ピアノ
何日か、目が覚めても、すぐに眠ってしまうような一日を送った。きっと薬のせいだ。起きていても眠かった。目を開けていても、思考がひとところに定まらないような、あやふやな時間が続いた。仕方なくベッドに横になって、窓の外を眺めていても、中央区、桑園駅のそばの病院の四階から見える風景は意外と殺風景で、日を重ねても代わり映えがしなかった。
学校へ行きたいと思った。勉強が遅れてしまうし、なにより緑理が心配しているはずだ。
入院期間を聞かされたとき、絶望的な気分になった。
一か月。
長い。しかも、「ひとまず一か月様子を見ましょう」と主治医の富田先生は言った。「最初の一週間は、とにかく外の刺激を避けて、休養と回復を目指しましょう」と。
看護師がときどきやってきて、わたしの様子を見る。仕方ないよな、と思う。
今はずいぶん気分が落ち着いているが、学校でけがをして別の病院に運ばれたとき、わたしはひどく混乱していた。わたしはわたしを否定する声を聞いて、逃げた。未佳が、というより、わたしにすり替わろうとするもう一人のわたしが、追い詰めに来ていると思った。だから逃げた。階段から落ちた。救急病院でも追い詰められていることは変わらず、すぐにでも逃げないと、入れ替わられてしまうと感じた。結局救急医の判断で鎮静剤を投与されてしまったらしい。次に気付いたのは翌朝、病室だった。傍らに、血で汚れた制服があった。鎮静剤のおかげか、かなり気分は落ち着いていて、今すぐに未佳が現れてわたしと入れ替わるのではないか、という恐怖は薄らいでいた。
朝食が出た後で、お母さんが来た。
「制服、汚しちゃった」
「クリーニングに出してあげるから。それでも落ちなかったら、新しい制服を買いましょう」
お母さんの声が優しくて、それだけで泣きそうになった。家に帰りたいと思った。そもそもこの救急病院にはいつまで入院するんだろう。けれど、もし家にいるときにまた具合が悪くなったら、お母さんに迷惑をかけてしまう。
未佳にも迷惑をかけてしまう。
未佳は、私の大切な妹。――なのに、入れ替わろうとするもう一人のわたし――-未佳が追い詰めに来ていると感じる。未佳がそんなことをするはずがないのに。それはわかっているのに。わたしの中で、未佳を怖いと感じる明瞭とした声を否定できなかった。
お母さんは救急で入院したここから転院して、いつも診察を受けている病院に今日行くのだと説明した。手続きができたら、私があなたを連れて行くから、と。着替えも用意してくれていた。少しの時間、お母さんとやり取りをした。お母さんは終始穏やかな顔をしていたが、わたしの話に口をはさむこともなかった。
少ししてお父さんが来た。
「宏佳、大丈夫か」
窓から外を見ていた。お父さんはすぐそばまでやってきて、気遣ってくれた。
いくらかやり取りをして、お父さんが言った。
「未佳も来てる」
そっか。来てるのか。ここまで来ちゃったか。わたしの中で心が分かれるのが分かった。大切な妹の未佳と、わたしを乗っ取ろうとしている未佳。後者はわたしの中で恐怖とともにあったから、存在感は強い。打ち消しようがない。ゆっくり振り向いた。
「未佳、」
わたしとまったく同じ顔、同じ髪型、同じ身長。新琴似高校の制服姿の、未佳。
「来てくれたんだ。学校は?」
つとめて平然と言った。そうしないと、今すぐこの場から駆けて逃げ出さなければならない。未佳が、ためらいがちに近寄ってくる。わたしのことを怖がっている。あの日、未佳を殴ったから。
ごめんね、未佳。
「お姉ちゃん、が、無事なのを確認したら、学校へ行く」
未佳の言葉が、寒い冬、温かい飲み物を飲んだときのように、じわりと身体の中へしみた。なのに、別のわたしがそれを否定する。――学校へ行く? わたしの代役として?
違う。未佳は新琴似高校の制服を着ている。自分の学校へ行くんだ。
「わたしは大丈夫だよ。頭の後ろ、少し痛いけど」
少しだけ髪の毛を剃られて、縫合されたから。頭も打ったらしいけど、その痛みはなかった。
「少し切ったみたい。ダメだよ、見たら。髪の毛、少し剃られちゃったんだ」
それから未佳と少しの時間、話をした。
未佳がいまでもピアノを弾いていること。知っていた。わたしが練習を終えた後、入れ替わるようにして練習室に入り、スケールや練習曲をしっかりやっていること。『亜麻色の髪の乙女』を弾いていること。ほかの曲を弾いているのも知っている。
わたしと入れ替わる準備のために。
違う。そんなはずない。
会話を進めるうち、打ち消しがたい考えが膨れ上がり、つらくなってきた。目の前にいるのはわたしではなくて妹の未佳。未佳はわたしと入れ替わろうとなんてしていない。未佳はけがをしたわたしを気遣ってきてくれたんだ。それ以上のものはない。
入れ替わりのタイミングを見計らいに来たんだ。
違う。
これ以上未佳と向かい合っていると、疑念が膨らみ、未佳のこともわたしのことも否定してしまいそうだった。
「そろそろ学校、行かなくていいの? わたしはもう大丈夫だよ」
そう言って、会話を終わらせようとした。
久しぶりに未佳と会話らしい会話をした。嬉しかった。
乗っ取られるかもしれないのに?
