだけ重かったのだ。もっとも、あのメッセージが本当に私宛だったことについては、口を噤んでいる。瑠璃には言えない。が、もし知られたとしても、千里より瑠璃のほうがストレートに納得してくれそうな気もした。なぜだろう。きっと、フルートを吹く彼女の真剣なまなざしを見てしまったからだと思う。

 バスは空いていて、椅子に座れた。住宅街を抜ける。小学生くらいの男の子たちが駆けていく。長ネギがはみ出たカートを引いたおばさんが歩いている。バスは国道に出ていくつかのバス停で止まり、地下鉄麻生駅に到着したころ、空は夕方の色を帯び始めていた。

〈未佳へ。未佳はヒロインに向いてるよ。表情がくるくる変わって、声も大きくて。わたしが知っている未佳なら、ぴったりだと思う〉

 メッセージに既読がついて、返信が来たのは、五時を過ぎ、自宅に着いた頃だった。

 お姉ちゃん。私は表情がくるくる変わる子だったんだね。お姉ちゃんからはそう見えていたんだね。自分の表情なんてすっかり忘れていた。宏佳の病気のことばかり考えていた。

 いや。

 お姉ちゃんが――宏佳が病気になる前の私は、きっとそういう女の子だったんだろう。

 ふと、宏佳が苦しみながら、私に手を差し伸べている姿が浮かんだ。

〈お姉ちゃん、私は私の世界で自由に生きていけるように努力する。だから、お姉ちゃんも病気にお姉ちゃんを奪われてほしくない。一緒に笑えるように、私はお姉ちゃんの力になりたい〉

 既読。

 数分しても返事が来なかった。私は部屋の中から、暮れていく空を見ていた。

 通知。

〈ありがとう。わたしはまだ未佳のことを怖いと思うことがあります。わたしと入れ替わろうとしているんじゃないかと疑うことがあります。でもそれは間違っている考えだと思えるようにもなりました。また一緒に笑えるように、わたしは未佳と同じ世界で生きていけるように、ちゃんと治そうと思います。ありがとう。おやすみ、未佳〉

 部屋を出て、廊下の突き当りの窓から、宏佳がいる病院の方向――札幌の中心部を見た。

 太陽が西の空を染めつつあり、街は夏の夕方の光で輝いていたた。


 夏休みが終わり、二学期になった。

 私は診察と面談のために、土曜、宏佳が入院しているのと同じ病院へ行く。私も診察と面談が必要だと言わせれたのが二年前。宏佳に殴られて、宏佳が入院した直後から、私へのカウンセリングも必要だということで。

 主治医は宏佳と違う、四十代くらいの女性医師。面談も宏佳とは違う心理士。私に対するケアのため、受けていた。

 話すことはないといつも思っているのに、診察でも面談でも、つい話し過ぎてしまう。宏佳とどう接すればいいのか、どうしたら宏佳が治るのか、そのことばかり訊いていた。

「お姉さんのことはもちろん大切ですよ。でも、あなた自身のケアも必要なんですよ」

 少し年配の心理士は、眼鏡の奥から穏やかな目を向けて、いつもそう言うのだった。

 その土曜日も同じように診察は十五分、面談を三十分受けた。極度の不安を感じたり、眠れなかったりということはないか、といつも訊かれるが、幸い私はそこまでではなかったから、薬局に寄ることもなく、受付で会計をし、宏佳のお見舞いをしたいと告げる。受付にいつもいるおかっぱ頭みたいな髪形をした医療事務の人が病棟に内線をしてくれる。

「いまお風呂に入っているみたいです。二十分くらいしてから、四階に来てくださいとのことですよ」

 きわめて事務的に言われたが、顔なじみになってしまった事務員は、私に意外と親切だった。

「待合室で待っててもらえたら、もう一度確認して呼びましょうか」

「お願いします」

 自動販売機で、ふだんは飲んだりしないコーラを一本買った。強い炭酸と甘さが、口中を刺激して、夏の名残をとどめている外の熱気をまとった喉を冷やして、身体の中へと転がり落ちて行った。土曜日、間もなくお昼にさしかかる待合室は、平日に受診できない患者でそれなりに混んでいたが、一人また一人と病院を出て行った。

 缶を持って、どこかの席に座ろうと目を走らせると、壁際の一人掛けチェアの一つに、じっとテーブルの上の虚空あたりを見つめているスーツを着た男性がいるのに気付いた。

「お父さん」

 声が出ていた。少し膝を開き、顔の表情がいつになく疲れて見えた。こんな無防備な顔をしている父を、見たことがなかった。近寄っていいのかどうかためらわれた。私はそのまま病院を出てしまおうかと思ったほどだったが、父は引力を持っていた。ずるずる引かれるように、父のそばまで歩いて行った。

「お父さん」

 病院の待合室だからアナウンサー式の発声はできない。抑えた声で呼びかけた。驚いたことに、そこまで近づいているのに、父は気付いていなかった。

「未佳、」

 虚空をにらみつけていた目が、和らいだように見えた。

「どうしたんだ。ああ、お前のカウンセリングの日か」

 覚えていてくれたらしい。「そうだよ」と答えた。

「座ったらどうだ」

 少し迷ったが、隣の席に座った。そしてコーラを飲んだ。やたら甘かった。テレビはNHKニュースを流していて、音はあまり聞こえなかった。

「お父さんこそ、どうしたの」

 違和感しかなかった。まさか父も受診しているのだろうか。だとしても、あんな無防備な姿勢を他人に見せるとは思えなかった。

「宏佳に会いに来た」

「お見舞いに来たの?」

「そうだ。会ってきた」

 事務さんは、宏佳が入浴中だと言っていた。では、その前に会ったのだ。すると、ずいぶん長い時間、父はここにいたことになる。私が外来受付をしたときにはいなかった。病院の駐車場に父の車があったかどうかも覚えていない。

「お姉ちゃん、どうしてた?」

「悪くはない様子だ。入院したときと比べれば、本当によくなったと思う」

 メッセージアプリでやり取りをしている限り、私もそう感じていた。

「調子がよくないときは、面会できないからな。いいときだけを切り取って見ているだけかもしれない」

 それはアプリでのやり取りも同じだった。数日既読がつかない日もある。そんなとき、不安を感じる。

「でも、今日は調子がよさそうだったんでしょ」

「お前のことを気にしていたよ。修学旅行に行く行かないって話をしているそうだな」

 お姉ちゃん、そんなことまで話しているのか。本当に調子がいいんだろうな。

「どうなんだ」

「なにが」

「修学旅行、行かないつもりか」

 父は前を向いたまま、指を組み、言う。視線はまっすぐ、デイケア室横あたりの壁を向いている。何か見ている視線ではなかった。顔を上げて、隙を見せないための姿勢。そう見えた。

「お姉ちゃんが病気なのに、私だけ旅行になんて行っていいのかどうか」

「行けばいいじゃないか。お前の修学旅行と宏佳の病気は関係ない。お前が修学旅行に行かないことで、宏佳の病気がよくなるわけでもない」

「お父さんは、いつもそんなだ」

 残っていたコーラを全部飲んだ。アルミの缶が指先に冷たい。

「そんなってなんだ」

「超合理主義。あと、お父さんはいつだってお姉ちゃんが大切だ」

 少し強く言った。そうしないと、父の存在感に潰される。

「当たり前だ。宏佳は大切だ」

 平然と言われて、ムッと来た。

「私のことなんてどうでもいいんでしょ。小六のとき、碧星女子を受けないって言ったころから、お姉ちゃんのことが第一になったんだ。違う、もっと前からそうなんだ」

「お前と宏佳に優劣なんてつけていない」

「お稽古ごとだって、塾だって、お姉ちゃんの希望通りにしてたじゃない」

「それは、宏佳は何でも器用にこなすからだ。だったらそれに応える必要がある」

「お姉ちゃんは何でも器用。私はぶきっちょ。お姉ちゃんの劣化コピーが私」

「未佳、何を言ってる。お前が宏佳のコピーのわけがないだろう。それこそ、宏佳の病気が言わせていることだぞ。気に病んでいるのなら、忘れたほうがいい。あれは宏佳の本心じゃない」

