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ライラック

 お昼休みの教室。

わたしはお弁当を食べて、薬を飲んだ。薬の量が多いのは夕食のあと。お昼のはほんの少し。気持ちを落ち着けるために飲む分。緑理が隣に座って、かすみが正面、菜摘が斜め正面。教室はにぎやかで、ここにこうしていられることに安心する。

 外は明るく晴れていた。すっかり暖かくなり、窓際にいると冬服は暑く感じるほど。

 薬を飲むあいだ、緑理が話を盛り上げてくれている。昨日は結局学校を休んでしまった。みんなに会いたかったのに。

 学校へ来るのは二日ぶりだった。おとといの夕方、窓ガラスに映ったわたしを見て、あんなに怖くなったことは今までなかった。薬と、お母さんの声と、そして、隣にいる緑理のおかげで、なんとか自分自身をその場にとどめられた。

 お弁当を食べると、少し、眠くなった。そんなにたくさん食べたわけじゃないのに。お母さんのお弁当はぴったりの量で、いつもおいしい。眠いのは、薬のせいだろうか。違う。お昼に飲む薬で、眠たくなるのは処方されていない。薬剤師さんからも説明を受けている。眠くなるのは、夕食の後に飲むお薬だ。

 眠気を感じるのは、朝とは言えないような早い時間に目が覚めてしまい、未佳よりも早く学校へ行こうとしたからだ。

 どうしてあんな気分になったんだろう。夜が明けるころ、未佳の部屋に行き、未佳の制服を着た。

 わたしは未佳だ。未佳が本当の宏佳なんだ。

 そういう疑念が芽生えたのは、中学三年生の秋だった。最初はおかしいと思っていた。毎日顔を合わせる未佳は確かに双子の妹で、それは一度として疑ったことはなかったから。それが、一度湧いた疑念をすべて否定することができなくなった。もし未佳が小学六年生のとき、碧星女子の入学試験を受けないと言い張らなかったら、もっと早くにその思いが膨らんだかもしれない。わたしたちは本当によく似た姉妹だった。子供のころは、識別のために別々の色の服を着せられたりした。

 妹は――未佳は私によく懐いていた。生まれてきた順番がわずかばかりに早かっただけのわたしなのに、未佳は「お姉ちゃん」とわたしを呼んだ。はた目にもとても姉妹仲はよく見えていたと思う。わたしも未佳のことが大好きだった。

 それが、ある時期から一変してしまった。わたしを否定する声のようなものが、しつこく囁きかけたのだ。

 お前は宏佳じゃない、未佳だ。妹が本当の姉だ。誰も気づいていないのだ。未佳も自分が本当は宏佳だと知らずに生きている。宏佳――いや、未佳(、、)、真実を知っているのはお前だけだ。お父さんもお母さんも本当のことを知らない。確かめるすべがあるだろうか? ないだろう。お前たちは遺伝子からまったく同じだ。見分けることもできない。()()()()()()()()()()()()()()。時間がたてばたつほど、入れ替わりは確かなものになってしまう。お前は未佳なんだ。

 疑念を打ち消すことができなくなり、本当に未佳が自分なのだ、宏佳なんだと思うようになってしまった。気づいたときには、その考えがおかしいとか、間違っているとか、そんなことも思えなくなっていた。だって、事実だ。鏡を向き合ったように立っている未佳を見て、疑念は確信になったのだ。

 未佳の制服を着た。ネクタイの結び方がわからなかったが、何度か入れ替わりを試みるうちに、スマホだとかで覚えた。そう、未佳はいつもネクタイをプレーンノットで小さく結ぶ。結わいたときにきつく締めるとより小さくなる。グレーのベストにスカート、紺色のブレザー。サイズも何もかもぴったりだ。

 碧星女子のセーラー服がハンガーにかかってるのを横目に、わたしは新琴似高校の制服姿で階段を下り、靴を履き、玄関を出る。外は夜が明けていて明るい。玄関そばに植えられているライラックの花がもう香っていた。日の出はこれから夏至に向けてどんどん早くなる。夏が来る。

 初夏の早朝だった。もう路地にはランニングをする人や、犬の散歩をする人たちがいた。制服姿の中高生の姿はまだなかった。

 バスの時間は。

 学校へ行くには、地下鉄の新さっぽろ駅まで出なければならない。歩くと三十分以上かかる。バスに乗れば十分ほど。いつも乗っているバスに乗ろうと、バス停まで歩く。そこで、パスケースから何からすべて持っていないことを思い出す。パスケース? どこへ行こうとしているの? 学校だ。誰の? 未佳の。どこのあるの? 新琴似高校は北区だ。そう、滑走路のそば。未佳がそう話していた。なぜ行くの? なぜって、わたしは未佳だから。

 パスケースがないとバスにも地下鉄にも乗れない。お財布も持っていない。カバンがない。教科書やノートもない。今日の時間割はなんだっけ? 体育はあるの? ジャージは?

 わたしは混乱し始めた。自分がなぜ未佳の制服を着てバスに乗ろうと歩いているのかも分からなくなっていた。()()()()()()()()()()()()()

 自宅へカバンやパスケースを取り戻ろうとして踵を返したとき、家の方向から、お母さんが小走りで向かってくるのが見えた。

「宏佳、」

 名前を呼ばれた。

「お母さん」

「どうしたの、こんなに早く」

 お母さんの目が見開かれていた。瞬時にわたしの身なりを見たようだった。それにしても、未佳の制服を着ているはずなのに、どうしてお母さんはわたしのことを宏佳と呼べたんだろう。

「どこへ行くの」

「決まってるじゃない、学校へ行くんだよ」

 お母さんがそっと左腕をつかんだ。

「こんなに早い時間。少し待ちなさい。ご飯も食べていないんでしょ」

「お腹空いてないんだよ。それに急がないと、あの人が気づいちゃうから」

「急ぐ必要なんてないのよ。さあ、一回家に戻りなさい。あなた、カバンはどうしたの? 手ぶらで学校へ行くの?」

 指摘されて、口ごもる。

「それに、あなたが履いている靴は、誰の靴なの?」

 足元を見た。いつものローファーを履いていた。そうだ、違う。未佳がいつも履いているのは、スニーカーだったはずだ。

「忘れものだらけでしょ。少し落ち着いて。いったん家に戻りましょう。いい? 少し息を整えて。息が乱れてる。吸って、そう、吐いて。繰り返して。深く吸わないで。ちょっとずつよ」

