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「今日も始まりました。こんにちは、『ヒルですヌーン』の時間です。やっと暖かくなってきました。でもみなさん、気を許すとあっという間に夏になってしまいます。学校祭も迫ってきますね。みなさんのクラスは『クラパビ』なにをやるか、なんてまだ決めていませんよね。今年の『新琴似祭』は晴れるといいですね。それでは今日の一曲目、『ヒルヌンネーム・窓際の君が好き』さんから――」

 私が読み上げると、BGMがクロスフェードしていいタイミングで曲のイントロが流れ出した。生放送のほうが楽だ。

「この曲いいよね」

 逢瀬柚月がチキンナゲットを箸に刺したまま私に言った。

「花火、いいなぁ。ずっとやってない」

「後夜祭で打ち上げるじゃない」

「あれはあれでいいんだけど、ほら、この曲みたいにさ」

 曲はフルコーラスで流すから、だいたい四分弱。マイクがきちんとオフになっているのかわからない状態で声をかけてくる柚月も強心臓だと思った。やっぱりカフボックスが必要だ。自分の手でマイクを遮断する方法がないと、そもそも今日の技術課は、ときどき間抜けを発動させる織部凌だ。原稿は森、技術は織部、アナウンサーは私。二年生は私を入れて六人で、うち三人はアナウンサーなので、二年生だけのチームになるとだいたいこの組み合わせになる。技術課は三年生の藤崎さんがいい。高身長で調整室では窮屈そうだが、マイクをオフにし忘れるとかいった間抜けとは縁遠い。

「花火の魔法、私も使いたいわー」

 箸に突き刺したナゲットを一口で食べて、柚月が言った。

「誰に使うのさ」

「秘密」

「使いたい相手がいるの?」

「積森さんはどうなのさ」

「いません」

「まあ、いなさそうだよね」

 柚月はときどきこうして毒を吐く。

部屋の後ろには一年生がお食事中。柚月に一年生はよく懐いている。一年生の前では毒を吐かないのも柚月らしい。

 そろそろ曲が終わる。原稿を確かめる。あらためてマイクの前で座りなおして、キューを待った。BGMが流れ出して、キュー。この瞬間は、好きだ。私のスイッチが入るような気がする。

 森が今日書いてきた原稿は、地下鉄の東西線を東豊線の電車が走っている謎についてだった。

織部によれば、「鉄道マニア」にはよく知られたネタらしく、いよいよ森が『ヒルヌン』に使うネタに困り果てて持ち出してきたんじゃないかということだった。これってこのあいだHBCでもやってなかったっけ。いいんだよ、普遍的なネタだから。だいたい、東豊線が屯田まで伸びるって噂はやってなかったべ?

 知ったことではなかったが、原稿をいくらか直して、マイクに向かって、全校生徒に向かって話した。森だけではなく、編成が書いてきた原稿を直すのはよくあることで、須藤さんもやる。直す頻度と直す場所の多さが、私のほうが多いということらしいけど。

 だって仕方ない。私はニュースを読んでいるわけではないから。

 原稿を直された森は、調整室でニコニコしていた。どういう気持ちでいるのか聞いたことはなかったけれど、私が直しても「その方がいいね」なんて言ってすぐに同意するから、悪い風には思っていないんだろう。

「『ヒルですヌーン』では、みなさんからのリクエスト曲をお待ちしています。といっても、みなさんがメディアを持ってきてくれないと、曲をかけられなかったりします。というわけで、放送室の前にリクエストボックスがあります。あなたの学年、クラス、名前を書いて投稿してください。あなたのところへ放送局員が向かいますからね」

 そうなのだ。高校の放送局だから、リクエストをもらってもその曲を持っているわけがない。リクエスト曲はほぼすべて、生徒からの持ち込みに頼っている。持ち込みがなければ、局員の私物を流すしかなかった。そうするとものすごく偏る。

「お疲れさまでした」

 放送が終わり、マイクから身体を離して、ほっ、と息をつく。

「ツモリン、いつもいい感じだよね」

 調整室から森が出てきて、なれなれしく言った。飄々とした風貌と、太っているわけでも痩せているわけでもない体格で、中学校のときは剣道部だったらしい。なれなれしいのは一年生のときから変わらずで、一華が私をツモリンと呼ぶのを見てから、奴もずっと私をツモリン呼ばわりだ。

「リクエストだけどさ、どうかな、メッセージも読んでみたら」

 おにぎりを食べながら、森が言った。

「メッセージ?」

「ふつうの番組だったら、リスナーのコメントとかメッセージも読むじゃんよ」

「うん」

「ウチでもやろうぜ。何なら、公式アカウントとか作っちゃえばいいんだよ」

「公式アカウント作って、誰が管理するのよ」

「共同アカウントにしちゃえばいいんじゃね?」

「曲はどうするの。一方的にリクエストされても。誰かアマプラのアンリミテッドとか入ってる?」

「俺入ってるー」

 織部が片づけをしながら言った。こっちも見ずに。

「そしたら織部だけじゃない。リクエストに応えられるの」

「応えられるっちゃ応えられるってことでしょ。まあ、公式アカウントの話は別としてさ、せっかくリクエストボックスあるんだから、学校への要望とかさ、なんか雑談でもいいから、もっとこう、生徒全体とつながりたくない?」