「私がいることで、お姉ちゃんが病気になったんだよ」

 言いながら、自分の身体がどんどん縮んでいくような感覚になった。待合室の天井が高く遠くなる。ああ、きっとこれなんだ。お姉ちゃんが言ってた、「お前は宏佳じゃない」って声が聞こえる感覚は。私は私自身に、「お前は出来損ないの劣化コピーだ」と言われた気がした。

「未佳、聞きなさい」

 低くよく通る声で呼ばれた。この声だ。〈操り声(ヴォイス)〉。須藤さんよりももっと強力な声。

「お前は宏佳のコピーなんかじゃない。お前は、お前だ。私はお前のことも宏佳のことも第一に考えている。もし、宏佳をひいきにしているように見えていたのならすまない。中学三年生のとき、お前が碧星を受けると言ったとき、私はいいと思った。二人揃って通ってくれるなら、元通りだと。だが、宏佳が病気になった。お前を極度に恐れるようになった。一緒にはしておけないと判断した。だから公立高校を受験するように言ったんだ」

 父に直接「お前はお前だ」と言われるとは思わなかった。意図せず、缶を握っていた。遠い日、同じことを父に言われたような気もする。ピアノが上手に弾けず、むくれていた私。英検に落っこちて、やっぱりむくれていた私。お姉ちゃんができたのに私はできない、そう言ったときに父が言った言葉。「お前はお前だ。お姉ちゃんと比べる必要はない。お前にも得意なことがあるじゃないか」。思い出した。でも私は言い返していた。

「……前にも聞いたよ。でもお父さんはいつも命令するだけだ。会社で部下の人に指示を出すときもそんな感じ? 言い返せないよね。その声で言われたら」

 父が私を向いているのは分かっていた。見返せなかった。声に加えて視線まで加わったら、私は摺り潰されてしまう。

「大きな誤解があるようだ。未佳。そうだな。私の言い方がよくなかったんだな」

「なによ」

「……宏佳が病気になった一端は、私にあるような気がしてならないんだ」

 えっ。初めて父を向いた。父は向き直っていて、デイケア室横の壁をまた向いていた。

「どうして」

「私が過度に、宏佳へ期待をかけすぎたからだ」

 それって、私が言ったことが正しいと自供してない? 顎を引いて、父を見つめた。

「お前を誤解させているとしたら、その部分だと思う。お前は宏佳ほど器用じゃないかもしれない。でも、未佳。お前は何ごとにも全力だ。だから不器用に見えるかもしれない。私には分かってる。会社にもいる。何でも器用にこなして上を目指すタイプと、目の前の仕事をただ実直に、ひたすら実直に取り組むタイプが。どちらが優れているかという話ではないんだ。適材適所だ。どちらも大切なんだ。未佳には未佳のよさがある。宏佳のピアノは見事だ。習わせた甲斐があった。コンクールで優勝するくらいだ。もっと素晴らしい演奏を期待してしまう。でもな、未佳の『亜麻色の髪の乙女』だって素晴らしい。ずぬけて宏佳が上手いだけだ。未佳のピアノは宏佳よりも丁寧だ」

 手に持ったコーラの缶を少し潰したり戻したりを繰り返した。パキバキ音がする。

「中学生のとき、バスケットボール部で試合には出られなかったかもしれないが、毎日遅くまで頑張っていたのを知ってる。高校では放送局で頑張っているそうじゃないか。朋子からも聞いている。宏佳からも聞いている。お前だって全道大会で入賞した。素晴らしいじゃないか」

 父に面と向かって褒められた記憶がほとんどない。小さい頃はあったかもしれない。制服を着るようになってからは覚えがなかったから、驚き、父を見た。

「宏佳は与えた課題を何でもこなすから、次々に高度な課題を与え続けた。お前から見たら、それがひいきしているように思えんたんだな」

「……違うの」

「未佳は縛られることが嫌いな子だ。そうだろう? 小さい頃からそうだった。私が読み聞かせができなくなると、自分で本を抱えてきて読んでいた。私の本棚からなくなった本を探しに行くと、だいたいお前の本棚に並んでいたよ。宏佳はそういうことはしない子だった。お前を伸ばすためには、過度に干渉しないほうがいいと思った。それは今でも間違っていないと思っている。ただ、宏佳に対しては、少しやりすぎたのかもしれないと思っているし、お前は、干渉しなさ過ぎたかもしれない」

 父の声に張りがなかった。やめて。弱気なお父さんなんてありえない。そんなの私の父じゃない。

「違うよ。お姉ちゃんは努力しているもの。そんな簡単につぶされるようなお姉ちゃんじゃない。お姉ちゃんは私なんかより、ずっと、努力家で、何でもできて、すごいんだ。お父さんがいくら期待をかけたところで、お姉ちゃんは潰れたりなんかしないよ」

 一気に言うと、父は私を向いた。平淡な、怒りも悲しみもない、その代わり喜びもない、しかしかすかな驚きと、あるいは安堵のような色が見てとれた。

「お前と話していると、つくづく、見た目は同じでも、宏佳とは全く別の子だと気付かされるよ。未佳は僻みや妬みを芽生えさせても、外にはほとんど出さない。内にためて自分のためにそれを変化させようとする。そして、優しい」

「……なによ」

「今だけだ、未佳。不安なんだ。宏佳が本当に治るのか。お前たちが元の関係に戻れるのか。私は、許されるのか」

「お父さん」

「宏佳にも、お前にもだ。ここで許しを請うわけじゃない。ただ、お前には謝りたい。お前を頑なにさせたのは私のせいだな。お前は宏佳が言えない分も一緒に、私へ反抗しているのかもしれないな」

「お姉ちゃんは反抗なんてしていない」

「この病気は、宏佳が私に対して反抗しているのさ」

「違うよ。お父さんのせいでもない。病気のせいだ」

「分かっているよ。だから今だけだ」

 父は言うと、スマホを取り出して、通知をいくつか確認した。傍らのバッグに手を触れる。

「お前と話せてよかった。未佳、重ねて言うが、お前のことをいつも大切に思っている。修学旅行、気にせずに行ってくるといい。宏佳のことは心配いらない。私と朋子がついている。きっと宏佳だって、自分のためにせっかくの旅行をふいにすることは残念がるだろう。たくさん土産話を聞かせてやればいい。もちろん私たちにもだ。修学旅行、どこへ行くんだ?」

「京都、奈良、東京」

「昔、東京へはみんなで行ったな。お前たちが小学何年生だったかな。ずいぶん飛行機の中ではしゃいでいた。私も朋子もお前たちの声がにぎやかで、そのことばかり思い出す」

 そのとき、父が、経営者ではない横顔を見せた。見覚えがあった。私に読み聞かせをしてくれていたころの顔だ。

「行って来い。気にするな」

「お父さん……」

「私は会社へ行くが、どうする。大通まででよかったら乗せていくぞ」

 父が立ち上がった。一瞬で経営者の顔に戻っていた。

「私は、お姉ちゃんに会っていく」

「そうか。そのつもりだったか。邪魔をしたな。宏佳とたくさん話してくるといい。今日は機嫌がよさそうだった。宏佳はずっとお前の話をしていた。ときどき、お前じゃないお前のことも話していたが、前ほどじゃないから心配しなくていい」

「お父さんがこんなにしゃべるの、初めて聞いたよ」

 私は座ったまま、へこんだコーラの缶を両手で持って、父を見上げた。

「しゃべらなさ過ぎたんだな。だからお前にも誤解される。私はお前のことが好きだ」

「えっ」

「宏佳にないものを持っている。たぶん、お前は私に似たんだな。ときどき苦笑いするほど、私に似ている」

 そのとき、ずっと胸の奥に鍵をかけて閉じ込めていた父への感情を取り出した気がする。

 お父さん。

「じゃあな」

 父は一言私に向けると、大股で待合室を横切り、自動ドアを抜け、病院から出て行った。

 待合室は私だけになっていた。テレビからの音が耳に届く。デイケア室は静まり返っていた。

「積森さん、お姉さん、お風呂から上がったみたいですよ」

 おかっぱの事務さんが窓口から頭を出して、私に言った。

 立ち上がり、ゴミ箱の前まで行く。私の感情を受け止めて変形してしまったコーラの空き缶を見つめると、とどめとばかりに平たく潰し、捨てた。そして四階へ上がるエレベーターへ向かった。