違うってば。やめて、そんなこと思わないで。
未佳は何も言っていない。そんなこと言ってない。
穏やかな表情でい続けるのがもはや難しくなりかけていた。未佳は
「じゃあ、行くね、お姉ちゃん。けががたいしたことなくて、本当によかった」
本心で言っている様子だった。わたしとまったく同じ顔。声は、知っている未佳の声よりも強かった。身体全体から声が出ているように感じた。そういえば未佳は部活でアナウンサーをやっていると言っていた気がする。そのことを考えたとき、病院のスピーカーから、未佳の声で「お前は宏佳のニセモノだ」と全館に放送されるのではないか、という恐怖が湧いた。打ち消そうと思った。そんなこと、できるわけないし、ありえない。でもまだ恐怖心のほうが勝っていたんだ。
やはり、未佳はわたしと入れ替わろうとしているんだ。未佳が病室を出てからわたしは言った。
「うまくなりすまそうとしたって、わたしは騙されないんだ」
未佳の口調を真似た。あの子ならこういう風に話す。そうしないと、わたしが否定される。
「こんなところまで、わたしを追いかけてくるなんて。お父さん、どうして黙っていたの? あの子は宏佳だよ。私のことをニセモノだってわざわざ言いに来たんだよ」
傍らに立つお父さんに訴えた。
お父さんは、なぜかすごく悲しそうな顔をしていた。
未佳がいなくなり、お父さんも会社へ向かった。わたしは着替えて、お母さんと一緒に病院を出、車でいつもの病院に向かった。病院に着くと、診察と面談を受け、入院の受付にまわった。入院することをわたしは同意した。
入院は二度目だった。前は、中学三年生の冬だった。未佳を殴ってしまったあの日からすぐ。あのときは入院に同意するもしないもなかった。
久々に会った未佳の姿を思い出していた。
どうしてこうなってしまったんだろう。
自分自身でも全く分からなかった。ただ、未佳がわたしを乗っ取ろうとしている、わたしは本当の宏佳ではなくて未佳なんだ、という強い思いがあって、それを打ち消せないでいるのだった。肌感覚の恐怖だった。
入院しても、最初の一週間を除けば、寝たきりというわけではなくて。朝起きて、食事が出てきて、お薬を飲んで。午前中から回診を受けて、自分自身が抱えてしまった病気について説明をした。妹と会ったこと。きっと妹が傷つくことを言ってしまったことも。
検診、面談と続いて作業療法をするようになった。日によってプログラムが違っていた。
陶芸だったり、絵を描いたりだった。
突然生活のレベルが小学生か、あるいは高齢者施設にでもいるような状態になってしまい、不満だった。学校へ行きたいと思った。
病棟では午後になってから自由時間もあり、最初の一週間では止められていたスマホに触ることができた。
メッセージアプリを開くと、わたしへメンションして、緑理からメッセージが来ていた。
〈宏佳、大丈夫? 階段から落ちたって聞いて心配しています。菜摘が教えてくれました〉
〈宏佳へ。もしかして、心の病気が出てしまったの? 入院したって聞きました。会えるなら会いたいです〉
返事を送った。
〈階段から落ちてけがはしたけど、それで入院したんじゃないんだ。緑理の言うとおり病気がまた少し悪くなっちゃったんだ。面会は分かりません。看護師さんに訊いてみます〉
まだ授業中だから、既読もつかない。
菜摘からも来ていた。最初は階段から落ちたことへの心配。
〈宏佳、病院に運ばれたって本当? どうしたの? 落ち着いたら返事ください〉
〈宏佳本当に大丈夫? 緑理とかすみにも連絡したよ。みんな心配しています〉
〈返事できないんだったら、読むだけでいいから。宏佳が無事でいるように祈ります〉
そして、きっとわたしの様子が知れたんだと思う。菜摘のメッセージがいきなり穏やかになった。
〈そろそろ学校祭の準備だって。宏佳、戻って来られるかな。宏佳がいないと寂しいよ〉
なんて返事をしたらいいのかちょっと考えた。
〈わたしも戻りたいけど、ちょっとわかんない。変な役割当てられないことを祈る〉
菜摘はわたしの病気のことを知らない。かすみも知らない。話しておけばよかったかもしれない。
かすみはこんなメッセージを送って来ていた。
〈私も小学生のとき、スキーで骨折して入院したことがある。めっちゃ退屈。太らないように気を付けて〉
かすみはどういう意図か、メロンパンの画像を添付していた。笑みがこぼれた。
三人とも既読がつかない。夕方までやり取りはお預けだと思う。
グループチャットを開くと、わたしのことを心配するやり取りがずっと続いていた。一番最初に反応しているのは菜摘だった。菜摘の後輩が、わたしが運ばれるところを見ていたらしい。それで緑理とかすみがすぐにわたしあてのメッセージを送っている。それから、お見舞いに行けないかという話になり、緑理がちょっと待とう、訊いてみるから、と二人を制して、それから徐々に三人の学校生活のやり取りが増えた。
〈宏佳がいればいいのにね〉
菜摘がぽつんと書き込んでおり、それを見て鼻の奥がつんと痛くなった。早く元の生活に戻りたい。
心理士の松山さんと面談をした。
「少し顔色がよく見えるけど、気分はどうですか?」
面談室ではなくて、病棟の中の小さな会議室で面談した。窓から外がよく見える。
「落ち着いたと思います」
「鏡はまだ見られないかな?」
「……昨日、見てみたんです」
松山さんがメモを取った。
「すごく寂しそうな顔をした、わたしが映っていました」
「鏡を見て、それが宏佳さんだって思えましたか?」
「はい、思えました。思えたけど……」
松山さんがペンを持ったまま、先を促した。
「どこかで、これはわたしじゃない、未佳なんだっていう気持ちがあって……」
「なるほど。それは、宏佳さんにとって大切な一歩ですね。その思いが出るまで、宏佳さんは努力をしましたか?」
「心のどこかで、入れ替わられるかもしれない、やっぱりこれはわたしじゃなくて、未佳なのかもしれないって思う気持ちもありましたけど、そんなことがあるわけない、これはわたしなんだって感じました。……目の前の鏡に映っているのが、わたしじゃないわけがないって。そう思うようにしました」
いつになく松山さんの表情が柔和に見えた。けれど目がすごく真剣だ。
「でもやっぱりどこかで、わたしは妹で、妹の方が宏佳じゃないかっていう疑いがあって」