 従った。そこかしこから、鮮やかに芽吹いた新緑の匂いがした。瞬きをするのを忘れていたことに気付く。ゆっくり、鼓動が落ち着くのが分かった。

 お母さんに手を引かれるようにして、家に戻った。バス停から家までは五分もかからない。前にもあった。未佳の制服を着て、未佳の学校へ行こうとしたことが。あの日も、よく眠れない夜を過ごした明け方だった。夢を見ているように行動した。未佳も自分が宏佳だと気づかないで、学校へ通っている。だから、今のうちに入れ替わるんだ、元に戻すんだ。

 玄関でローファーを脱ぎ、揃えて、上がり框から廊下に。ソックスを通しても、床が冷たく感じられた。家の中はひんやりしている。二階の様子はどうだろう。そろそろ、未佳が起きる時間ではないだろうか。制服がないことに気付かれる。いまのうちに入れ替わりをも度に戻そうとしたのに、今日もダメだった。

「応接で休んでいなさい」

 お母さんがリビングの手前のドアを開けた。応接とはいうけれど、仰々しい家具があるわけではなく、二人掛けのソファが二脚、センターテーブルをはさんでおいてある六畳くらいの部屋。お客様が来られたとき、最初に案内するお部屋。わたしはソファに腰かけた。すぐにお母さんが水の入ったグラスを持ってきた。

「飲みなさい」

「うん」

 なんとなく喉が渇いていたから、冷たいお水がおいしかった。

「お腹が空いていなくても、なにか食べないと。持ってくるからね」

「いいよ、食べに行くよ」

「座っていなさい。横になっていてもいいわ。あまり眠っていないんでしょう」

「うん」

 言われると、少し疲れを感じた。疲れというか、眠気。眠ってしまうほどではなかったから、背をソファに預けて、息をついた。

 お母さんがトレーに載せて、焼いたパンと目玉焼きを持ってきた。絵に描いたような朝食だった。空腹感は強くなかったのに、匂いをかいだら食べたくなった。トーストしたパンをかじって、半熟の目玉焼きを食べた。おいしかった。トレーの片隅に、朝に飲む薬が載せられていたから、残ったお水で、それを飲んだ。

 薬を飲んでしばらくすると、不思議に気持ちが落ち着くのが分かった。と同時に、どうして自分が未佳の制服を着ているのか、違和感を覚えた。わたしという存在は、連続してそこにあったから、明け方の気持ちもそのまま引き継いでいる。わたしが本当の未佳である、という確信は、まだそこにあった。だから、未佳の制服を着ていることは間違っていないと思った。なのに、違和感があった。わたしが着るべき制服は、碧星女子のセーラー服じゃないの? 胸元に五芒星がない。えんじ色のネクタイに、ブラウス、ベスト。着なれない制服だった。

 それから少しうつらうつらと半分眠ってしまった。ソファに身を預けて、心地よい程度の室温と、窓からの程よい日差しに。

 目を閉じていると、廊下を誰かがすこし速足で歩いて行くのが分かった。

「行ってきます」

 ドアの外から声がした。自分の声のように聞こえた。

 わたしが、学校へ行く。ああ、起きなきゃ。学校へ行かなきゃ。緑理が待ってる。きっと心配している。おととい、あんなに泣いたから。

 緑理は、わたしが病院に通っていることを知っている。中等部からの友達で通院していることを知っているのはごくわずかで、その中の一人が緑理だった。薬を飲んでいることも知っている。ときどき、飲み忘れていないかどうか確認もしてくれる。

 緑理に会いたい。目を覚まさなきゃ。

 半身を起こした。そのときは、もう、新琴似高校の制服を着ていることの違和感のほうが勝っていた。見透かしたように、お母さんが部屋に入ってきた。

「少し、気持ちは落ち着いた?」

「うん。わたし、着替えてくる」

「今日、お休みする?」

「学校へは行きたい。わたし、大丈夫。だから、着替えてくる」

 その言葉でお母さんは戸惑いの表情をわずかに見せた。

「お母さん、大丈夫だよ。ちょっと、おかしな気持ちになっただけだよ。なんだか、が未佳の学校へ行かないと、未佳と入れ替わっちゃうような、そんな気がしたから」

「今はそういう気持ちはないの?」

「分かんない。でも、未佳はもう出て行ったし、わたしが止めても、いくら言っても、きっと分かってもらえないし、確かめようもないし。だから、わたしはわたしの学校へ行くよ」

「今日は休んだ方がいいわ。だってあなた、寝ていないんでしょう」

「寝たよ。早く起きちゃっただけだよ」

「私は心配だわ。昨日、病院へ行ったときは、かなり落ち着いてはいると思ったけれど……」

 未佳の制服を着て学校へ行こうとするなんて、そう続けたかったんじゃないかと思う。

「今じゃなくていいんだ」

「なあに?」

「なんでもない。とりあえず、着替えてくる」

 一方的に言って、応接室から出た。廊下を進み、階段を上がる。部屋に戻って、新琴似高校の制服を脱ぎ、碧星女子の制服に着替えた。脱いだ制服はきちんと整え、ハンガーにかけ、それから、未佳の部屋に行き、元あった場所に戻した。未佳はどうやって学校へ行ったんだろう。一瞬、わたしの制服を着て行ったのではないかと疑ったが、碧星女子の制服は、ハンガーごと私の部屋でわたしのことを待っていた。

 着替えを終えると、手櫛で髪の毛を整えた。鏡を見るのは恐ろしかった。鏡の中でどんな表情をしているのか、見るのが嫌だった。カバンの中身を検める。今日の時間割。教科書とノート、参考書、入れっぱなしにしている聖書と讃美歌集。

 そういえば、未佳に請われてお祈りをしたことがあったっけ。

スカーフ――これは正式にはネクタイだ――を整え、カバンを持ち、部屋を出た。一階では、お母さんが不安げな顔をしていた。

「やっぱりお休みしない? 勉強なら大丈夫。補講もしてくれるはずだし、風邪で熱を出せば二日くらいは休んでしまうでしょ。それにあなたはちゃんと寝ていない。今日ももう一日お休みして、体調を整えてから学校へ行けばいいのよ」