 その日、空はどこまでも青く抜けていた。札幌の街は秋を感じさせていた。半袖の夏服が涼しく感じられた。早朝だったからかもしれないけど。

 札幌駅北口に午前七時集合。私は大きなバッグを肩にかけて、ふだんは終点まで乗る地下鉄を、さっぽろ駅で降りた。修学旅行だ。

「おはよう、ツモリン」

 巨大なバッグを抱えるようにした一華がいた。

「未佳、おはよう」

 長身の千里は、これから部活の遠征にでも行くような雰囲気だ。千里と怜、綾乃、そして私は同じ班。

 瑠璃がいた。際立って容姿が目立ち、大きなバッグを持っていても、姿勢がよかった。フルートを真剣な目をして吹いていた様子を思い出した。でも声はかけなかった。彼女には用事がない。

 点呼を取って、電車に乗り、新千歳空港から飛行機に乗った。意外なことに、一華は飛行機に乗ったことがなかった。アニメ声でひたすら怯えていた。

 私は窓際の席だった。出席番号順で席を取ったのか、隣は紘子だった。彼女は離陸前からずっと黙ってシートポケットに挟まった機内誌を読んでいた。

 飛行機が海の上に出るころには、一華のアニメ声が笑い声に変わっていた。るりん、るりん、とときどき聞こえるので、どうやら瑠璃と話している様子。

 窓の外は空。私は空の中にいる。宏佳が遠ざかっていく。見下ろすと、地図帳で見たような、けれどどこだかさっぱり分からない地形が続いていた。模様のような街。そこに誰かの世界があるんだ。私の知らない誰か。

 飛行機が高度を下げ始めると、またアニメ声が怖い怖いと怯え始めた。雲が目立っていた。まるで夏の雲だ。

 降り立った関西空港から電車に乗ろうとしたとき、夏がまだそこにどっしり居座っていることに気付いた。出かけるときに感じた涼しさは季節を先取りしている北海道ならではのことで、大阪は札幌の真夏より暑かった。

 何度も乗り換えて、奈良に着いたのはもう午後だった。奈良もじっとりした夏空だった。

 一華は行く先々でアニメ声を上げて喜んでいた。その声を聞いたら、そのうち私も楽しくなってしまった。東大寺で紘子がスマホで何枚も写真を撮っていた。意外だ。

 一日目の夜、制服から部屋着代わりの私服に着替えて、畳の上にひっくり返っていた。その姿を見て、千里に「意外だ」と言われた。「未佳がそんな無防備な格好でいるなんて」。怜が私の姿をスマホで撮った。すかさずグループチャットに共有された。写真の私は上下が逆さまで、遊び飽きた子供が放り出した人形のような姿をしていた。

 二日目は京都に移動して自由行動で、四人で決めたルートを巡った。日本史の教科書や資料集で知っている場所ばかり。歩いていて、ハンカチだけでは吹き出る汗がぬぐえないと思った。金閣寺の撮影スポットに、森がいた。三組の男子三人と一緒だった。「よう、ツモリン」。今までと変わらない調子で手を上げられた。だから私も、「よう、魔法使い」、と返した。森とはその後のルートが違っていて、それっきり会わなかった。

 私は意識してスマホで写真を撮った。宿に着いたら、wi―fiがあるから、宏佳に送ろうと思っていた。碧星女子の修学旅行先は沖縄らしい。関西には来ない。選りすぐって送るんだ。

 嵐山まで足を延ばしたのは失敗だったかも。千里は平気な顔をしていたが、怜はばて始めていた。アニメ声がしたので振り向くと、一華と瑠璃がいた。不思議な組み合わせだと思った。一華は人懐っこい。声も大きい。瑠璃と仲良くしているかと思えば、私の横にいたりする。「イーホワ、元気すぎるよ」、とはミネラルウォーターをがぶ飲みしながらの怜の言葉だ。

 宿に戻って、揃って夕食を食べて、お風呂に入って、私は畳の上に正座して、今日撮った写真を厳選していた。札幌にいる宏佳に送る。「座敷童、何真剣に見てんの?」、復活した怜が私の手元を覗き込んで言った。「全部未佳が写ってないじゃんよ」。

「いいんだよ、これで」

「みんなで撮った写真は、あとで共有するね」

 千里が布団を敷こうとして、私たちを追い出した。

 宏佳には、観光客だらけの嵐山の写真と、資料集で見たそのままの金閣寺の写真を送った。

〈楽しんでる? もしかして暑い?〉

 私のメッセージにはすぐ既読がついて返信が来た。

〈三六度。わや暑い〉

 そう送った。

 三日目、生まれて初めて新幹線に乗った。進行方向向かって左手の窓際だった。飛行機と違って、三人掛けのシートは同じ班の私、千里、怜が座った。通路を挟んで綾乃。またアニメ声で「速い速い!」と騒ぐのが聞こえた。名古屋を過ぎた。静岡にさしかかると、誰ともなく富士山が見えると声が聞こえた。私はちょうど富士山側の窓際だから、反対側の生徒が押し寄せてきた。田舎丸出しだった。しかたない。私たちは手稲山とか後方羊蹄山(しりべしやま)しか見たことがないんだ。裾野からすっくと立ちあがっている富士山を見て、自分で「わあ」と声が出ていることに気付かなかった。流れる車窓から写真を撮ったが、何枚撮っても、猛スピードで割り込んでくる柱が写り込んでムカついた。

 京都から東京まで、三時間ちょっとだった。札幌から函館に行くより早い。だから私には距離感がつかめない。そして東京駅に着いても、真夏の空気だった。着たきりの制服のベストが汗くさい気がして嫌だった。私はハンカチではだめだと悟り、仕方なくコンビニでフェイスタオルを買った。

 父との会話を思い出す。小学生のころ、と言っても数年前、家族で東京に来たこと。ディズニーランドへ行ったこと。寒かったこと。冬休みに行ったからだ。記憶にあるのと寸分変わらず、人ごみのすごさは札幌の比ではなかった。どこからこんなに人間が湧いて出てくるんだろう。千里の背の高さがこういうときに役立つ。百八十センチ近い千里は目立つのだ。うすうす自分が目印代わりにされているのに気付いているらしく、カモの親子のように私たちがついて回るので、ときどき険しい顔で振り向かれる。

 東京でも写真を撮った。スマホを構えると、千里が画角に入り込んでくる。ピースサインを出すので、撮る。すると、怜も綾乃も入ってくる。構えたスマホを下ろすのも酷なので、撮る。自然と、写真フォルダの中は、彼女たちでいっぱいになる。

「未佳も入ろうよ」

 言われるままに、私は右腕を伸ばし、インカメラに切り替えて、撮った。笑わないと不自然だから、笑った。なんだか、どこにいでもいる女子高校生みたいだなと思った。

 東京は自由行動だったから、また四人で決めた場所に行った。スマホを見ながら電車を乗り継いで浅草に行った。仲見世を通って、浅草寺を見た。とにかく人だらけだった。雷門の前、私たちは四人で写真を撮った。それぞれのスマホで、表情もポーズも変えて。このあと、すみだ水族館に行くか、スカイツリーに行くかで実は意見が分かれていた。私はスカイツリーに登ってみたかった。ほかの三人はチンアナゴとニシキアナゴとクラゲを見たいと言っていた。両方まわるのは時間的にも予算的にも厳しかったから、別れた。