「放送局なんて陰キャの集団とか思われてるだけだよ」

「ひでぇ」

「私陽キャじゃないもん」

「そうかな」

「森、」

「なによ」

 おにぎりを頬張って、もぐもぐさせたまま森がこちらを向いた。スタジオの背後では、一年生と柚月が弾けるように笑っていた。

「私って、笑わない?」

 言ったら、森は私の言葉を勘違いしたようだった。ニコニコ顔のままで答えられた。

「ん? 笑わないから言ってみろよ」

 何か相談事でも言うのかと思ったようだった。

「違う違う。私って、笑ったりしない子?」

「笑うじゃん」

 即答された。

「そう?」

「誰がそんなこと言ったの?」

「友達」

「見る目がないんだな。お前のクラスの女子は」

「そう?」

「部活の最中、よく笑ってんじゃんよ、お前」

 言われて、戸惑う。須藤さんも近いことを言っていたが、いつ笑ったろうか。記憶がなかった。とくに高校生になってから、一華に言われるまでもなく、感情を外に出さなくなったから。

「笑ってるかな」

「笑ってるよ。気にすんなよ。誰だよそんなこと言ったの」

「須藤さんとか、もっと私は感情を出した方がいいって」

「朗読の話だろ? ツモリンは笑うし怒るし、ふつうだよ」

 森はふざけた気配も見せずに言うから、さらに戸惑ってしまった。こんな適当な原稿しか書かない奴に、慰められているような。

「森さ、もっとちゃんとした原稿書けない?」

「書いてるじゃん。太平の交差点が広い話なんて、お前知らなかったべ? 地下鉄の駅ができるって触れ込みだったんだよ」

「そういうんじゃなくてさー」

「あ、俺に高校生らしいキラキラした原稿書けって言われても無理」

「まあ、それは無理そうだから期待していない。脚本書いたら書いたで『性別が禁止された近未来』とかじゃんよ」

「面白かったろ、ミライ。お前の演技よかったぜ」

 ラジオドラマの中の役名で私を呼んで、自宅から持ってきたらしいボトルから何かを飲みながら、森は笑った。

「戸田がさ、また新刊紹介してくれって」

「戸田さん?」

「ツモリンが番組で読んだら、どんな本でもすぐに誰かが借りに来るって」

「その話か」

「その話。いいんだよ、お前の本の紹介。コーナーにしてもいいと思うよ。だって俺の原稿、半分くらい自分で手直しして読むだろ? そんなアナウンサーいないって」

「相良さんにはやりすぎって言われるけど」

「俺はいいと思うね。きちんと自分の言葉になってるから、説得力があるんだよ。この間の本、俺、ちゃんと本屋で買って読んでから書いたんだよ。それがさ、お前が原稿直したら、別物だもん。しかもお前、本は読んでいないのにな」

「細かいところを直しただけじゃん。ストーリーにかかわる部分なんて直してないし」

「だからさ。ただ読むだけじゃなくて、自分の言葉に直して読むって、才能だよ、才能。または努力。何がよかったって、『私もこれから図書室に行って借りようかなって思います』なんて言葉をサラッと入れちゃうところだな」

「ほめすぎだよ。それに図書室に行ったら貸し出し中になってた」

「だからさ、メッセージ集めてみね?」

「須藤さんに相談しなよ。今日の部活で」

「お前賛成したな」

「ああ、はいはい。賛成したことにしていいよ。どうせ読むのは私たちなんだから」

「もし決まったら、最初の放送はツモリンに託すからな」

「えっ、それは、三年生じゃない?」

「お前に読んでほしいんだよ」

 ボトルをあおって、満足げな顔をして森が言った。


 六時間目はまたグラウンドで体育だった。晴れ渡っていたけれど、薄く雲がかかったような空だった。いつもどおり、学校のすぐ上を飛行機が飛ぶ。玉ねぎ畑と、滑走路、そしてポプラの木。見慣れた風景。

「東豊線の電車が東西線走ってんだ」

 私に並んで、谷川紘子が興味なさげに言ってきた。

「今日の放送、面白かったよ」

 紘子は半袖にハーフパンツ姿だった。ようやく初夏がその気を出してきたのか、午後になってそれなりに気温が上がっていたが、ジャージを脱いでいるのは女子の半分にも満たない。私はジャージ上下を着こんだままだ。本気出して走ったらたぶん暑い。

「愛花のやつ、あんなに張り切っちゃって。汗散らして。青春してんねー」

 小石を蹴りながら、紘子は傍観者の口調だ。

「そういうあんたも半袖じゃない」

「暑いんだもん。走るとさ。青春の汗散らしてとか嫌じゃん」

 フェンス沿いの芝の上に女子たちが脱いだジャージがまばらに置いてある。

「夏かー。積森さんはなんか予定あんの?」

「たぶん部活」

「青春してんねー。まあ、『ヒルヌン』は積森さんのときだけはちゃんと聞いてるから、あたし」

「そうなの?」

「耳に届くのよ。積森さんの声と、誰だっけ、三年生の」

「須藤さん?」

「あーそう。櫻庭さんとかの声はさー、なんかキャンキャンしてて、あたし得意じゃないわ。櫻庭さんとは去年同じクラスだったけどと。クラスでもキャンキャンしてるからさー」