「その考えについて、宏佳さんはいまどう思っているの?」
「声のほうが間違っているんじゃないかって、感じます」
松山さんがメモを素早く取った。
「その声が間違っていると思える根拠を、教えてもらうことはできますか?」
「妹に会ったんです。これは本当に会ったんです」
わたしに会いに来てくれた未佳。怯えたように、わたしのそばへ歩み寄ってきた未佳。入れ替わられるかもしれない恐怖より、未佳に会えたことの方が、嬉しかったんだ。
「医大に運ばれたときですね?」
「はい。会いに来てくれたんです」
「未佳さんの姿を見て、声の方が間違っていると感じることができました?」
言葉選びに立ち止まる。
「少し。だけど、やっぱり声の方が強くて、こんなところまで、わたしを追いかけてきたって。でも、松山さん、聞いてください。わたし、嬉しかったんです。未佳がわたしのことを心配してきてくれたんだって思うと。ああ、きっとこの子は本物の未佳だ。わたしは宏佳なんだ、やっぱり私は宏佳で、目の前にいるのが未佳だ。この子がわたしに入れ替わろうとするはずがない」
「どうしてそう思えたの」
「……昔のことを、思い出したから」
「昔の?」
一緒にピアノを弾いたり、お互いの部屋を行き来していた日々のこと。
「ずっと妹と一緒にいました。声が聞こえる前から、ずっとです。声が聞こえるようになってから、わたしは一人になってしまいました。……未佳のことを、殴ってしまったこともあります。わたし、ずっと忘れられないんです。手に、あの子の頬っぺたのその下の、固いところに当たった感覚が残っていて」
「未佳さんに伝えたいことがあるの?」
「わたし、未佳のことを傷つけてしまった。許してくれると思いますか」
「だって、未佳さんはあなたのお見舞いに来たんですよ」
「わたしから会うのは、まだ怖いです。会えば、声が聞こえてきてしまうから」
「その声に対して、あなたはどうしたらいいと思いますか?」
「受け流すことができたらいいな、と思います」
「うん。声は聞こえるかもしれないし、あなたの心の中で、やっぱり未佳さんが乗っ取りに来てるんだって思う気持ちも沸くかもしれない。だけど、あなたは未佳さんと一緒に過ごしたいのよね?」
「はい」
「声が聞こえたら、その声に従うのではなくて、その声に質問をしてみてください。なぜ、未佳さんが宏佳さんになり替わろうとしなくてはならないんですか? そう問い返してみましょう。きっと、今の宏佳さんなら、そう問い返しても、距離を置いて見ることができるはずだから、声に引きずられることもないと思います」
「質問するんですか」
「質問でなくても、構わないです。前にお話しした『引いて見る』の延長で。声が聞こえても、その声を聞いている宏佳さんを、俯瞰してみてください。斜め後ろから自分を見下ろすような感じです。呼吸を整えて」
「俯瞰……離れたところから、自分を見るっていうことですか?」
「そうです。自分を一度、客観的に見下ろしてみるの」
「分かりました。……やってみます」
「いいことだと思うわ。……未佳さんに謝りたいっていう気持ちが出てきたこと」
「未佳に会いたいんです。わたし。すごく傷つけてしまった。昔のように、未佳とまた過ごしたいんです」
「分かりました。宏佳さんは、できると思います。鏡を見たときの宏佳さんは、自分を客観的に見ることができています。声は聞こえるかもしれませんが、これからの宏佳さんは、その声が果たして正しいのかどうか、考えることができるようになると思います」
「……怖い」
「つらかったわね。そのつらい気持ちは、共感できます。宏佳さん、大丈夫。私もいるし、先生たちもいる。看護師も見守っている。少しずつ、宏佳さんを取り戻していきましょう。きっとね、未佳さんと話せるようになると思う」
「未佳、どうしているだろう」
「LINEとかやっていないの?」
「やっています」
「メッセージ、送ってみたら」
「もう少し落ち着いたら、送ってみます」
面談を終えると、喉の渇きを覚えて、給水器から水を飲んだ。
今日はこれからピラティスをやる。碧星女子の体操服にジャージを着て。着替えたとき、ふと洗剤の匂いの向こうに、碧星女子の体育館の匂いがした。
わたしは入院患者の中で、たぶん最年少だ。わたしの次に年が近いのは、内田さんという少し背の高い女の人だった。たぶん、二十代の半ばか、もう少し年上の。
プログラムのピラティスやヨガをやっていると、なぜか隣同士になった。入院患者同士はあまり話をしなかった。自分のことで手いっぱいで、他人と話すような余裕がないからかもしれない。
わたしは最年少ということで目立ったのか、内田さんに話しかけられた。作業療法室で絵を描いているときだ。
「そのジャージって、どこの高校の?」
スウェット姿の内田さんは、少しかすれた声をしていた。
「碧星女子です」
「へえ、マジで」
内田さんの口から、北区にある中高一貫の女子校の名前を出された。カトリックのミッションスクール。
「名前、なんて読むの?」
ジャージの胸の名前の刺繍を指さして内田さんが訊く。
「つもり、です」
「積森さん。私は内田。積森さん絵は得意なの?」
鉛筆を持った内田さん、あまり進んでいない。
「いえ、わたしはそんなに」
「ステンドグラスよりいいかなぁー」
「ガラス切るの怖いですよね」
「私ははんだ付けが苦手だわ」
二十代もおそらく内田さんだけだった。あとはみんな四十代以上に見えた。
作業療法を終えて病棟に戻り、自由時間、談話室で内田さんと話した。というより、話し相手を探していたらしい内田さんに捕まった。
「ちょっと前まで、二十歳過ぎくらいの女の子がいたんだよ。拒食症でもうガリガリ。ぜんぜん話はしなかったけど、食べないってホント、生命直結だから見てて気の毒だった」
足を組んで、テーブルに肩肘をついている内田さんは、もしかすると学校の先生以外で初めて接する二十代の女性だったかもしれない。肩より少し伸ばした髪の毛の先が外にはねていて、くっきりした眉毛にやっぱりくっきりした二重の大きな目をしていた。スウェット姿でいることの方に違和感があるような。
「スポーツ何かやってるの?」
わたしの頭を指さして内田さんが訊いた。
「いえ、スポーツは特に」