 エレベーターに乗り、展望台へ上がった。どうせめったに来ることはないと思ったから、奮発して天望回廊まで行った。東京はべっとりした青空。エレベーターを降り、回廊を速足で歩いていた。もうすごい景色だった。東京の街がミニチュアのように広がっていた。展望デッキまであっという間に到達した。夏の雲が湧き立っているのが見えた。富士山は雲のせいで見えなかった。腕を突き出して、反射を抑えながら、何枚も私は写真を撮った。宏佳に見せたかった。JRタワーなんて問題外だよ。ためらうのをやめて、私はインカメラで自分と東京の街を撮った。笑っていないと宏佳が気にする。「いえー」、口に出して撮った。

 見覚えのある制服に気付いた。後ろ姿だけで誰だかわかってしまった。一人だった。なぜここに。私はつんのめるようにして足を止めた。とっさに、いましがた恥ずかしいセルフィを撮っていたひとに気付かれていたのではないか。別に気付かれてもいいんだけど。

 瑠璃だった。

 たった一人で、東京の街を眺めていた。

 引き返そうかと思ったが、二千円以上の入場料を払っているので、瑠璃がいるからといってこの展望を手放すのは惜しかった。無言で通り過ぎようと思った。

「窓際の君の人」

 真後ろを通るとき、瑠璃が平淡な口調でそう私を呼んだ。

「東京に来ても窓際が好きなのね」

 皮肉。こんなところでも皮肉。言葉の割には棘がなかったのが不思議だった。

「村上さんこそ、なんで一人で」

「イーホワたちは水族館に行ってる。積森さんこそ、なんで一人?」

 瑠璃はまっすぐ東京の街を眺めたまま、私を向かない。

「千里たちも水族館に行った。私はスカイツリーに登ってみたかった」

「こんなところで気が合うなんて」

 上ずり気味に瑠璃がつぶやく。

「別に気が合うってわけでもないと思うけど」

 言葉を交わしあってしまったので、勝手に離れるのも禍根を残す気がして、瑠璃の隣に立った。

「どこまでも、ずっと街」

 瑠璃があきれたように言った。

「札幌なんて、ちょっと離れたら、田舎なのに」

「そうだね」

 瑠璃と二人きりになんてなったことがない。そもそも住んでる階層が違うから、瑠璃は私になんて話しかけてこなかった。こんな場所でなければ。

「なんでスカイツリーに登りたかったの?」

 瑠璃がちらりと私を見た。どうしてだろう。身長は確かに瑠璃のほうが高いのだが、実寸以上に見下ろされている気がする。札幌では場違いなほど際立っていると思っていた瑠璃の顔立ちも、東京でだと違和感がなかった。容姿と舞台がぴったりマッチしている、そんな感じ。

「東京なんて、次いつ来るか分からないから。一番高いところへ登ってみたかった」

「窓際の君の人でも、高いところを目指すのか」

「どういう意味よ」

「怒らないでよ。なにか胸に覚えがあるの?」

 こういう言い方をしなければ、瑠璃はもっとみんなから好かれるのに。それとも私に対してだけの話?

「私は東京に来るつもり」

 訊き返す代わりに瑠璃を見た。フルートを吹いていたときのような目をしていた。

「札幌の大学になんて進まない。私はこの街に住むの」

 私にでなく、自分自身に対して言ったみたいだ。

「村上さん、東京の大学に進学するの」

「そう。札幌には私がやりたいことがない」

 そのためにわざわざ東京の街を見下ろしに来たんだろうか。

「窓際の君の人」

 しつこいな。苛立ちながら瑠璃をにらむ。

「私、あなたが嫌いなのよ」

 面と向かって言われた。

「一年生のときから、目立たない陰キャっぽいのに、ときどきかわいい顔して笑って。しっかり自分の居場所はあって、声を出せばあんなに響いて」

 そうか。瑠璃に嫌われていたのか。だから、きつく当たるのか。じゃあなんでいま話しかけてるんだろう。無視すればいいのに。学校祭のときみたいに。

「積森さん、私は笑いません、みたいな顔して、ここぞというときは誰よりもいい顔して笑ってるのよ。それがムカつくんだよ。努力してませんみたいな顔して、あんな放送して。三年生の須藤ありささんみたいなタイプなら、きっと私はあなたを嫌いになったりしなかった」

「須藤さんのこと、知ってるんだ」

「あの人の声は特別だもの。新入生歓迎会の朗読、すごいなって思ったから」

「それは同意する」

「私は何かに努力をして輝いている人が好き。輝こうと決意して輝いている人が好き」

 言い返したり聞き返したりせず、東京の街を瑠璃に倣って眺めた。電車が走っている。音は届かない。映像のようだ。人の姿は見えない。小さすぎるから。

「あなたの部活の須藤さんは努力して輝いた人。なのにあなたは、努力なんてしてませんって顔して、コンテストに入賞しちゃった」

 知ってるのか、私が全道大会七位だったこと。

「気づいたの。この子、陰で努力してる。自分を抑えてる。努力してますアピール皆無。そう言う子は怖い」

「見たよ」

 私は意識しなくてもアナウンサーの発声になっている。

「なにを」

「夏休み。村上さんが吹奏楽やってるの。そうだよね。いつも村上さんは涼しい顔してクラスにいる。確かに、私は汗くさい努力なんて一個もしてませんって感じ。なのに、音楽室にいた村上さんは、教室にいる村上さんじゃなかった。あんな目をしてる村上さんは初めて見た。違う、見たことがなかっただけ。吹奏楽局の演奏会では、めっちゃキラキラした顔してフルート吹いてるのに、あんな顔して練習してるなんて知らなかった」

 一気に言うと、瑠璃はちょっと口許が笑った。

「余計なものを見たのね」

 続けて言った。

「練習してたときの村上さん、私、好きだよ」

 嫌いだと言ってきた人に、好きだと言ってしまう私。ちぐはぐだ。

「見なくていいのに」

「見えたんだもの」

「イーホワはね、練習してるときも、演奏会のときも、おんなじ顔。なんだかつらそうな顔してトランペット吹いてる。あの子の顔見てて、私はもっと平気な顔して演奏してやるって思ってたのよ」

「イーホワと仲いいじゃん」

「友達として仲がいいとか悪いとか、これ関係ない。イーホワは輝きが足りない。だって、いつも苦しいときは苦しいって顔をするから」

「楽しいときは楽しいって顔するじゃん」

「イーホワは子どもなんだよ」

「村上さんよりストレートだよ」

 言うと瑠璃はまた口許を緩ませた。

「積森さん、結構ずけずけ言うよね。その声で。イーホワも私に言う。ツンツンしすぎだって」

「そのとおりじゃないかな」

「その他大勢に埋没するわけにはいかないから。そんな人生送りたくないから」

「笑ったっていいじゃん」

「それ、あなたにそのままお返しする」

 そこで瑠璃は私を向いた。

「いつもは笑わないくせに、千里の横で、眩しく輝いてるのがあなたなんだよ。出し惜しみしないで、もっと笑いな」

 出し惜しみ?