「そんなにうるさいかな」

「発声練習してんでしょ? 声だけはよく聞こえるのよ。笑い声もすごいでかいし」

 ハーパンの裾から出したシャツの裾をつまんでひらひらさせながら、紘子。

「でも私と須藤さんの声が聞こえるの? 変じゃん」

「変だよね。でもそうなんだよ」

「谷川さ、リクエストボックスってあるじゃん、放送局に」

「あるみたいね。毎回言ってるよね、あんたたち。『リクエストお待ちしていますー』的な」

「出したことなんかないか」

「ないね。なに、あたしがリクエストしたらかけてくれるの?」

「データ持ってきてくれたら」

「なんだ、放送局って持ってないのか」

「持ってるわけないじゃん」

「サブスクでかけ放題かと思ってた」

「そんなわけない。あのさ、谷川さ、リクエストするとしてさ、メッセージも添えてくださいってあったら、なんて書く?」

「はあ? メッセージ? なにその面倒なの」

「例えばの話」

「書かないよ、そんなの」

「書かなさそうだね、聞いた私がアホだった」

「あんたが読んでくれるんだったら、書いてもいいよ」

 さりげなく言われたので、紘子の言葉を聞き逃すところだった。

「何?」

「積森さんがあたしのメッセージ読んでくれるんだったら、書くよ」

「え、マジで?」

「積森さん限定だよ。あたしがなんか書いて、あんたがどんな風に読んでくれるのかはちょっと興味ある。積森さんってさ、なんか、ふだんはあんましゃべんないじゃんよ。それって、なんか力貯めてますみたいな感じするんだよね。放送に青春懸けてます的な? 積森さんの回、つい()()()()()()()のって、なんかそういうパワー? みたいなの感じるんだよね」

 ポニーテールの紘子の髪を、風が揺らした。

「櫻庭さんや逢瀬さんの声じゃ、嫌だなぁ。積森さんか須藤さんだなぁ。でもさ、須藤さんが読むのと、あんたが読むのじゃ、全然違うだろうね」

 にっと笑って、紘子はスタートラインに向かって、さもだるそうな足取りで向かって言った。

 ゴールラインで、愛花が飛び跳ねているのが見えた。いいタイムが出たらしい。

「あーやってらんない」

 私に背を向けて、紘子がぶつくさ言っている。

「積森、谷川の次お前だぞ!」

 ゴールラインから大きな声で体育教師で私を呼んでいる。

 グラウンドの向こうに生徒たちがいた。走るのを終えた出席番号の若い子たち。そして、その向こうに男子。さらにその向こうに、玉ねぎ畑と、駐輪場と、住宅街。札幌の中心街はそのずっと向こうだ。

「積森、走れ!」

 体育教師が大きな声を出している。

 合図で走った。毎日新さっぽろ駅まで歩いているのに、足は一向に速くならない。たぶん一華のほうが圧倒的に速い。千里が手を振っている。違う、もっと手を振れって言っている。顎を引いて、手を振って、走った。でたらめなフォームで。

 なんで高校生になってまで、百メートル走なんてやってるんだろう。体力測定は終わったのに。球技とかやらせてほしい。せめて。バレーボールなら、千里と同じ班になった瞬間に勝ちだ。

 ヘリコプターが見えた。住宅街の上を旋回して、また空港へ戻ろうとしている。

 ゴール。

 千里がいる。一華もいる。だるそうな紘子。金子や木村、村上たちは固まって何かしゃべっている。

 私自身が遠くにいるような気分になっていた。私を、外から見下ろしているような。そう、千里も一華も紘子も、愛花も金子も村上も、書き割りの校舎の前で演技をしている役者のような。なんだろう、変な気持ちだった。私の演技を、私がそばで見ている。

「積森さん、もっと腕を振ったほうが早く走れる」

 千里が歩み寄ってくる。

「そんな一所懸命にならなくたっていいって」

 紘子がすっぴんで顔を背け、シャツの裾をひらひらさせる。

「ツモリン、暑いね」

 一華も半袖ハーフパンツ姿だった。運動部でもないのによく似合っていた。シャツの裾を律儀にハーフパンツの中に入れていたから、中学生みたいだった。

「積森、前より速かったぞ。〇、一秒」

 教師の矢野が日に焼けた顔向けてストップウォッチを見せてくれた。

 何もかもが、遠くに感じられた。そのとき、不意にあの人のことを思った。

 あなたは、あなたじゃない。

 私にそう言って表情を乱れさせていた、あの人のことを。

 メッセージを送れるなら。

 私はあの人に送りたいと思った。そして読みたい。あの人の心へ届くように、全身全霊をかけて読みたい。いつかそんな日が来ればいい。私の言葉を、届かせたい。

「千里、」

 授業も終わりに近づいたころだ。

「誰かに伝えたいことってある?」

「ん? それは何の話だろう」

 多少興味を引いておいて、紘子に話したのと同じことを聞いた。

「放送局、いろいろ考えてるね。いいんじゃない、そういうの面白いよ。やってもいいと思う」

 思ったのと違う反応だった。

「なになに、メッセージ? なんのこと?」

 一華が食いついた。

「イーホワだったらどうする?」

 千里が腕組みをして一華に訊いた。

「それはやっぱりさ、あれじゃない?」

「あれってなによ」

「告白に使うに決まってんじゃん」

「校内放送で告白とか、それげっそりする」

 千里はそうは言ったが楽しそうに笑った。

「ウチの学校って、そういうのないじゃん。中庭の噴水に呼び出して告白する、とかさ」

「なにそれ。どこの学校の話?」

「ツモリンがこの間紹介してた小説の話。いいじゃん、そういうの。ウチの学校、中庭って言っても、学校祭で美術部が絵を描くだけだし、ふだんは入れないし、屋上に呼び出しとかもできないし」

