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メッセージ

 クラスの半分が夏服になった。私は冬服のままだった。朝と夜はまだ肌寒かったから。

 席替えがあった。また窓際になった。最前列になってしまった。滑走路も玉ねぎ畑もポプラの木も、変わらない窓際からの風景がそこにあった。隣はサッカー部の三田村。休み時間は付随して、木村侑実那(ゆみな)とその仲間が集まってくる。侑実那のお尻で私の肩がどつかれたので、放送室へ行かず教室でお弁当を食べるときは、今度窓際最後列に移った志田怜の席のところへ避難することになった。

 部活のほう。

 石狩地区大会で優秀賞だった。須藤さんは問答無用で最優秀だった。講評順からは、須藤さんが一位、私が三位。柚月は入賞だったが、全道大会への枠からは外れた。美咲は入賞しなかった。私が主演したラジオドラマも入賞した。全道大会は地区大会のすぐで、学校祭準備に入るころには、きっと結果が出ている。

朗読部門は、指定される図書から抜き出して、一分三十秒以上二分以内ぴったりで読み切らなければならない。だいたいの子は時間を意識しすぎて早くなる。タイムを計りながら読むが、それがほとんど苦にならなかった。

「積森さん、なんとなく場数踏んでるような雰囲気あるよね」

 すっかり私の応援団にまわってくれている柚月がそう評した。

「中学のとき、なんか部活やってた?」

「バスケ部」

「試合慣れしてるのかなぁ」

「試合出たの一回だけだよ」

「え、マジで?」

「三年生の引退試合のときだけ。いつもはベンチ。ユニフォーム着て」

「そうか、積森さんのその頭は、バスケ部だったからか」

「変な納得の仕方しないでよ。髪切ったのはそんな理由じゃないんだよ」

 後付けで。バスケをやるから私も髪を切りたい。そう言った記憶が痛い。

「試合一回しか出ていないのに、去年の新人戦も、今年の地区大会も、積森さんはぜんぜん変わらない」

「そこがツモリンなんだよ」

 横から森が口をはさんできた。

「なんだよ、森」

 柚月が腕組みをして闖入者を威嚇する。

「ツモリンは全国へ行くね。間違いないね」

「やめてよそういう変なプレッシャー」

 私のかわりに柚月が口をとがらせてくれた。

「プレッシャーかな。ツモリンはその実力あると思うけどね。真面目に訊くけどさ、なんかアナウンス教室とか、そういうのに通ってたりする?」

 森が椅子を引っ張ってきて私たちの横に座った。

「通ってないよ。そういうのは、放送局で本物のアナウンサー目指すような人が行くところでしょ」

「ツモリンそういうの興味ないの」

「アナウンサーになるつもりはないけど」」

「ツモリンがアナウンサーになったら、自慢できるのにな。毎朝早起きして見るわ」

「私も見るなぁ。積森さんが朝のニュースとか読むようになったら、ホント、みんなに自慢するよ。この子、私と一緒に放送局やってたんだよ、って」

「なんであんたはアナウンサーになってないの? って言われるに一万ドル」

「森ィ」

 柚月が眉と眉をくっつけんばかりの顔になって言った。

「私、そういうのに興味ないんだよ」

 私は原稿をめくって言った。全道大会の課題図書の中から私が選んだのは、三浦綾子『氷点』だった。父の書棚にあったものを中学生のときに拝借して読んだことがあったが、一度きりだった。大会のために再読した。私が私であることの罪について、考えてしまった。

「じゃあどうして放送局に入ったの?」

 柚月が訊く。

「そういえば俺も聞いてなかったっけ」

「そんなの、志望動機をみんなに話すようなことじゃないでしょ」

「訊かれなかった? 一年生のとき、田中先輩に」

 去年の三年生。今はもう大学生になった、前の部長。

「須藤さんの声を聞いたからだよ」

 私は短く答えた。

「『ヒルヌン』で?」

 柚月。

「『ヒルヌン』もそうだけど、須藤さんの朗読を聴いたからだよ」

「え、そんなことあったっけ」

「新入生向けの部活紹介で、放送局のときは、須藤さんの朗読を流したんだよ。覚えてない? 今年もやったでしょ」

「ああ、そうか。それでなのか」

「柚月はなんで入ったの」

「美咲に引っ張り込まれたから」

 柚月の言葉に美咲が反応する。

「なに、私の話してる?」

「放送局に入るきっかけ。なんで入ったの? 私は美咲に引きずり込まれたから」

「引きずり込んだとかひどいな。私は中学のときも放送部だったから、高校でもやりたかったんだよ。柚月は入って失敗した?」

「そんなことは思っていませんよ。毎日楽しいよ。感謝してる」

「森は何で入ったの」

 私が森に訊いた。

「文芸部がないから」

「は?」

「演劇部と迷ったんだけど、創作劇とかやらないっぽいから。女子しかいないし」

「演劇部入ればモテてたのにねぇ。男子ゼロだよ、ウチの演劇部」

「大道具とか照明とか、搬入搬出全部俺の役目になってたんじゃないかな」

「あーそれはありえる」

 柚月がうなずく。美咲が笑った。

「脚本書いてみたかったんだよ。文芸部はない、演劇部もダメ、としたら放送局でしょ」

「アナウンサーやろうとは思わなかったわけだ」

「石狩地区大会でも思ったけど、アナウンス部門も朗読部門も、女子ばっかなのね。なんで男子がいないのかね」

「確かにそれは謎」

「その中でもツモリンはずば抜けてうまかった」

「ちょっとそれ、地区大会敗退の私たちの前で言う?」

 柚月がまた眉毛をくっつけた。

「アナウンスはあんだけ参加者がいたら、そりゃ難しいよ。逢瀬も櫻庭もうまかったと思うよ。上川地区大会とかだったら、入賞してたと思うね」

「なによそれ、上には上がいましたね、って言いたいのか。てか上川地区の人に謝れ」

「来年があるじゃない。来年は、全員で全国行こうぜ。俺の脚本で」

「あんたの番組だって、全道じゃない」

 美咲が森を小突きながら言った。

「それは、櫻庭も逢瀬も、ツモリンも出演してくれたからに決まってる」

「都合のいいことばっかり言って」

「でも全国は無理だね」

「自分で言うかね。出演者の三人を前にして」

「俺の脚本は全国レベルじゃないから。藻南(もなみ)とかにどうせ負けるんだ」

「頼りない」

 柚月も森を小突いて言った。

「積森さん、なんか言ってやんなよ。積森さんが主役をやったのに、全国は無理なんだって」

「まあー、そうなんじゃない? 私を主演なんかにするから微妙な番組になっちゃうんだよ」

「七分っていう尺がいけない。十五分は欲しい」

 森が抗弁した。

「よそも七分でやってるんだから」

「短すぎる」

「八月に出すのは十五分でしょ」

「全道終わったら準備するから。ツモリン、また頼む」

「私たちは出番ないわけ?」

 柚月が終始不機嫌そうに言う。

「ありますよ、この人数ですもん。ちゃんとありますよ。てか演劇部に応援頼みたい」

「何が演劇部よ。あっちだって忙しいんだから、出てくれるわけないでしょ。読ませなさいよ。脚本。もうどうせ書いてるんでしょ」

「シノプシスの段階なんだよ。まだ見せられん。ダメでーす。ハイ終了」

「ウソ言うな。絶対書いてる。積森さんがヒロインなんでしょ。私は何の役なのさ」

「極秘でーす」

「やっぱ書いてるじゃないの」

 森と柚月は仲がいい。気づけばいつもこうしてじゃれあう。二人が原稿を見せろ見せないで盛り上がり始めたとき、

「二年生のみんな、その辺にしてよ」

 相良さんが手を叩き、その奥に須藤さんがいて、課題図書を読んでいた。

 私は入選だった。須藤さんは地区大会一位だったのだ。須藤さんが朗読をしている動機が知りたいといつも思っていたが、そうすると、私がアナウンサーをやっている動機まで探られるに違いないと思って、封印している。

「で、積森さん、なんでそんな試合慣れした雰囲気あるわけ?」

 柚月が椅子をテーブルへ戻しつつ訊いた。場慣れしているかどうか自分ではわからなかったが、答えてみた。

「四歳のときからピアノの発表会に出てたからだよ」

 場慣れをしていると言われたら、それしか思い当たることがなかった。


 その年のコンテスト全道大会は札幌だった。去年は小樽。函館とか旭川なら泊りがけで、ちょっとした遠征になったのに、と、森と柚月が残念がっていたが、私は泊りがけなんて面倒だと感じていたから、札幌で開催されるのに文句はなかった。

 会場には、北海道内の地区大会から入選した学校の生徒が集まっていた。ウチの高校はアナウンサー二人と番組一本が入選しているので、放送コンテストの強豪校にも引けを取っていないと、顧問も喜んでいた。私の声が、どこまで審査員や会場に集まった高校生たちの心まで届くかどうか、試してみたいとも思っていた。

 急がずに読むこと。どれだけ自分の言葉として読めるか。演劇ではないから演じる必要はない。場面の説明になってもいけない。物語を読むのだ。

 私は聞く人へ言葉を届かせたかった。放送局に入った志望動機はそれだった。須藤さんの朗読を聞いて、このレベルで言葉を操れるようになれるなら、きっと私の言葉も誰かに――宏佳に届くのではないかと思ったのだ。

 コンテストで全道大会まで進んだけれど、全国大会へ行くとか行かないとかは二の次で、会場がどこまで私の言葉を聴いてくれるかが課題だった。

「積森さん、緊張してない?」

 須藤さんが会場で声をかけてくれた。

「大丈夫です」

「私はいつだって緊張してる」

 そう言うと、須藤さんはすっと目を閉じ、私の両肩に手を置いた。

「積森さんと私が、自分の朗読ができますように」

 短く言った。

「ありがとうございます」

「このあいだ、どうして放送局に入ったのか、みんなで話していたでしょ」

「聞こえてますよね、うるさくてごめんなさい」

「私の声を聞いたからって、積森さんは言ってくれた」

「はい。本当です。部活紹介で聞いて、入ろうと思いました」

「嬉しいよ。あの頃はそんなに上手じゃなかったのに」

「十分上手でした。『ヒルヌン』も聴いてました」

「去年は田中先輩がとにかく上手だったから。ベンチマークは田中先輩だった」

「そうでしたよね」

「でも、積森さんがどんどん上手になった。積森さん、もともと朗読とかやっていたの?」

 会場はまだざわめていた。雑多な音に紛れていても、アナ教で鍛えた須藤さんの声はよく通った。

「子供のころ、父が私に読み聞かせをしてくれていました。それで、本を読むのが好きになって。ときどき音読をしていました。父が私に読み聞かせをしなくなってからは、自分で音読するのを録音して、それを聴きながら寝たりしていました」

「本当に?」

「はい。寝るときに寂しくて」

「初めて聞いたよ」

「父が朗読上手かったんです。私のベンチマークは父でした。真似をして読んでいたんです」

「お父さんって、まさかアナウンサーとかじゃないよね?」

「違いますよ」

「そっか。自分で本を読んでそれを録音して聴いていたのか」

「おかしな趣味ですよね」

「おかしいとは思わないけど、そしたらずっと朗読を続けていたってことだ」

「放送局に入って、ちゃんとマイクを通した自分の声を聞きました」

「どうだった?」

「ああ、こんな声してたよなって思いましたけど」

 本当は違う。いつも、私の声を聞いている。

 宏佳。

 あの人は、私とまったく同じ声でしゃべる。自分の声を録音して聞いたとき、宏佳がしゃべっているのかと思った。私と宏佳は声まで同じなんだと。一瞬、私は須藤さんに、宏佳のことを打ち明けようかと思った。私が双子の妹で、まったく容姿の姉がいることを。その姉が、自分のことを妹だと、私だと思い込んでいることを。須藤さんならなんて言うだろう。それは今話すにはふさわしくない気がした。

「今日は、ベストを尽くそう」

 須藤さんが手を握ってくれた。

「須藤さん、全国行ってくださいね」

「何言ってるの。積森さんもだよ」

「同じ学校から二人選ばれるなんてありえないですよ」

「そんなことないよ。枠が決まってるわけじゃないんだから。同じ学校から二人全国行ったりすることもあるよ。やる前からそんなこと言っちゃだめだよ。全道大会では二人選ばれたでしょ」

「まあ確かに」

「じゃあ、行こう」

「はい」

 須藤さんは握っていた手を離し、踵を返すと、凛々しい姿勢で歩き始めた。姿勢なら負けていない。背筋を伸ばし、胸を張り、歩く。

 どんな評価を受けてもいい。私の声が、誰かの心へ届くのかどうか、そのレベルに到達しているのかどうか、それを確かめるんだ。


 課題図書を今一度読み返す。もちろん朗読する箇所は書き写し、原稿にしてある。でも、物語の前後を把握していないときちんと読めないと思って、文庫本も持参していた。

 課題図書の中には、ヒロインが学芸会で一人だけ違う衣装を着て踊る場面があった。私は宏佳のことを思い出していた。宏佳は、風の妖精になって舞台せましと踊り、歌って、セリフをしゃべっていた。私はナレーターで、場面の切り替わり、舞台が暗転すると袖から現れて、スポットライトを当ててもらい、状況を説明するのだ。

 当時、主役を張った宏佳と、ナレーターという裏方を務めた自分を比較していた気がする。そっくりそのまま、父と宏佳、父と私の関係に当てはまるような気がしたからだ。父は区別をしていなかったと言っていた。私も宏佳も持っているものが違うのだ。でもそう思わなかった。宏佳は与えられたお稽古事や塾にもきちんと通い、父や母が求める成績を出していた。私はそうでもなかった。姉にくっついて通い、姉の様子を見ながらの成績だったから、一つたりとも宏佳を上回ったことがなかった。

 中学受験を断ったのもそんな理由だった。一緒に受験してわたしだけ落っこちたらみじめだと思ったし、宏佳とこれ以上比べられると、私の立つ瀬がない。お姉ちゃんのことを嫌いになったりしたくない。別々の場所にいたほうがいい。

 翻って高校受験で碧星女子を専願にしようと思ったのは、大学の推薦枠がやたらと多かったこと。それと、中学校が別々だったおかげで、私たちは比べられることがなくなった。偏差値はほとんど同じだった。それに私は争う気は失せていた。碧星女子のハイコースから国公立大学へ進学出来たらそれでいいし、そこで競合する必要もないと思っていた。

 あんなことになるまでは。

 宏佳が負っていた役回りは、すべて私に降りかかってきた。父は否定するだろうけど、私にはそう思えた。私が罪を背負っているとしたら、姉に対する忌避だ。

 アナウンサーの女の子たちが順番を待っている。ほかの地域だと、県全体で出場校が十校程度、つまり地区大会イコール県大会というところもあるそうだけれど、北海道は地区大会があって全道大会がある。全道大会……北海道大会となると、生徒のレベルも必然的に上がる。

 須藤さんの後で私だった。

 私がICレコーダーで自分の朗読を録音して、それを聴きながら寝ていた話。須藤さんに初めてしゃべった。この世の誰もこのことを知らない。父が読んでくれなくなったから、私が自分のために読んだだけだ。ラジオも聴いてマネをした。読むのがうまいアナウンサーはたくさんいる。心に届いてくるかどうかは別の話だった。人の心に届くような朗読をするのは至難の技だ。

 人の心に届く言葉を話すには、どうしたらいいだろうか。私はそのことばかり考えて朗読もアナウンスもやってきたような気がする。いつか宏佳に語ることがあれば、そのとき、自分を否定してしまった宏佳が、もとに戻れるように。私の言葉が宏佳の心の中心をとらえることができるだろうか。本当の目的はきっとそうなのだ。

 会場にいるほとんどが女の子のアナウンサーたちは、どんな動機で出場しているのだろうか。本職のアナウンサー志望の子もいるに違いない。容姿も優れていて、偏差値もよくて、努力を欠かさないハイスペック女子が。そんな子たちは遠くからでもキラキラしていた。

 私はキラキラしていない。する予定もない。放送コンテストは、まさか喜怒哀楽を表現しながら朗読するわけにはいかないはずで、だから表情は審査対象ではないはずだ。私は自他ともに認める仏頂面だ。

 さあ。行こう。

「ツモリン」

 出鼻をくじくかのようなタイミングで声をかけてきたのは森だ。

「なんだよ。これから行こうとしていたのに」

「ツモリン、須藤先輩に負けるな。お前、どこの高校のアナウンサーよりもうまい。全国大会へ行くなら、俺は応援に行く。どんな理由をつけても部として応援に行く。だから頑張れ」