「我慢してるんでしょ」

「別に我慢なんてしていない」

「そう見えない。イーホワみたいに安売りするのもどうかと思うけど、積森さんはわざと抑えてる。努力してるのに、それを見せない。ここぞというときに発揮して、あんなすごい放送をしたり、コンテストで入賞したりする。私も放送局に入ればよかった」

「は?」

「迷ったのよ。須藤さんの朗読を聞いて。でもウチの高校、吹奏楽も強いから、そうした。中学でも吹奏楽だったし」

 瑠璃が放送局にいる図を思い浮かべられない。私や柚月や美咲と並んでアナ教をしている姿も、お昼にスタジオでお弁当を食べている姿も。

「結果的によかったけど。あなたが放送局にいるんだから。あなたと競い合いたくない」

 瑠璃はまた大都会を見下ろしている。彼女が東京へ出たとしたら、この巨大な街のどこに姿を探せばいいんだろう。大学の四年間を過ぎ、社会に出て、眩しく光るのだろうか。光り出したとき、私はきっと、瑠璃を越えることはもうできない気がした。

「ずっとあなたが気になっていたの」

 話を続けながら、瑠璃は終始姿勢がよかった。吹奏楽もきっと姿勢を大事にする。

「もういいわ。あなたが嫌いだって言ったこと、取り消す」

「えっ、なんで」

「嫌いじゃないから」

「嫌いだって言ったじゃない」

「……あなたの放送、いつも聞いてる。須藤さんの放送より、私は積森さんのほうが好き。耳に届く。あなたの声。あの日の放送、私、自分に告白されているみたいで、苦しくなった」

「村上さん」

「ハスミンなんて、あんなこと絶対言わない」

 蓮見。瑠璃の彼氏。

「自由行動、一緒じゃないの」

「あいつ六組だもの。偶数のBグループでしょ」

 奇数組がAグルーブ、偶数組がBグループ、日程が一日ずれているのだ。

「積森さん、私、もう行くけど。あなた、まだここにいる? 一緒に下りる?」

 瑠璃と私が一緒に下りて行ったら、千里たちがびっくりする。いや、瑠璃と同じ班の侑実那たちもびっくりする。そして彼女たちはあからさまに嫌悪しそうだ。

「私はまだここで見てく」

「そう」

 長い髪を揺らして、瑠璃が振り向いた。

「あの放送、本当に積森さん宛の告白じゃなかったの?」

 瑠璃の目がまっすぐ私の目を見ていた。射すくめられて、反射的に目をそらした。

「……違う」

 耳が熱くなった。瑠璃は見抜いたのではないか。確かめる間もなく、瑠璃は何も言わず、私を置いて、天望回廊へ歩いて行った。


 まだ夏服のままだったが、ブラウスは長袖にして、家を出た。修学旅行から帰って来て、余韻はまだ残っていたけれど、高校二年生の最大のイベントが終わってしまい、クラスは本当にお祭りの後のような雰囲気だった。来年になると、私たちは受験生になる。

 二学期の中間テストの結果が張り出されていた。千里が順位を大幅に上げていた。私も少し上がった。私は窓際の席に相変わらずいて、高くなった空を見上げては、宏佳がまだ戻ってこないことを考えていた。スマホでのやり取りは、ときどき中断をはさんで続いていたし、わたし自身がカウンセリングを受ける日に合わせて、お見舞いも行っていた。退院の時期も一時決まったのだが、宏佳の体調がすぐれず、医師の判断で延びてしまった。

 放送局は、高文連の大会に向けて動いていた。私も出場するから、毎日のアナ教は欠かしていない。家でも朗読を続けていた。

 リクエストボックスには、ときどきメッセージが入るようになっていた。柚月も美咲も、和奏も彩夏もメッセージは読んでいたが、告白のメッセージは「窓際の君」以来誰も読んでいない。

 ときどき三年生が様子を見に来る。柚月の局長ぶりは板についてきていて、須藤さんを安心させた。私が相変わらず仏頂面でいると、須藤さんが心配そうにする。

「須藤さん、少なくともウチの学校には二人、須藤さんの朗読に心底痺れちゃった子がいるんですよ」

 そう言うと、

「積森さんのほかにもいるんだ」

 と素っ気ないふりをしながらも嬉しそうにしてくれた。

「ウチのクラスのクイーンが、須藤さんの朗読に痺れてました」

 吹奏楽局の演奏会を見る機会があった。織部と森と私と三人で、演奏会の取材に行ったのだ。一華が嬉しそうに近寄ってきた。だから取材した。

「誰の演奏に一番憧れていますか?」

 私がマイクを差し出すと、一華は日本の有名なトランペット演奏者の名を挙げた。「スタートレック」のテーマ曲の動画なら、私も見たことがあった。


 雨の日。教室から見えるポプラの木は煙ったようにかすんでいた。教室は少し湿気があって、ブラウスの胸元から自分の匂いがした。また宏佳のことを思った。彼女も、同じように、雨に煙る札幌の街並みを、病棟四階から眺めているような気がしたから。授業中は禁止されているスマホをこっそり取り出して、宏佳にメッセージを送ろうとした。すると、机に影が落ちた。私の席に誰か来た。顔を上げた。

「村上さん」

 瑠璃が私を見下ろしていた。私は慌ててスマホを隠した。

「続けなよ。LINE送ろうとしてたでしょ」

「あ、うん」

 メッセージを送信して、スマホの電源を切り、カバンにしまった。瑠璃はまだ私の前に立っている。

「あの、何か用?」

 瑠璃の整った顔立ちは微動だにしない。私と同じ長袖の真っ白なブラウスを着ていて、袖のアイロンの折り目が切れそうなほどくっきりしているのが見えた。その腕が私に向けて突き出された。

「なに?」

「メッセージ。リクエスト」

 淡いブルーの封筒。

「言っとくけど、告白なんかじゃないからね。ただのメッセージ。あなたが読んで。それが条件」

 ほら、と言わんばかりに突き出された封筒を受け取る。ひっくり返すと、「2年1組村上瑠璃」と、容姿に似つかわしい美しい文字で書かれていた。難しい漢字の名前なのに、さすがに書きなれた感がある。

「中にSDカード入ってるから。一曲しか入ってないから、一緒にかけて。いい?」

「あ、うん」

 リクエストが百パーセント読まれるのを瑠璃は知っているんだ。でも、どのアナウンサーがいつ読むかは放送局次第。アナウンサーを指定されたのは初めてだ。

「窓際の君の人」

 封筒の記名に見入っていた私は、瑠璃の声に顔を上げた。棘のない声だった。

「たいした内容じゃないけど、期待して待ってるから。あなたに読まれるの」

「……分かった」

 私は両手で封筒を持ち、瑠璃を見上げて、しっかりうなずいた。すると瑠璃は満足げな顔でうなずき返した。

「何で私に?」

 第一階層(レイヤー・ワン)の瑠璃が。

「一緒に東京の街を見下ろしたから」

「そんなことで」

「あなたの声に、私の気持ちを載せてみたかった。私が自分で読むわけにはいかないし、読んだとしてもあなたには到底敵わない。私のメッセージを読むのにふさわしいのは、積森さん」

 言葉を私に運びながら、瑠璃がゆっくり瞬きをした。視線はそらさず。瑠璃の目は濃い茶色をしている。ほとんど紺色のような。

「そこまで言うなら……分かったよ」

 敢えて笑顔を見せたりせず、仕事の依頼を受け取るプロフェッショナルを気取ってみた。

「よろしく」

 言うと、くるりと文字通り踵を返し――上履きが床に擦れる音まで聞こえた――瑠璃は自分たちのグループに戻って行った。

「大丈夫?」

 千里が心配になったのか、ちょっと間をあけて私のところにやってきた。

「別に、リクエスト預かっただけ」

「え? 瑠璃がリクエスト?」

「うん」

「どういう風の吹き回し。これから雪が降るんじゃないの?」

 千里はスカイツリーで私と瑠璃が一緒になったことを知らない。瑠璃が誰にも話していないなら、クラス中誰も知らない。私の朗読を好きだと言ってくれたことも。

 放課後、封筒を開けた。言われたとおり、SDカードが入っており、PCで開くと一曲、瑠璃が聞くと言われると少々意外な曲が入っていた。

 メッセージは少し長かった。


 新琴似高校の生徒の皆さんへ。

 きっと私は、再来年の三月に卒業したら、二度とこの学校へ来ないでしょう。ここは私にとってマイルストーンの一つに過ぎないからです。

 偶然の重なりで同じクラスになったみんなとも、奇跡的に同じ窓を共有しているだけで、十年後に立っている場所から見える風景は、間違いなく違います。

 私は皆さんと違う場所へ行くつもりです。二度と会わないかもしれません。

 修学旅行で、私はスカイツリーから東京の街を見ていました。大きいと思い込んでいた東京の街も、手を伸ばすと全部腕の中に入ってしまいそうなほど小さく見えました。

 同じ景色を一緒に見た人がいます。その人はきっとどの場所にいても、自分で輝き出すに違いないと感じました。

 皆さんも輝いてください。私は皆さんに負けず輝くつもりです。

 この学校に通い、あなたの出会いが偶然と奇跡に囲まれていることに、皆さんも気づいてください。


 瑠璃


 添削の必要はないと感じた。十分に練られていた。瑠璃がペンを持ち、きっと自分の部屋の自分の机で、これを書いたんだ。そのまま読もうと思った。そしてなにより、瑠璃がこんな文章を書くとは思わなかった。