「立ち入り禁止だからね」

「ドラマとかで見るじゃない、屋上でお弁当食べて、告白してとかさ」

「ドラマっていうか、それ漫画の世界じゃない。少女漫画。しかも古い」

「あたしは憧れるけどなぁ。ツモリン、やってよ」

「イーホワ、私に告白のメッセージ読ませるの?」

「ツモリンが読んだら成功しそうじゃない」

「いや、それは買いかぶりすぎっていうか」

「あたし、わざわざ本買ったんだよ。ツモリンの番組聴いて」

「マジで」

「面白そうって思って。そういうの、ツモリンはあると思うんだなぁ」

「まあ確かに、積森さんが読んだら説得力ありそうだよね」

「千里まで」

「現代文の授業でさ、積森さんに当たったら、全部読まされちゃうじゃない。やっぱりうまいからだよ」

 そうなのだ。現代文で、私はよく、全文朗読をさせられる。ふつうは、段落ごとで生徒が交代するはずなのに。まだ声がかからないと思ったら、最後まで読まさせる。

「イーホワは告白のメッセージか。じゃあ私はね、そうだなぁ。今時期だったら、そうだね、先輩たちに感謝の言葉かなぁ」

「それ、あたしよりヤバいって」

 一華が声をたてて笑った。

「笑うことかなぁ。私まじめに感謝の言葉を伝えたいけど、面と向かっては言いづらいじゃない。そんなとき、『ヒルヌン』で読んでもらえたら、いいかなって思ったんだけどな」

「私が読む?」

「そりゃ、積森さんが読むに決まってるじゃない。櫻庭さんじゃ軽すぎるし、逢瀬さんもうまいけど、読んでる感が出そう」

「みんな私のことを過大評価してる」

「一途だからでしょ」

「えっ」

「積森さんは、何かを伝えようとして、なんか、すごくもがいているような気がする」

「あー、わかる。笑わないのも、笑えないというか、本当に楽しいときじゃないと私笑いません的な」

「そんなつもりはないんだけど」

「積森さん、自分を発出するのに、躊躇がある。その分、誰かの言葉を読むときに、自分の気持ちを代わりに乗せてる。そんな気がする」

 ジャージの袖を少しまくって、千里が言った。うっすら額に汗が浮いていた。

「イーホワの告白、楽しみだなぁ。誰にするの?」

「やめてよ」

 けらけら一華が楽しそうに笑った。そういえば一華は彼氏がいなかっただろうか。去年はいた気がするが、別れたのだろうか。勘違いだったのだろうか。

「伝えておくよ。森に」

「森君?」

 校舎に向かいながら千里が訊き返した。

「メッセージの話言い出したの、あいつなんだ」

「森君、中学校同じなんだよねー」

「えー、そうだったの?」

 一華が脱いであったジャージを抱えて歩いてきた。

「三年間同じクラスだったよ。変わってるけどいいやつだよ」

「今日の原稿も森なんだ。地下鉄の話なんかして」

「面白かったよ。屯田の人たちは地下鉄が来ると思って待ってるのに、もう永遠に来ないね」

「メッセージは、そうか。みんなはそれなりに書いてくれるのか」

「リクエストボックスに入れればいいの?」

「できれば曲のデータも貸してもらえれば」

「曲なんてかけなくていいじゃない。ツモリンがたくさんみんなのメッセージを読めばいいんだよ」

 一華が私をのぞき込むようにしていった。

「曲なしで?」

「ラジオではよくあるでしょ」

「イーホワ、ラジオなんて聞くの?」

「聞かない。漫画で読んだ」

「なんだ」

「いいじゃない、読んでよ。あたし書くよ。告白じゃなくても、言いたいことたくさんある。あたしの代りに、あたしの気持ちを、ツモリンが読むんだ」

 一華は妙に嬉しそうに、そう言って私の腕を叩いた。


 そして本当に森は部活のミーティングで、提案した。生徒からのメッセージを募集して、それをアナウンサーが番組の中で読みましょう。

「原稿書くのが面倒になったんじゃないんでしょうね」

 相良さんが森に一言言った以外は、目立った反対意見も出なかった。お昼の放送らしくていいんじゃないかということで、大筋がまとまってしまった。

「じゃあ、いつからやる?」

 シャープペンをくるくる回しながら須藤さんが森に言った。須藤さんは今日も隙のない冬服の着こなしだ。熱気がこもり始めたのに、暑そうな顔もしない。私はもう暑かったから、ブレザーを脱いで椅子に掛けて、さらにブラウスの袖もまくっていた。