「バスケかバレーやってる子みたい。てか、あれだ、バドミントンの選手でそっくりな子いるよね」
言われても誰のことか分からない。あいまいにうなずいた。
「ようやく、生きていてもいいんだって思えるようになってきてさ」
話が飛んだ。慌ててついて行く。けど追いつけない。
「あなたも若いのにここへ来たってことは、何か大変なモノ抱えちゃったんでしょ。答えなくていいよ」
四階の談話室の窓は全面がはめ殺し。病室の窓も開かない。病室には、何かをひっかけるような突起もなければ、カーテンレールまで天井に直付けだ。そういう場所なんだな、とわたしも思う。
「私ねー、仕事頑張りすぎちゃったんだよ。あなた、アルバイトしたことある?」
「いえ、ないです」
「碧星女子には中学から?」
「そうです」
「お嬢様かな?」
「そんな。内田さんの学校だってお嬢様学校じゃないですか」
「大学出ちゃえば関係ないのよ。私、めっちゃ一所懸命に働いたんだよ。人の三倍くらい働いたなぁ。残業もいっぱいしたし、給料なんてさー、使う暇がないのよ。だって土日は寝てるんだもん。身動き取れないんだもん。それでもさー、同期の子になんて負けてられないから、分かるかな、社内資格みたいなのがあるの、職能職位資格試験。それだって最短で受けて、合格して。全国どこへでも行きますーって。行かなかったけどね」
この人はわたしや未佳と違う。緑理ともかすみや菜摘とも違う、社会で戦ってきた女の人なんだ。そう思った。でも親しげだった。誰かと話をしたくて仕方がないような雰囲気だった。だからわたしは聞いていた。ほかの患者たちも、将棋を指したり、テレビを見たりしている様子。
「ある日さー、とうとう会社に行けなくなっちゃったんだよ、私」
「どうしてですか」
「起き上がるのが精いっぱい。私実家住みだから、親に呼ばれるわけ、会社に遅れるよ的な。でも、私の部屋二階なんだけど、下りらんないの。怖くてもう。突然会社に行くのが怖くなったの。あんなに頑張って仕事して、もう、私二十八なんだけどさ、入社六年目にして役職者なわけ。けっこうすごいしょ? 頑張ったんだもん。だけど、会社の事務所の様子を思い浮かべたら、もう部屋から出られなくなって」
「へえ……」こんな、バリバリ仕事をしそうな、少なくともウチの学校の先生には絶対いなさそうなタイプの女性が、怖くて会社に行けなくなるなんて。
「あー、煙草吸いたいな。ここ禁煙なんだよね。知ってる? こっそり外出て、そこの電柱のとこで煙草吸ってる人いるの」
「わたし煙草苦手で……」
「お父さんもお母さんも吸わないの?」
「吸わないです」
「そういう世の中だもんなー。煙草くらいいいじゃんね、ここの病院スゲーなって思ったのはさ、禁煙は特に勧めていませんっていうんだよね。精神的に安定するなら、煙草は特にやめなくてもよいですって」
へえ、そうなんだ。病院って煙草は絶対ダメって言うんじゃないんだ。少しだけ意外だった。
「煙草はいいや。ちょっとお茶もらってくる。あんたも飲む? ここのお茶はカフェインフリーだから大丈夫だよ」
「あ、わたし取りに行きます」
「暇なんだから私にさせてよ。待ってて」
カラスの声が聞こえた。すごく近く。窓から見下ろしたら、すぐ下の電線に止まっていた。大きなカラスだった。すぐにもう一羽がやってきた。つがいなのかな。また未佳のことを考えた。未佳のことを考えても、最近は入れ替わられるかもしれない、という恐怖心が薄らぐようになっていた。
「お待たせ。お茶ね」
内田さんが元の席に座る。
「秘密の場所があるんだ、私」
カップを両手で持つしぐさが、口調に反してものすごくかわいらしかった。
「なんの秘密の場所ですか?」
「話したら私叱られるかなぁ」
「教えてくださいよ」
「最低十五分は誰にも見つからず、長くても十二時間以内に誰かが見つけてくれる場所」
にっこり笑って内田さんが言うから、笑顔で返そうとして、言葉の意味に気付くのが遅れた。気付いて身体が緊張した。
「ちょっと待ってください、それって」
「そう、そういう秘密の場所。道具も用意したし、場所も決めた。あとはいつそこへ行くか。部屋も散らかっていたけど、全部きれいにしてね。私、家を出たんだよ」
その日の様子を思い起こすように、大きな目を細めて内田さんが話す。
「車で出かけたのがまずかったね。親が警察に通報しちゃってさ。私、パトカーに止められたんだよ。親が車のナンバー教えちゃってさ。警察官に見つかったとき、助手席に紐積んでるの見られちゃってさ」
「ダメですよ……」
ふと、未佳が暗く狭い、机と椅子しかなないような部屋にこもってしまうイメージを抱いた。未佳の秘密の場所。行ってはいけない場所。そして未佳の姿が瞬時に自分に取って代わる。わたしが秘密の場所へ向かうイメージ。みんなに別れを告げて。ダメだ、そんなこと。
「ダメだよね。分かってるよ。でも、私はそうするしかなかったんだよ。ダメなことだってわかっててもね。それでね、ここに来ちゃったわけ」
拒食症の女の子。自分を否定する女の子。職場が怖くて秘密の場所に行こうとした女性。
「結局、秘密の場所に行かなくてよかったかもなーって今は思うけどね。生きててよかったよ。今は仕事は休職中。わかる? 職を休むで休職。これもつらいんだけどね。せっかく同期の中では最短で役職者になったのに、これじゃ全部パー」
「パーじゃないですよ。内田さん、生きていてよかったと思いますよ」
「あんた、高校何年生?」
「二年生です」
「二年生でここに入院しちゃってるのも、私以上にハードだと思うよ。つらかったでしょ」
内田さんがわたしにチョコレートをくれた。内科系の病棟ではないので、カフェインに気をつければ、あまりこういうお菓子の類にはうるさく言われない。
「わたし、入院するの、二回目なんです」
言うと今度こそ内田さんは驚いた顔をした。
「ごめんね、あなたのほうこそ、私よりずっとつらい思いをしてるんだね。私よりも一回りも年下で、入院が二回目だなんて」
「そんな」
「ちょっとウルウル来ちゃった。ごめん。私情緒不安定だからさ」
本当に内田さんはテーブルの上のティッシュペーパーを撮って、目元をぬぐい、鼻をかんだ。
「どんな病気なのかなんて私は訊かない。でもね、私なんかよりずっと苦しい思いをしたんだろうなってのは分かるよ。初めて入院したのはいつ?」