 デスクトップPCに座り、瑠璃が便箋に書いた言葉を、キーボードで原稿用に書き写した。プリンターで印刷して、何度か読み上げた。

「森、これ」

 私は収録準備をしている森に原稿を見せた。

「へえ。けっこう異質なメッセージ。これ誰」

「ウチのクラスの子」

「瑠璃って、村上瑠璃?」

「知ってた?」

「二年生で村上のこと知らない奴いないべ」

 そんなに有名人だったっけ。確かに、要旨は目立っているし、成績もいいから。

「卒業したら二度と来ない、か……」

 森が隣に座って、頬杖をついて原稿を読んでいた。

「来ないかもね」

 私は応えた。

 柚月が調整室で織部と中田と話し込んでいるのが見えた。後ろで、和奏と彩夏が編成の花蓮を挟んでクスクス笑っている。技術の高瀬が一人で音響機器のマニュアルを読んでいた。

「この場にいるのも奇跡ってことだ」

 森が私を見て言った。

「お前が姉さんと同じ学校に行ってたら、絶対に会わなかった。お前はこの場にいなかった」

「そだねー」

「偶然かー」

 なにより瑠璃がこんなふうに考えて過ごしていたことにも驚いた。容姿に恵まれ、周りを下僕のようなクラスメイトたちに囲まれ、ちやほやされてさぞや楽しく学校に通っていると思っていた。違ったんだ。

「俺、村上みたいなタイプ、苦手なんだよねー。ハイレベルすぎて。芸能人間近で見たらこんな気持ちかって思うべ」

「私、面と向かって嫌いだって言われたよ」

「村上に?」

「そう」

「言いそう」

「その後訂正されたけど」

「訂正?」

「私の朗読が好きだってさ。これも、指名。私に読んでほしいって」

「気に入られたんだな」

「教室のクイーンに?」

「下僕として」

「誰が下僕じゃ」

 森を肘で突いた。

 それから原稿に間のタイミングなどのメモを入れた。いつも通りの収録が始まって、学校からのお知らせを読み、一曲目、それから瑠璃のメッセージ。マイクの向こうに瑠璃がいるつもりで読んだ。瑠璃が時折見せた、柔和さをイメージして。彼女に抱いていたイメージそのままでは強すぎるから。読み終わり、BGMがフェードアウト、瑠璃のリクエスト曲が流れる。収録といっても、冒頭から最後まで生放送と同じタイミングで録って完パケ状態にする。織部も手慣れたものだった。明日のお昼にこれを流す。

 教室で自分の放送を聞こうと思った。それが、瑠璃に対する気持ちだった。あの子の顔を見てみたい。学年クラスフルネームの記名はなかったけれど、二年生に「瑠璃」は一人しかいない。彼女はメッセージに自分の思いを載せた。私がそれに応えられたかどうか、彼女の顔で確かめたかった。

翌日、お昼休みの教室で、自分の放送を聞いた。千里、怜、綾乃と机を囲んで、お弁当を食べながら。一華が、「るりん、るりん」と言いながら、瑠璃と楽しそうにおしゃべりしていた。

曲が流れ終わって、瑠璃のメッセージになった。スピーカーから私の声がする。教室のざわめきの中で、瑠璃のメッセージは、ざわめきの中でよく届いてくる。

「これ、誰かのメッセージ?」

 千里がスピーカーを見上て言った。

「もう会うことはない、か」

 怜が呟く。

 一華も黙って聞いていた。

 瑠璃は、お弁当を食べる手を止めて、背筋を伸ばし、スピーカーを見つめているようだった。

〈この学校に通い、あなたの出会いが偶然と奇跡に囲まれていることに、皆さんも気づいてください。――瑠璃〉

 メッセージが終わると、瑠璃がゆっくり私を向いた。目が合った。ゆっくりと瞬きをした。そして向き直り、また話し出した一華の声を微笑みながら聞いていた。

「いまの、瑠璃?」

 千里が驚いた顔をして問いかけた。

「そうだよ。瑠璃からのメッセージ」

 答えると、千里は深くうなずいて、少し黙った。

 それから綾乃が別の話題を口にした。

 教室はいっとき瑠璃のメッセージに支配されながら、徐々に元の空気を取り戻して言った。


 十月になった。街路樹が橙に色づき、はっきり季節は秋になった。宏佳はまだ病院にいる。

 私は十七歳になった。誰から聞いたのか、森が部室で「今日はツモリンの誕生日です」と言い出し、乗っかった柚月たちアナウンサー一同からもお祝いされた。自宅に帰ると、母がいつもよりちょっと品数の多い夕食と小さなケーキを用意していてくれた。「今日、宏佳のところにも行って来たのよ」。同じケーキを渡して、一緒に食べてきたと話してくれた。メッセージの交換はすでに済ませていた。お互い絶対に忘れない誕生日。

 私の片割れ。早く、帰って来て。

 模試があったので、その日は部活はなく、四時前に私は帰宅しようとしていた。日が短くなったと実感しながら、すでに冬服で、スカートの中が肌寒くて仕方なかった。家のそばまで来たときに、後ろ襟に五芒星が縫い付けられたセーラー服が見えた。地下鉄や街中では碧星女子の子はよく見かける。でも、私の家の周辺では見かけない。だから思った。

 お姉ちゃん?

 知らず、駆け出しそうになった。髪も長くなく、まるで本当に宏佳が学校から帰って来ているように見えたのだ。すると、セーラー服の少女が振り向いた。

「……宏佳?」

 まったく知らない顔だった。知らない顔が、私を見て、宏佳、と呼んだ。

「……宏佳、よその学校の制服着て、どうしたの?」

 やや不安げな表情で、その子は歩み寄ってくる。ああ、きっと宏佳の友達なんだ、この子。少し一華に雰囲気が似ていたが、声はしっかり低めだった。

「……違う、宏佳じゃない、あなた、誰?」

「姉、のお友達ですか」

 背筋を伸ばした姿勢のまま、その子に向かい合い、言った。

「妹さん?」

「宏佳の、碧星女子の、お友達ですか?」

 問うと、彼女は口に手を当て、目を見開いた。うそでしょ、と呟くのが聞こえた。

「私、妹の未佳です。姉に用事だったんですか?」

「ごめんなさい。私、広島っていいます。広島緑理です。碧星女子の五年……二年生の」

「姉はまだ入院しています」

「退院したと思って……。LINEではそう聞いていたから」

「延びたんです。少し」

「そうか。そうなんだ。……そっか」

 スポーツバッグに、宏佳も使っている黒っぽい指定バッグを肩にかけ、緑理は落胆したようだった。

「姉にわざわざ会いに来てくれたんですか」

「学校の資料で渡しておきたいものがあったから。それに、お見舞いも少し間が空いてしまったから、会いたいと思って来たんだよ」

 緑理の言葉を受け止めたが、ストレートで強かった。会いに来てくれた。宏佳に。緑理はこのあたりに自宅があるのだろうか。それとも遠回りをしてここまで来てくれたのだろうか。

「家、入りませんか。寒いし」

「いいの?」

「私と会っても、ぜんぜん何の役にも立たないと思うけど」

「妹さんがいるのは聞いてた。でも、双子だなんて、ぜんぜん知らなかった……。宏佳と話しているみたい」

 まだ緑理は驚きが消えていない様子だった。

 おじゃまします……、小声で緑理が言い、家に入った。緑理はローファーを履いていた。三和土に上がると、沓脱のローファーを、ちょん、と揃える姿が、私立の子、そんなイメージを抱かせた。