「告知がいりますよね。告知してから、一週間でいいんじゃないですかね」

 森が言う。どうも本当に本気だったらしい。

「一週間でメッセージなんて集まるかな」

 一華が告白のメッセージをどうのと言っていたせいで、もうまったく集まらない予感しかしていなかった。

「言いたいこととか伝えたいこととか、それこそ別の部活の告知とか、いろいろあるんじゃないかな」

 森が答える。それは今までもあった。別の部活が試合をやるから見に来てほしい、定例会をやるから集まってほしい、そういう呼びかけを番組でやった。個人からの募集はしたことがない。本当に集まるかはわからなかった。

「一回目の放送は、森君が担当するってことでいいの?」

「俺は嫌だぞー」

 同じ二年生の編成である中田が森をつついた。

「俺がやるよ。言い出したの俺だし」

「どんなふうに読めばいいんだろう。個人からのメッセージなんて。本当にラジオ番組みたいにするんですか?」

 柚月がやけに不安げな顔をしている。

「『ヒルヌンネーム・なんちゃらかんちゃらさんからのメッセージです。最近バス乗り場で列を守らない人がいるので困っています。きちんと並んでほしいと思います』、そんな感じじゃない?」

 並んで座っている美咲がさほど興味もなさそうに言った。温度差があるなと感じた。

「まあ、そんな感じなら、いいか」

 それで柚月も納得してしまった様子だ。

「どうしてやろうと思ったの?」

 須藤さんは森に訊く。

「いつも一方通行ですよね、うちらの放送って。それをちょっと変えたいなと。」

「ふつうのラジオ番組みたいに?」

 須藤さんが問うた。

「まあ、それに近い感じに」

「なるほどね」

 もしかしたら、森はラジオ番組になにがしかの投稿をふだんからしているのかもしれないなと私は思った。

「あとさ、応募してきたメッセージを採用するしないっていう裁量のことなんだけど、それは編成課がやるの?」

「それは、ミーティングで決めるべきだと思います。俺や中田が勝手に決めていいことでもないような気がして。中田、どうよ」

「そういうのって、本当のラジオ番組だったら、ディレクターとか、パーソナリティが決めてるんじゃないの?」

「藤崎さんはどうですか」

「アナウンサーに決めさせるのもちょっと重いかなー。固定の番組持ってやってる本当のラジオとかとは違うから。編成が決めてもいいんじゃね? 須藤はどう思うの?」

「ミーティングで決めるとかはちょっと大げさな気もするけれど……まあ、最初のうちはそれでいいかもしれない。採用するしないは、ミーティングで決めよう」

 メモを取りながらの須藤さんがまとめた。

 私はずっと黙っていたが、きっと森が担当する曜日にやるわけで、するとアナウンサーは私だ。

「ところでさ、森さ」

 私は森に訊く。

「何よ」

「告白のメッセージとか来ても、私が読むって決めたら読んじゃっていいわけ?」

「お前話聞いてた? 最初はミーティングで決めるって」

「私がミーティングで、採用を強固に主張したらどうなるの?」

「なんだよ、そういうメッセージのあてでもあるのかよ」

 森がめずらしく怯んだ。上半身が反った。

「別にないけど」

「センシティブな内容だったら、それは私たちで採用の可否を考えればいいんじゃないかな」

 須藤さんがまとめた。

「そんなメッセージ来るかなぁ。学校の校内放送で告白とか、あたしは絶対嫌だけどなあ」

 相良さんが笑って言った。

「でも、『ヒルヌンネーム』使えますよ。本名じゃないから、どうしても伝えたいってときは使えますよ。相手の名前もぼかさなきゃならないかもしれないけど」

 森が変に力を込めて言った。私も反論してみた。推測される事態について。

「フルネームズバリで来たらどうするの? 採用するの?」

「えっ」

「告白する側もされる側も学年組フルネーム実名で来たらどうするの? それって採用して放送するの?」

「そういうの顧問がうるさそうだなぁ」

 藤崎さんが言った。ふだんまったく姿を見せず、コンテストの企画会議のときにあらわれる現代文の担任。

「先生に相談する内容でもないし、そこは改変してもいいんじゃないかなって思いますけど」

 森が言う。

「がっかりされるよ。放送局は名前を伏せて放送するんだ、って」

「そういうのが来たら、採用しなきゃいいんじゃないですか? 私は読むのちょっと抵抗があります」

 柚月。

「来たら考えようぜ」

 森らしく逃げた。

「まあ、私も、来たらその時考えればいいかなって思うけど。フフ、校内放送で告白ね。考えたこともなかったわ。そんな子がいたら、私、すごいって思うね」

 須藤さんが目を細めて笑う。須藤さんの恋愛ってどんなだろうと思う。横に座っている藤崎さんも一緒に笑っていた。並んだ姿がよく似合っている。

「まあ、部活や授業への愚痴でもいいっすよ。とにかく、一方通行よりはいいかなって思ったんです」

 森がまとめにかかっていた。

「私もいいと思うよ。もし定着したら、放送局の新しい伝統になるしね」

 ミーティングの間中、別のことを考えていた。校内放送で告白とか、正直内容などどうでもよかった。フルネームで投稿されようが、きっちり読み上げやるつもりだった。というか、私の担当の日にメッセージコーナーが入るわけだから、いずれそういう投稿が来たとき、読むのは私なのだ。気にしていたのは別のことで、仮にそんな投稿を読むとき、責任が重大だということ。私の言葉で投稿者の人生の一ページが変わってしまうかもしれないこと。私の言葉の力によって。