「本当に大丈夫。みんなに会いたいの。友達がとっても心配してくれてる」

「はっきり言えば、今のあなたは、学校へ行けるようなコンディションじゃないと思うんだ。私の言うことを聞いてくれるなら、今日もう一日休んでほしい」

 お母さんが肩に手をそっと置いて話した。お祈りをするときのように。

 少しだけ考えた。体調は問題ない。眠気はあったけれど、強くはなかった。薬のおかげか、明け方のような疑念は薄らいでいた。自分を取り戻している、そんな気持ちだった。

「お母さん、本当に大丈夫だよ。具合が悪くなったら、すぐに連絡するから。ね、今日は行きたいんだ」

「信じていいのね」

 そんな大げさな、と思った。だって、学校へ行くだけだ。

「信じてよ。本当に大丈夫だから」

 話しているうちに、いつも家を出る時間帯にさしかかっていた。

「じゃあ、お母さん、行ってくるよ」

「分かった。具合が悪くなる前に、変だなって思ったら、すぐに連絡するのよ」

「分かった」

「気を付けて」

「はい。気をつけます。行ってきます」

 肩にかけた指定カバンを直して、ローファーを履き、もう一度、抑えた表情で見送るお母さんを向いた。

「行ってきます」

「行ってらっしゃい」

 玄関から、外に出た。不意にパスケースが気になったが、ちゃんとあった。バス停へ向かい、そこから地下鉄に乗って、西18丁目駅で降りるんだ。そうしたら、いつも通っている学校が、そこにあるんだ。

 道を歩きながら、未佳と向かったある秋の日のことを思い出した。道端で、ピンク色の小さな花がたくさん咲いていた。花の名前がわからず、あれこれしゃべった。ガーデニングをやっていたお母さんに尋ねたら、それはスプレーマムだとあっさり答えられた。秋の最後に咲いて、季節の一番終わりまでそこにいてくれる花なんだ、と。初雪をまとってなお花を散らさず咲いているスプレーマム。わたしも雪に耐えて咲き続けるべきなのかもしれなかった。でも、枯れた後には。真っ白な雪景色だけが広がるんだ。

わたしは今咲いているライラックが好きだった。

 未佳はルピナスが好きだと言っていた。

 バスが来る。混んでいた。新札幌に向かう通勤、通学の人たちだ。いろいろな制服がごちゃ混ぜだ。同じ路線から碧星女子に通う子がいないのか、地下鉄に乗るまで、同じ制服を着た生徒は見かけない。未佳と同じ制服の子もいない。そういえば未佳はバスに乗らないと言っていた。新札幌からは歩いていると。どうしてだろう。バスに乗ればいいのに。未佳が部活をやっているのも知っている。放送局だ。わたしが演劇部だったのに影響しているのだろうか。あの子、中学生のときはバスケットボールをやっていたのに。未佳はアナウンサーをやっている。どんな放送をするのか、聞いてみたかった。

 地下鉄に乗り換えた。始発だから、座れる。スマホを取り出した。グループチャットが更新されていた。菜摘がわたしあてに、「英語の予習やった?」と書き込んでいた。一夜明けてしまったが、返信した。「やっていない。今日当てられないことを祈る」。

 西18丁目の駅で降りると、周りは同じ碧星女子の制服だらけになる。

「おはよう、積森さん」

 菜摘だった。

「英語ヤバいよ」

「今日はわたしもヤバい」

「小谷先生、手加減なしだからなぁ。ウチら英語科じゃないのに」

 そんな雑談も、わずかな時間だ。駅から学校までは結構近い。学校の敷地に入ると、創立記念館の前でライラックが咲いていた。空は晴れて、白い雲がいくつか浮いていた。

「今日、暑くなるかな。そろそろ夏服だね」

 菜摘が言う。ちょっと前にかすみも一緒になった。あと緑理がいれば、いつもの面子になる。

「まだ寒いよ、朝は」

 かすみが答えた。彼女は寒がりだ。

「夏は楽しみだけど、暑いのはなぁ」

 菜摘は暑がりだ。緑理はどっちだっただろう。

「かすみは英語の予習はちゃんとやってきた?」

「まあまあかな」

「じゃあ、今日は小谷先生、かすみを狙ってほしい」

「嫌だなぁそれは」

 けたけた笑いながら、気が付けば教室だった。

 緑理は斜め後ろの自分の席についていて、教室に入ると、視線を向けてきた。大丈夫? そう言っていた。


 授業が終わってから、すぐに帰ればよかったかもしれない。おとといもそうだったのに、なんとなく学校に居残ってしまった。練習室に行ってみたが、音楽科の子たちがそれぞれ練習していて、空いていなかった。

 手持無沙汰になった。やることがなくなった。家へ帰ればよかったのに。なのにまた、屋上へ上がる踊り場へ向かった。廊下はまだ日の光にあふれていた。すごく日が長くなった。教室へ一度寄って、カバンを取ってから、そう、いつでも家へ帰れるようにしてから、外を眺めようと思った。

「積森さん、まだいたの」

 教室に菜摘がいた。七生と一緒だった。

「なっちゃんこそ」

「図書室でお勉強」

「本当に?」

「ななみんと一緒に」

「積森さんなにしてたの? こんな時間まで。部活入ってなかったよね」

 七生が言った。そういえば、七生と菜摘は高入生だった。七生とは、なんとなく透明な壁でいつも仕切られているように感じるが、それは一貫生と高入生の壁かもしれない。そんな壁、作った記憶もないし、意識したこともないんだけれど。

「音楽室へ行ったんだけど、練習室が埋まってて。だから、学校の中、ぶらぶらしてたよ」

「積森さん、今年の合唱祭でもピアノの伴奏やるんでしょ? あんなにピアノ上手なのに、音楽科受けなかったんだ。どうして?」

「それはあたしも気になってたなぁ。すっごいうまいのに、普通科なんだよね」

「小さいころから習ってて、それでただ碧星女子に入っただけだから」

「もったいないなぁ」

 菜摘が口をとがらせ、眉を狭めた独特の表情で言った。

「一貫生だからなぁ。高校受験がなかったのはうらやましいよ」

「高校受験、あたし専願だったから」

 菜摘が少し遠慮がちに言った。

「なっちゃん、そうだったっけ?」

「うん。なんか、私立受けて、公立受けてって考えたら、なんかもう、きつくなっちゃって、あたし、碧星専願だったんだよ」

「専願でハイコースか」

「まあね」

 なんとなく七生がこの話題に対して執着しているように感じてしまった。不機嫌そうなのだ。だから訊いてみた。

「二人で図書室に行ってたの?」

「そうだよ。ななみんと、一応、お勉強会を」

「そうしないと、高校受験の二の舞になっちゃうからさ」

「えっ、それどういうこと?」

 菜摘が訊き返した。

「私、碧星は滑り止めなんだよ。志望校落ちたんだよ」

 早口で七生が言うと、菜摘がまずい、というような顔をした。わたしだって本命はどこだったのか、などと訊けるほど図太くない。なのに七生はあっさりと自分で言ってしまった。