「中学三年生の秋、というか冬です」
「そんな、人生で一番楽しい時期なのに。中三と高二だなんて。本当に大変だよ」
このままこの話を続けたら、かえって内田さんの病状が悪くなるではないかと心配になったが、内田さんは目元と鼻の頭を赤くして、「大丈夫」とだけ言った。
談話室ではいったんそれでお話が終わった。お風呂の時間になり、それから自由時間、メッセージアプリを開いて、みんなとやり取りした。
わたしの心の病気のこと。
菜摘にも、かすみにも打ち明けた。二人ならわかってくれると思った。背負い込まないでほしいとも思ったけど、そこは緑理がいてくれるから。
〈宏佳、つらかったんじゃない? いままで大変だったね。また学校で会いたいよ〉
とかすみ。
〈お見舞い行っちゃいけないの? 私は学校で合う前に宏佳の顔を見たい〉
面会に関しては、もう少し待つように、と主治医から言われていた。家族はいいとしても、友達は少し待つようにと。家族の中でも、許されたのはお父さんとお母さんだけで、妹の未佳はまだ面会謝絶だった。もう少し様子を見ましょう、と。
〈退院の時期が決まったら、連絡して。しばらく学校はお休みだって、宏佳のお母さんに聞いたから。もし許してもらえるんだったら、宏佳の家まで会いに行きたい〉
緑理が個別トークで私にそう言ってくれた。
夕食の後、一部消灯時間の午後九時までが自由時間だ。完全消灯は午後十時。正直言うと大変暇だった。談話室に行っても、はるか年上の患者たちしかおらず、内田さんもいなかった。
内田さんの病室へ行くのもはばかられたから、いよいよわたしはピアノが弾きたいと思った。一日最低一時間、つらくても投げ出さない。前に入院したときもそうだった。ピアノに触れないのが苦痛だった。
そうして、規則正しい日々が過ぎていった。
作業療法はエレベーターで一回の作業療法室へ下りる。部屋は外来のデイケア室と扉で仕切れらていてとても静かだ。窓の外にアジサイがたくさん咲いていて、ときおり風に揺れている。ぽつりぽつりと話し声、作業療法士の高野さんの明るい声、そしてハサミや鉛筆を走らせる音。
先々週からペーパークラフトで花を作っていた。小学校の図工以来、糊とハサミ――作業療法士が都度箱に入ったものを持ってくる――を手に、色紙を切り抜いた。隣に座る内田さんがものすごく手先が器用で、切り抜いた花びらの形が揃っていて驚いた。
内田さんはわたしのことを歳の離れた妹のように思ってくれているらしく、わたしも同じように、歳の離れたお姉さんという感覚になっていた。自分の病気について相談してみたいと思った。話してもいいのだろうか。心理士の松山さんや、主治医の富田先生以外に詳しく話したことがない。聞いてもらえるだろうか。怖がられないかな。隣で無心にハサミを操る内田さんを向いたら、視線に気づいてくれたのか、顔が上がった。優しい目をしていた。内田さんには聞いてほしい。「宏佳」として話したい。
「どしたの、積森さん」
「聞いてくれますか。わたしの病気のことです」
言うと、内田さんは一時ハサミを止めて、無言でうなずいた。
お茶を飲みながら、話した。わたしが抱えてしまった病気のこと。いまでも聞こえる声のこと。鏡を見るのが怖いこと。……未佳に謝りたいと思っていること。
少し長い話だった。ほかの患者さんにも聞こえたかもしれない。でもいい。作業療法士の高野さんが静かにわたしたちを見ていた。
「そっか……。よく、話してくれたね」
内田さんは穏やかな顔でわたしを見てくれた。ハサミを置き、その手でわたしの左手を握った。
「怖かったでしょう。自分を否定されてしまう感覚なら、私もわかるよ」
わずかに内田さんの表情が曇った。夏の日差しが雲に隠されたような感じ。
「自分が妹さんに入れ替わられちゃうっていう怖さか。……怖かったね。よく、私なんかに話してくれたね。ありがとうね」
ありがとう。わたしは入院してから、こんなに温かい言葉を聞いたことがなかった。
内田さんはまたハサミを手に取った。外からの日差しは夏のそれ。アジサイの花がまぶしい。
「こちらこそ、ありがとうございます……」
小さな声で呟くように、言った。
「宏佳ちゃん」
私のことを名前で呼んでくれた。
「宏佳ちゃんは、気づけたんだよ。自分が未佳ちゃんと入れ替わってしまうんじゃないか、自分がどこかへ行ってしまうんじゃないかっていう、そのことに違和感が湧いたんだ。自分のことを守れるようになったんだよ。ずっと苦しかったんでしょ。よく耐えてきたね」
花びらを開きながら、その指がかすかに震えるのを感じていた。嬉しかったから。
「ずっと苦しんで。でもやっと宏佳ちゃんは、自分を取り戻す第一歩を踏みしめたんだ。間違いないよ」
「わたし、もとのわたしに戻れるでしょうか」
「妹さんと仲良くしていたころの、宏佳ちゃんね?」
「そうです」
「今の気持ちを大切にしなよ。もし、また声が聞こえてきても、その声に従わないんだ。その声の方こそ噓なんだ。宏佳ちゃんはもう気づいた。誰も、宏佳ちゃんのことを乗っ取ろうとしていないんだってことに。大丈夫だよ。元に戻れるよ。私も、元通りとはいかないと思うけど、しっかり休んだら、会社に戻って、そうだなぁー、稼働率六十パーセントくらいから始めるよ」
飾らない内田さんの言葉が渇いた土へ雨が降るように、すっと沁み込んだ。内田さんがどれだけ優しい人なのかも。きっと優しすぎて心が壊れてしまったんだ。
「ありがとうございます、内田さん。内田さんに話したら、わたし、元の自分を取り戻せるんじゃないかって思えました」
「油断はしちゃだめだと思うけどね、宏佳ちゃんはもう進み始めたから、きっと、未佳ちゃんとも仲直りできるさ。未佳ちゃんだって、宏佳ちゃんがいなくて寂しい思いをしてるんだよ」
「そうならいいんですけど」
松山さんにメッセージアプリでやり取りしないのかと言われたことを思い出す。ずっと怖くてやっていなかった。
そういえば。
あのアカウントもしばらく見ていなかった。
テーブルの上は、淡い色の色紙で作られた花びらでいっぱいになっていた。高野さんがひとつひとつまとめて、別の患者さんに糊付けするように指導していた。
「まだたくさんあるね」
内田さんは変わらないスピードで花びらを切り抜いていた。窓の外のアジサイが、夏の日差しを受けて眩しく輝いているようだった。