「学校祭の準備期間中、今年も『パビリオンジャック』やるんですか?」

 議題がもう変わっていたようだった。柚月が身を乗り出して須藤さんに訊いている。

「やるよー。伝統だもの。でも、自分のクラスの準備から逃亡する口実にしちゃだめだよ」

 学校祭は七月の頭だ。なので実質一か月を切っている。そろそろ各クラスそれぞれの出し物である「クラスパビリオン」の企画を始めなければならない。放送局は、準備期間中の放課後にため込んだリクエストを流して、アナウンサーが各クラスの準備状況を取材して、それをしゃべる。自分のクラスのことはより詳細に調べて宣伝してもいい。私の二年一組は、まだ学校祭の話なんて全く出ていなかった。

 どうせなら、『パビリオンジャック』の中でメッセージを読めばいいのに、そうすれば言葉が雑踏に紛れるかもしれないのに。お昼休みはクラス単位でにぎやかだけれど、みんなお弁当を食べているから、放送の音は結構聞こえる。だから新刊案内を聴いて本を借りに行くような奇特な人が出てくれるのだ。

 学校祭準備中に告白したっていいじゃないか。その方が高校生っぽい。事実、学校祭で出来上がるカップルは数知れずだ。

「学校祭の話よりも、大会の準備だよ」

 須藤さんが柚月に言っている。森が脚本を書いて、ラジオドラマを一本と、中田が企画したテレビドキュメンタリー、そしてアナウンサー全員が出場する予定なのだ。

「俺の脚本でテレビドラマを作りたかったのに」

 森がまだぶつくさ言っている。仕方ない。所帯が大きくないから、作れる作品の数にも上限がある。

「秋に出すやつは、俺が脚本書くから」

 ミーティングは終わっていて、森は雑談モードだった。初夏にNHKコンテスト、夏休み明けには放送関係専門学校主催のコンテストがある。森は尺もそちらの方が長いので、ターゲットを絞った様子だった。秋には高文連の大会。こちらは「新人戦」と呼ばれていた。一年生が主役になる。

「お前が主演してくれよ。当て書きしてるんだから」

 しきりにそう言って私を主役に据えようとする。

「演劇部にも頼んでるんだ。十五分も尺があるんだから、いいものを作りたいんだ」

「じゃあ、余計に私なんて主役にしたらコケるよ」

「約束したからな。頼んだぞ」

 森の脚本は、いつだってちっとも高校生らしくないんだ。

 そういえばあの人は……中学のとき、演劇部だったっけ。


 日常を実感するのは、学校の前のバス停で空を見上げたとき、まだ明るさが十分に残っていたとき。あるいは、ライラックが咲き始めたのを不意に気付いたとき。

 非日常を実感するのは、バス停の横に、見慣れた車が止まっているのを見たときだ。私の姿を認めたのか、短くクラクションが鳴った。バス乗り場周りにいた生徒が振り向いた。

「……お父さん」

 そのとき、非日常が始まったと思った。またあの世界に叩き込まれてしまうと思った。ずっと落ち着いていたのに。途端に私は両足が震えた。スマホを取り出した。母からの連絡も入っていない。唐突に非日常がやってきた。

未佳(みか)、乗りなさい」

 助手席側の窓を開けて、父が言う。周りがみんな私を向いている。私に注目しているのではなくて、父が乗ってきている車に驚いている。真っ黒のBMW。私は助手席側のドアを開けて、シートに座った。ドアを閉めると、外の雑多な音が一切聞こえなくなった。