「北高落ちたんだよ、私」

 自嘲なのか、言ったあとで七生が笑った。

「ぎりぎりだとは思っていたけど、倍率一、三倍だった。落ちちゃったよ、私。三人に二人は合格するのに、残りの一人がわたし」

 わたしも菜摘も黙り込んでしまった。

「再来年、そうならないために、勉強しなくちゃならないでしょ」

「ななみん、どうりで成績いいと思った」

「でも高校落ちてるから。不合格だったから。本当は碧星なんて滑り止めだから来たくなかったんだ」

「そんな」

「ごめん、なっちゃんや、積森さんのことを悪く言ってるつもりはないんだ。だって、入学してみたら違ったから。今はこの学校で楽しいから。授業はきついけどさ。みんな優しいし、明るいし。てかさ、」

 七生は頬杖を解いて、足を開き気味に座りなおした。

「そういえばさ、積森さんがピアノ上手なのはもう、去年の合唱祭から知ってるんだけどさ。なんで部活もやってないのに、その髪型なの?」

 七生がわたしをのぞき込んで言った。

「えっ、髪形?」

「去年から思ってたんだよね。積森さん、バスケかバレーかなんかやってんだろうなーって。そしたら、合唱祭ですごいピアノが上手だった。部活やってる子の髪型だよ、それ」

 知らず知らず、自分の後頭部を撫でつけていた。襟足を刈り上げたショートヘア。耳が完全に露出していて、冬は寒い髪型。

「マッシュルームみたいだよね。あ、かわいいって意味だから誤解しないでよ、積森さん」

 菜摘がまた笑いながら言った。

「役に合わせたの」

「役?」

 菜摘と七生が同時に訊き返してきた。

「わたしね、中等部では演劇部やってたんだよ」

「えっ、それ知らないし」

 菜摘が声を上げた。

「辞めちゃったからね」

「中等部で演劇部だったの? 積森さん。どうして辞めたの?」

「うーん、話すと大変込み入ったことになっちゃうんで、どうしたらいいのかな」

「揉めたの?」

 菜摘が身を乗り出してきた。

「揉めてはいないんだけど」

「役で髪切っちゃうかな」

 そういう七生はきれいなロングヘアだ。髪の毛はつやつやしている。夕日を浴びて、毛先が金色だ。

「男の子の役だったから」

「えー、積森さん男役やったの」

 菜摘がまた身を乗り出した。

「だからって髪切らすかな。ウィッグとかでいいじゃん」

 七生が自分の髪の毛に触れながら言った。

「切れって言われたわけじゃないよ。切ったほうが、なんか、役になり切れるかなって思ったの」

「思うか、ふつう」

「思わない?」

 七生に問う。

「私だったら絶対に断る。それ、いつの話?」

「初めて役をもらったのがそれだったから、一年生のいまごろ」

「えー、碧星の演劇部恐るべしだわ。生徒に髪の毛切らせるなんてありえない」

「だから、自分で切ったんだって。自分でっていうか、美容師さんが切ったんだけど」

「そのときこの学校にいたら、全力で止めたわ」

 七生が驚愕の表情から苦笑した。

「その劇見てみたかった」

 と言うのは菜摘。本気か、と思う。

「中学生の演劇だよ」

「ウチの演劇部、けっこう真面目じゃない」

「そうだよね、生徒の髪の毛切るくらいだからね」

 七生はまだこだわっている。けれど口調が笑っている。

「積森さんは思い込んだら、一途なんだね」

 笑みを浮かべたまま、七生がわたしの肩を叩いた。

「何者かに、なってみたかったんだよ」

 七生の顔を見た。

「私もその演劇見てみたかったよ。そうか、中学一年生のときか。私は剣道やってた」

「えっ、ななみん剣道部? 私は卓球部だった」

「たった二年前なのに、ずっと昔のことの気がするよ」

 七生がやけにしんみりとした口調になった。

「ちょっとななみん、どうしたのさ」

「人生、まだ十六年だけどさ、分かんないよね。北高に合格してたら、あんたたちに出会わなかった」

「会わない方がよかった?」

 菜摘がまた眉を狭めて訊いた。

「本音では、会いたくなかったと思う。こういう形では。北高に合格してて、碧星と部活とかで交流して……って実際はぜんぜん交流なんてないんだけど、そういう形で、なっちゃんや積森さんと会えたら最高だったかもしれない。でも、志望校に落っこちて、滑り止めで受けた碧星で、クラスメイトとして会った以上は、まあ、朝の礼拝ふうに言うと、主の導き的な。そういうのはあるのかな、という気はする」

「うん」

「一貫生の積森さん」

 七生に呼ばれて、つい、

「はい」

 と返事をした。

「積森さんの中等部時代って、どんなだった? 演劇部に入れ込んで髪の毛切っちゃうほど、熱い子だったってことでしょ? その熱さはいつ冷めたの? どうしていまは演劇部やってないの? 別に辞めた理由を聞きたいってわけじゃないんだけど、髪の毛切ってまで役作りをした演劇部時代の積森さん、きっと今とは違う気がするんだ。会えるなら会ってみたい。どんな中学生だったの?」

「どんなって、わたしは変わっていない。中学生のときも、高校生の今も。……何者かに慣れる気がしたの。演劇で。だから髪を切ったの。そうしないと、わたしは何者にもなれない気がしたから」