 一年に何回見られるか分からないような真面目な顔をしていた。私は気圧されながらも答えた。

「それを言いに来たの?」

 たったそれだけを言いに私を捕まえたのか。自分の番組を聴くのが怖くなったのだろうか。そう思ったが、森はまっすぐわたしを見て行った。

「そうだよ。ツモリンに言いに来たんだ」

「私が全国に行けると思う?」

「分からない。俺は審査員じゃないし、アナウンスのこともよく分からない。ツモリンの朗読がいいことだけはわかる。お前が読むと、小説の中の吹雪の冷たさを感じる。登場人物の頑なな意志も。あんな上手に読める奴なんて絶対いない。自信を持ってくれ」

「あ、ありがとう」

 それしか言えなかった。森のめったに見せない真剣な表情に圧倒されるばかりだった。そして彼は続けた。

「ツモリン、最後に魔法をかける。俺の言うことを聞いてくれ」

「なに? 魔法?」

「そう、魔法だ。よく効く魔法があるんだ。場慣れしているツモリンにも効くんだ」

「どんな魔法?」

 真正面から森を見つめた。そうさせるほどに森の表情が真剣だった。

「ツモリン。いいか、五つ数えるから、数えたら、自分でも最高の笑顔を作るんだ」

「えっ、なにそれ」

「いいか、数えるぞ」

「ちょっと待って」

「五、四、三、二、一、さあ笑って」

 顔の表情が固まっていたのがそれで分かった。懸命に笑った。

「もっと、もっとだ」

 森が自分の両手を握って、あおってくる。

「そう、ツモリンは笑うと自信があふれてくる。その顔だ。そのまま、笑ったまま、行け!」

 森が私の身体を百八十度回し、それから背中を強く押された。つんのめるようにして、私は歩く。

「振り向くな。そのまま笑顔で、行け!」

 私は森の笑顔の魔法にかけられ、発表するステージの袖へ向かった。今日までのことを思い出していた。父が読み聞かせをしてくれていたころのこと。自分で本を読み、録音をするようになったこと。そして、須藤さんの声を聞き、放送局に入ったこと。人の心へ届く朗読をしたい。本を読むのはずっと好きだった。中学生のころまでは、自分のために朗読をしていた。でもいまは目的が変わった。須藤さんも森も、全国大会へ進めるよう励ましてくれた。朗読を聞くそれぞれの人の心へ、声が届くように。

 そして、このコンテストの様子を見ていなくても。いつか私の声が、言葉が、宏佳の心に届けばいい。大切なお姉ちゃんに。

 その思いを抱いて、私はステージに向かったんだ。

 森の笑顔の魔法はかかったままだ。


 放送コンテストが終わってからの帰路、二年生たちで固まって「反省会」をした。。

 須藤さんは優秀賞を取った。全国大会行きだ。文句なし。講評でも、思ったとおりの評価だった。

『よく通る声で聞きやすい。マイクの使い方も上手。地の文のテンポもよい。会話文がややつられ気味で速い箇所があったが上手だった。「し」の発音が気になる。気を付けて。場面全体を説明しているような読み方がやや目立つように思えたが、聞き手を引き付ける朗読だった』

 私は入賞だった。上位六位から外れてしまったので、全国へは行けなかった。こんな講評をされた。

『よく響き、よく通り、よく届く声。場面の緊張感が伝わってくる。モノローグの表現は少し硬かった。登場人物の年齢を考えるべき。発生と発音、アクセントはよい。抽出箇所がもったいない。モノローグだけではなく、登場人物同士の会話を聞いてみたかった』

 結果を聞いて森が猛烈に悔しがっていた。自分が脚本を書いて私が主演したラジオドラマも入賞した。それも全国へは届かなかった。ちゃんと入賞という成績を残したのに、森は自分の番組よりも、私が全国へ行かなかったことを残念がった。須藤さんが全国へ行くんだから、喜びなさいよ。柚月に叱られても、私が上位六位から外れてしまったことに、帰りの道でもずっと悔しがっていた。そこまで悔しがられると、なにかとんでもない敗退の仕方をしたのではないかと不安になった。柚月と美咲が慰めてくれた。積森さん、すごいよ、全道で入賞だよ。七位だよ。

 最優秀賞、優秀賞、入賞と続くが、表彰台が上位三人、ポイント圏内が上位六位まで、七位以下は東京へは行けない。そう考えると、大変惜しいことをしたと森と一緒になって悔しがるべきなんだろうけど、反面、柚月たちが言うように、入賞なのだ。同じ部から優秀賞と入賞が出たわけで、それはやっぱり喜ぶべきなんだろうなと思った。

「ツモリン、来年は絶対、全国だな。てか、秋の高文連は最優秀賞いただきだぞ」

 言外に、須藤さんたち三年生はもういなくなるから、と聞こえた気がして、ひどく寂しくなった。

 須藤さんからは、

「惜しかったよ。選択箇所をもっと会話文のあるところにしていたら、積森さんも全国だったかもしれない。積森さんが決めたから任せてしまったけど、私たちも別の部分を推せばよかった。積森さんの分も頑張ってくるからね」

 そんなことを言われた。

「吹雪を、あんな息苦しそうになんて、私は読めない。たぶん朗読の技術は、私より積森さんの方が上だと思うよ」

 そう付け加えられた。

「森君、もっと喜んでもいいんだよ。森君の番組だって入賞したじゃない。ディレクターさんから、褒められてた」

「あんなマニアックな脚本だったのにね」

 茶々を入れてみた。講評が面白かったのだ。

『性別が禁止された近未来SFという題材を高校の放送局の作品に持ってきたのが目新しい。ヒロインがもっと感情的でもよかった。音に気を使って作っていることはよく伝わった。制限時間内でセリフを極力減らそうとしているのが逆に説明不足につながっている。もう少し会話が多くてもよかった』

 私は女の子であることを禁止された女の子の役だった。よく分からない。森によれば、ジェンダーレスが極限まで進めばこうなると書きたかったらしい。妙に前衛的だと思った。あの調子でテレビドラマを作られたら、どんな役をやらされるんだろう。

「題材がまずかったですかね」

 森がバツが悪そうに言った。

「面白かったけど。だってだれも反対しなかったでしょ」

「ツモリンが反対しましたよ。こんなの前衛的すぎる、分かりにくい、七分じゃ無理だって。逢瀬も櫻庭も面白がってくれたのに」

「私を殺しながら生きる世の中なんて、シビアすぎる」

 脚本はそんな内容だったのだ。男の子でいることも女の子でいることも否定された世界の話だったから。異性であっても同性であっても、惹かれあうことすら禁止される世界。いや、許可がいる世界。

「もっと説明すればよかったかなぁー。ジョージ・オーウェルの『一九八四年』とか読んだことない?」

 森が言うから、答えてやった。

「ニュースピークにダブルシンクにビッグブラザーね。はいはい」

「げっ、マジか。お前読んだことあるのかよ」

「あるよ。お父さんの本棚にあったから」

「なんだ。ああいうの知ってるんだったら、俺の脚本も理解できるだろ?」

「だから前衛すぎるんだって。七分じゃ無理だから。三十分かけるんだったらわかるけど。セリフだけでよく状況の説明やったよね。じわじわと」

「それは森君、上手だと思ったな。そうね、後半が駆け足過ぎたよね」

 須藤さんが納得顔。

「ありがとうございます。ツモリンも分かってはくれていたんだな」

 森は腕組みをして目を閉じ、なんども首肯した。

「だから、高校の放送局がやるのは尖りすぎてるってばよ」

「誉め言葉だ。気に入った」

「聴く人だって、タイトルがただの『ジェンダー・レス』でしょ。ドキュメント部門と間違ってんじゃないのって思って聞き始めたらSFだもん。あっけにとられるわ。森らしい。本当に次はテレビドラマ作るの?」

「そうだよ。ツモリンが主演だよ。期待してるからな」

「朗読させてよ。作品の中で」

「ナレーションもツモリンだな。てか、俺ナレーションは好きじゃないんだよ。モノローグ。そうだな、モノローグくらいなら」

 森は何かを思いついたのか、その場でスマホでメモを取り始めてしまった。

「ほら、もう帰るから。置いていくよ」

 現地集合、現地解散だった。私たちは「女子アナウンサー」でどこかのお店に行きおしゃべりして帰る予定だった。それに乗っかってきたのは森や中田、織部の二年生男子三人で、けっきょくその後、放送局二年生全員でドーナッツショップに行き、コーヒーを飲んで、ひたすらしゃべった。めずらしく、私もしゃべった。入店した順番のせいで、私は森の隣だった。森はポン・デ・リングをかじり、やたらと砂糖を入れたコーヒーを飲みながら、私をほめたたえて、柚月や美咲が機嫌を悪くした。織部が二人のフォローをした。森も気づいて、秋の高文連では、アナウンサー全員で入賞しよう、番組もきちんと作る、そう言って場をとりなした。

 私たちは日が暮れるまで、おしゃべりをした。不意に、私がここにいることに違和感を覚えた。ここでみんなと楽しく過ごしていいのだろうか。

 白い壁と、白い天井の診察室。テーブルと椅子が二脚置かれた面談室。

 私の日常は、ドーナッツをかじりながら放送コンテストの反省会をする友達と過ごす時間で、それは高校に入学してからずっと変わらなかった。もし私が碧星女子を受験して、宏佳と同じ制服を着る日々を送っていたら。

 森とは出会わなかった。柚月や美咲、中田や織部とも会わなかった。もちろん、須藤さんの朗読なんて聞かなかっただろうから、放送局に入ることもなかった。

 でももしかすると、学校の帰り、宏佳と二人で、こうしてテーブルで向かい合って、コーヒーを飲んだりしていたかもしれない。二人並んで歩き、地下鉄に乗り、おしゃべりをしていたかもしれない。

 そっと左の頬に触れる。

「どうしたよ、虫歯?」

 そのしぐさを見て、すかさず森が話しかけてきた。

「違うよ。私、生まれてから今まで、虫歯は一本もありません」

「おいおい、本当かよ。俺、歯医者のあのキュイーンってのが一番嫌いなんだよ」

「じゃあさ、次のドラマでさ、歯医者のシーン入れようよ」

 柚月が森をからかう。自分たちをないがしろにして私の朗読をほめたたえた反撃をしているのだ。でもあんまり嫌味な感じがしない。

「やめてくれよ。映画とかでほら、歯医者のさ、スケーラーで口ん中ぐちゃぐちゃにするシーンとかあるんだよ。あれもう、見てられないんだよね」

「森にも弱点があったんだ」

 柚月が楽しそうだ。

「弱点ならまだあるじゃん」

 中田がコーヒーのお代わりを飲みながら言った。

「えーなになに? まだあるの?」

 柚月。

「須藤さんと積森さん」

「え、本当?」

 美咲が身を乗り出す。

「森、須藤さん苦手なの?」

「いや、別に苦手ってわけじゃないんだ。そんなことはない」

「苦手じゃないんだよ、こいつ、須藤さん、弱点なんだよ。須藤さんの声には逆らえない。積森さんもそうなんだ。積森さんの声には逆らえない」

「ウソだよ、私に逆らってくるじゃん」

 これ以上コーヒーを飲んだら眠れなくなると思い、私は水ばかり飲んでいた。

「逆らってないべや。意見を言ってるだけで。俺の原稿をお前がいくら直しても、直した方がいい感じだから、なんも言ってないべ」

「それは、まあ、そうだけど。てか、私が弱点なの?」

「弱点じゃねーよ。中田、ツモリンは違うよ」

「須藤先輩は弱点なんだ」

「なんだよ。ここにいるみんなだって、須藤さんの声には逆らえないべ?」

「言えてる」

 柚月が笑った。

「まあ、私もそうだね」

 美咲も同意した。それから付け加えた。

「須藤さん、いなくなったら、放送局大丈夫かな……」

「大丈夫だよ」

 妙に自信たっぷりに言ったのは森だった。

「な、ツモリン」

 隣からまたあの目で見つめられた。大会の前に魔法をかけると言ったときの目だ。

「あ、うん」

 あいまいに返事をしてしまった。

「そうだよ、私も美咲も、積森さんもいるんだからさ」

 柚月が引き継いだ。

「和奏や彩夏はどうかなー。秋の『新人戦』に期待だなー」

 美咲が言う。自身が全道大会へ進めなかったこと、地区大会の後はずいぶん悔しそうだったが、切り替えが早いのか、もう気にしていない様子だった。

「花蓮ちゃん、ドキュメンタリー部門やりたいって言ってるから、それも期待だね」

 一年生たちの様子をみんな言い合った。残念ながら、私は花蓮ちゃんがどの程度本気でドキュメントを作りたがっているのかを知らなかった。私は自身の朗読で精一杯になっていたから。

「ツモリン、元気だせ。来年は絶対全国だって」

「あ、ん?」

「さっきから上の空だ。疲れたんたべ?」

「積森さん、気が離れてるー」

 柚月が須藤さんの真似をして言うと、それに倣って美咲も真似をして笑った。織部も笑っていた。そこで不意に、自分が放送局の仲間の一人だったことに気付く。私以外の二年生たちがてんでにしゃべっているような気がして、その様子を見ているだけだった。

 もしも、私が碧星女子に進学して、宏佳と一緒に過ごしていたら。

 私は、いまここにいるみんなと出会うことはなかった。「もしも」。私がここにいるのが、果たして正しいことなのかどうか、分からなかった。

「ツモリン、本当に大丈夫か? そんなに落ち込むな。それでも入賞なんだから。全道で入賞だぞ」

「何よ森、来年は全国だー、積森さんが入賞だなんておかしい、ってさんざん言っておきながら」

「いや、あんまりツモリンが元気ないからさ」

「積森さん、場慣れしてるなんて言っちゃったけど、本当は緊張してたよね?」

 柚月が私に向かってほほ笑んだ。少し困ったように。

「私は読める読めない以前に、あの舞台がダメ。毎日全校集会やってもらって、ステージの上からアナウンスでもしないと、絶対慣れない」

「いいじゃん、それ。やってみようよ」

 美咲も笑った。

「やめてよ」

「とりあえず、そろそろ帰るか」

 織部が立ち上がろうとした。

「そだねー」

 女子二人も続いた。私も立ち上がった。

 会計をしてドーナッツ店から出るときに、また森が私を振り向いた。

「ツモリン、今度は元気が出る魔法かけてやろうか」

 そう言って、やけに屈託のない笑顔を見せた。

「バカ。もういいよ」

 やっとの思いで苦笑を返して、みんなと一緒に、そう、二年生の放送局員たちと一緒に、地下鉄の駅へ向かったんだ。


 SNSを開く。

〈ある大会に出ました。私は入賞したけれど、全国へは進めなかった。同じ部活の奴に魔法をかけられた。「笑顔の魔法」。効いたかどうか、私にはわからない〉


 学校祭の準備の話が進んでいた。新琴似高校名物『クラスパビリオン』、略して『クラパビ』。クラスごとに出し物を決めて、教室を改造する。一年で一番クラスが団結して盛り上がるイベントだ。私の一組では、バカみたいに「世界のオバケ」を集める「モンスターミュージアム」をやることになった。紘子が真っ先に「めんど」と呟いた。背の高い千里は八尺様を、背が低くてショートヘアの私は座敷童をやらされることになった。冗談じゃなかった。

「そもそも座敷童ってオバケじゃないと思うんだ」

 一華も同意してくれた。一華は案内役に選ばれたので、モンスターをやらずに済む。かわいいからだ。男子から人気があるからだ。そうに違いない。どうせ私は座敷童だ。

「なんで私が八尺様なのよ……」

 千里も不満顔だが、それでも、ぽぽぽ、と言うと、一華が声をたてて笑った。

 放課後は学校祭準備に費やされることになった。オバケ屋敷をやるわけではなくて、「ミュージアム」を名乗る以上、オバケが動物園の動物みたいに観察されることになるんだろう。敷居はなくて、観客を襲っても構わないとは言われた。

「積森さんがあんな憤怒の表情見せたの、初めて見たかもね」

男子たちが担任の運転する車でスーパーから調達してきた段ボールを加工しながら、千里が言った。柚月の声が校内放送のスピーカーから流れている。学校祭準備期間中、BGMとして放送局が生放送するのだ。アナウンサーも技術も編成もローテーションして、全員きちんと学祭準備ができるように。

「積森さん、決まったとき怒ってたでしょ」

「だってそうじゃない。なんで私が座敷童なのよ」

「案外かわいいかもよ。和服着て、座敷の奥に座ってるの。想像できるわー」

「千里ぉ」

「イーホワのやつ、うまく取り込みやがって」

 千里は乱暴な言葉を使ったが、あまり剣のない言い方だった。

「イーホワが案内役か。まあ、適役かもしれないけどさ。なんかムカつくよね」

「私が音声ガイドやってもよかったのに」

「そうだよね。積森さん、放送コンテストで入賞してるのに」

「そもそも何でガイド役がメイドのコスプレするのか理解できない」

「あれ絶対陰謀だよ」

 怜と綾乃はポスティングに当たっていた。チラシの束を持って、出て行った。二人一組で回るのではなくて、別々の地域を担当していると言っていた。

「積森さん、これ廊下持ってったほうがやりやすいかも」

「そだね。出すか」

 二人で加工したパーツをいったん廊下へ持ち出した。長さがあるから、机だとか障害物のある教室より、廊下で伸ばした方が作業しやすそうだった。

「部活もあるんでしょ」

 段ボールをどう加工すればいいのか、手書きの図面が手渡されている。それを床に置いて、床まで切らないように一枚段ボールを敷いてから、切る。定規にカッターを当て、千里の手つきは意外に器用だった。