「どうしたの。連絡もなしに。私がバスに乗って帰っちゃったら、どうしたの」

 非日常が始まったことを認めたくなくて、抗議した。声が震えたのが分かった。

「だから待っていた」

「忙しいのに」

「たいして待ってない。お前が部活を終える時間はいつも決まっているだろう。寄り道もしてこない」

 公園に寄ったこともあったのに。父は正面を向いたまま、いい声で言う。

宏佳(ひろか)が救急搬送された」

「……そんな」

「車、出すぞ。シートベルトを」

「はい」

「学校から救急車で運ばれた」

「えっ」

「CTとMRIを撮るそうだ。母さんが先に病院に行った、。私はお前を連れて、このまま病院に行く」

「お姉ちゃん、どうして」

「飛び降りた」

「うそだ」

 全身が震えた。そんなこと……。

「学校が救急車を呼んだんだ」

 車は滑るように住宅街を抜けて、百合が原公園に差し掛かる。学校のマラソン大会はこの公園の周回道路を走らさせる。

「お姉ちゃん、いま学校に通っていたの」

「毎朝、お前は時間をずらして家を出ているそうだな。会ってやらないのか、未佳」

「私の顔を見ると、お姉ちゃんは不安になるから」

「そんなことはない」

「そうだよ。いつも私の顔を見て怯えてる。近寄らないで、あなたは私じゃない、って」

「具合が悪いときだけだ。会ってやりなさい。その方があの子のためにもなるんだ」

 最後のワンセンテンスが気に入らなかった。

「お姉ちゃんのためになるの? 本当に」

 私はシート外を向いてつぶやいた。

「あの子は、自分が誰なのかわからなくなるんだ。私たちの力がいるんだよ」

「余計にお姉ちゃんは具合が悪くなる。私を見ただけで、すごく怖そうな顔をするんだ」

「今はそうでもないはずだ。だから学校にも通っている」

「お父さんはお姉ちゃんと会っているの?」

「会えてない」

「どうして会ってあげないの」

「こういう言い方はしたくないんだが、許してほしい。仕事のせいだ」

 こんなやり取りこそ、陳腐なドラマや映画の中でさんざん見てきた気がする。

「昔は私に読み聞かせもしてくれたのに」

「なんだって?」

「本を読んでくれたでしょう」

「あの頃は役員だった」

「社長になったら段違いか」

「わかってほしいが、言い訳はしないよ。立場が変わったんだ。すまない」

「わかってるよ。お父さんが忙しいのは」

 私が言うと父は黙ってしまった。言いたいことがあるのに、言語化できなくてもどかしい、そんな表情を横目に見た。話しても仕方がない。話が分かってもらえない。わかるよ、お父さん。

「そんなに忙しいのに私を迎えに来たの」

「ことがことだ」

「LINEくれてよかったのに」

「お前とやり取りをしたことがない」

「なかったっけ」

「ない」

「お母さんは大丈夫?」

「私より落ち着いている。家から車で出て行ったよ。検査に異常がなかったらそのまま連れて帰るつもりだと」

「病院は、どこの……」

 訊くと父は中央区の大きな病院の名前を出した。学校から救急搬送されるとしたら圧倒的に近い。

「面会できるの」

「運ばれたとき、意識はあったそうだ。だから心配するな」

「お姉ちゃん、どうして……」

「具合が悪くなった」

「うん」

「そうなんだう」

「うん」

「だから、会ってやってほしい」

 車は創成川沿いの国道に入っていて、交通量が多かった。この車に乗っていると、変な割り込みをされることもない。それに父の運転は穏やかだ。娘が救急搬送された父親なのに、どうしてこんなに冷静でいられるのかわからなかった。

 それからは私も父もしゃべらなかった。札幌駅を過ぎて、車は北一条通へ。それからそんなに時間もかからず、病院に着いた。面会時間は終わっているから、救急外来の受付のみだ。車を駐車場に置いて、父は足早に院内へ進んだ。

「どうした、早く来なさい」

 私がまだ車の横で躊躇しているのを見て父が言う。

「分かったよ」

 見えない小石をつま先で蹴るようにして、駐車場から病院の入り口へ歩いた。

 守衛さんが身元照会をしていた。

「救急搬送された積森宏佳の父親です」

 低い声は聞き取りやすい。意思が鋼の芯みたいに通っている人の声だ。めったにこんな雰囲気を漂わす大人はいない。私の周りの数少ない大人では、一番怖くて、……優しいのも知っている。

「行こう」

 病院は真新しくて、タイルカーペットが敷き詰められているから足音もしない。病院にありそうな臭いもしなかった。どこまでも清潔だった。途中にあった自販機の前で父は立ち止まり、スマホのタッチ決済でお茶を三本買った。そのうちの一本を無言で私に差し出したから、反抗する理由もなくて私は受け取った。冷たかった。

 廊下はやけに長かった。柱の向こうに人影があった。男女の二人組と、そして母。

貴佳(たかよし)さん、」

 お母さんが父に駆け寄った。

「宏佳はどうした」

「まだ出てこないの」

「何があったのか、知っている範囲でいいから教えなさい」

「飛び降りた、というのとは違うみたい。宏佳は、廊下を走って、そのまま階段に飛び込んだって」

「廊下を走っていた?」

「別の子が見ていたみたい。ものすごい勢いで廊下を走っていたって。すごい音がして、宏佳が血を流して倒れていたって」

「出血していたんだな」

「頭からなのかどうかは」

「骨折はしていなさそうだって言っていたが、それは本当だった?」

「学校からの連絡では」

「じゃあ、まだわからないんだな」

「運ばれたきり、出てこないから……」

「どれくらい前に着いたんだ、朋子は」

 朋子。お母さんの名前。

「私は、三十分くらい前に。高速を使ったんだけれど、北出口が少し混んでいて」

「責めてるんじゃない」

「分かってるわ」

 私はベンチがあったから、そこに座った。すると、父と母も並んで座った。

「……病気のせいか」

 父が独り言のように言った。ペットボトルのお茶のキャップを開けて、あおった。

「追いかけられたのか。もう一人の自分に」

「貴佳さん……ごめんなさい。私が朝、無理にでも止めて、学校を休ませるべきだった」

「お前の責任ではない。本人が進んで行ったんだ。止めることはできない。……それにしても、かわいそうな子だ」

「そんな言い方しないで」

 私は前を向いたまま、反射的に言い返していた。

「お姉ちゃん、本当に怖かったんだと思う。本当に感じるんだと思う。怖くて仕方なくて、逃げるしかなかったから、きっと走ったんだよ」

「階段があるのにか」

 父が私を向いて言った。怯むくらいに強い目をしていた。クラスの男子が悪ふざけをしていても、父のこの目で見据えられたら、きっと黙り込む。それくらいの目だ。

「後ろを振り返りながら逃げたのかもしれない。前なんてきっと見ていない」

「ふだん通っている学校の間取りもわからなくなっていたのかもしれない」

「分かっていたって、死ぬほど怖かったら、死ぬ思いで逃げると思わないの、お父さんは」

「火事が起きて、火から逃げるために、二十階建てのビルの窓から飛び降りるようなものか」

 一瞬、バカにしてるのかと思ったが、父は真顔だった。本心で言った様子だった。

「助からないのが分かっていても、火から逃れるためには窓から飛び降りるしかない。いや、もしかしたら助かるかもしれない。そういうとき、地面は案外近くに見えてしまうそうだ」