 母はいなかった。買い物か、宏佳に会いに行ったか。または両方か。宏佳が入院して、週に三日ほど、母は宏佳に会いに行っていた。私はその頻度で行けない。

 応接室に緑理を入れるのもよそよそしすぎると思ったから、リビングに招いた。宏佳の友達であって、私の友達ではないから、自室に入れるのもためらわれたから。

「なんか飲みます?」

「あ、ぜんぜんそんな気を使わなくていいから」

 右手を大げさに振ってソファから腰を浮かせた。

「私が飲みたいので、コーヒー飲めますか?」

「うん」

 母はいつもコーヒーメーカーを使っていたけれど、いまはキッチンでピカピカに拭きあげられていた。私はマグカップを二個出して、インスタントコーヒーを淹れた。緑理はリビングを見まわしては感嘆の声を上げていた。私立に通っているなら、緑理だってそれなりの家庭のはずなのに。

「砂糖、使ってください」

「ありがとう」

 緑理はスプーンで一杯砂糖を入れて、スプーンで混ぜた。セーラー服の胸元の五芒星のバッジが輝いて見えた。

「本当に同じ顔……」

 マグカップをテーブルに置いて、緑理がまじまじと私の顔を見る。あまり遠慮がない様子に、帰って私は楽になった。

「でも、全然違う」

 緑理はそう言った。

「違いますか?」

 今まで何百回言われたか分からない言葉。「本当によく似てるね。入れ替わっても分からないんじゃない?」。緑理は「全然違う」と否定した。

「雰囲気が。最初はびっくりした。違う制服着て、宏佳が転校したのかと思った。未佳さん、新琴似高校でしょ」

「うん」

「吹奏楽と放送が強いのね」

「よく知ってますね。どっちかやってるんですか?」

「私はバスケットボール」

 それっぽい雰囲気だと思った。大きなスポーツバッグも、運動部系を想起させたから。

「宏佳、どうしてる?」

「よくなったり、少し戻ったり、繰り返しです。だんだんよくなってきてます」

「あなたのことが怖いって言っていた。妹に入れ替わられるって」

「姉の病気のこと、詳しく知ってるんですか」

「学校でも、夏前に具合が悪くなったことがあって。教室で泣いてた。どうしてだろうね。宏佳は何にも悪いことなんてしてないのに。あ、もちろんあなたもね。あなたはぜんぜん悪くない」

 向こうサイド――宏佳の日常世界からやってきた人と話すのは、思えば初めてだ。

「お姉ちゃんは、どんな感じなんですか。学校で」

「何でもできる子。英語も上手に話すし、苦手な科目もないし、みんなに好かれる。私も好きだよ。ピアノがめちゃくちゃ上手で。妹さんなら聞いたことあるか。夏にも聞かせてもらったけど、本当にすごいんだ。ピアノを弾いてるときの宏佳の顔が好き。没頭してるときの――ゾーンに入ってるときの顔」

「分かります。一緒に習ってたんです」

「えっ、未佳さんもピアノ弾くの?」

「レッスンはやめちゃったけど」

「もったいない」

「姉には敵わないので」

「宏佳のピアノ、すごいよね」

「一緒に弾いたりしてたんだけど」

「え、ちょっと、もしよかったら、未佳さんのピアノも聞かせてもらえないかな。って、ピアノがある前提で話しちゃってるけど」

「ピアノはあるんですけど……。いきなりですか」

「ごめん、迷惑だったかな。ごめんごめん。つい、……宏佳と話しているみたいな気分になっちゃって」

 マグカップを持ち、恥じ入るようにコーヒーを口に運ぶ緑理。そこで気付いた。この子は、緑理は宏佳にとっての千里なんだ。わざわざきっと遠回りをして、カバンにスポーツバッグを抱えてやってきた。宏佳に会いたくて。会って話がしたくて。私がもし入院したら、きっと千里は真っ先にやってくるに違いない。確信的にそう思った。緑理が千里のポジションであるならば、学校の帰りに制服姿のまま、……親友の家を訪れても不思議はないと思った。

 それからしばらく雑談になった。宏佳のことを中心に。学校祭のこと、朝の礼拝でまじめにお祈りをしていた宏佳。そういう日常。学校帰りに寄り道をして、とりとめもないおしゃべりをするのが好きだったという宏佳の一面。

 そのうち、初対面だということを忘れた。千里と話しているような気分になったのだ。

「宏佳のピアノ、また聞いてみたいなぁ」

 緑理が言うので、

「私でよかったら弾きますよ」

 宏佳を意識したわけではない。緑理が千里の距離にいきなり近づいたのだ。私の口調がくだけた。

「もちろん、本当に?」

「いいよ。指、動くかどうか」

 一気に緊張した。人前で弾くなんて、何年ぶりだろう。最後の発表会は中学生のときだった。

「こっち」

 向かい合って座っていたソファから立ち上がり、緑理を伴って、練習室に向かった。


 もともとは客間の一つだったその部屋は、私と宏佳が四歳のとき、防音工事を施して、ピアノが置かれ、それからずっと練習室になっている。アップライトピアノと、椅子、それから一人掛けのテーブルと椅子。最後に調律師さんが入ったのはいつだろう。気になった。

「すごいね、防音室かー」

 緑理はまた部屋をぐるりと見渡して、私がピアノの前の椅子に座るのを見届けようとしていた。

「あの、広島さん」

「うん?」

「お姉ちゃんと同じレベルを期待しないでくださいね」

 あらかじめ断っておかなければ、なにせ見た目だけは宏佳とまったく同じなだけに、肩透かしを食うのではないか。

「気にしないよ。ああ、こうしていると、学校の練習室で宏佳がピアノを弾いてくれたのを思い出すなぁ」

「そんなこと、あったんだ」

「そう。ときどき弾いてくれてたんだよ。宏佳は合唱祭といえば伴奏もしていたし。未佳さんはどうなの? 合唱で伴奏なんてやってた?」

「……ピアノを習っているって話したことなかったはずなのに、やってました。どこからか漏れるんですね」

「あれ、調査票とか家庭訪問とかそういうので先生たちが把握して、クラスに一人はピアノが弾ける子を置いとくらしいよ」

「そうなの?」

「だって、誰もピアノを弾けなかったら、困るでしょ」

 そういうものなのかと、言われたら納得した。

 楽譜を物色した。宏佳が弾いていたものが多く、特に時間が下ると、もはや私の手には負えない曲ばかりになる。クレメンティとかツェルニーとかでもいいのかな。有名な曲がいいだろうか。有名な曲で私が弾けるものはそんなに多くない。ちょっと迷って、発表会でも弾いたことがある『ゴリウォークのケークウォーク』にした。

「この曲知ってます?」

 印象的な冒頭から弾き始めた。

「聞いたことある!」

 跳ねるような弾むようなメロディ。左手。というかこの曲はリズムが難しい。聞くとそんなに難しくないかも、と思って挑戦したらものすごく苦戦した。

 指が動かない。当たり前。しばらく弾いてない。譜面を見ながら……譜めくりをやってくれたお姉ちゃんは今はいない。指がすごく硬かったが、ほとんどの部分は覚えていた。ああ、もたついてしまう。リズムが崩れる。『亜麻色の髪の乙女』にすればよかっただろうか。それはなんとなく、取っておきたかった。えっ、誰のために?