「部活もあるよ。千里は」

「あるんだよね―一応。短縮版」

「ウチも」

「よし、そっちちょうだい。未佳、結構上手に切るねぇ」

「図工はあんまり得意じゃなかった」

「小学生のときの話かよ」

「千里は得意そうだ」

「なんか作るのはね」

「モンスターのマスクとか作るの、やればよかったのに」

「裁縫はそんな得意じゃないからな」

 カッターでカーブを上手に切りながら、千里が言う。

「このあいだの体育のときの続き、話していい?」

「ん?」

「未佳さ、なんか悩んでない? 悩んでるっていうか、抱えてない?」

 言いながらも手は止まらない。反対に私の手が止まってしまった。

「変な意味じゃないからね。そこは誤解しないでほしいんだけど。未佳ってさ、どっか冷めているっていうかさ。一歩引いてる感があるっていうか。私たちが騒いでても、その外側にいるような感じがするんだ。イーホワがあんなこと言ったからじゃないって言いたいんだけど、気づいたんだ、私。未佳は、何かに遠慮をしてる」

 図面に従って加工するには、千里に近づく必要があった。一歩、膝立ちになりながら、歩み寄った。

「笑おうとしたのに、それを引っ込めちゃうような。未佳は何かに、誰かに遠慮をして、笑わないように努力してる。そう見えないこともないから」

「そんなこと……」

 ない。と断言できなかった。当てられたからだ。千里が正しいんだ。

「ない? ないよね。きっと未佳はそう答えると思ってた。一年生のときからそうだった。クラTじゃないけど、出席番号順で席について、私が前、未佳が後ろ。それで話をするようになったんだ。そうじゃなかったら、未佳は近寄りがたいオーラが出てた。ごめん、これ未佳のこと悪く言ってるんじゃないよ、そう聞こえたらごめんなさい」

 一年生の教室。前の席にはすごく背の高い女の子。その子が振り向いて、聞いた。「ねえ、お昼一緒に食べない?」。

「千里はさ、あのときなんで私に声をかけたの? そんな、近寄りがたいオーラが出てたんだったら」

「高校では失敗したくなかったから」

「失敗?」

 言うと、千里の手が初めて止まった。

「未佳、みんなには言わないで。てか、同じ中学から来てる子何人もいるから、知ってる子もいるはずなんだけど」

「言わないよ」

「中学のとき、私、いじめられっ子だったんだ。背がでかくて目立つから、いろいろ」

「うそだ……千里がそんな」

「私、高校デビューなんだ。絶対失敗できないって思った。二度とあんな三年間送りたくない。話しかけても無視される。話しかけないでいると、笑われる。女の子のくすくす笑いを聞いたら、今でも怖い。私のこと噂してるんじゃないかって。背ばっかり大きくて、私、気は小さいんだよ」

 千里の声が縮こまっている。

「高校は楽しくやろうって思ったの。去年のクラスにも同じ学校からの子はいたけど、同じクラスの子はいなかった。何とかなるって思った。だから真っ先に、後ろの席の未佳に声をかけたの。前の席にいたのは綾乃だったでしょ。ほとんど同時に声をかけたの。二人、三人、私もどこかのグループに入っちゃえば、少なくともその中ではいじめられないかもしれない。必死だったんだよ。未佳は目立ってた。すごく姿勢がよくて、ちょっときつい目つきをしてたけど、かえってその方がいいって思った。この子とも仲良くなろう。友達になってもらおうって」

「うん……」

座敷童の形をカッターで切り離しながら、聞いた。

「ごめんね、未佳。だから未佳や綾乃には返しきれない恩があるんだ。怜もそう。イーホワだって、いっつもだるそうにしてる紘子だってそう。みんなのおかげで、私は毎日楽しい。この高校に来て本当によかった。強いチームじゃないけど、部活もやれてる。背が高いのを重宝してもらえてる。だったら八尺様でも何でもやっちゃうよ」

 最後は少しおどけて言った。泣き笑いのような顔をした。

「だからね、未佳」

 今気づいた。いつの間にか、千里が私のことを「未佳」と呼んでいた。

「恩を返すってわけじゃないけど。未佳はきっと何かを抱えてる。そんな気がする。私たちへのわだかまりとかじゃない。もっと別なこと。だって、教室で外を見てる未佳の顔を見たら、学校の中に何かがあるような感じがしない。別なところだけど、とてもなにかコアなこと」

 教室の喧騒、廊下を行きかう生徒たち。そして、私と千里。千里の言葉に、何も言い返すことがなかった。そのとおりだったからだ。

「ねえ未佳、もし私が力になれるんだったら、いつでも言ってほしいんだ」

「……ありがとう」

「話せるようになったら、話してよ」

 少しのあいだ、座敷童をカットする手を止めた。廊下の私たちの前を、ほかのクラスの子たちがにぎやかに通り過ぎていく。教室の中も騒々しい。イーホワの声がする。男子とじゃれている。怜と綾乃は無事ポスティングをやっているだろうか。チラシの束は分厚かった。

 話そう。千里を信じよう。カッターをいっとき置いて、千里の目を見た。

「私、お姉ちゃんがいる。でも、病気になったんだ。中学三年のとき。自分のことを自分じゃないって思っちゃう、心の病気。自分のことを否定しちゃう病気」

 言うと心がすっと軽くなった気がした。慌てて私は千里を見直した。重荷を、目の前の――親友に、背負わせてしまったのではないかと思ったからだ。私の言葉を受けても、千里はちょっと驚き、すぐに元の表情に戻った。穏やかで優しい顔に。

「未佳、お姉さんがいたのか。そっか。心の病気なのか。……つらいね。未佳も、お姉さんも」

 涙が出そうになった。懸命にこらえた。

「治らない病気じゃないって説明された。でも、昔のお姉ちゃんはもういなくなっちゃった。あんなに私と仲良くしてたのに」

 千里は手を止め、カッターも置いて、話を聞いている。

「お姉さんは今どうしてるの?」

「この間、また具合が悪くなっちゃって、入院してるよ。面会にも行けないんだ。特に私は」

「どうして」

「お姉ちゃんは、自分のことを私だって、未佳だって思い込んでるから。私が行くと、心が乱されるから」

「未佳は、お姉さんのことが今でも好きなんだね?」

「今でも、大好きだよ。何でもできて、ピアノも上手で、自慢のお姉ちゃんだった。そのお姉ちゃんが、自分のことを私だって言い出して。私がお姉ちゃんと入れ替わろうとしているって。私が悪かったんだろうかって思う。なにか悪いとこをしたんじゃないかって。……どうしてそう思ったんだろう。ずっと一緒にいて、誰よりも分かり合えていると思っていたのに」

 気を取り直して、座敷童のカッティングに戻る。千里が、「ふー」、一つ息を吐いた。

「千里、重い話でしょ? 私のことを背負うなんて思わなくていいんだよ」

「……何言ってるのさ。つらいことは話すと少し楽になるって言う。それに、未佳はちっこいから、いくらでも私が背負ってあげるよ。軽い軽い。それに、お姉さんの病気の理由、未佳が原因だなんて思わないこと。絶対違う。今度は未佳がお姉さんを助けてあげるんだよ」

「私だけ、こんな、みんなと一緒に学校に通って、ふつうの生活をしているのが、悪い気がするんだ」

「そんなことないよ。そこまで、それこそ背負うことない。だって、未佳、自分で言ったじゃない。お姉さんは病気だって。治らない病気じゃないって。お姉さんのことを気にして、いつも表情殺して、楽しいことでも笑わないで我慢するなんて、きっとお姉さんが、そう、元のお姉さんに戻ったときにそれを知ったら、未佳は怒られると思うよ。私のために自分を犠牲にしていたなんて、そんなことあり得ないって」

 ああ、最近泣いてばかりいる気がする。鼻の奥が痛かった。そうだ、宏佳だったらきっとそう言う。宏佳が風邪を引いて寝込んでいるときも、気遣わせないためにベッドから下りて迎えてくれた。私がインフルエンザに罹ったときは、移るから近寄るなと言ったにもかかわらず看病しようとして、自分もインフルエンザに罹ってしまう。そんな姉なのだ。

「未佳は遠慮する必要なんてない。もしかして、その調子で、学校祭も受け流そうとしていたでしょ」

「そんなことはないけど」

「未佳がクラT着てみんなと輪になってはしゃいでる姿も、あんまり想像できないけどさ」

 千里はまたカッターを手に、アイルーの型を抜こうとしていた。線はもう引かれているから切り抜くだけだ。

「てか、未佳、今年の学祭はちゃんと楽しんじゃえ。去年はあんまり教室にいなかったでしょ。今年は高校二年生の青春真っただ中だぞ」

 言った千里が恥ずかしそうにしている。

「お姉ちゃんの分も楽しんで、全部聞かせてあげればいいんだ」

「お姉ちゃんは、私はどうして楽しめなかったんだって思うよ」

「そんなことないよ。だって、未佳はお姉さんとずっと仲がよかったんでしょ?」

「よかったよ」

「じゃあ、間違いなく喜んでくれるって。未佳、遠慮しちゃだめだ。私と一緒だ。未佳の毎日は未佳のもの。私のものでもないし、お姉さんのものでもない。お姉さんは苦しいかもしれないけど、一緒になって苦しむ必要なんてない。未佳はお姉さんを支えてあげればいいんだ。支えるためには、未佳が自分の時間を精いっぱい使わなきゃだめだ。放送コンテストで、未佳は全道大会入賞したんだ。ちゃんと自分のために時間を使えてるんだ。そうすべきだ」

 千里は力強く言った。自分に言い聞かせているようにも聞こえた。素直に受け止めようと思った。

 隣のクラスでひときわ大きな笑い声がはじけた。気づいたら、音楽が止んでスピーカーから柚月の声が聞こえていた。


ヘリコプターの羽ばたき音が、開け放たれた窓の向こうからうるさく聞こえていた。今日は風が穏やかだから、窓を開けていられる。初夏から夏にかけて、ほとんど吹きさらしの校舎は、周りの玉ねぎ畑から巻き上げられる土煙に覆われることがある。『新琴似ハリケーン』とあだ名されるハムシーンみたいなやつで、そうなると窓を開けるなんて無理だ。今日は空も晴れていて、ポプラの木が空へ空へと伸びていくようだった。私は学校祭準備が終わった後、部室へ行く前に、三階廊下の突き当りへ行き、ほんの少しの時間、一人でいた。

千里と話したことがずっと胸の内にあった。私は私の時間を生きていいのだろうか。私は私の時間を楽しく過ごしてもいいんだろうか。そんなこと、許されるんだろうか。宏佳はあんなに苦しんでいるのに。背後の廊下がまだざわめていてた。学祭準備を続ける生徒もいれば、部活に行く生徒もいる。須藤さんは全国大会の準備をしているはずだ。森はどうしているだろう。そんなことを考えていたら、

「ツモリン、何してんの?」

 本人が現れた。

「休憩」

「立ったままで?」

「いいじゃん、別に」

「憂いがある。ツモリンのそんな表情、キープしといてよ。ドラマで使うから」

 笑いながら森が近づいてくる。私が憂いを含んだ表情をしていたとして、そんなのキープしていたくなかった。

「好きでこんな顔をしているわけじゃないんだよ」

「知ってるよ」

 は? 打ち返すように言われて、森の顔を見た。笑っていた。

「なんかやってないと不安なんだろ」

「なによ」

「気が離れてるってときどき言われるけど、あれは離れてるんじゃないよな?」

 須藤さんがよく私を叱る言葉だ。

「ツモリンは一瞬たりとも気を離してなんかいない。ずっと何かを考えているんだ。考えごとをして現実世界から少し離れていってる顔だ。俺にはわかるぜ」

「あんたに何がわかるのよ」

 少しきつい言い方になってしまった。しまったと思った。でも、森は意に介さないふうの表情だ。いつもどおり飄々としている。

「柚月と『パビリオンジャック』やってたんじゃない」」

 そうだ、いつの間にか放送は終わっている。

「五時までだからね。そんなカッコいい時計してて見てないの?」

 反射的に腕時計を見た。宏佳とお揃いで買ってもらった時計だった。時計のことを言われたのは初めてだった。

「俺も欲しかったからなー。そのタイプじゃないけど。てかそれ高い奴じゃんよ。さすがツモリンはお嬢様だよなー。俺もツモリンみたいなお嬢様生活してみたいわ」

 森に言われても不思議と腹が立たなかった。

「私の生活なんて、替われるものなら替わってもらいたいよ」

 窓際から離れた。

「部室、まだだれか残ってるの?」

「須藤さんと相良さんがいたけど」

「ちょうどいいから、私も練習してくるよ」

「俺も戻るわ」

「帰らないの?」

「脚本進めたい」

「家で書けばいいじゃんよ」

「ウチにあるのはポンコツのノートパソコンなんだ。学校のやつのほうが速いんだよ」

 森と並んで階段を下りた。二階の三年生の教室は、三階の二年生たちより、もっと密度が濃く学祭準備が進められていた。きっと最後の年だからだ。一階ホールの拭き抜けから、中庭で床絵を描いている美術部の様子が見えた。学校中がワクワクしているような雰囲気があった。あらためて、千里の言葉がよみがえってくる。

「ねえ森、学校祭、ワクワクする?」

「なんだよ突然よ。いいんじゃね? こういうイベントって、やっぱり楽しいよ。終わった後が寂しいけどな」

「森、この間の北海道神宮祭も行ったの?」

「行ってない。中学のときに行ったのが最後。中島公園は混むからな」

「YOSAKOIは?」

「あれはお祭りじゃない」

「じゃあ、今年初お祭りは新琴似祭?」

「だからワクワクするんじゃん。俺たちのイベントだぜ」

「三組は何やるんだっけ」

「おや、アナウンサーのツモリンらしくない。知らないの?」

「不勉強ですみません。知りません。取材不足です」

「タコゲーム」

「は? なにそれ」

「パロディ、ってかパクり」

 ああ、と思いつく。めちゃくちゃ流行ったドラマのタイトルのもじりだ。

「ツモリンもジャージに着替えて参加してくれよ。待ってるよ」

「何で着替えなきゃならないの」

 話しながら部室のドアを開けた。すると、中には須藤さん一人が残っていた。それも、帰り支度を始めていた。

「あれ、須藤先輩、帰るんですか」

「うん、今日はね。あなたたちはどうしたの?」

「脚本の続きを書こうと思ったんです。ツモリンは朗読したいって」

「へぇ、熱心だね。残ってく?」

「そうっすねー」

「じゃあ、鍵渡すね」

「了解す。須藤先輩、全国、本当にツモリンの分もお願いしますね」

「分かってる。頑張ってくるから。その前に学校祭だね」

「須藤先輩たちは最後の学校祭か」

「最後って言わないでよ、寂しいじゃない」

「そうすね」

「じゃあね。七時までには帰るのよ」

「わかりました」

「積森さん、朗読、どんどんよくなってるよ。引っ張られて、逢瀬さんも櫻庭さんも伸びてきてる。二人ともアナウンスもよくなった。こういう展開になってほしかったから、私たちは嬉しいよ。じゃあね、二人とも、頑張って」

「ありがとうございます」

 私と森が同時に言うと、須藤さんは軽く手を振って部室から出て行った。

 森はスタジオの奥に向かうと、デスクトップPCの電源を入れた。こんなに人がいない部室、というか、森と二人きりの部室なんて初めてだ。

 それから私は朗読をした。二分という時間を区切らず、このあいだの課題図書だった『氷点』を冒頭から読んだ。キーボードをタイプする音がずっと聞こえていた。

 空調が回っているが、少し暑い。私はブレザーを脱いで椅子に掛けた。中は長袖ブラウスだが、いくらか涼しい。

 三十分も朗読を続けたころ、喉が渇いてしまい、いったん止めた。

「なんだ、いいところだったのに。やめちゃうのか」

 キーボードをタイプしながら、森が言う。

「喉乾いた」

「やるよ」

 森が持参していたカバンの中から、開封していないウーロン茶のペットボトルをよこした。

「いいの?」

「俺喉乾いてないから。いま喉が渇いている人間が飲むべきだ。お茶の神がそう言ってる」

「ありがと、森」

 冷たくはなかった。ぬるかったけど、喉が潤った。

「ツモリンさ、学祭楽しくないの?」

 唐突に言われた。森はキーボードを叩きながらだ。

「楽しくないとか、そんなことはないんだけど」

「ツモリン、楽しいことになると、尻込みするよな。尻込みってか、なんか躊躇してるってかさ」

「そんなことはないよ。ただ……」

「ただ、どうした? 座敷童やらされるのがムカついた?」

 少し笑いを含んで森が言うから、言い返す。

「何でそんなことあんたが知ってるのよ」

「取材したのさ」

「もう、そんなこと取材しなくていいんだよ。なんで私が座敷童なんだよ」

「……いいんじゃね? 楽しそうじゃん。ウチのタコゲームより」

「楽しいとか楽しくないとかじゃなくてさ」

「楽しかったらダメなのか?」

 森が私を向いていた。

「学祭は楽しくやるんだ。部活だって、楽しいからやってるんだ。楽しくしたらダメなの?」

「……私、楽しんでいいのか分からない」

「どうして」

「私は、みんなみたいに、青春です楽しんでますってやっちゃいけない気がして」

 さっきの千里とのやり取りを思い出した。そうだ、千里と話したから、私の中で宏佳のことがまだ消化しきれず、ずっと残っているんだ。消化なんてできるはずがない。もしかしたら、永遠に残るかもしれない。