 七生がうなずいた。

「それで、何者かになれた? 積森さんは、物語の中の誰かになった? そうそう、それって主人公だったの?」

「主人公じゃなかった。主人公の、友達。主人公の日常を変えてしまう、友達の役」

「日常を、変えることはできた?」

「中文連の大会では、入賞したけど……、役になり切れたのかどうかは、今でもわからない。それに、わたしが何者かになれるなんて、そんな……」

 七生の姿が、ふっと遠くなるような錯覚を覚えた。

「うん?」

「物語の中の誰かになるなんて、それは、本当に難しくて……、だって、わたしはここにいるわけで、わたしはわたしだから、いくら台本を読んでも……」

「積森さん、大丈夫?」

 視線が泳いでいた。中学生の頃の自分を、いま呼び戻そうとした。

「積森さん?」

 菜摘が顔をのぞきこんできた。

「あ、大丈夫」

「演劇部の話は、また今度聞かせてもらおうかな。そろそろ帰るよ。図書室じゃなくて、やっぱり自分の部屋で勉強したほうがいいもんね」

 わざとなのか、七生はものすごく明るい口調で言った。

「あ、あたしも帰るわ」

 菜摘も続いた。

「積森さん、帰るんなら、一緒に行かない?」

 七生が立ち上がり、カバンを肩にかけた。

「あ、……、もう少し、残ってから帰る」

 少しめまいを感じていた。演劇部の話――中等部のころを思い浮かべたとき、息苦しさがあった。このまま一緒に帰ってもよかったが、少し休みたかった。

「積森さんは学校で勉強したほうがはかどるタイプか」

「まあ、そういうことにして」

「じゃあ、帰るね。なっちゃん、帰るか」

「じゃあね、積森さん」

「さよなら」

 わたしたちは互いに手を振り、分かれた。ずいぶんと日が傾いたらしく、灯りのない教室がうっすらと暗くなり始めていた。

 放課後――の講堂。演劇部の、活動場所。ときどきカフェテリア。伝統のダンス。

 中学生の自分を呼び戻そうとした。


 中学の話をする前に、小学校六年生の学芸会のことを話さなければならない。

小学校六年生の学芸会、劇は、『風とパレット』というお話だった。

 主人公は絵描きだ。もう一人の主人公は不思議な女の子だ。わたしは不思議な女の子をやった。未佳は場面の説明役。

 絵描き役は、クラスで三番目くらいにお調子者だった藤武(ふじたけ)君だった。

 登場人物も多かった。

とある国の首相。

悪だくみをする画商。

大会社の社長と、頭の上がらない部下たち。

町場の女たち、旅先の子供たち。

わたしは風と踊る女の子で、雲を七色に染め、新緑から紅葉まで、森を彩ることができる妖精だった。

わたしたちが双子であることを先生が利用して原作を改変し、わたしに当たっていたスポットライトが消えると同時に、ステージ脇に立った未佳にライトが当たり、観客を驚かせるという仕掛けもあった。ナレーターが最初にあらわれて物語の導入部を説明し、暗転してから絵描きが現れ、それからしばらくしてわたしの登場だったから、観客は、ナレーターと不思議な女の子が同一人物だと思ったに違いない。未佳のナレーションは堂々としていて上手だった。私は舞台の袖から、未佳のナレーションを見ていた。まるでもう一人のわたしがそこにいるようだった。

 クラスのほとんどの子が、小学校に隣接している公立中学校に進む。わたしのように中学校から私立を受験する子はそんなに多くなかった。未佳もわたしと同じように碧星女子を受験すると思っていたから、いきなり公立中学校へそのまま進むと言われたときは、寂しかった。わたしは未佳と一緒に碧星へ通うつもりだった。同じ制服を着て、毎朝並んで登校できると思っていた。

 中学校に入ると、中央区にある学校までは遠いから、未佳よりも先に家を出ることになった。朝食の時間は同じでも、それはわたしに合わせて、小学生のときよりも早い時間になった。未佳は不満を言ったことは一度もなかったが、眠そうな顔をしていた。未佳は公立中学校の制服姿でいつも見送ってくれた。

 行ってらっしゃい。

 行ってきます。

 初めて、一人で学校へ通うことになった。小学校の六年間、わたしはずっと未佳と一緒に通学路を歩いたからだ。未佳が風邪で寝込んだときや、その反対を除けば毎日だ。碧星女子に初登校する日の寂しさと不安は忘れられなかった。バスに乗って、地下鉄に乗り換えて。

 同じ小学校から進学した子は一人もいなかったから、学校で一人だった。緑理と知り合ったのは入学してすぐだった。大人びた目をした緑理を見て、お姉さんがいてくれた、そう場違いな気持ちになった。実際、緑理は二か月お姉さんだった。

 緑理はバスケットボール部に入った。ずっとやってみたかったんだと楽しそうに言った。

「ねえ、宏佳は部活入らないの?」

 街角の日陰からもすっかり雪が消えた四月、緑理にそう訊かれて、

「演劇、やってみたいな」

 わたしは答えていた。

「いいじゃない、演劇部あるよ、入部しちゃいなよ」

「演劇経験ないんだよね」

「当たり前じゃん、私だってバスケなんてちゃんとやったことないよ。みんなそうだよ。よし、授業終わったら、演劇部に入部しちゃおう。私、ついて行ってあげるから」

 それから六年生の学芸会の話をした。緑理はますます乗り気になった。

「演劇経験、あるんじゃない。しかもヒロインじゃない。素敵すぎる」

 緑理は持ち前の人懐っこさで、どんどん持ち上げて、そして本当に演劇部が練習する講堂へ行ってしまったのだ。

 それで、演劇部員になった。

 教室では、緑理がいい感じにクラスメイトのまとめ役になっていた。五月の連休を過ぎるころには、かすみやほかの子たちとずっと昔からの友達みたいに接するようになっていた。

 そして、放課後は演劇部だった。

 何者かになりたかった。

 誰かになり切ることで、わたしがわたしであることを確かめたかった。誰かに扮して、演技が終わった後、わたしに戻ってみたかった。

 六年生のとき、風の妖精の女の子を演じたあと、袖に引っ込み、カーテンコールで整列して、幕が閉じられ、わたしがわたしに戻ったときの感覚だ。あの日から八か月。そうだ、学芸会から一年もたっていなかったんだ。

 役をもらって、脚本を読み込んで、練習をした。部に伝わっているという伝統のダンスも覚えさせられた。身体を上手に使うため、全員が覚えるというダンス。全力で覚えて、身体を動かした。毎日汗をかいた。楽しかった。