曜日感覚がなくなりそうなものなのに、不思議とそれはなかった。作業療法や面談をするとき、日付と曜日を確認されたからだ。入院して数日、やたらと眠かったりぼんやりしていたが、二週間、三週間と過ぎるとそれもなくなった。
作業療法では引き続き内田さんと一緒だった。彼女は、いったいどこが悪くて入院しているのか分からないほどに穏やかで、わたしのことを気遣ってくれた。
声は入院中もわたしを否定しようとした。唐突にやってくる。わたしは松山さんが言っていたように、声に問いかけをする。
わたしがわたしじゃないのなら、わたしはいったい誰なの? 答えて。答えられないなら、わたしはわたし、宏佳なんだ。
毎朝鏡を見た。髪の毛を整え、顔を洗い、歯を磨く。鏡に映っているのは、まぎれもなくわたしであって、未佳の姿ではなかった。何度かは、鏡の中に映っているのは未佳で、だからわたしも未佳なんだ、そういう直感的な思い込みに支配されそうになったが、そのころ、わたしは未佳とメッセージアプリでやり取りをするようになっていた。未佳が朝のこの時間、病棟にいるはずがない。そう思うことで、打ち消そうと努力した。
松山さんと面談で、未佳とメッセージアプリのやり取りをしてみてはどうかと言われた日の夜、わたしはスマホを手にしていたが、緑理たちとのグループチャットを開いて三十分ほどやり取りしただけで、未佳へはメッセージを送れないでいた。
その代わり、フォローはしていないが、ときどき見ているSNSアカウントを開いてみた。
投稿は少ない。
以前見たのは、日が暮れた後の公園から、街の風景を撮ったものだった。その風景はわたしにも見覚えがあったし、忘れられない場所だった。
〈私が見ている風景です。いったいどれくらいの世界がこの一枚にあるんだろう。誰か、教えてくれますか〉
画像にはそう書いてあった。きっと、投稿者は、ひとつひとつの家の灯りを見て、それらがそれぞれの世界に思えたんだろう。わたしにもわかる。手に取るようにわかる。
次の投稿は、こんなふうだ。そして今のところ、最新の投稿だった。
〈ある大会に出ました。私は入賞したけれど、全国へは進めなかった。同じ部活の奴に魔法をかけられた。「笑顔の魔法」。効いたかどうか、私にはわからない〉
そうか。……あの子は全道大会まで進んだんだ。よかった。
わたしはポスト主が誰か、もう分かっている。分っているからフォローしていなかった。未佳は、誰もフォローせず、フォローリクエストもことごとく拒否しているに違いない。ただ、自分の見ている風景や、感情の吐露をしたくて、呟いているんだ。わたしもそれをそっとしておきたかった。
笑顔の魔法って何だろう。
未佳は、魔法をかけなくても、いつも笑顔でいたはずだ。もし笑顔でいられなくなったのなら、わたしのせいだ。スマホの文字を見ながら、あらためて、自分がしてしまったことの大きさ、失わせたものの貴重さを噛みしめていた。取り戻したい。何もかも。全部を。
また、同じポストの字を追う。
同じ部活の奴に魔法をかけられた。
……男の子かな。
未佳が男の子に呼び止められ、大会前の不安さを打ち消すため、笑えるように「魔法」をかけられている姿が思い浮かんだ。未佳はなんでも器用にこなすタイプではなく、ひとつひとつを丁寧に、でもやるからには完璧にやるタイプ。そんな女の子だから、恋愛になんていままで手を触れたこともなかったはずだ。未佳から好きな男子がいるなんて話は聞いたことがなかった。あるいは片思いのまま終わってしまったのかもしれない。きっと後者だ。
未佳のことを大切に思ってくれている男の子がいるのかな。もしそうなら、未佳、応えてあげなよ。
わたしはそのポストを眺めて、今日はいったんメッセージを送るのをやめよう。明日こそ、送ってみよう、そう思ったんだ。
病棟の窓は開かないので、一階の作業療法室の窓が唯一、わたしの生活で外の空気に触れる場だった。ペーパークラフトはほぼ完成の状態に近づていて、準備をする中、わたしは窓に近寄り、外の空気に触れた。
三週間で空気が夏に変わっていた。暖かい、というより、少し、暑い。アジサイが「咲き誇る」という言葉通りの姿になっていた。車やバスが走る音がして、病院の外には日常が広がっていた。そのとき、わたしは強く、家に帰りたいと思った。
「どうしたの?」
作業療法士の高野さんが話しかけてきた。「なにかあったの?」
「いえ。家に帰りたいなっ」思ったんです」
「そだね。そろそろ帰りたいよね。でもペーパークラフトフラワーは完成させないとね」
「もうほとんどできたじゃないですか」
「もうちょっと作りたいよね。貼りだしたら、壁一面が埋まるくらいの。ダリアが少し足りないかなー」
わたしたちが話しているのを見て、内田さんも近寄ってきた。三週間前に初めて会ったときより、少しだけふっくらした顔になった。思い出すと、あの頃の内田さんはげっそりしていた。
「ダリアは面倒なんだよなぁ。高野さん作ってよ」
「私が作ったら意味ないでしょ、内田さん」
「私、もうすぐ退院なんだからさー」
そうなんだ。内田さんから聞かされていた。間もなく内田さんは退院して、通院に変わる。
「ちょっと長引いちゃったんだ、私」
「内田さんにはたくさんお話聞いてもらいました」
「いやいや、いいんだってそんなこと」
「そろそろ始めますよ」
高野さんが言う。
そのとき、作業療法室の片隅に、電子ピアノが置いてあるのが見えた。
「あっ」
声に出ていた。
「どしたの」
内田さんが反応する。
「いえ、ピアノがあったから」
「おや。宏佳ちゃん、ついにピアノ弾くの?」
うなずく。内田さんには私がピアノを弾くことは話していた。
「しばらく弾いてないので。弾いてみたい」
「いいな。宏佳ちゃんのピアノ、聞いてみたいな」
ダリアを切り抜きながら、内田さんが言った。
「高野さん、高野さん」
テーブルの向かいで同じくダリアを切り抜いている高野さんに声をかけた。
「はい、なあに?」
「あの、あそこにあるピアノなんですけど」
「うん。あれ? ピアノがどうしたの?」
「もし、弾いても構わないんだったら、弾かせてもらいたくて。あの、今じゃなくていいです。別の時間に」
「ああ、構わないよ。ぜんぜん。大歓迎。弾いてるところ見せてくれるんだったら」
「えっ」