 森はキーボードから手を離した。アナウンサーテーブルに座っている私に身体ごと向けて、まっすぐに。

「ツモリン、なんかあるんだな」

 森はまだ笑顔を残したままだったが、口を結び、じっと私を向いていた。私の言葉を待っているかのように。

「前、私って笑わないかって、訊いたことあったでしょ」

「覚えてるよ」

「見てよこれ」

 一華が送ってきた、バス停での不意打ち画像を見せた。

「ふだんの私ってこんなでしょ」

「どこで撮ったんだよこれ」

「麻生駅のバス停」

「誰が撮ったんだよ」

「同じクラスの、秦一華。知ってる?」

「分かる。吹奏楽局でトランペット吹いてるあの子ね」

「よく知ってるね。森もイーホワ……一華みたいな子が好きでしょ。くるくる表情が変わって、笑ったり怒ったり忙しい子が」

「秦さんってそんな感じか。まあなんとなくイメージ湧くわ」

「そのイーホワに言われたの。『積森さんて笑わないよね』って。ある意味正しいよ。私、能天気に笑ってなんていられないんだよ。能天気っていうか、無責任に。無責任じゃない?  ただ面白いことがありました、アハハ、楽しいことがありました、アハハ、学校祭です、アハハ」

「別にそれでもかまわなくね?」

「森はそれでもいいかもしれないけど、私はダメなんだよ。私は無理なんだ。笑えないんだよ。そんなことで笑っちゃダメなんだよ」

「どうして」

 森が椅子を引きずって、アナウンサーテーブルまで近寄ってきた。

「森、言ってたよね。私も笑ってるって」

「言ったよ。本当のことだから」

「それ聞いて思っちゃった。私、やっぱり無責任に笑ったりしてるんだ、笑ってなんかいられないはずなのに、笑ってるんだ、って」

「だからどうして笑っちゃいけないんだよ。自然なことだよ。楽しいことがあったら笑うんだよ。ツモリンはいい顔をして笑っていた。この間の全道大会のときだって、すっげぇいい顔してステージに上がっていった。ツモリンは笑っていいんだよ。どうしてそんなこと言うんだよ。なんか気にしてることがあるんだったら、話せよ。……悲しい顔だって無責任だぞ」

 私をのぞき込むように森が言う。知らず、うつむき気味になっていた。

「ツモリン、今はすごく悲しい顔をしてるぞ。その顔じゃ全国大会は無理だ。地区大会で落ちるぜ。似合わない」

 部室の中は静かだった。空調も切っているから、本当に音がしない。私の吐息だけ耳障りだった。

 千里、もう帰っちゃったかな。バレーボールやってるのかな。

 森、私の話、聞いてくれる?

 もう一人の私の話。

「森。私には姉がいるの。双子の」

「へえ、知らなかった。どこの高校だよ」

「碧星女子」

「私立かあ。さすがお嬢様だなぁ。てか、すると、ツモリンと同じ顔した女の子がもう一人いるってこと?」

 軽薄な感じではなかったが、軽い調子で森が言ってくる。

「みんな、私たちの区別がつかないって言うくらい似てる。親戚でも間違われる。私もそう思う。一緒に向かい合ってると、鏡と話しているみたいな」

「へえ」

「自分の声、録音したことあるでしょ。聞いたときどう思った?」

「変だなって思ったよ」

「私はずっと姉の声を聞いてたから、自分の声を聞いたとき、本当の自分の声はこんなだったんだってやっぱり驚いた。だってお姉ちゃんとまったく同じ声だったから」

「声まで同じなのか」

「うん」

「会ってみたいな」

「会えないよ」

「なんでだよ、会わせてくれないのかよ」

「それに、お姉ちゃん、元気だったら、きっと私、森には会わなかった」

「どうしてさ」

「新琴似高校には進学しなかったと思うから。たぶん私も高校から碧星に通ってたと思う」

「へえ。てか、お前の姉さん、病気なのか。大丈夫なのか」

 森が椅子に座りなおした。

「……だから笑えないんだよ。双子のお姉ちゃんだよ。私とまったく同じ顔をしてる。身長も同じ。お姉ちゃんが何を考えてるのか当てられるくらい仲がよかった。そのお姉ちゃんが病気になっちゃったんだ」

「仲がよかった、って、なんで過去形なんだよ」

「お姉ちゃんは、自分のことを、私だと思い込んでる。そういう病気になっちゃったんだ。心の病気だよ。声が聞こえたり」

 言うと、森が少し身体を引いた。私は千里に話したことと同じ内容を言う。

「治らない病気じゃないって医者は言うんだ。でも、もう二年たつんだ。お姉ちゃん、少しよくなって高校には通っていたけど、いまはまた入院してるんだ」

 短時間で二回目の説明だった。なぜ森にこんな話をしてるんだろう。でも森は真剣に聞いてくれているようだった。

「そうだったのか。そんなことがあったのか」

「私は、お姉ちゃんに否定されたんだ」

「否定されたって、それ、どういうことだよ」

 左の頬に手をやる。そういう癖がついてしまったかのように。

「私がね、お姉ちゃんと入れ替わろうとしているって。周りもみんな一緒になって、お姉ちゃんを騙しているって。私はお姉ちゃんのニセモノで、本当の未佳はお姉ちゃんなんだ。そうやって言われるんだよ。危ないから、私はお姉ちゃんに近寄らないように言われてる。お互いの安全のためって」

「そんな。だって、実の姉さんだろ? 会わないようにって、そんなこと言われるのかよ」

「そうだよ。でもそれは分かるんだ。今のお姉ちゃん、私に会うとすごく怯えるから。乗っ取られるって思ってるから、私は顔を見せない方がいいんだよ」

「それは……、怖い病気だな」

 視線を膝の上あたりに落として、森はぽつりと言った。

「だけど、それと笑っちゃいけないって何がつながるんだ?」

 森が腕を組んで私に尋ねる。

「ツモリンが笑っていようがいまいが、姉さんの病気がよくなったり悪くなったり関係あるわけか?」

「そういうんじゃなくて」

「申し訳ないって思ってるのか?」

 それに近い。小さくうなずいた。

「でも事実、お前は楽しいことがあったら、控えめだけど笑ってる。逢瀬たちの後ろで、こっそり笑ってる。俺は知ってる。ツモリンは楽しいことが恋しいんだ。本当は逢瀬や櫻庭みたいに、一年の有井さんや佐藤さんをからかったりしたいんだ。だけどいらない遠慮をして笑っていないふりをしてる。楽しくないってふりをしてる。そうだろ?」

「そんなことない。ただ、お姉ちゃんが病気なのに、私が楽しいことをする権利があるかって思うんだ」

「あるべ」

 即答された。

「お姉ちゃんは私の半分なんだ。その半分が苦しんでるんだよ」

「半分が精いっぱい元気出して生きていればいいじゃないか」

 千里と同じようなことを言う。

「ツモリン、気にしないで笑え。いいか、あのときかけた魔法はまだ切れてないんだぞ。そうだツモリン、もう一回やろう」

「ちょっと、私の話聞いてたんでしょ」

「聞いたからこそだ。五つ数える。そしたら、全道大会の笑顔を上回る顔をするんだ。出来るまでやるからな」

「ちょっと待って」

「五、四、三、」

「森、ちょっと、」

「二、一、よし、笑え!」

 言うと森は手を叩いた。パン。私は気取られてた。

「よし表情が崩れた。笑え笑え!」

 全道大会のようなわけにはいかなかった。表情筋が固まって動かない。無理して笑った。頬がひきつった。

「まあ、合格点はやれないけど、一応笑ってくれたから、よしとするか」

 森が椅子の背を前にして座りなおし、目を細めた。

「ツモリン。ツモリンの気持ちは全部聞いた。双子の姉さんがそういう病気になったって話、大変だと思う。当事者じゃないから軽く聞こえるかもしれない。でも、ツモリンのつらいのはよく分かった」

「なんであんたに話したのか、よく分からない」

「話して失敗したか? もし忘れたほうがいいなら、今すぐ忘れる」

「そんなことできないでしょ」

「できない。だから、ツモリンが気持ちよく笑えるように、これから努力する」

「本当に私の話聞いてたの」

「聞いてたから言うんだ。いいか、二年生の全道大会はもう終わった。もう二度とないんだぞ。ツモリンはもう二度と、高校二年の夏のNHK放送コンテストには出場できないんだ。なぜなら、もう終わったからだ。自分が笑ったら姉さんの病気がよくならないみたいな、そんなのはウソだ。姉さんが泣いてたら、お前もずっと泣いてなきゃならないことになる」

 私は森からもらったウーロン茶を飲んだ。ちょうどいい温度に感じた。

「ツモリン、姉さんが泣いてたらどうするよ」

「どうしたのかって様子を聞くよ。つらいことでもあったのかって」

「一緒に泣くのか?」

「泣かないよ」

「そういうことだと思うんだ。姉さんが病気になって、お前は姉さんを支える立場だろう。だったら、元気出していかなきゃ支えられないべ」

 なんとなく、森の原稿みたいに無理やりの論法だと感じるところもあったが、聞いていた。

「だったら、笑っていた方がいい。ツモリン、秦さんが言うことなんて気にするな。部室で、ツモリンが笑ってる姿を、俺は何回も何十回も見てる。ツモリンはふつうの女の子だ。だから、精いっぱい楽しんで、座敷童をやってくれ」

 最後に落とされた。

「せっかく、森にしてはいいことを言うなと思っていたのに。台無しだ」

「見に行くから待ってろよ。ほかにどんなの出てくるの」

「八尺様」

「おお。誰がやるの」

「田中千里って分かる? あ、中学同じって言ってたっけ」

「いまはバレーボール部のね」

「詳しいね」

「取材しないとね。原稿書けないべ?」

「困ったら新刊図書案内のくせに」

「戸田がいつもお前に感謝してるってよ」

「そうだ、戸田さんって、下の名前なんて言うの?」

「戸田繭子(まゆこ)。知らなかった?」

「図書室でよく話すけど、名前は知らなかった」

「ツモリンの姉さんの名前、なんていうの?」

 森の言葉を受けて、私は一回呼吸を整えた。

「宏佳」

「病気が治ったら……俺のドラマに出演依頼したいな」

「学校が違うからダメでしょ」

「笑ったな、ツモリン」

「えっ」

「今笑ってる」

 そうなのか。私は笑えるのか。笑ってもいいのか。笑い方を忘れていなかったのか。

「私、笑ってる?」

 森に尋ねた。

「笑ってるよ。いい表情だ。その顔もキープで頼むよ」

 私の顔を指さし、そして親指を立てた森に、笑いかけた。それは、自分でもはっきりと分かった。

 笑顔の魔法か、と私は思った。


 夜。自分の部屋で窓の外を見ていた。部屋から見えるのは東の空だから、もう十分に暗かった。野幌の原生林が黒くて、その手前が住宅街。いつもと変わらない風景だ。SNSにポストすることもなく、メッセージアプリがときどき通知をよこすので、千里たちのグループチャットを開いて、返信をしたり、書き込みをしたりしていた。それも途切れだしたころ、また通知が来た。誰かな。何気なくスマホを取り上げた。

 宏佳だった。ベッドのヘッドボードに半身を預けていたが、起こした。

〈未佳へ。この間は病院に来てくれてありがとう。わたしは、来てくれたのが本当の未佳だと思っています。ごめんなさい〉

 読んだ瞬間に、「お姉ちゃん」と口にしていた。入院先の病室から送って来てくれたんだ。いままでにこんなことはなかった。そもそもメッセージアプリを使わなくてもいいほどに、私たちは近かった。遠くなったのは病気のせいだ。

 少し考えた。なんて返信すればいいんだろう。

〈メッセージありがとう。私も、お姉ちゃんはお姉ちゃんだと信じています。お姉ちゃんはこそ元気にしてますか。傷は痛くありませんか〉

 考えてそう打ち込んだ。すると、すぐに既読がついた。

〈傷はもう大丈夫。返信くれて、本当にありがとう。今日はピアノを弾いたよ。「亜麻色の髪の乙女」。また、未佳と一緒に弾きたい。弾いてくれますか〉

 うっ、と声が出た。鼻腔の奥に痛みが走り、両目から涙があふれた。どうしてだろう。安心したからか、それとももうお姉ちゃんが戻ってこない、そういう寂しさからか。きっと前者だ。私は安心した。

今はピアノからは少し離れていたけれど、弾きたい、と思った。お姉ちゃんが帰ってくる前に、固くなりつつある指をほぐさなければ。なんて返信すればいいんだろう。さんざん考えたが、素っ気ない言葉しか浮かばなかった。

〈私でよかったら〉

 すぐに既読がついた。あふれ出るものを抑えられなくて、続いて打ち込んだ。

〈いま、私は、お姉ちゃんに会いたいです〉

 送信した。うう。涙が止まらない。

〈わたしも、未佳に会いたい。落ち着いたら、会いに来て〉

 すぐに返信した。

〈必ず、会いに行きます〉

 今すぐにでも会いたいと思っていた。そして少ししてから、

〈おやすみ、未佳〉

 宏佳に直接声をかけられたような気がした。

「おやすみ、お姉ちゃん」

 だから声に出して打ち込み、送信した。

 部屋の中は、とても静かだ。遠くに電車が走る音がした。


 教室がだんだん学校祭モードになっていく。通常の授業が終わる日に一気に『クラパビ』仕様へするため、段ボールでできた壁材だとかが教室後方に立てかけてある。授業にしたってどこかみんな気もそぞろで、須藤さん流に言うと「気が離れてる」。

 森に言われたから余計に自分のポジションを確かめるようになっていた。遠慮して、どこか引いた場所からクラスを眺めているのではないか、と。事実それはそうだった。積極的にみんなの輪に入れない。千里や怜、彩夏たちが構ってくれているから居場所があるだけで、そうでなかったら、きっとぼっちでお弁当を食べていたと思う。寂しい、とも思わずに。

寂しい――きっとそう思ったはずだ。寂しいなんて感じるはずがないと思っていたのに。

千里たちが引き込んでくれなかったら、きっとどこの階層にも属さない――か、最底辺の扱いを受けていたに違いない。毎日一人で過ごす日々を想像する。窓の外を眺めて、クラスから疎外され、孤高の人を気取りながら、クラスのみんなは、私を持て余すか無視をする。

 もう私は、千里や怜や綾乃、一華や、あの紘子ですら、いてくれないと寂しくて困る。孤立した教室で、学校で、私はあと二年弱過ごすなんて無理だ。

 授業中、視界の隅にいつもポプラの木があり、滑走路があり、広々とした空が広がっている。休み時間は学校祭準備の話をする。高校生らしいんだろうな。みんな十六歳か十七歳。いろんな作品でさんざん描かれるほど、キラキラした時間なんだ。私はちっともキラキラしていない。お昼休みは最後列の怜の席でお弁当を食べ、相槌を打ち、ときどき一緒になって声を上げる。一華が私の笑顔を見たことがないというからには、おそらく私は笑っていない。笑えないと思っているから、笑わない。でも、みんなと一緒に笑いたいという気持ちがないかというと、ある。

 特に、昨日の夜、宏佳からのメッセージを受け取ってからは。

 千里がそっと目を向けてくる。笑いなよ、素直に。そう言っているように思える。

 クスクス。

 怜が笑っている。待って、今何の話をしていたの?

 綾乃が口を押えて肩を震わせている。えっ、そんなに面白い話をしていたの?