 未佳とは家に帰るとよく話をした。あるとき部活の話から、小学六年生のときの劇の話になった。

「風の妖精のときは、お姉ちゃんに当たってたライトが消えて、突然私が現れたら、ざわざわしたじゃん」

「あれは、そういう演出だったから。面白かったよね」

「ずっとナレーターと風の妖精が同じ子がやってるって思われてたからね」

「本当は、お姉ちゃんと一緒の学校がよかったよ……。一緒にいたかった」

「どうして一緒に受験してくれなかったの?」

 わたしが訊くと、未佳はしばらく黙ってしまった。

「ねえ、未佳……」

 すると未佳は感情を爆発させるように言った。見たことのない表情だった。

「もういいの、比べられるの! お父さんもお母さんも、いつもお姉ちゃんと私を――私は、私でいたいだけなのに。お父さんは『宏佳は何でもできる子だ』って言ってるし、お母さんだって『あなたはぶきっちょね』って言うし。私、もう比べられるのうんざりなんだよ」

 未佳は目をきつく閉じ、両膝を抱えた。両手が小さく震えていた。

「そんな。わたし、比べられてるなんて思ったことないのに。お父さんやお母さんだって、未佳はよく気がつくいい子だって……」

「お姉ちゃんみたいな優等生じゃないから、私」

 未佳が碧星女子を受けなかった理由。きっとお父さんもお母さんも知らない。わたしだけが知っている。いや、わたしと未佳だけが。


 演劇部で役をもらえた。一年生なのに。

 髪の毛を切った。肩に届いてもう少し長いくらいの髪だったが、小学生のときからお世話になっている美容師さんに頼んで、男の子みたいにしてください、思いっきり短くして、そう言って切ってもらった。何度も念を押されたが、実際の男の子のような髪型はおかしいからと、襟足を刈り上げた髪型にしてもらった。鏡を見せてもらうと、首筋がくっきり見えた。そのとき未佳も一緒にいた。

「お姉ちゃん、どうしたのそれ?」

 小さなお店だったから、未佳は順番待ちをしていた。ばっさりショートヘアにしたわたしの姿を見て、肩より少し長いくらいの髪の毛を整えるつもりだった未佳は驚いていた。そして、自分も同じ髪型にすると言い出した。

「私、バスケ部に入ったんだよ。ちょうどいいから、お姉ちゃんと同じショートにする」

 美容師は、バスケットボール部という言葉で、ハードルが下がったらしく、念を押すこともなく、未佳の髪をカットした。すると、まるで鏡と向かい合っているような姿になった未佳がいた。

 翌日登校したら、当然驚かれた。部活に行ったら、もっと驚かれた。

 部活では、姿勢がいいと褒められていた。椅子に座るときも、座面の半分を残して、背もたれを使わない。背筋も伸びている、と。ピアノのレッスンのおかげかな、と思った。ピアノを弾くとき、さんざん姿勢はうるさく言われていた。それに、わたしも未佳も、日舞を習った時期があった。姿勢はそこでも作られた。

「積森さん、もう少し身長があったら、トップスターだね」

 先輩が腕を組んで笑いながら、でも目は真剣な色をして、言った。

 髪の毛は結局伸ばすこともせず、ずっとショートヘアのままで過ごした。

碧星の演劇部は強豪だった。そこで一年生から役をもらったことで、部活が心底楽しくなった。何者かになり切れるって、こんなに楽しいんだと。


 中等部の三年生になった。夏を過ぎたころ。未佳が、自分に見えるようになった。容姿ではない。自分が未佳で、向かい合っているのが宏佳ではないのかという直感的な思いがあらわれた。

 そして声が聞こえ始めた。

 疑念にも似ていたが、もっと直接的で、わたしははっきりとその声が聞こえていた。

 思い始めると、それは加速度をつけて確信を持ち、わたしを常時監視しているように訴えてきた。

 黙っていると、未佳が心配げな顔をしている。けれどその目がわたしの考えを読むように、じっと見つめてくるのだ。真正面から未佳の視線を受け止めることができなくなった。

 夜、部屋で眠ろうとすると、声が聞こえる。わたしはベッドから出て、廊下を挟んだ彼女の部屋の様子を見に行く。未佳はただ本の朗読をしていた。

 秋になり、ふつうではいられなくなっていた。いつわたしの正体がバレて、未佳と入れ替わるのではないかと、そのことばかりが気になった。

 未佳はずっと変わらなかった。ピアノのレッスンはやめてしまったが、自分からツェルニーやクレメンティを弾いていた。ピアノの先生代わりに未佳を教えたりしたが、その最中も恐ろしくて仕方がなかった。いつ、未佳の口から、「お前は宏佳じゃない」と言われるのではないかと、気が気ではなかった。

 緑理がわたしを気遣うことが増えた。顔色がよくない、なにかあったのか、と。

 説明してもわかってもらえない気がした。緑理を巻き込むわけにはいかないと思った。それに、緑理に話すと、わたしが疑念を持っていることが未佳に直接伝わってしまう気がした。それで、緑理が未佳に指示されて、わたしを否定するようなことを言うのではないかと、そういう怖さもあった。それで緑理が友達でなくなってしまうことも嫌だった。

 時間がたてばたつほど、自分が本当は未佳であるという思いは強くなった。そのうち、未佳の顔をまともに見られなくなった。

 未佳がわたしのふりをしてしゃべっている。

「お姉ちゃん、どうしたの? 私、何かおかしなこと言った?」

 わたしが黙り込んで、怪訝な顔をした未佳が問うような場面が増えた。中等部三年生の十月が終わったころだった。そしてついに、自分の中に渦巻いていた疑念――確信を、未佳にぶつけた。

「わたしのふりをして、わたしになろうとしているんでしょ、あなたは」

 その時のわたしの声は、自分でも思い出すことができる。自分が発した声には感じなかった。わたしの中で具体性を持った恐怖が言わせた言葉だった。

 未佳は何を言われたのか分からない顔をしていた。それはそうだろう。今まで上手に入れ替わりが運んでいたと思い込んでいたはずだから。わたしが気づかないうちに、宏佳になり切り、入れ替わろうとしていたのだから。未佳の、いや、あの人の表情を見て、わたしが本物の未佳なんだと理解した。