「内田さんも見たいでしょ。私も見たい。それでよかったら、ぜひぜひ」
「少し練習してからなら」
「練習してるところでもいいから、見てみたいな」
高野さんが嬉しそうに言った。
「ピアノちゃんと弾ける人いないから、せっかく予算で買ってもらったのに、なかなか使う機会がなくて」
「積森さん、ピアノ習ってたの?」
と、高野さん。
「レッスンはまだやめてなくて、いまお休みしてるんですけど……」
「じゃあ、いつがいいかな、高野さん」
内田さんがダリアを手に持ったまま、高野さんに向いた。
「今日のお昼のあと、午後のプログラムが始まるまで、一時間くらいあるからそこでどう?」
「いいんですか」
わたしは嬉しくなって訊いた。
「いいよー」
高野さんが答えた。
自分を少しずつ取り戻しつつあると感じ、胸の奥が軽くなっていく感覚を持った。ハサミとのり。そう、今は目の前のペーパークラフトを完成させるんだ。ハサミで紙を切る音と、糊付けの音。内田さんの横顔。そして、静かな作業療法室。窓の外の空気と、バスが走っていく音。
わたしはこれから、わたしを取り戻すんだ。
昼食を食べた。いつもちょっと量が多め。内田さんがふっくらした理由はこれかかもしれない。でも、残さずに内田さんが全部食べられるようになっているなら、きっと心が回復してきているからなんだと思う。
プログラム再開は一時。今が十二時。わたしと内田さんは、エレベーターで一階まで下りた。高野さんが迎えに来ていて、作業療法室のドアの鍵を開けてくれた。
電子ピアノは安価なものではなさそうだった。近寄り、鍵盤を押した。しっかりとした重さがあった。
「いま、電源つなぐから、待っててね。椅子の高さが合うかな。ごめんね、こんな椅子しかないんだけど」
高野さんは近くにあった椅子を抱えてきた。
椅子の高さは大事だ。特にわたしは小柄だから。すると高野さんは何かを思い出したように、別の部屋に行き、「あった、あった」と、ピアノ用の椅子を持ってきた。
「これと一緒に買ってもらったんだよ。忘れてた」
高さの調整できるものだ。座らせてもらって、高さを合わせた。
電源を高野さんが入れた。ランプがついた。わたしは「真ん中のド」の鍵盤を右手親指でタッチした。久しぶりだ。鍵盤が応えてくれた。
「宏佳ちゃん、何弾いてくれるの?」
内田さんが椅子を引っ張ってきて、わたしの後ろに座った。高野さんもその隣に座った。
何を弾こう。しばらく練習していないから、不安だった。そのとき、未佳の顔が浮かんだ。
一瞬、わたしは警戒した。未佳が、わたしを乗っ取る、あのイメージになると思ったから。
「うっ」
強く目を閉じ、背を丸めた。高野さんが腰を浮かせ、内田さんがわたしの背に手をのせた。
「大丈夫?」と内田さん。
「やめようか?」と高野さん。
怖い、と思ったのは一瞬だった。わたしの頭に浮かんだのは、わたしを乗っ取ろうとしている未佳ではなくて、家の練習室、笑顔で楽しそうにピアノを弾く未佳の姿だったからだ。あの子はいつでも、どうしてそんなに楽しそうなのかと問いたくなるほどの笑顔でピアノを弾いていた。ミスタッチをするといたずらが見つかった子供のような顔をする。未佳が得意にしていたのは……。
「大丈夫です。ちょっと昔のことを思い出しただけ。うまく弾けるか分からないけど、『亜麻色の髪の乙女』を弾いてみますね」
「おっ、名前聞いたことあるよ」
内田さんが言って、椅子に戻った。高野さんも。
まずは右手から始まる。♭が六つの変ト長調。とてもシンプルで美しい響きのこの曲は、実際に弾こうとすると意外に難しい。今譜面はないけれど、未佳と一緒に何十回も弾いた。きっと指が覚えている。
楽譜には冒頭にこう書いてあった。「とても穏やかで優しい表情で」
最初のレ♭。そっと音を出す。電子ピアノでうまく弾けるだろうかと思ったが、大丈夫だった。
四分の三拍子だけれど、冒頭から「厳格にせず」と書いてあった。テンポは曲全体で揺れる。
わたしは未佳と自宅の練習室で交互に弾いていたころを思い出して、指を進めた。
冒頭の和音が何度か出てくる。それもコードを、表情を変えて。それが耳に心地いい。
楽しい。
ミスタッチ。気にしないで進めた。指が少し硬い。言うことを聞かない。しばらく誰も弾いていなかったせいか、サステインペダルが軋んだ。これから曲はクレッシェンドして、pからmfに。曲が盛り上がるところ。きれいに弾きたい。内田さんが深く息を吐いたのが聞こえた。
楽譜を思い出す。『重さなしで』
また曲が穏やかになる。『とても柔らかく』。ああ、この曲はこんなに穏やかで優しい曲だったんだ。
そして、余韻をできるだけ残すようにして、弾き終わる。
三分に満たない演奏時間。本当はもっと練習して、指を「温めて」から弾きたかった。演奏自体も硬かったと思う。指がわたしの思うように動かなかった。
でも。
わたしがわたしに戻ってきている。未佳のことを思い浮かべたが、嫌な気持ちはあまり湧かなかった。また、一緒に弾けたら……。
拍手。
振り返ると、内田さんと高野さんが立ち上がって拍手してくれていた。
「いいよ、すごくよかったよ。プロのピアニストじゃん!」
内田さんが身を乗り出して拍手してくれている。
「びっくりした。ここまでこのピアノを弾いている人、今までいなかった。どうしてもっと早く言ってくれなかったの。いままで何回もこの部屋に来ていたのに」
高野さんも嬉しそうだ。
「宏佳ちゃん、いい顔してるよ。当ててあげようか。未佳ちゃんのこと、考えてるんだよね?」
「……どうしてわかったんですか」
「何回か話してくれたからさ。未佳ちゃんもピアノを弾いていた。だけど、宏佳ちゃんに遠慮するように、レッスンを途中でやめちゃった。宏佳ちゃんはそれが残念だった」
「話しましたっけ、そこまで」
「話してくれたから、私が知っているんだよ。未佳ちゃんは、レッスンをやめた後も、こっそりピアノを弾いている。お姉ちゃんのあなたに見つからないように、時間をずらして、こっそり」
「そうです。わたしは気付いているんです。あの子、わたしが気が付いていないと思ってるみたいだけど。でも」
未佳は練習室から出てくるとき、無表情なのだ。中学生のときはあんなに楽しそうに弾いていたのに。笑って、未佳。あなたは、そんな顔をして「亜麻色の髪の乙女」を弾いていたの?