「八尺様のネタはもういいってば」

 千里がふくれて見せた。そうか、その話か。

「ねえ、座敷童の未佳」

 千里が振るから、怒ったふりをする。すると、綾乃がこらえきれずに声をあげて笑う。怜もそうだ。

「未佳の座敷童は似合うと思う」

 笑いながら、綾乃が言った。あれ、綾乃も私のこと、未佳って呼んでたっけ。

「髪形はそのままでいいよね、着物着て座ってる未佳、イメージするだけで面白いって」

「言えてる。いやー、吉久保の選択マジで当たってるって」

怜が納得顔でまた笑う。吉久保は三組の学校祭実行委員だ。

「そういえばさ、メッセージ届いてる?」

 千里が話を変えた。

「メッセージ。ほら、この放送の」

 天井を指さしながら私に尋ねる。

「さあ……、私リクエストボックス開けたりしないから、分かんないな」

 森は、最初のメッセージを私に読ませると言っていた。それがまだお声がかからないということは、来ていないんだ。

「私書いてみようかなー」

 千里が言うと、

「えっ、マジ? 告白?」

 怜が大げさに反応した。

「告白なわけ、ないじゃんよ」

「なんだ、つまんない」

「じゃあ、怜、あんたが書きなさいよ」

「どんなことでもいいんなら、なんだろうなぁ。書くことないなー。綾乃はどうさ?」

「校内放送で告白はできないでしょ。学校中に知れ渡るなんて、無理無理」

「だよねー」

 私はミニトマトを嚙みつぶしながら、三人のやり取りを眺めていた。

 そうだよね。学校の校内放送で告白メッセージなんて、ふつう来ないよね。


 学校祭準備も、部活とローテーションで抜けさせてもらった。いつも通りの時間に部室に行くと、柚月、美咲、森、織部の二年生全員が揃っていた。須藤さんがマイクの前で朗読をしていた。

「あれ、みんな学祭準備抜けてきたの?」

「そういう積森さんも抜けてきたの?」

 柚月がなんとなく浮足立った表情で私に言った。

「みんな似たようなもんだよ。『パビリオンジャック』やるの分かってるから、結構あっさり。私昨日はポスティング行ったけど」

 森はデスクトップPCを背にしてこちら向きに座っていた。三年生は須藤さんのほか、相良さんと藤崎さんがテーブルについていた。なんとなく、いつもの部活の雰囲気だったが、どこか違った。

「なんかあった?」

 柚月に訊いた。須藤さんが朗読を続けていたから、少し小声で。

「リ、ク、エ、ス、ト、ボックス」

 妙な節回しをして、テーブルの上の便せんのような紙を指さした。アナウンサーデスクの後ろにある大きなテーブルの上には、原稿だとか、資料だとか、そうしたものが載っている。その真ん中に、それはあった。

「来ちゃったんだよぉ、本当に、ついに」

「は?」

「ちょ、積森さん、ほらあれ。メッセージが来たんだよ!」

 テーブルついている美咲が手招きしている。

「積森さん、これ読んでよ。てか、積森さんが読むんだよ、これ」

 相良さんがちょっとだけ首を傾げ気味の表情をしているが、藤崎さんは仕方ないな、そんな感じで腕組をしている。朗読が終わり、須藤さんもこちらを向いた。

 はい、と柚月がテーブルの上から便せん、じゃなくて、一枚のルーズリーフを取り、私に差し出した。私は受け取り、文字を追う。


  ヒルヌンネーム 窓際の君が好き

  こんにちは。もうみんな夏服。学校祭も近くて、夏が来たなって思います。

いつのころからか、僕には気になっている人がいます。気が付いたら僕は心を奪われていました。

その人は、いつも窓際から外を眺めていて、その横顔が素敵なんです。あなたの見ている風景に、きっと僕は入っていない。だけど、僕はその人の横顔に、いつの間にか心を奪われてしまいました。

本当に、あなたのことが大好きです。

いつか一緒に、同じ風景を眺めることができたらと、ずっと思っています。時折見せてくる笑顔で、僕は幸せになれます。僕が学校へ来る理由は、その人に会うためです。今日は、その人のための曲をリクエストします。


 気づいたら口の中で音読していた。

「ねえねえ積森さん、ついに来ちゃったよ!」

 柚月が飛び跳ねんばかりに喜んでいる。

「積森さん、これ読むんだよ! 大切に読んであげてよこれ! 告白だよ告白」

 美咲も私の隣で文字を追いながら、何度も背中を叩く。

「この『窓際の君が好き』って、前にも読んだことあるよな」

 織部が言った。確かに記憶がある。

「常連さんってことか」

 藤崎さんがルーズリーフをのぞきこむようにして言った。

「ちゃんと手書きか。きれいな字だな」

「『僕』って書いてあるから、男子だよね?」

 相良さんは差出人を気にしている様子だ。

「一人称が『僕』の女の子もたまにいますよ」

 織部が言うが、続けて、

「でもこれは男ですね。百パー」

「ついに来ちゃったね」

 柚月はずっと楽しそうだ。

「読むんでしょ?」

 美咲が言う。こういうとき、柚月と美咲はどちらがどちらかわからない口調で話す。

「須藤さん、どうしますか?」

 織部が頭をかいている。

「森君、あなたの番組なんだから、意見ちょうだい」

 須藤さんは、椅子から立ち上がり、みんなをまとめるよう、一度手を広げて、それからお祈りをするように、両手を合わせた。

「俺は、そのまま放送してもいいとは思いますけど」

「放送を聴いてるのは、全校生徒の三分の一だとしても、四百人はこの告白をしっかり聞くことになるわよ」

「でも、メッセージ募集って『ヒルヌン』で言っちゃいましたから……」

「黙殺するのも悪い?」

「せっかくのメッセージですから」

「須藤が慎重になる気持ちも分かるけどな」

 藤崎さんが椅子に座って足を組み、言った。

「これ、全校の窓際に座ってる女の子がびっくりしちゃうよ」

 相良さんがちょっと苦笑気味に言った。三年生は慎重だ。

「私は読んでもいいと思いますけど」

 柚月。

「森と同じです。それに、この人、たぶん前にも何回かリクエストくれてる人です。名前聞いたことあります」

「常連さんだからって告白までお手伝いするのはなぁ」

 相良さんが渋る。三年生が全員反対意見だとしたら、この告白は消える。いつもの森なら、ああだこうだ理屈を重ねて放送するように意見してくるはずなのに、今日はそうでもなかった。

 だから。

「私、読みますよ」

 図らずも、みんなの輪のど真ん中にいた私が言った。一番最初に反応したのは須藤さんで、素早く顔を上げて、私の目をまっすぐに見た。

「この人、きっとその女の子のことが好きで好きでたまらなくて、だけど直接言えなくて、六百分の一……一年生から三年生までの女子のたった一人のことをぼやかして、それでメッセージをくれたんだと思います。それに、メッセージ募集をしたのは私たちだし、誰かから誰かへの気持ちを伝えるって、放送局の役割だと思います。私、読みますよ」

 私が発言すると、部室が静まり返ってしまった。しまった、と思わないでもなかったが、今はなんとなく、手に持っているルーズリーフがすごく重く感じられ、この匿名の告白を読まなければならないという、妙な使命感すら感じていた。

「六百分の一かぁ」

 隣で柚月が感嘆の声を上げた。

「確かにそうだよね。全校生徒の半分が女子……ってかウチの高校、女子の方が多いけど、その中の一人に向けてなんだね」

 美咲が後を引き継ぐ。

「窓際って限定してるから、さらに絞られるけど」

 相良さんがまだ困った顔をして言う。

「うん。よしわかった」

 須藤さんが合わせていた手を離して、テーブルの上にそっと置いた。

「アナウンサーの積森さんが読むって言うなら、任せてみようかな。森君、いい?」

「いいっすよ」

「技術は、織部君?」

「そうです」

「いつ放送する? 森くん」

「明日の『ヒルヌン』でどうですか」

「善は急げ、みたいな感じね。分かった。明日も生放送だよね」

「そうです。これから『パビリオンジャック』で収録できないので」

「分かった。じゃあ積森さん、しっかり、想いを届けて」

 須藤さんが最後、私を向いて、強い目をして、そう言った。



「原稿、直してもいいよね」

 『パビリオンジャック』の生放送、一年生の和奏がたどたどしく各教室の進捗具合をアナウンスし、曲に入ってマイクがオフになったのを確認した後、森に訊いた。

「原型とどめないほど直すのはダメだぞ」

「分かってるよ」


  ヒルヌンネーム 窓際の君が好き


『こんにちは。もうみんな夏服。学校祭も近くて、夏が来たなって思います』

 こんにちは、はいらない。もっと季節の到来を感じさせる方がいい。

「半袖の夏服姿が日差しを受けて、眩い季節がやってきました。もうすぐ学校祭。準備を進めながら、夏が来たことを実感しています」

『いつのころからか、僕には気になっている人がいます。気が付いたら僕は心を奪われていました』

 少し唐突すぎる。彼が惹かれているその人は、眩しい光の中にいるはずだ。そして、「あなた」ではなく「その人」でもなく、「君」だ。

「そんな眩しさの中に、僕が惹かれている君がいます」

『その人は、いつも窓際から外を眺めていて、その横顔が素敵なんです。あなたの見ている風景に、きっと僕は入っていない。だけど、僕はその人の横顔に、いつの間にか心を奪われてしまいました』

 ここは重要だ。横顔と、彼女が見ている景色、そしてそれを見ている彼の対比が描かれていなくてはならない。そういえば私も窓際の席だけれど、余計なことを思いつく。

「君は日差しのあふれる窓際の席からいつも外を眺めていますね。僕は、君が何を見ているのか知りたい。そして君の見ている風景に、きっと僕の姿は入っていない。でも、僕は君の横顔に、いつしか心を奪われてしまいました」

 次は、推敲する必要はないはずだ。でもシンプルなほうがいい。

『本当に、あなたのことが大好きです』

「君のことが大好きです」

『いつか一緒に、同じ風景を眺めることができたらと、ずっと思っています』

 切ない気持ちがあふれていると思った。希望を持たせたい。

「君といつか一緒に同じ景色を眺めたい。君の見ている景色を共有したい」

 私の声で気持ちを届けられるとしたら、次の部分だ。

『時折見せてくる笑顔で、僕は幸せになれます。僕が学校へ来る理由は、その人に会うためです。今日は、その人のための曲をリクエストします』

「時折見せてくれる笑顔が、たとえ僕に向けられたものでなかったとしても、僕は幸せになれます。学校へ来れば君に会える。僕が学校へ通っている理由、それは窓際の君に会うためです」

 推敲しすぎかな、と思ったけれど、ストーリーは通っていると思った。

『今日は、その人のための曲をリクエストします』

「君と一緒に聴きたい。そう思ってこの曲をリクエストします」

 君と一緒に聴きたい。いいと思った。


 推敲したメッセージは、誰にも見せなかった。森も特に何も言ってこなかった。

 寄せられたメッセージを改変することがいいことなのか、それともオリジナルの尊重という味で禁じ手なのかは分からない。アナウンサーが原稿を改変することについて、きっとコンテストなら苦言を呈される気がする。

 けれど、今回のメッセージは、匿名とはいえ、『窓際の君が好き』というリスナーの心情が詰められたものだった。どうせ読むのなら、自分でもこんなにきれいに書いた覚えはないというくらい、きっちり推敲して読んであげたかった。彼――と思われるリスナーの、生徒の恋がかなうかどうかは分からない。「窓際の君」がこのメッセージに気付くかどうかも分からない。全校の教室で窓際に座っている女の子はみんなびっくりするだろう。むろん、私たちの番組を聞いてくれていればの話だけれど。

 翌日、昼休みに教室を出て、部室へ向かった。クリアファイルには、推敲したメッセージが入っている。原版には手を出していない。短いメッセージだったけれど、思いが込められていると思ったから、大切に読もうと思った。全道大会の前のような気持ちだった。手に持ったクリアファイルが手のひらに張り付いていた。そこで、手のひらに汗をかいていることに気付いた。少なからず驚いた。全道大会のときとは違う緊張の仕方をしていた。恋の告白を校内放送で読むなんて。課題図書を朗読するより責任重大だと思った。コンテストでは私の朗読の技術が評価された。読む内容よりも技術。今日は違う。技術に加えて内容が伝わることが大事。私が読むことで、誰かの恋が成就するかどうか決まるかもしれない。

 もし、「窓際の君」に思いが届くなら。私の声が、その女の子に届いてくれるなら。

 私の声も捨てたものではないという気がする。もちろん、届いたかどうかの確認のしようもないのだけれど。

 部室兼スタジオに入ると、須藤さんがいた。柚月と美咲もいた。森は調整室にいて、織部としゃべっていた。

 今日はあのメッセージのほか、始めに森が書いた学祭ネタを一本入れる。曲が入って、フルコーラス明けたら、あのメッセージ。そして一曲入れて、放送はおしまいだ。

 アナウンサーテーブルに着く。本番まで、もう一度原稿を読みなおす。学祭ネタは、いまのところ毎日続けている、各クラスの出し物の案内だ。ポスティング、みなさん順調に進めていますか? ほかの高校は行灯行列なのに、どうしてウチの高校だけは「クラスパビリオン」なんでしょうね?

「そろそろ本番行きますよー」

 織部の声がスタジオに流れる。

 ON THE AIRのランプがつく。『ヒルですヌーン』のテーマ曲が流れて、織部のキューを待つ。五、四、三、二……笑顔の魔法を思い出す。

「みなさんこんにちは。『ヒルですヌーン』、今日も始まりました。学祭準備期間も半分を過ぎました。順調に『クラパビ』進んでいますか? 私はダンボールの加工、少し飽きてきましたけど、見る見る教室が学校祭仕様に変わっていくのは、毎年見ていてワクワクしますね。

 さて今日の各クラスの進捗と、どんな『パビリオン』が準備されているのか、照会を進めましょう。昨日は一年六組まででした。一年七組は……」

 いつもどおりの放送。いつもどおりの昼休み。私の声が全教室に流れる。

「それでは、今日の一曲目です――」

「はい、曲入りました。三分四十五秒」

 織部の声に。私はマイクから顔を離す。森がじっと腕組みをしてこちらを見ている。いつになく真剣な顔をしている。森にしても、まさか本当に告白メッセージが来るとは思っていなかったに違いない。大丈夫。私がしっかり読むから。心配しないで。

「曲明けますよ」

 織部が知らせてくれる。私は原稿を準備し、キューを待つ。曲が終わり、クロスフェードして、BGMが流れ出す。

「はい、五秒前。三、二、……」

 キュー。


「今日は、全校の生徒の皆さんから届いたメッセージをお届けします。前に募集をしたところ、リクエストボックスにメッセージが届きました」

 少しの間を置く。

「ヒルヌンネーム『窓際の君が好き』さんからのメッセージ」

 ここで短い間。

「半袖の夏服姿が日差しを受けて、眩い季節がやってきました。もうすぐ学校祭。準備を進めながら、夏が来たことを実感しています」

 ラジオ番組で、夕方、リスナーからの手紙を読むようなイメージだが、普段通りの声量で、言葉一つ一つを丁寧に読む。

「そんな眩しさの中に、僕が惹かれている君がいます」

 君。意識しないように、けれど、ほんの少しだけ他と区別をして発音する。

「君は日差しのあふれる窓際の席からいつも外を眺めていますね」

 できるだけ急がず、窓際の様子が見えるように、語り掛けるように。

「僕は、君が何を見ているのか知りたい。そして君の見ている風景に、きっと僕の姿は入っていない。でも、僕は君の横顔に、いつしか心を奪われてしまいました」

 君の横顔が、リスナーにもイメージできるように、少しだけ、声のトーンを落とす。わずかに感情を混ぜ入れるとしたら、この部分だった。きっと僕の姿は入っていない。ちょっぴり寂しく読んだ。そして、次が重要だ。