 弾いてるうちに楽しくなってきた。強弱をつけるのも。ため気味にするところも。

 左手が言うことをなかなか聞いてくれない。左手――左指。もっと自由に弾けていたはずなのに。

 レッスン、やめなければよかった。

 終盤に差し掛かる。冒頭のモチーフがまた出てくる。最後まで弾ききれ、私。

 ミスタッチしたかどうかも覚えていない。ただただ、弾いているのが楽しい。宏佳と一緒にこの部屋でピアノを弾いていたころを思い出していた。何もかもが楽しかったころ。もう曲は終わってしまう。

 えーい。

 これで、おしまいだ。

 恐る恐る、緑理の表情を確かめた。そういえば、高校の制服を着てピアノを弾いたのは初めてかもしれない。まるで発表会だ。広島緑理という、宏佳の、きっと彼女の親友の前で。

 緑理は私を向いて何も言わなかった。失敗したかな。宏佳と比べられたかな。

「いいよ、すごい!」

 拍手をされた。

「宏佳と全然違う。当たり前だけど、別の人が弾いてるピアノだって」

「そうかな。お姉ちゃんはコンクール優勝しちゃう人だから」

「えっ、そうなの?」

「私とは格が違うの」

「でも、未佳さんのピアノ、いいよ。あんなに楽しそうに弾いてる人、私は見たことがない」

 楽しそうに?

「怒んないでね。そうね、子どもが遊んでるみたいな顔。未佳さん、ピアノ弾くの大好きなんでしょ。宏佳は遊んでる感ゼロ、もうギッチギチの雰囲気で弾くんだけど、未佳さんは弾くのが楽しくて楽しくて仕方ないって感じよね」

「ありがとう。そんなふうに見えるんだ」

「来てよかった。未佳さんのピアノも聞けた。新しい友達ができた」

「えっ」

「未佳さん。私は宏佳の友達。宏佳は私にとって大切な友達。あなたは友達の妹さん。通じるところがたくさんある、双子の妹さん。私、あなたがピアノを弾いてる姿が大好きになっちゃった。もう友達だよ。宣言するようなことではないと思うけど」

「お姉ちゃんとは、中学生のころから?」

 私はピアノから半身を緑理に向けた。

「そう。私も宏佳も一貫生。なんか気が合ってさ。宏佳ってああ見えてちょっと気難しいところもあるからさ、話しかけにくいなあとは思ったんだけど、まあ、気がついたら友達だ」

 私は千里が話しかけてくれなかったら、高校一年生から孤立していたかもしれない。では、宏佳はどんなだったんだろう。聞いてみたいと思った。

「なんかきっかけがあったの?」

「カラス」

「えっ?」

「学校から帰ろうとしたら、カラスがいてね。私にガーガー鳴いてくるんだよ。大きなカラスで、ほら、春から夏ってカラスが凶暴化するじゃない。えっ、私この子になんか悪いことしたの? って思って。逃げようとしたんだけど、飛んできて襲ってくるんだよ。そのとき、宏佳が来てさ。あの子、カラスに話しかけるんだよ。『何もしないから、こっちに来ないで、帰りなさい』みたいなことを」

「へえ」

「ナウシカかこいつは、って思ったんだけど、そのときはカラスが引き下がったんだよね」

「そんなことがあったんだ」

「続きがあるの。次の日も、たぶん同じカラスが来るんだよ。カラスって人の顔覚えるらしいじゃない。何にもしてないのに、通りかかると、またカラスが来るの。でもさ、そのとき宏佳がいたんだよね。カラスがガーガーって言いだしたら、宏佳がすっと前に歩み出て、しゃがみこんで。カラスをじっと見てるの。呟いてるんだよね、『何もしないよ、何もしないよ』って。面白い子だなぁーって思ってさ。一応ほら、カラスの襲撃から助けてもらったから、お礼をして」

 宏佳とカラスの取り合わせが不思議だった。そんな宏佳を見たことがなかった。

「カラスがちょっと甘えた声出すんだよ、宏佳には。宏佳は笑って『何にも持ってないよ。あげるものないの。ほら行きなさい』とか言ってるの。そしたらカラスはぱーって飛んでっちゃった」

「イメージ湧かないなぁ」

「でも面白いでしょ。私より宏佳のことを覚えたのか、それからしばらく、そのカラスくん、宏佳が学校を出ようとしたら、校門の上から、カーカー鳴いてたよ」

「懐かれたんだ、お姉ちゃん」

「そうかもね。そんなことがきっかけで、宏佳と話すようになりました。些細なことだよね。教室では席も近かったし」

「私とお姉ちゃん、全然違うって言ってたよね」

「違うね。ピアノ弾いてもらったら余計に感じた」

「入れ替わっても、気づきますか?」

「気づく」

 即答された。

「見た目が同じというだけ。雰囲気が全然違う。宏佳はもっと大げさな表情が多いけど、未佳さんは落ち着いてる。会えばわかる。私のほかの友達も、きっとそう。未佳さんと出会っても、あ、この子は違う子だってすぐに気付くよ。どうして?」

「お姉ちゃんが……私が碧星女子の制服を着て、お姉ちゃんと入れ替わりに学校へ行くかもしれないって、思っていたらしいから」

「髪形も同じだもんね。ウチの制服着たら、ぱっと見は同一人物だね。でも分かるよ。しゃべらなくても。目を見たらわかるかもしれない」

「目?」

 問い返すと、部屋は静かになった。私と緑理の、制服の衣擦れの音だけ。緑理が私の目を見ている。

「未佳さんの目には、なんとなく、憂いがあるよね。宏佳のことを心配してる。きっとそうだよね。さっきピアノを弾いていたときとは違う色だ。本当の未佳さんは、ピアノを弾いていたときの顔だと思うけど、どうかな」

 言われて思い至った。自分がピアノを弾いているときの顔を知らない。母が昔私と宏佳の発表会の様子を撮影していたが、顔の詳しい表情までは見えなかった。ピアノに反射する自分の顔なんてそもそも見ないし見えない。だから、緑理が指摘した演奏中の私の顔が分からない。

「今とは違った顔、してたかな」

「さっき言ったとおりだよ。どっちが本物かって言われたら、ピアノを弾いてるときの未佳さんが本物だよね」

 楽しかった。弾いてるあいだは。

 それを言うなら、演奏中の宏佳だって楽しそうにしていた。私と一緒にいるときは。

「お姉ちゃんだって楽しそうにしてましたよ」

「弾け方が違う。宏佳は一途。未佳さんは奔放な感じ。どっちが好きかって言われたら、私は未佳さんのほうが好きだよ。あ、表情の話だよ」

 目の前の新しい友達を見た。少し前に出会ったばかりなのに、もうこんなに話をしている。触媒は宏佳だ。もしかすると、緑理と同じ教室で授業を受けていたのかもしれない。すると突然、千里に会いたくなった。千里の前でピアノを弾いたら、緑理と同じことを言ってくれるだろうか。私が演奏しているときの顔を見て、「好きだ」と。

「宏佳、早く退院できるといいな」

 誰にでもなく、緑理がつぶやいた。

「そうだね。本当に」

「学校へは、いつ戻ってくるんだろう」

 宏佳は休学になっている。退院しても、学校へは戻らない。たぶん来年の四月、高校二年生として復学するはずだ。そのとき緑理は三年生になっている。同じ教室で授業を受けることは、もうないのだ。

「広島さん」

「うん?」

「お姉ちゃんが学校へ戻るのは、たぶん、来年の四月になると思う」

「そんなに遅くなるの?」

「……たぶん、高校二年生として、戻ると思う」

「そっか……。私たちは六年生……いや、三年生。宏佳は二年生として帰ってくるのか」

「お願い。お姉ちゃんのこと、見てあげて。学年が変わったとしても、今までどおりでいて。私はそばにいてあげられないから」

「もちろんだよ。学年が変わったからって、関係ないよ。同じ教室にいられなくなるのは、寂しいけど」

「お姉ちゃん、広島さんみたいな人がいて、よかった」

「んー、私でよかったのかねー」

「もちろんだよ」

「ねえ、未佳さん。もう一曲くらい弾いてよ。さっきの顔、見てみたいよ」

 緑理が身体を乗り出して言ってきたので、

「下手くそですけど、いいですか」

 答えて、また楽譜を探した。『亡き王女のためのパヴァーヌ」を見つけたので、これもさんざん練習したっけ、そんな記憶を手繰りながら、私の意思を百パーセント受け取ってくれない指とともに、緑理の前で弾くことにした。

 あの曲は、宏佳と弾こう。必ず、宏佳はここへ帰ってくるから。


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