「ちょっとお姉ちゃん、何言ってるの?」

「いいのよ。無理しなくても。もうみんなわかっているんだから」

「みんなわかってるって、どういうこと? 何かの冗談だよね?」

 あの人は戸惑い、読んでいた本をベッドの上に放り、わたしの顔をじっと見つめていた。

「同じ顔をしているからって、そう簡単に入れ替わろうとしたって無駄だよ」

 努めて冷静に言ったつもりだったが、声は怒気をはらんだ。あの人は、それっきり口をつぐんで、放り出した本をそっと拾い上げ、部屋から出て行った。

 翌朝、あの人はいつもどおり笑顔で話しかけてきた。わたしは無視した。その手には乗らない。あなたの思うとおりに入れ替わられたりしない。わたしが本当の未佳なんだ。お母さんに言うときっと否定される。だって、お母さんもあの人と一緒になってだましている。お父さんもだ。

 未佳は碧星女子に中学から通う予定だった。なのに受験前にやめてしまった。きっとそのころから、乗っ取ろうと考えていたからだ。ピアノだってやめたふりをしているだけだ。事実、ピアノを弾いている。バスケットボール部に入ったからやめたなんて嘘だ。わたしと同じくらいの腕前になって、完全な入れ替わりを達成するため、周りを嘘で固めているからだ。

 入れ替わりが成就するのは目の前に感じた。そうするとわたしは存在を否定されてしまう。

 聞いて。あの人は未佳じゃない。あの人はわたしのお姉ちゃん、宏佳なんだよ。

 眠れなくなった。夜中泣きとおしたこともあった。学校に行くのも怖くなった。宏佳として学校へ行けば、本当のわたしは未佳なんだから、ニセモノが来たと噂される。かといってあの人が通っている中学校にも行けない。入れ替わりを企んで、あの人が先回りして登校しているから、居場所がない。

 そうか。あの人が学校へ行く前に、あの人の中学校へ向かってしまえばいいんだ。

 思い至り、あの人の部屋をノックした。

「……なあに」

 ドアを薄く開けたあの人は、怯えていた。そのころ、もうすっかりわたしの顔を正面から見なくなっていた。入れ替わりのたくらみがバレたことに怯えているんだろう。敢えて堂々と部屋に踏み込んだ。

「お姉ちゃん、どうしたの、怖いよ」

「制服、返して」

「何言ってるの、お姉ちゃん」

「あなた、わたしのふりをして学校に通ってるでしょ。今日まで見逃してきたけど、もう許せない。いつわたしの制服を盗んだの。毎日勝手にわたしのふりをして学校へ行って。信じられない。今すぐ返して」

「ちょっと、お姉ちゃん、何言ってるのか私分からない」

 未佳は――あの人は、ひどく困惑した表情でドアをふさいでいた。部屋に入ろうとすると、一歩、二歩と、怯えながら後ずさりをした。そして、口を開いた。震える声が絞り出されるように、あの人の口から出た。

「それは私の制服だよ。持って行かれたら、着て行く制服がなくなっちゃう。お願い、やめて。どうしちゃったの、元のお姉ちゃんに戻って」

「元のお姉ちゃん? どういう意味?」

 あの人は懇願するように、涙交じりの声で言った。

「お姉ちゃん、おかしいよ。私のこと何か気に入らないの? 何か変なこと言った? 昔、私がお姉ちゃんの学校を受けないって言ったから? あれは違うんだよ、お姉ちゃんのことが嫌いだとかじゃなくて、比べられるのが嫌だったし、それに私だけ落ちちゃったら、もう立ち直れないから……」

「そんなことどうでもいいの。わたしになろうとしてももう無駄。もう全部わかっちゃったんだ。あなた、宏佳でしょ。そうでしょ? 本当はわたしのお姉ちゃんなんでしょ?」

「えっ、どういうこと?」

「だから」

 壁のハンガーから強引にあの人の制服を奪い取った。

「わたしが未佳なの! あなたは宏佳。わたしのお姉ちゃん。なのに、あなたはわたしのふりをして、何のつもりか知らないけど、入れ替わろうとしている!」

「入れ替わろうとなんてしてない。そんなの、ずっと昔に冗談で話したことはあったけど、本当にはやらなかったじゃない。ねえ、お姉ちゃん、もうやめて。私がお姉ちゃんの気分を悪くするようなことを言ったのなら、謝る。でも、どうしてお姉ちゃんを怒らせたのか分からない。どうしたら許してくれるの?」

 あの人は大粒の涙を流して、すがりついてきた。自称未佳のあの人は、風邪を引いたみたいに身体が熱かった。

「やめて、近寄らないでよ。わたしにすり替わろうとして、ずっと騙していたくせに! わたしと同じ顔をして、そんな泣きまねまでして、汚いんだよ!」

「ウソだ、お姉ちゃん! やめ、」

渾身の力を込めてあの人を振り払い、そして生まれて初めて、人を殴った。拳で。

 あの人の頬の感触が、右手に伝わった。頬の柔らかさの向こうに、固い感触。

 ものすごい音がして、あの人は学習机まで飛んだ。いろいろなものが落ちた。わたしが殴った瞬間に、あの人は叫んだ。その声は耳に残っているが、言葉では表現できない。ひどく耳障りな声だった。

 数舜だったと思うが、部屋は静かになった。息が瞬く間に荒くなり、肩が上下した。それからすぐ、あの人が声を上げて泣き出した。まるで小さな子供が癇癪を起したような泣き方だった。わたしは耳をふさいだ。両手で。持っていたあの人の制服が足元にばさりと落ちた。何かとんでもないことをしてしまったような気がした一方で、これでわたしは守られたとも思った。

 物音を聞きつけたのか、階下から急ぎ駆け上がる足音が聞こえ、

「どうしたの、あなたたち⁉」

 お母さんが、文字通り血相を変えて、駆け込んできた。

 あの人は泣いていた。大声で。床の上に亀の子のような姿勢になって。

 わたしはその場に立っていた。あの人を――未佳を殴った右手が、痺れるように痛かった。


 踊り場は少し寒かった。教室へ戻ろうかと思った。札幌でライラックが咲いたころ、季節が逆戻りしたように冷え込む日がある。『リラ冷え』という言葉を知っていた。ライラックをフランス語読みするとリラ。リラが咲くころに冷えること。きれいな言葉だと思った。寒の戻りをこんな素敵な言葉で彩るのは素敵。でも今日は暖かかったから、リラ冷えではない。単に日が落ちたから寒いのだ。