「君のことが大好きです」

 メッセージをくれた彼になったつもりで。窓際に座る愛しの女の子を前にして、意を決して伝えるように。

「君といつか一緒に同じ景色を眺めたい。君の見ている景色を共有したい」

 続けて、ここは希望を感じられるように。明るく読む。

「時折見せてくれる笑顔が、たとえ僕に向けられたものでなかったとしても、僕は幸せになれます」

 彼の日常をイメージする。その子の姿を見るだけでもいい、それだけでも幸せだと感じるような。

「学校へ来れば君に会える。僕が学校へ通っている理由、それは窓際の君に会うためです」

 窓際の君、に力点を置く。そして最後だ。

「君と一緒に聴きたい。そう思ってこの曲をリクエストします」


 リクエスト曲が流れ出した。マイクがオフになったようだ。

「うわぁー!」

 柚月が後ろから駆け寄ってきて、私の両肩をゆすった。

「うおお」

 調整室から織部が変な声を出した。森を見ると、両手を頬に当て、自分の顔をプレスしていた。

「よかったよ、いまの。朗読の積森さんの本領発揮ね。全道大会の『氷点』を思い出したよ。さすがだね」

 須藤さんが笑顔で言ってくれた。

「私宛だったらこれ痺れちゃうなあー。でもここで聞くからいいんで、教室で聞いたら死ぬ」

 美咲が口に手を当てて褒めてくれた。

「今頃教室で大騒ぎになってるんじゃない?」

 柚月が本当に楽しそうだ。

「窓際の子、びっくりしてるよ」

「キモがられないよね、この読み方だったら。よすぎて腰抜かす。積森さん、けっこう原稿いじってる?」

 美咲が私の手元をのぞきこんでくる。

「うわ、メモだらけだ。やばっ」

「せっかく読むんだから、これくらいはさせてもらわないと」

「恐れ入ったわ。積森さんさすがすぎる」

 美咲が腕組みをしてうんうんと何度もうなずいた。

「ちょっと森、『窓際の君』って誰だと思う? リクエストボックス開けたのあんたでしょ」

 柚月がもう興味を隠せない様子で調整室の森に訊いた。

「さあ、誰だろうな。わかんないよ。匿名だしさ。わかんねぇな」

 森はなぜちらちら私を見ながら、スタジオと調整室との通話マイクを使って話した。私と目が合ったが、すぐに目をそらされた。原稿を改変しすぎたと思っているのだろうか。

「そろそろ曲明けますよ」

 織部の声。

「さ、しっかり締めて」

 須藤さんが肩を叩いた。

「曲終わります。……五、四、三、……」

 キュー。

「今日の『ヒルですヌーン』、そろそろお別れの時間になりました。学校祭準備を進めながら、部活も頑張っているみなさん、帰宅部だけど、学祭だけは手が抜けないって思っているみなさん、それぞれの思いを詰め込んで、あと三日、頑張りましょうね。今日も準備時間には『パビリオンジャック』を放送します。リクエストはいつでもお待ちしています。お近くの放送局員に声をかけてくれてもいいですし、リクエストボックスにはメッセージもお待ちしています。それでは、また明日。アナウンサーの積森未佳がお送りしました」

 放送が終わった。

 BGMがフェードアウトすると、なぜか自然と拍手が沸いた。

 窓際の君が好き、か。

 考えてみると、私も窓際の席だった。もし、誰かが私のことを見ていたとしたら。そんなこと、ありえないそんな人、いるわけない。

 そう思って、残りのお弁当を食べ、お茶を飲み、後片付けをした。

 五時間目は数学だ。

 教室ではどんな様子だったのか、千里たちに訊いてみよう。もしかしたら、「窓際の君」が見つかって、今頃カップル誕生とかやっているのかもしれなかった。

 私の名前をあげて盛り上がっていたら、とバカなことを考えた。千里は言わない。言うとしたら、怜か綾乃。または一華だ。

 でも。と打ち消す。私の名前が彼女たちの中で出てくるはずがない。窓際の君がうちのクラスにいるとしたら、候補に挙がるのは、怜の方だ。


 教室に戻ると、ほぼ全員が一斉に私に注目したのが分かった。えっ、何この空気感。私は気圧された。教室の前方の引き戸を開けて教室に足を踏み入れた途端、〇.五秒ほど全員が固まった。それから黒板の前を横切り、窓際の自分の席へ歩く様子を、ほぼ全員がトレースしている感じだ。ちょっと待って。全道大会で朗読のステージに立つみたいな緊張感、何これ。

「窓際の君が帰ってきた」

 反射的に声の主を探す。村上瑠璃(るり)だ。吹奏楽局でフルートを吹いている。瑠璃って名前のとおり、クラスで一番輝いていて目立つ子。もちろんウチのクラスの第一階層(レイヤー・ワン)の筆頭。

「窓際の君って、積森のことだべ?」

 三田村が男子にしては甲高い声で言う。それを合図に、教室中が騒がしくなった。

「ねえ、自分あてのメッセージを読んだわけ? それってどんな気分? 相手は誰?」

 瑠璃が席を立ち、まだ立ったままの私に近寄ってくる。邪気のない顔。本人に悪気はかけらもないけど、完全優位な立場から遠慮のない質問をぶちまけてくる感じがものすごく高圧的だった。

「積森って彼氏いたのかよ。すんげー意外なんだけど」

 三田村も追従してくる。

「やめなよ三田村。未佳はただ寄せられたメッセージを読んだだけじゃない。自分あての告白メッセージなんて、読むような子に見える?」

 千里だ。自分の席から鋭い声で牽制した。。

「見えねーから訊いてんじゃん」

「積森さん、素敵なメッセージね。読み方がすごく情感こもってた。私たち固まっちゃったもんねー。差出人は誰なの? 分かってて読んだんでしょ? 君のことが大好きですって、もう、全身震えちゃった」

 言葉とは裏腹に、気持ちの悪い虫でも見たような顔をしている。そこで初めて、失敗したと感じた。あんなに一所懸命になって推敲するんじゃなかった。和奏や柚月がそうするように、校庭のポプラが老朽化したので一本切られちゃうんです。寂しいですね、的に読むべきだった。

「反論しないってことは認めたってこと?」

 瑠璃が畳みかけてくる。

「リクエストボックスに入っていたメッセージを読んだだけだよ。大切なメッセージだと思ったら、大切に読んだ。私はアナウンサーだから。それだけだよ。私は『窓際の君』じゃないし、誰が投稿したのかも知らない。匿名だったから。一年生なのか二年生なのか三年生なのか、それも知らない。知る必要、ある?」

 まっすぐに瑠璃を見据えて言った。いつもどおり、マイクに向かったときと同じ発声で。だから、教室の反対側まで楽々私の声が飛んだ。怒りもなく、憤りもない、ありのままの言葉だけが、四十人いる教室の隅々まで響いた。声の大きさに怒っていると思われたら心外だったけれど、発声練習の成果はこういうところに出るんだ。声が大きいんじゃない。「よく響き、よく通り、よく届く声」なんだ。

「ねえ、まさか積森さん、自分に向けられた告白だって、知ってて読んだわけじゃないよね?」

 瑠璃の声は、お互い向き合って立っているのに、なぜか天井から降ってくるように高圧的だった。呼吸を意識しながら、あえてアナウンサー式の発音で答えた。

「私がそんな自意識過剰な女の子に見える?」

 表情を変えないように意識しながら、第一階層(レイヤー・ワン)筆頭の瑠璃を見返した。瑠璃はほんのわずかに眉を動かした。

「おとなしそうな顔してるあんたみたいな子が、こういう手を使って承認欲求を満たすのよ。SNSにでも投稿するの? 今日校内放送で私への告白メッセージを読みました。バズるどころか炎上だわ」

「瑠璃、いい加減にしなよ」

 鋭い声が飛んできた。千里だった。立ち上がり、百八十センチ近い身長を活かした歩幅で歩み寄ってくる。抑えた声だったが瑠璃の言葉を止めるには十分すぎる力があった。

「それでいったら、ウチのクラスだって候補があとふたりいる。ほかのクラスだってそうだよ。もし『窓際の君』がうちのクラスだとして、なんか問題あるの? 瑠璃にだって彼氏がいるじゃん。見守ってやんなよ」

 そう言った。瑠璃は千里に見下ろされて、少し鼻白んだふうだった。

「未佳の放送、すごいよかったよ。瑠璃が全身震えたって言ったけど、それはいい意味だよ。私たちだってびっくりした。こんな告白あるんだって」

 千里がとりなしてくれたが、それを待っていたかのように、

「どっちだっていいよ、そんなの。うざいよ、みんな」

 ひとりごとのような誰かの声が聞こえた。私は声の出どころを探したが、スマホをいじっている子が何人も目に入っただけ。興味がない子はこんな面倒な茶番さっさとやめて、の顔だ。

「真鍋、あんたは黙ってて」

 瑠璃は誰が言ったのか分かったようで、中間層と最底辺をうろうろしているような女子に鋭い刃のような言葉をぶつけた。

「だいたいさー、そこまで強固に打ち消すあたりが微妙なんだよなぁー」

 三田村と同じサッカー部の早坂が言った。

「三田村が怜に向けて送ったんじゃないの?」

 綾乃がぼそりと言った。誰かが笑った。それが教室中に伝播して大きな笑い声が起きた。

「んなわけねーだろ。リクエストボックスなんて使わないで、俺なら直接呼び出してコクるわ」

「そうだよねー、あんたにあんな器用なまねできないよねー」

「ふざけんな」

「いいじゃん、別に、誰が誰を好きだって。当人たちにはわかってることなんでしょ。あたしはそもそも窓際じゃないから関係ないし、こういうのすっげー青春してて眩しいんだけど、眩しすぎて見てらんないし。瑠璃はどうなん? うらやましいの?」

 意外にもそう言ってくれたのは紘子だった。頬杖をついて、瑠璃に向かって言った。

「うらやましいとか別にそんなのない。ただ、あたしは、積森さんが読んで、積森さんも窓際の席だから、自分で自分のこと読んだんじゃないかって思っただけ」

「積森さんはそんな面倒なことしないと思うんだなぁー」

 紘子が瞼を半分閉じ気味のけだるそうな顔になって、私を向いた。というか、私と瑠璃はほぼ同じ場所に立っているから、少しだけ角度を変えた感じだ。

「積森さん、このクラスの誰かが、『君のことが大好きです』って言ってるのかもしれない。それってどうなの?」

 瑠璃がなおも絡んでくる。ずいぶんしつこいなと思った。

「もし、教壇から三列目の君へ、って内容だったら、村上さんはどうするの?」

「ほぼ名指しじゃんそんなの。ありえない」

「でも、一年一組から三年九組まであるんだよ」

「あたしが言ってるのは、積森さんが読んだことの重さだよ」

「私のアナウンスがなにかあるの?」

「積森さんの言葉は重いんだよ。なんか、すっごい高性能のスピーカーから積森さんの声がものすごい音圧で流れてるみたい。学校中、いま大騒ぎになってるから。窓際に座ってる女子みんな、自分のことかもしれないって大変なことになってる」

「それって、私のこと褒めてるの?」

「褒めてるように聞こえるの?」

「微妙」

 言うと、そこでようやく、瑠璃は視線を外し、肩の力を抜いて、「は」と声を出した。

「校内放送でこれだもん。積森さん、プロのアナウンサーになって、告白のメッセージなんて読まないでよね。日本中がパニックになるわ」

 女子アナ、という職業になら、容姿が抜きんでている瑠璃の方がふさわしいと目の前で思った。だから言った。

「私はアナウンサーになんかなれない。そういう瑠璃こそ、アナウンサーになるべきだよ。私なんかよりもずっと向いてる。言葉の重さがわかるなんて」

 皮肉ではなく。言葉の重さを「部外者」に指摘されたのは初めてのような気がしたからだ。

「積森さん、見た目はかわいいのに、声の圧力はでかいし、そういう言葉はずいぶん重たいね」

 瑠璃みたいな人種からは絶対に出ないと思っていた言葉だったので驚いたが、聞き流すことにして、自分の席についた。瑠璃は気が済んだらしく、自分の席に戻って行った。教壇から数えて三列目中央の自分の席に。

「千里、ありがとう」

 歩み寄ってきた彼女に、感謝した。机の横でしゃがむと、私の顔を覗く。

「よかったよ。未佳の放送」

「そうかな。こんな騒ぎになっているとは思わなかった」

「それだけ今日の放送はすごかったんだよ。未佳が全道大会でどんな発表をしたのか、ちょっとだけわかった気がするよ。怜の奴がびっくりしてたよ。あの子も窓際だから。イーホワがからかったの。怜のことじゃないの? って。怜が真っ赤になって否定するから、瑠璃とかも面白がっちゃって。三田村が言い出したんだよ。未佳が自分へコクるメッセージ自分で読んだんじゃないかって。それに瑠璃が乗っかったの」

 淡々と話す。そうか。なんとなくその様子が目に浮かんだ。

「瑠璃だってああやって絡むの、いつものことじゃない。それに、今日の放送それだけよかったんだよ。一言いいたくてたまらなかったんだよ」

「そうかな」

「あれは、瑠璃なりの誉め方なんだよ。そう思っていいんじゃない? それに、みんなこういう話が大好きなの」

「千里も好き?」

「好きだよ。だって、未佳の読み方、ものすごく素敵だった。私も窓際だったら、照れくさくなったかもね」

「私のアナウンス、そんな力はないよ」

 五時間目、数学の教科書とノートを準備しながら、私は言う。

「あるんだよ。だって瑠璃なんてふだん放送なんて聞いてないよ……未佳たちには悪いけど。だけど今日は聞いてた。そういう力があるからなんだ。未佳の今日のメッセージの朗読は、本当によかった。見てよ、怜、まだおかしくなってるよ」

 千里が窓際最後列の怜を指さして笑った。そちらを向く。すると怜と目が合った。

「ちょっと何よ。私の話してるでしょ。私は今日の放送なんて知らないから。誰が書いたとかも全然」

「分かってる分かってる」

 千里が手で制した。

「さ、数学だ」

 一言。千里が離れて行った。


 通常授業を行っては、『ヒルヌン』を放送して、授業をやって、学校祭準備を進める。そんな日が数日続いて、一日だけは雨が降り、ポスティングがお休みになって。

 座敷童の衣装を着せられた。クラスの誰かの家にあった着物。着付けを習ったことがあったので、自分で着た。イーホワもできるらしく、彼女に驚かれた。着物はしまってあった箪笥の匂い――よその家の匂いがした。

 かわいいかわいいと千里に頭を撫でられた。本番と同じようにやるからというのにで、顔にファンデーションを塗られた。白っぽく。赤いリップも引かれた。メイクをしてくれたのは、メイド服を着たイーホワだ。甘ったるい声を出して、いらっしゃいませぇー、とやっている。頭に付けたフリル付きのカチューシャといい、よく似合っていてムカついた。

 座敷童がやることというと、武道場から借りてきた汗くさい畳を敷いた模造の和室、その一番奥の床の間の前に正座して座り、来たお客さんが座布団に座ったら、素早く立ち上がり、つつつ、と歩み寄って、わっ! と言って脅かすか、手毬を転がしていたずらするとか。最初はウィッグをつけるかとクラスの学祭実行委員の吉久保が言っていたが、ほとんどおかっぱみたいな私の髪型が予想以上に似合うからと、メイクだけになった。

 私がつけるはずだったウィッグは、ワンピースを着てキャペリンをかぶった八尺様――千里の頭に収まった。千里の髪型も私と同じような刈り上げのショートヘアだからだ。

 教室を四つに区切って、座敷童がいて、八尺様がいて、アイルーがいて、スライムがいるというのが「モンスターミュージアム」で、八尺様がいないときは、テレビの画面から長髪の女がはい出てきて、座敷童がいないときは、座敷童の小僧版が出てくる。みんなの学校祭だから、一つの役を三人から四人でやる。瑠璃はモンスターだけは絶対に嫌がって――というか誰も彼女にモンスター役を振るわけがなかった――メイド服姿のガイド役をやっていた。これが腹が立つくらい似合っていて、男子がしきりにスマホで写真を撮りまくっていた。

 学祭準備の最終日、教室の準備が押したので、七時近くまでその作業をした。もう、誰も「窓際の君」の話をしなかった。

 まだ空に明るさが残るなか、帰路につくため外へ出ると、いつも見慣れているはずの学校はそこにはなくて、教室は様々な飾りや仕掛けやダンボールで彩られ、玄関横では模擬店の準備も進んでいた。去年の学校祭の記憶があまり残っていなかった。宏佳の体調が悪い時期と重なっていて、彼女も学校へ通ったり休んだりを繰り返していた。今年、宏佳は二度目の入院をしてしまった。碧星女子も学校祭があるはずだ。札幌市内の高校はほとんど同時に学校祭をやる。宏佳はそれに参加できない。

 私だけの高校二年生の学校祭だ。

 校門の少し手前で立ち止まり、スマホを取り出して、横位置で写真を撮った。何枚か。千里が一緒にいたから、彼女も撮った。ピースサインを出してくれた。怜もいた。怜は私がいない時の座敷童役だ。ピース。撮った。準備で少し疲れた顔。

「未佳、撮るよ」

 スマホから慌ててて顔を上げると、千里が私に並んで肩を抱き寄せ、セルフィーを撮った。驚き顔の私と、満面の笑みの千里。

「みんなで撮ろう」

 怜が来た。綾乃も来た。いつも私たちのグループにはいない一華も来た。

 千里はグループのリーダーっぽい。どこか自信ありげな顔をしている。怜は汗ばんだ髪を手櫛で整え、学祭準備が楽しくて仕方ない、そんな顔。綾乃はみんなと一緒にいるのが大好きな子。「窓際の君」が私でも怜でも関係ない。イーホワは、そんな私たちの様子を見て輪に飛び込んできた。弾けるような笑顔と甘ったるい声で「ちょっと何楽しそうにしてるの? 私も混ぜてよ」そう言って。