穏やかに、やさしく。楽譜にはそう書いてあるのに。
「一緒に弾けばいいんだよ。宏佳ちゃん」
「……未佳が嫌がると思うんです」
「未佳ちゃんと、ちゃんと話して。病気のことも、みんな。全部。宏佳ちゃん、私は未佳ちゃんに会ったことはないけど、なんとなく思うんだよ。未佳ちゃんはあなたの味方だよ。きっと力になってくれる。なりたいって思ってるはず。だから大丈夫」
「内田さん、だいぶ調子よくなってきましたね」
高野さんが感心したように言った。
「なんだよ、今度は私かい。……私もね、一人の力だけでよくなろうなんて思っていないんだ。親にも迷惑かけたし、後輩は心配してるしね。助けてもらってるんだ。いろんな人から。高野さんだってその人だよ。ありがとう」
内田さんはわずかに表情を曇らせたあと、フラットな顔になって高野さんを見た。
「内田さんがそんなこと言えるようになるなんて、大進歩ですよ。よかった」
高野さんが笑ったので、内田さんも仕方ないというような感じで笑った。
わたしも、きっと笑った。
「宏佳ちゃん、いい顔するんだな」
内田さんが笑いながら、そう言った。
その日の夜の自由時間にメッセージアプリを開いた。
未佳。
何を書こうか少し考えた。
〈未佳へ。この間は病院に来てくれてありがとう。わたしは、来てくれたのが本当の未佳だと思っています。ごめんなさい〉
送信した。
少し待った。
既読がついた。鼓動が早くなる。あの日のこと、忘れていない。病室を出た未佳に言った言葉。きっと未佳を傷つけてしまった言葉。病気が言わせたんだってまわりは言うかもしれないけど、言ったのは間違いなくわたし。あの子は気にしている。
返答が来ない。
やっぱり、まだ未佳はわだかまっている。都合のいい話だと思う。わたしがひとり思い込んで口にした言葉を、未佳に忘れてもらいたがっている。
窓の外は夜景になっているが、中心部に近いので空は明るい。病室はそんなにぎやかさとは隔離されている。ベッドに腰かけて、スマホの画面から少し目を離した。
途端に、スマホが震えた。見た。
〈メッセージありがとう。私も、お姉ちゃんはお姉ちゃんだと信じています。お姉ちゃんはこそ元気にしてますか。傷は痛くありませんか〉
未佳が返事をくれた。
「わあ」
声が出た。同室の患者さんがわたしを向いたので、頭を下げた。ごめんなさい。
〈傷はもう大丈夫。返信くれて、本当にありがとう。今日はピアノを弾いたよ。「亜麻色の髪の乙女」。また、未佳と一緒に弾きたい。弾いてくれますか〉
打ち込んだ。既読。少し時間が空く。
〈私でよかったら〉
そっけない返答だったが、嬉しかった。
〈ありがとう〉
声がする。未佳の返信は、未佳のふりをした宏佳が入力しているのだ、打ち込んでいる私自身が未佳なんだ……。だとしたら、今日ピアノを弾いたのは誰なの? 指にはまだ感触が残っている。内田さんや高野さんもいた。作業療法室にいたのはわたしだ。声の方が間違っている。それに、わたしの脳裏には、未佳があの子の部屋にいて、ベッドの上か椅子に座り、少し背を丸めて返信を送っている姿がリアルに見える。
すぐに既読がついて、
〈いま、私は、お姉ちゃんに会いたいです〉
そんな返信が来た。わたしの涙腺は弱くなっている。
〈わたしも、未佳に会いたい。落ち着いたら、会いに来て〉
既読。
〈必ず、会いに行きます〉
〈おやすみ、未佳〉
声に出して言った。
〈おやすみ、お姉ちゃん〉
未佳の顔が見えた気がした。部屋のベッドの上で膝を抱え気味にして、ときどき窓の外を見ながら、スマホを見ている未佳。
すぐに昔に戻れるとは思っていない。未佳がわたしになり替わろうとしているという思いは消えていなかった。かろうじて、わたしがわたしであると考えることで打ち消している。
メッセージアプリだけのやり取りだったが、本物の未佳と繋がれた気がした。スマホの電源を切った。ベッドから下りて、スマホを預けるためにナースステーションに向かった。
少しして、内田さんが退院した。荷物をまとめて、入院したときに着ていたのかもしれない私服姿だった。内田さんの服装はまだ夏に届いていない感じがして、暑そうに見えた。
「宏佳ちゃん、お世話になったね」
「わたしこそ、一方的にいろいろ話を聞いてもらって感謝しています」
「いい、私に対しても言い聞かせてるんだけど、病気と闘うんじゃないよ。病気と一緒に生きて行くの。仲良くなんてできないけど、飼いならすの。私はいまでも怖いし不安。退院するけど、まだ会社には行けない。もう二度と出勤できないかもしれないって思ったら怖い。でもね、それを受け入れるしかないって思ってる」
「飼いならす……」
「うん。宏佳ちゃんは、きっと私よりもつらい思いをしてる。だって声が聞こえるんだもの。でも宏佳ちゃんには、本当の妹さんがいる。未佳ちゃんはきっとあなたの味方になってくれる」
「はい」
内田さんは少し煙草の匂いがする春物のコートを羽織って、近づいた。
「約束しよう。私はもう秘密の場所へは行かない。あのときの気持ちを思い出したら、私はすごく悲しくなる。それに、生きていたら、あなたみたいな素敵な子に会えるってことも分かった。あそこへ行っていたら、宏佳ちゃんのピアノは聴けなかった。
もし行きたくなったら、そんな場所に行かないで、休むことにする。楽しいことを考えて、考えられなかったら、そのときも休む。あなたのピアノを思い出してね。宏佳ちゃんは、あなたのことを否定する声が聞こえても、無理に抗わない、でも従わない。未佳ちゃんと会えたら、今度は甘えてみなさい。きっと宏佳ちゃんは、お姉ちゃんでいようとして無理してたんだ」
未佳に、甘える?
そんなこと、許される?
「未佳が、許してくれるかどうか」
「LINEのやり取りはできたんでしょ。大丈夫。きっと分かってくれる。あなたの片割れ」
「わたしの、片割れ……」
「どちらかが欠けても、あなたはあなたでいられない。宏佳ちゃんの話を聞いてたら、そう思ったよ」
そうだろうか。うん。きっとそうなんだ。近すぎるから、わたしは声が聞こえ始めてしまったんだ。
「じゃあね。私は退院しても、当分はリワークで通院してくるから。あなたもデイケアに来るなら、またすぐ会えるわ。本音では、外で会いたいけどね」
「ありがとうございます」
「元気じゃないと思うけど、元気で」
そう言って、内田さんは、よく似た顔をしたお母さんと一緒に病室を出て行った。
内田さんがいなくなった病棟。四階の窓から、病院を出ていく内田さんが車に乗り込み、通りへ出ていくまで、見送ったんだ。
内田さんがいなくなった病棟の夜。SNSを開いた。未佳がこんなポストをしていた。
〈明日から学校祭。私は一人の学校祭。……本当に一人なんだろうか。きっと違う〉
その二日後、こんなポストがあった。
〈学校祭、終わってしまいました。
人が人を好きになること。
私にはまだよく分かりません〉
赤、青、ピンク。
花火の画像が添付されていた。
未佳。
わたしがひとりじゃないように、きっとあなたも一人じゃない。
ねえ未佳、あなたは誰かを好きになったの?
今年は参加できなかった学校祭。
緑理からや菜摘たちとのグループチャットで、学校祭の様子が届けられていた。
少しだけ寂しかった。
〈宏佳がいない学校祭は寂しい! ごめんね。宏佳の分も、頑張ったからね〉
と、緑理が打ち込めば、
〈クリスマス祭は宏佳と一緒にやりたいよ〉
とかすみ。菜摘は、
〈来年は一緒に過ごそう〉
とシンプルに、その代わり、学校祭の様子の写真を、八枚も添付してきていた。みんな弾けるような笑顔だった。七生が写っていた。あの七生がピースサインを突き出していた。彼女たちの笑顔が伝播して、気づけば笑っていた。ありがとう、みんな。
スマホを返却すると、就寝前の薬を飲む。やがて消灯。ベッドに横になり、暗くなった部屋の窓から見える、札幌の中心街の灯りを眺めた。明滅するビルの屋上の衝突防止灯。すぐそばの高架を行き来する電車の音。目を閉じると、すぐに眠ってしまった。