 菜摘と七生が帰ってしまうと、いつもの踊場へ来た。ここから見える街の風景が、いつの間にか好きになっていた。緑理はまだ部活をやっているんだろうな。一緒に帰れたらいいのに。踊り場は灯りが弱いから、街の様子もよく見える。

 右手を開いて、握る。中学生のわたしを思い出すと、決まって右手が疼いてしまう。あれっきり、未佳はわたしを避けるようになった。朝、食卓にいても、短く「おはよう」と言うくらいで、積極的に接することがなくなった。

 未佳を殴り、未佳が大声で泣いた次の日、わたしは病院へ連れて行かれた。今通っているあの病院だ。お父さんはもう、様子がおかしいと気づいたらしい。家からずっと離れているのに、中央区のあの病院へ、お母さんが手を引き、車に乗せられた。

 入院なんてしたことがなかった。今の主治医がその日の外来担当だった。お母さんがわたしの様子をひととおり話し、次いで先生はわたしの言葉を聞いた。三十分以上話した。先生は今も、どんな患者さんが相手でも時間無制限で話を聞いてくれる。そうして、その日のうちに入院が決まった。このまま帰らない方がいいですね。少し病院でお休みしたほうがいいんじゃない?

 先生はこう言った。

「ここには、お姉ちゃんは来ないから、安心するのよ。いい? みんなであなたのことを見守っているから、まずは少し休んだ方がいいんじゃない? 眠れていないようだから、少し薬も飲んだ方がいいと思うわ」

 わたしはずっとそわそわしていた。いつあの人が現れるかと思うと怖かったし、入院するのも嫌だった。家を空けている間に、あの人がわたしを乗っ取ると思ったからだ。昨日大声で泣いたのは、わたしが企みを暴いたから。バレて悔しくて泣いたんだ。

 でも、処方された薬のおかげで、お母さんやお父さんが病院から去った後、ぐっすり眠ってしまった。目が覚めたら夜だった。目が覚めても眠かったから、また寝た。寝ても寝ても眠かった。

 夢を見た。

 あの人が――未佳が笑顔で話しかけてくる。わたしの腕に両腕を絡めて、わたしをくるくる回す。未佳は楽しそうに笑っていた。二人で出かけたあの公園で。

 次に目が覚めたとき、わたしは泣いていた。わたしがわたしであるために、妹を失ってしまった、そう思ったら、涙が止まらず、嗚咽が漏れ、それもとどめられなくなり、昨日の未佳のように、声をあげて泣いた。その様子を見て、看護師さんが飛んできた。落ち着いてね、何も心配することはないから、いまは休むのよ。

 わたしは何も言葉を発することができず、大きな声で泣いた。なにか薬を飲まされて、しばらくしたら涙は止まり、また眠った。

 入院したときの記憶は、そういう日々だった。

 気持ちが落ち着いたころには、雪が降っていた。冬靴をお母さんが持ってきた。髪の毛、伸びたわね。そんな言葉とともに、わたしは家に帰った。何度か通院して、学校へも戻った。学校へ行きたいと希望したとき、先生も心理士の松山さんも慎重だった。週に一度の通院と、きちんと処方されたお薬を飲むこと。先生の診断と、心理士との面談を欠かさないこと。少しでも不安を感じたら、学校へ無理して通わないこと。それが条件でまた通うようになった。

 学校に戻ると、緑理たちが心配そうに迎えてくれた。どんな病気で休んだのか、誰も詮索してこなかった。入院したのが精神科だと知っている子もいなかった。学校の先生にはお父さんから説明したらしい。先生たちはわたしの病気のことを、生徒には話さないと決めたみたいだった。

 日常が戻った。高等部へ進級した。演劇部はやめた、というか、高等部の演劇部には入らなかった。まずは、少しずつ日常を取り戻すことが優先されたから。

 ときどき、不安になる。すごく不安になる。まわりから空気がなくなって、断崖の先端に立たされているような。しかも後ろからは鋭い刃物が背中を狙っている。決まって聞こえてくるのは、わたしがわたしではない、という声。

 もうそろそろ、家に帰ろう。

 スマホを見た。緑理たちからのメッセージも特になかった。グループチャットがにぎやかになるのは、もう少し遅い時間だ。普通科ハイコースは課題だらけの毎日だったから、スマホを無制限にいじってチャットにいそしむほどの時間はなかった。やり取りは簡素で、そのぶん濃密な感じだ。

 帰ろう……。

 スマホをカバンにしまったとき、未佳の泣き声が聞こえた気がした。

 右手。

 未佳。

 強く目を閉じた。あの日の感触がよみがえる。笑顔の未佳。子供のように泣きじゃくる未佳。そしてその顔は、わたしと同じ。

 いけない、と思ったときには、ガラスに映ったその姿を真正面から見てしまっていた。

(お前は、宏佳じゃない)

 ガラスに映った姿を見た瞬間に、わたしの内なる声が鏡像に向かってそう呼び掛けた。

 いけない、とどめないと。

 一昨日と同じになってしまう。急いで帰らないと。そうしないと、窓の向こうのあの人が、未佳が、わたしに乗り移ろうとする。

 わたしは首を何度か振った。声が聞こえる。頭の中に直接。

 わたしは、未佳。

 わたしは、ニセモノ。

 わたしはカバンを肩にかけて、一気に階段を駆け下りた。三階の廊下を走った。全速力で。わたしはそんなに足が速くない。でも急がないと、あの人につかまってしまう。そうしたら、入れ替わられてしまう。

 怖かった。振り向けない。どこを走っているのかもわからない。教室をいくつも通り過ぎた。誰かが呼んだ気がしたが、それがあの人の声に思えた。息を止め、駆けた。

 瞬間、足元に何もなかった。宙に浮いていた。

「あ、」

 三階の階段から、飛んだ。落ちた。全速力で走っていたから、勢い余って踊り場の壁に肩からぶつかった。目の奥に火花が散った気がした。上も下も右も左もわからなくなった。何が起きたのか分からなかった。頬が冷たい。わたし、泣いてる? 違う。これは床だ。わたしは床の上に放り出されている。

「誰か! 誰か来てください、大変です!」

 起き上がることができず、遠くで女の子が叫ぶ声を聞いた。暖かい液体が頬に流れ、一部が唇の端から口の中に届いた。

 鉄臭い味がした。


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