 私は。どんな顔をすればいいんだろう。そのとき、「笑え」という声がどこかから聞こえた気がした。千里が画角を調整している間に、表情筋を懸命に動かして、笑った。

「五人入るかなぁー。ピース!」

 千里が長い腕を伸ばして、校舎を背景に撮った。

 みんなの腕に揃えて、私もピースサインを突き出した。

「いいよ、未佳、もっと笑って」

 千里が煽る。

「ツモリン、笑ってる笑ってる」

 いつの間にか輪の中心に入り込んだ一華が、両手でピースサインを出していた。


 SNSを開いた。

〈明日から学校祭。私は一人の学校祭。……本当に一人なんだろうか。きっと違う〉

 打ち込んでから、「一人の学校祭」の文字を見つめた。本当は一人じゃない。千里たちがいる。怜や綾乃、一華、紘子、あの瑠璃だって私の世界の一部だ。ただ一人、宏佳がいないだけなのだ。宏佳がいるべき場所に、宏佳がいない。画像は添付しなかった。学祭前夜の校舎の写真は、私だけのものにしよう。いつか、すべての風景を、宏佳と一緒に見て、私の声で話すときまで。


 カバンにお弁当と、自分のメイク道具を入れて――いつもすっぴんだから使ったためしがない――自宅を出た。ハマナスの花が咲いていた。北海道の夏を象徴する花。夏の間中、ずっと咲いているイメージがある。気の早いアジサイも咲いていた。半袖にベスト、ネクタイにスカートの夏服。日差しが強い。思わず目を細める。

 地下鉄に乗り、麻生駅からバスに乗り、学校へ。

 教室はもう学校祭を具現化した空間になっていて、生徒の持ち物は、そうした大道具の裏側にまとめて置くよう実行委員の吉久保に指示された。

 着いて早々制服を脱ぎ、クラスTシャツに体育のハーフパンツ姿になったかと思えば、そのまま和服の準備をする。考えてみると、窓を開けているとはいえ、七月の教室なんだからこれは暑い。八尺様のワンピースのほうがどう考えても涼しい。

自分でメイクを始めた。ファンデーションを塗り、リップを控えめに引いた。控えめすぎると言われて、濃い目にした。薄暗いんだから目立たないでしょ、とは千里。ああ、この顔で教室の外へは出たくない。するとメイド姿の一華が「あたしに任せて」とにじり寄ってきてメイクを始めた。

「イーホワ、お願いだから外に出ても大丈夫なくらいにして」

「大丈夫大丈夫、かわいくするからさー。ファンデはもうちょっと濃くしてさー。リップが弱いなー」一華のいつも通りの甘い声が耳をくすぐる。

一華のメイド姿はよく似合っていた。瑠璃よりかわいいと思った。男子からやたらと今日も写真を撮られている。代わる代わる2ショットにまで応じている。そして瑠璃はメイド姿のセルフィーを撮って、自分たちのグループチャットで共有していた。彼女は自分を安売りしないから、男子と並んで写真を撮らせるようなことはしなかった。

 箪笥の匂いに包まれて、急ごしらえの座敷の奥に座った。窓にも段ボールが貼られているから、小さな行灯の灯りと、赤黒くフィルターをかけた天井の照明だけで暗い。開場しているので、一華のアニメ声の「いらっしゃいませー」が聞こえる。どうした瑠璃、イーホワに負けてるぞ。

 隣が八尺様の部屋だ。誰かが入った。きゃーという悲鳴のあとで、弾けるような笑い声がした。

「ぽぽぽ。笑うんじゃないよ。そういうとこじゃないんだよ」

 千里の声がした。八尺様姿の千里が笑われたらしい。

 すると、ダンボールで作られた襖が開いた。手作りだから建付けが悪い。私は黙って座敷の奥に正座していた。

「あれ?」

 入ってきたのは、隣のクラス、二組の女子だ。二人。島田友香と岡部由起子。体育で一緒だから顔見知りだ。どうやって脅かしてやろうかと思って待ち構えているが、二人とも警戒してなかなか入ってこない。仕方がないので、手毬を放って転がした。

「ひゃあ!」

 島田が飛びのいて声を上げた。岡部は島田の声に驚いて転びそうになった。私はすかさず音もなく立ち上がり、小走りで駆け寄った。

「ヤダヤダヤダ! やめて」

 島田は相当のビビり屋さんらしく、一気に一メートルほど後ずさりした。いきなりだったから、別のお客さんにぶつかった。「ごめんなさい」。私は手毬を抱えて、前を向いたまま高速後ずさりを実行した。

「積森さん?」

 岡部が私に気付いた。

「違います。座敷童です」

「ちょっと積森さん、マジで。積森さんだよ、友香!」

「えっ、ちょっと待って、積森さん?」

「座敷童です」

「えっ、マジ積森さんだってわからなかった。えー。かわいい」

 さっきは全力で逃げたくせに。二人は口々に、着物姿が似合ってるだの、赤いリップが超かわいいだの適当なことを言っている。そしてころころ鈴が転がるような笑い声をあげて、次の部屋に向かっていった。

 そんな調子で、座敷の奥で正座をしてはじっとお客を待ち、気づかなければ手毬を転がし、そうでなければ、最初から手毬をついて驚かせた。ワンパターンだと飽きるので、襖のすぐ背後に立って、開けたらいきなり私がいるようにしてみたり、童歌を口ずさんでみたり、工夫をした。隣の八尺様はインパクトがあるらしく、だいたい悲鳴が聞こえて、そして爆笑が続く流れになっていた。一般のお客――といっても近隣の住民が大半だ――も来るので、あまりに驚かすのもどうかと思ったが、受験の下見のつもりか、中学校の制服を着た男の子や女の子が来た場合は、盛大に驚かせてやった。楽しかった。

 二時間ほどやった。さすがに少し疲れたし、暑かった。怜と交代だ。着物を脱いで、怜の着付けを手伝った。

「おばあちゃんの家の匂いがする」

 着物の匂いを嗅いで、怜が変な顔をした。私はメイクが得意ではなかったが、怜は手慣れたもので、リップを控えめに引き、二人目の座敷童になった。

「じゃあ、あと頼んだよ」

「脅かしまくればいいんでしょ」

「ほどほどに」

「未佳の座敷童、けっこう高評価だよ」

「こんなので高評価もらってもなあ」

 怜も私のことを「未佳」と呼ぶようになっていた。千里がそう呼ぶからだ。千里も怜も私も綾乃も、クラスの第一階層(レイヤー・ワン)ではなかった。上位にいる瑠璃たちからすれば、私が校内放送で恋の告白を読むことそのものが気に入らなかったのかもしれない。あれっきり瑠璃は「窓際の君」の話をしなくなり、絡んでこなかった。

 クラスTシャツ姿で制服のスカートを履き、座敷童の部屋を出た。暗い部屋にいたので光がまぶしい。自分の顔がどんなことになっているのか心配で、スマホを取り出し、インカメラを起動した。白っぽい顔に、それほどどぎつい色ではない赤いリップ。眉毛も描いてあり、濃いめのアイラインと、ちょっと大げさなチークが塗り込まれていた。見慣れた自分の顔ではなかったから、このまま教室の外へ出ていいかどうか少し悩む。

「珍しい、セルフィ?」

 振り返ると、八尺様がいた。白いワンピースなんて誰が調達したんだろう。白いキャペリンなんて持ってる女子高校生がいるわけない。誰かのお母さんの持ち物だろうか。ロングヘアのウィッグをつけた千里は、まったく印象が違った。私と同じくメイクをしているが、そのおかげで五歳くらい年上に見える。

「あかり、これ、あとよろしく」

 二人目の八尺様の相内(あいうち)あかりに、手早く衣装を脱いで渡すと、私と同じくクラTにスカート姿になった。

「未佳のクラT姿って新鮮よね」

「それは誉めてるの?」

「またそんなとんがって。褒めてるんだよ。ツモリンがクラT買うなんてね。でも安心したよ」

 私たちのクラスは、淡いパープルのTシャツで、背中に名前と出席番号がプリントしてある。

 私は、「つもりみか41」。千里は「たなかちさと39」。こんな具合。去年のクラT、どこに行っただろう。去年は名前じゃなくて、「百花繚乱」とかそんな文句がランダムで入っていた。

「けっこう座敷童、悲鳴が聞こえてたねー」

「みんな大げさすぎなんだよ。なんで千里のところは必ずみんな笑うんだろう。見てみたいな」

「見なくていいよ。私の動作がおかしいらしいのよ。さー、次は相内に任せて、ほかのクラス見に行こうよ」

 一華と瑠璃も次のチームに引き継いだらしいが、着替えていない。

「あの二人、衣装は自前だから」

 千里が小さく囁いた。

「え、そうなの」

「イーホワは分かるんだ。なんかああいうの好きそうじゃん。瑠璃がね、わざわざ通販で買ったらしいんだよ。学祭のために」

「ちょ、本気すぎるんだけど」

「だよね。あ、六組の蓮見」

 見ると、千里と同じくらいの身長の男子が瑠璃に近寄っていく。ああ、瑠璃の彼氏だ。サッカー部の。まさかあのメイド姿のままで学祭まわる気か?

「目立つの大好きだよねーあの子は。まあ、学祭だからいいんじゃないかな。青春してて」

「顔洗いたい」

「ん?」

「メイク落としたいんだよ」

 いつもメイクなんてしないから、顔に何かがこびりついているようで落ち着かなかった。

「落とさなくっていいってー。似合ってるよ。イーホワ、メイク上手いわー」

「そっかな」

「学祭なんだよ! そのまま行こう、ほら」

 千里に手を引かれて、教室を出た。


 学校中が文字通りお祭りだった。みんなクラT姿。誰が何年生なのかもわからない。千里と二組から順にまわった。三組には戸田さんがいたが、森はいなかった。四組を出て、五組。七組にさしかかったとき、

「あ、森君だ」

 千里が首をひょいと伸ばした。

 視線の先に、黄色のクラTを着た森がいた。声をかけようとしたら、すぐ横に紺色のクラTの柚月がいた。すごく距離が近かった。森は三組、柚月は六組。違うクラスなのに、二人で学祭のパビリオンをまわっている。取材かな、と思った。でも森はメモ帳も持っていないし、放送局の備品のビデオカメラも持っていなかった。柚月も片手にマイクがあるかと思いきや、どこかのクラスの景品らしいイーブイを持っていた。なんとなく森に話しかける気が失せた。

「行こうよ千里、五組」

「あ、うん」

 千里も、柚月と一緒にいる森を見ている。少しだけ首を傾げて、それから笑顔になって、今度は私が千里の手を引くように、七組の教室に入ったんだ。

私のことを知っている生徒からは、「座敷童」か「窓際の君の人」のどちらかで呼ばれた。どっちで呼ばれてもあまり嬉しくなかったけれど、私の声が届いた証左だと思ったら、「窓際の君の人」で呼ばれた方がいいかなと、自分を納得させた。千里も、

「それだけ未佳の放送がよかったってことだべ」

 そう言ってくれた。二年生の教室をすべて見て、階段から四階に、一年生の教室へ上がるとき、私はわずかに立ち止まり、廊下を見た。外来客と、生徒たち。混みあっていた。森と柚月の姿は見えなかった。

「どした、未佳」

「別に」

 胸がえぐらせるような奇妙な感覚だった。どうして。だいたい、部室でも柚月と森は何かと絡んではじゃれあっていた。身近な二人が接近しているところを見たから? 森は柚月にも笑顔の魔法をかけているんだろうか。そうか。二人、そうだったのか。

「学祭で出来上がっちゃうカップル、多いからね」

 階段を上がりながら千里が言った。気付かれていたと思った。

「同じ部活だったら、なおさらじゃない?」

 決めてかかったような口ぶりだったから、なんとなく反論したくなった。

「そうならそうと、言ってくれればいいのに」

「一緒にいても分からなかった?」

「全然。仲がいいのは分かっていたけど」

「未佳、気に食わないって顔してる」

「そうかな。そうかもね」

 あんなに「窓際の君」の件では盛り上がっていた柚月。半面、森はそっけなかった。思えばその温度差があやしいといえばあやしかったのだ。

「みんな楽しくやってんなぁー」

 千里が両手を振り上げて、妙に開放感たっぷりに言った。

「私は部活でそれどころじゃないのに」

「私は……レンアイなんてやってる場合じゃない」

 四階に上がった。窓から中庭を見下ろした。美術部が描いた床絵が一望できる。抽象画の類なのか、いったい何を描いたのかここから見てもよく分からなかった。

「お姉さんのことを考えているの?」

 千里が廊下の端にある窓辺に寄って、外を向きながら言った。札幌の東側の街並みが見渡せる。学校の敷地を囲むようにしたポプラの木、二階建ての住宅街の屋根、少し離れて雪まつりの会場にもなるドーム施設、視界の端に滑走路。

「私のお姉ちゃん、双子なんだ」

 そのことは話していなかった。

「未佳、双子なの?」

「一卵性。だから、私とまったく同じ顔したお姉ちゃんがいる」

「どこの高校?」

「碧星女子。本当は私も中学から通う予定だったんだ。でも私がごねたから行かなくて。高校は専願で碧星女子を受けるつもりだったの。気持ちが変わって、お姉ちゃんと一緒の学校に通いたいって。もう比べられてもいい、だって私は私だから、そう思ったから」

「未佳か碧星女子に行ってたら、私たちこうして学祭巡りやってなかったわけだ」

「うん。千里にも会わなかっただろうし、怜や綾乃にも。イーホワとも会わなかったし、きっと『窓際の君』なんてメッセージを読むこともなかったと思う。だいたい放送局に入ってなかった」

「めぐり合わせね。不思議だよね。私は未佳がいない高校生活なんて考えられない」

 窓際に腰を預けて、千里が言った。身長差で、まるで千里がお姉さん、私が歳の離れた妹のような感じになる。瑠璃は千里に見下ろされるのを嫌っているが、私は全く気にならなかった。いまの千里は、八尺様を演じるメイクのおかげで、さらに大人びて見えた。

「お姉ちゃんは、どうして、自分を否定してしまったんだろう。私に乗っ取られるなんて、なぜ思ったんだろう。病気だからって説明されたけど、私には分からない。昔から何でもできるお姉ちゃんだった。ピアノも上手で、一緒に習っていたけど、私はお姉ちゃんみたいに弾けなかった。英会話も習ってたけど、お姉ちゃんのほうが上達が早かった。私は何をやっても続かなくて、すぐ違うことに気が向いちゃうんだ」

「あんなすごい放送をする人が、そういうこと言わない方がいいと思うなあ」

「ん?」

「二年生の教室まわっててさ、『窓際の君の人』って呼ばれてたじゃん。それだけみんな聞いてたんだよ。未佳の声には力があるんだ。そんな、お姉さんと比べて、自分を低く見たりしないほうがいいと思うな。今度は未佳が自分のことを否定している。……お姉さんの名前なんていうの?」

「宏佳」

「宏佳さんが自分を否定して、今度は未佳が自分を否定して。それじゃ、宏佳さんも未佳も、いったいどこにいるのかわからなくなっちゃうよ。誰が誰なのか。未佳は何でも器用にできないかもしれない。だけど、放送で入賞したじゃない。自分を否定して、お姉さんと比べて。それじゃ、せっかく私たちが出会った意味だってなくなっちゃうよ。私は未佳と出会ったんだよ。誰でもない。未佳は未佳だもん。堂々としていなよ」

 私の左肩に自分の右手を置いて千里が言った。顔を上げた。アイラインを引いたせいか、千里の目がすごく強かった。

「未佳、笑わない、っというより、いつも何かをずっと考えてる顔だよね。私が私の人生を生きていいのか、みたいな、そういう深刻なことを」

「そこまでは、考えていないんだけど」

「そうかな」

 魔法が切れてしまった。唐突にそう思った。私にかけられた笑顔の魔法が、いつの間にか切れてしまった。じゃあ、無理やりにでも笑うしかない。千里が心配げな顔をしている。

 笑って見せた。千里が納得するようには思えなかったけれど。

「無理にとは言わないよ。でもね、私は未佳や怜や綾乃に心から感謝してるんだ」

「私、感謝されるようなことしてないよ」

「私を一人にしなかった。――中学のとき、学校祭で、私だけ合唱の練習に入れてもらえなかった。修学旅行で同じ班になった子たち、ずっと私のことを無視してた。十四歳で、私人生捨てようかと思った。高校に入って、未佳たちと一緒になれた。学校祭を、一緒にまわってくれる友達ができた。それだけでも、私は生まれ変わったみたいな気持ちだよ。ありがとう」

 私を見下ろしながら、千里は目を細め、きれいな歯並びを見せて笑ってくれた。

「だから、未佳も、自分の人生を、ちゃんと、生きて。そうすることが、宏佳さんにとっても幸せなことだと思うよ」

千里の言葉が、ずん、と胸に響いた気がした。不思議な力を持った言葉だった。

 ありがとう。口の中でつぶやいた。ダメだ。私はアナウンサーだ。言葉は音に出してこそ伝わるんだ。

「ありがとう、千里」

 朝一番のテレビ番組に出てくる女子アナのように、満面の笑みを作って、そう言った。


 もう一回、午後に座敷童を演じたあと、部室の前を通りかかった。誰かいるかと思ったけれど、ドアには鍵が掛かっていて開かなかった。学祭準備期間中は『パビリオンジャック』の名前で音楽を流していたが、学祭期間は書くパビリオンで音楽を流したり、吹奏楽局の演奏会もあるから、放送はしていない。もしかして須藤さんが練習していないかと思ったが、鍵が掛かっているのでは誰もいない。

 三階に戻り、一組の教室へ入ろうとしたとき、三組の生徒たちが見えた。森がいた。いつもと変わらない飄々とした顔をしていた。柚月はいなかった。

 クラTの上にブラウスを着てネクタイを締め、ベストをつけて、カバンを持った。午後七時。ああ、明日で学祭が終わるのか。全力で没入できないまま、きっと明日もこうして帰るんだ。

 瑠璃や一華みたいに全力で楽しめたらいいのに。初めて、第一階層(レイヤー・ワン)の連中がうらやましいと思った。クラスの上位にいて、部活も友達も恋愛だって思いどおりにしちゃうんだ。

 教室を出るときに、クラT姿の瑠璃と侑実那と出くわした。二人は完全に私を無視した。だから私も、何も言わなかった。一瞬でもうらやましいと思った自分を恥じた。人を見下ろさないと生きていけない高校生活っていったい何? だったらいまのままでいい。私には千里がいる。怜がいて綾乃がいる。なぜか私を構ってくれる一華もいる。出席番号がひとつ違いというだけの接点の紘子。部室に行けば柚月も美咲も先輩たちもいる。

 森。奴はいつから柚月と接近したのだろう。部内恋愛はいままでもあったらしいけど、みんな秘密のうちに出来上がっていたらしい。同じ時間を過ごしているのに。

 一階に下り、玄関から外へ出た。一日目は終了しているけれど、模擬店にはまだ人がいて、振り返ると校舎はにぎやかだった。バス停に千里がいた。

「未佳、疲れてる暇なんてないぞ。明日も座敷童に八尺様だぞ。ぽぽぽ。後夜祭の花火、楽しみじゃん。いいことあるかもしれないぞ」

 後夜祭。花火。そう、二日目の最後に、グラウンドで花火が上げられる。それで、学校祭はおしまいになる。私たちはメイクも落とさず、制服姿でバスに乗り、それぞれ自宅へ帰った。


 気持ちがせわしくなるほどの晴れ方だった。昨日と同じく、クラTの上に制服を着て、学校へ行った。ノーメイクだ。また一華にお願いしよう。地下鉄でもバスでも座れた。教室に着くと、怜が待ってましたとばかりに座敷童の着物を着つけにかかった。一華が今日もメイクをしてくれる。

「よし、完成」

 一華は手鏡を持っていた。それを私に向ける。

「げっ、誰だこれ」

 メイクをすると女子は化けるというけれど。確かに化けた。これは私じゃない。宏佳と並んでも姉妹だとは思われないかもしれない。

「かわいいかわいい。ツモリン、ふだんもメイクして来ればいいのに。いつもすっぴんなのもったいない」

 一華が手を叩いた。

「遊んでないで準備してください。『窓際の君の人』」

 離れたところから棘のある声が私に向けられた。瑠璃だ。あの放送以降、特に態度がきつくなった。

「イーホワも遊びすぎ。もうお客さん入ってくるよ」

 瑠璃がつんとした顔をして私たちを指さした。

「はーい、ごめんなさーい。()()()はもっと優しい顔をしたらいいと思うんだ」

 叱られた子供のように、一華は本当にぺろりと舌を出し、私たちから離れた。一華は瑠璃のことを「るりん」と呼んでいる。ごく限られた子しか瑠璃をそう呼ばない。私たちは絶対に呼ばない。

「村上さん、まだ開場じゃないでしょ」

 確認するつもりで訊いた。

「実行委員が勝手に入れてるのよ。もう入ってくるから、ちゃんと準備してよね」

 言うと瑠璃はぷいと顔を背けて、教室の前に歩いて行った。

「じゃあ私も出番かなぁー」

 もぎりの綾乃も去った。怜は出番の時間まで自由。教室奥の座敷に向かう。すると、隣のコーナーのかなり高い位置から、視線を感じた。

「ぽぽぽ……」

「ちょっと千里やめてよびっくりする」

 ワンピースにキャペリンをかぶり、ロングヘアの八尺様に化けた千里が笑っている。

「これちょっと足場が不安定なんだよねー」

「落ちないでよ」

「落ちるほどじゃない」

「私は暑い」

「私は涼しいよ。じゃ、たくさん今日も驚かそう。またあとで、今度はみんなでクラパビまわろう。ぽぽぽ」

 八尺様が姿を消した。

 座敷に入ると、襖を閉め、手毬を片手に、床の間の前で正座した。


 座敷童をやる時間帯を放送局のグループチャットで共有されてしまった。発信者は森だった。見に来るなとも言えないので、「固まって来ないでください」とだけレスをした。

 二日目は一日目よりも来客数が多く、襖が壊れてガムテープで補修をした。隣のコーナーからは「ぽぽぽ」とノリノリの八尺様の声がして、アイルーの部屋からも歓声が上がり、スライムは小学生男子たちに壊された。

 何組目かわからない客人を驚かすために手毬をついていると、補修して前より建付けのよくなった襖が無遠慮に開いた。ちょっとだけ不意打ちをされたので、手毬を手にして、すすすすっと来客に駆け寄った。

「ツモリン」

「森っ」

 一人だった。なぜ来た。一番にそう思った。こんな姿、森に見られたくなかった。

「やっと見に来たよ。ウチのタコゲーム、人のやりくり考えてないから、ぜんぜん抜けられないんだよ」

 嘘つくな。柚月と抜けてたろ。

「昨日、三組行ったんだよ」

「えーそうかよ、会わなかったなー。何時に来たんだよ」

「十一時くらい」

「ちょうどいなかった。残念。ツモリンにいろいろチャレンジしてほしかったのに」

「すぐやられたよ」

「生き残れなかった?」

「うん」

「お前の座敷童姿、初めて見た。メイクしてるのかよ。似合ってるなー」

「昨日は来てくれなかったよね」

「昨日来たらいなかったぞ」

「何時ごろ」

「十一時……そうか、お互い抜けてたか」

「今日は……」

「ん?」

「今日は柚月と一緒じゃないんだ」

「逢瀬? なんで」

 真顔で聞き返された。えっ、とぼける気か? 森の表情は一切余計なものが含まれていなかったから、本気で柚月のことを気にしていない様子だった。

「いや、別に」

 そうなると追及するのも野暮な気がしたのでやめた。

「お前を座敷童に推した奴、天才だな」

「吉久保だよ」

「センスあるわ。……かわいいぞ、お前」

 言われて、胸が苦しくなった。森、気軽になんてことを言うんだ。ちょっと待って、私、どうかしたのか?

「次のお客さんくるから、行くわ。後夜祭の花火、楽しみだなー」

「もう学校祭終わる話?」

「ツモリンはまだまだ楽しみ足りないんだな。いいことだ。じゃあなー」

 すっ、と目の前の襖を閉じられた。ぽん。足元に持っていた手毬が落ちた。


 お昼は、千里、怜、綾乃のいつもの四人で模擬店へ行って焼きそばを食べた。それから午後も座敷童をやり、多少汗ばんでも一華の施したメイクはびくともせず、そのまま夕方になった。一般公開時間が終わり、在校生だけになる。学校祭実行委員が追い出しをやり、放送局では退場を促すアナウンスを頼まれている。その当番に当たっているのは、二年生だった。技術は織部、編成の森、アナウンサーは私。柚月と美咲はいない。来年のために、一年生の高瀬が来ている。

 BGMが流れ出す。『ヒルですヌーン』でも『パビリオンジャック』でもない、本当の案内放送。屋外スピーカらからも流す。

「本日は新琴似高校学校祭へお越しくださいまして、誠にありがとうございます、か」

「いよいよ終わりだなー」

 森が頭の後ろに手を組んで言った。

「あんた、後夜祭の花火がどうとかって言ってたじゃん」

「花火は楽しみだべ」

「そろそろだよー」

 織部がキューの準備をするので、私はアナウンサーテーブルに座りなおした。一字一句直していない原稿がある。これは学校祭実行委員会からの委託。

 キューが来て、読む。本日は新琴似高校学校祭にお越しくださいまして……。

「……また来年の新琴似高校学校祭にぜひお越しください。在校生に連絡します。後夜祭はこのあと午後七時からグラウンドで行います」

 終わった。

 私のアナウンスで、二日間の学校祭が、終わってしまった。

「こういう何気ない原稿読むのもうまいよな」

 森が言う。柚月が待ってるんじゃないの? 一緒に花火を見るんでしょ。

「もう、教室は後片付け始まってるわ」

 織部が調整室のドアを開けて、そう言った。

「あっという間だからな。片づけは」

 森が言う。

「雪まつりみたいなもんだよな。せっかく一週間かけて準備したのに、片付けるのは一瞬で終わっちゃう」

「取材しとかなくていいの?」

 原稿を綴じて、言った。

「学校祭の片付け取材してもなぁ。ただの風物詩で終わっちゃうからなぁ」

「埋め草的な」

「うん」

「まだ終わってないじゃん」

 私が言う。

「後夜祭があるじゃない」

「花火と、なぜかフォークダンスね」

 織部が笑う。「何十年前の話かって」

「今年の花火はどうかなぁ」

 森が言う。

「じゃあ、そろそろ教室戻るわ。やることないかもしれんけど」

 織部が部室を出て行った。

 じゃあ、と立ち上がったとき、森の強い視線を感じた。

「なに?」

 森はなぜか、織部が出て行ったドアがきちんと閉まっているのか確認した。

「なによ、森」

「ツモリン、重要な話があるんだ」

「……なによ」

 森と正面から向かい合う形になった。すると、森はすっと立ち位置を変え、斜め横に立った。あ、対決の姿勢から対話の姿勢だ、と思った。真正面から話すのは対決の姿勢……。

「ツモリン、ちょっと、渡したいものがある」

 と、森はスラックスのポケットに手を突っ込み、折りたたんだ紙を取り出した。

「なにこれ」

「読んで」

 紙を受け取り、四つ折りになっているのを開いた。

 そこには。


  窓際の君が好き。


 それだけがきれいな字で書かれていた。

 何のことかわからなかった。またからかわれているんだと思った。

「森、あの放送のことなら、」

 少し怒気を含んだ私の声を、森が遮った。

「お前のことなんだ」

「えっ」

「お前、一組の窓際だろ、席。ずっと。四月から」

「あ、うん」

 窓際の自分の席を思い出す。窓から見える景色。ポプラの木、玉ねぎ畑、滑走路。

「これ、お前のことなんだ。あのメッセージ書いたの、俺なんだよツモリン」

「は、ちょっと、何言ってるのか分からない」

 本気でうろたえた。森が日本語を話しているのに、何を言っているのか本当に理解できなかった。

「お前のこと、ずっと、好きだった」

「ちょっと森、これカメラ回してるんじゃないでしょうね。次のドラマのテストか何か? やめてよ、こういう冗談……」

 すると森が真正面にまた立った。対決の姿勢。私と?

「本当なんだ。お前のこと……、お前が直した原稿の通りだ。俺の気持ちが全部入ってた。びっくりした。俺、もっとしょぼいメッセージだったのに。俺自身が感動するくらいのメッセージになってた」

「そんな、私、ウソでしょ、森」

 両手で口を覆った。すると、畳みかけるように森が言った。

「君のことが……大好きです」

 上ずった声で言うが早いか、森は顔を背けた。耳が真っ赤になっていた。私も熱を出したみたいに顔が熱かった。

「後夜祭の花火、一緒に見よう」

 絞り出すような声で、森が言ったんだ。

「は、はい」

 それしか言えなかった。


 校舎の中には人気がほとんどなかった。ほとんどの生徒はグラウンドに出ている。まだ空には明るさが残っているが、これから後夜祭の最後を締めくくる花火が打ち上げられる。と言っても豊平川の河川敷で行われるような大々的な花火には敵わない。ささやかな、公立高校らしい花火。

 森と一緒に、すっかり片付けの終わった教室にいた。二年一組の、私の教室。私の席だ。

 私の席からはグラウンドは半分しか見えない。でも花火が打ちあがる方向に窓は向いている。きっと見える。

「森、柚月と付き合ってるんじゃないの?」

 席に座り、森が私の机に座る。

「は? 逢瀬と? 付き合ってなんかいないぜ」

「昨日、一緒に学校祭まわってたでしょ」

「あれはたまたま会ったんだよ。逢瀬がどっかで景品もらってきて、俺の妹にやれやれって言うから、受け取ってたんだ。それで逢瀬も俺も出番から外れてたから、まわっただけ」

「なんだ。本当に?」

「何で疑うんだよ。……さっきの俺の話、聞いてなかったのかよ」

「聞いたよ」

「……返事は」

「あ、花火師だ」

 グラウンドに花火師の姿が見えた。それからほどなくして、一発目が打ち上がった。

「ああ」

 思わず声が出た。

「おっ」

 二発目、三発目と続いて、それから連続で赤、青、ピンクの火花が散った。

「森、あっち」

「ん?」

 私はグラウンドとは別の方角を指さす。住宅街の向こうで別の花火が打ち上がっていた。

「おおー。別の学校のだ。あれは陵北かな?」

「あっちは北高かな」

「本当に見えるんだなー」

 ドン、とお腹に響く炸裂音。パラパラと火花が散る音。そして生徒たちの歓声。

「教室から見てる奴らもいるらしいぜ」

「あー、廊下の突き当りとかね」

「ツモリン、教室でよかったのか?」

「森が教室から見たいって言うからでしょ」

「窓際に来てみたかった。ツモリンと」

「森、」

 ドン。パラパラパラ。ドドドン。火薬の匂いがする。

「どうして、私なんかを好きになったの」

「気づいたら。何事にも一所懸命だから。けなげだから。ぷきっちょでも頑張ってるから。そんな姿がかわいいから。見た目もかわいいから」

 ものすごい早口で言われた。

「森、この間話したお姉ちゃんの病気のこと……」

 花火が打ち上がり、光って、同時に、ドン。

「それも込みだ。ツモリンは優しい。優しすぎると、自分がかわいそうになるぞ。俺でよかったら、何でも話聞くから。力になれることはする。意外と頼りになるんだぞ。こう見えても『お兄ちゃん』だからな」

「私、森に好かれる資格なんてない」

「資格が必要なの? 人に好かれる資格なんて、どこで取るの? 人に好かれる検定とか、ないだろ?」

「私のことを好きだって言ってくれて、……嬉しい。めっちゃ嬉しい。なぜかわかんないけど、踊りだしたくなるくらい嬉しい。けど森、今は答えられない。森の気持ちに、きちんと答えられない。付き合いとしても、どうやっていいのか分からない」

 ドドドドン。花火が勢いを増している。眩いフラッシュのような火花。それからスターマイン。スマホで何枚か花火の写真を撮った。森も一緒になって撮っていた。

「いいよ。俺のほうこそ、予告なしで、突然だった。放送なんて使って悪かった。直接なんて言えないと思ったんだ」

「私に自分の告白メッセージなんて読ませて……」

「すまん。そこは怒っていい。だけど俺は感動した。お前って本当にすごいなって思った。……本当に素敵な女の子を好きになったんだって思った」

「もうやめて。……ねえ森、今返事しなくてもいい? 時間が欲しい」

「分かった。俺はいくらでも待ってる。気持ちは変わらない」

 森の横顔を見た。いつも半分ふざけているような男の子なのに、今は花火の光を浴びて別人のように見えた。

 花火は、一発大きめのが打ち上がると、そのまま後続がなかった。ああ、というグラウンド中からの吐息が聞こえた気がして、それから

「終わりかな……」

 私は呟いた。

「学校祭は、終わりだな」

 森は、「学校祭は」に力点を置いて、少し寂しげに言ったのだった。


 SNSを開く。

 花火の画像を添付する。

〈学校祭、終わってしまいました。

 人が人を好きになること。

 私にはまだよく分かりません〉

 ポストした。

 瞼の裏に、赤、青、ピンク。薄明るい空へ打ち上げられた花火がよみがえる。耳にはまだ、身体を揺さぶるような花火の音が残っている。

 そして、フラッシュを浴びたように暗い教室で浮かぶ、森の横顔が浮かんだ。いつも半分ふざけたように原稿を私に渡す森ではなかった。時折私を向き見せる視線が、やさしげだけれど、まっすぐに見えた。



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