「嫌な喩えはやめて」

 母が言った。お茶のボトルを両手で押さえながら。

「宏佳は炎から逃げたわけじゃないんだから」

「じゃあ何から逃げたんだ」

 父が言うが、口調に戸惑いと何かに対する憤りがにじんでいた。

「あの子には見えるのよ」

「違う。お姉ちゃんは感じるの。見えるんじゃないんだよ」

「なぜお前がわかる。お前こそ、最近はすっかり宏佳を避けてるんじゃないのか」

「避けてなんかいない」

「お前も怖いんじゃないのか。宏佳のことが」

 お前も?

「何よ。お父さんはお姉ちゃんのことが怖いの?」

「怖い。どう接してやるのがあの子にとって一番いいのかがわからなくて、そこが怖い」

「なんで」

「未佳は怖くないんだな」

 念を押されるように言われた。

「怖くはないんだな。宏佳と会っても」

「やめて、貴佳さん。こんなときに」

「悪かった」

 不思議な親子。一メートルほど離れて座る男女は、きっと二十代の後半くらいで、二人の親なのか子供なのかが運び込まれたのだろう。ずっと無言だった。男の人が女の人の肩を抱いていた。小声で、「大丈夫だよ、心配ない」と言い聞かせるようにつぶやいているのが聞こえた。

「……かわいそうに」

 父がまたつぶやいた。どういう意味だろう。私はどんどん腹が立って仕方がなかったので、お茶を全部飲み干して、ゴミ箱を探す口実で二人から離れた。

 私たちの場所以外に人の姿が見えなかった。いや、すぐそばの部屋に病院のスタッフがいた。青の上下、首からはID、みんな表情が硬かった。ドラマで見るように、大声で指示を出しているスタッフはいなかった。

 自販機は遠かったから、ゴミ箱も遠かった。そこから両親が座っているベンチを見た。学校の端から端より遠いかもしれない。小さく、とても小さく両親の姿が見えた。横に座っている男の人と女の人と被さり、四人が家族のようにも見えた。

 私の家は四人家族だ。

 父と、母と、姉と、私。

 それがいつしか、母を軸にして、二人ずつの家族になってしまった。父は朝早く夜遅い。一緒に食事もとらないし、父はリビングでだらだらとテレビを見るような人種ではなかったから、なおさら家の中で顔を合わさない。姉とは学校が違うから、そもそも登下校の時間帯がずれている。朝食と夕食の時間も異なるので、会わない。必然的に、私が会う家族は母だけになった。二人であの大きな家で暮らしているような気持ちになった。

 近くにあった別のベンチに座った。両膝をそろえて。椅子に座ると、自然と背筋が伸びてしまう。ピアノを習っていたせいだ。猫背にならないように指導される。中学生になって、学校の廊下にある鏡を見たとき、猫背気味で歩く友達の姿が気になった。みっともないと思った。なんで、背を縮めて歩く必要があるんだろう。私は私だって堂々とすればいいんだ。根拠のない理由で、なおさら背筋を伸ばして歩くようになった。高校に入って、須藤さんの声を聞いて放送局に入ると、その習慣が正しいことが証明された。猫背で原稿は読めないからだ。正しい声は正しい姿勢から出る。胸を開いて、腹式呼吸で。

 昼間は外来患者できっと混みあうだろう病院の二階ががらんとしていた。放課後の学校みたいだ。ここは人の命の生き死にを扱う場所なのに、それから縁遠いはずの学校を思い出した。病院にいるくらいなら、学校にいたほうがずっといい。父のあの仰々しいBMWにお出迎えされた私は、明日から何と呼ばれるだろう。森は私の父が経営者であることを知っても態度を変えなかった。父の経営する会社のことを調べて、お前ってお嬢様なんだよな、ことあるごとに冗談めかして言ってくるが、森が言うと不快じゃなかった。

 名前を呼ばれた気がした。なので自然に音の出どころを向いた。

 ストレッチャーが見えた。

 お姉ちゃん?

 立ち上がり、足早に両親の元へ戻ろうとした。両親も立ち上がっていて、ストレッチャーに寄り添っていた。駆け寄ろうかと思ったが、やめた。ストレッチャーは途中のエレベーター前で止ったからだ。看護師が二人。一人が父に話しかけていた。私はふつうの速度で歩いて戻った。

 ストレッチャーには、姉の姿があった。

 目を閉じていた。顔色は悪くなかった。包帯でも巻かれているのかと思ったが、それもなかった。

「お姉ちゃん……」

 思わず、声が出た。

 同じ顔だ。

 ストレッチャーには、私と同じ顔の女の子が横たえられていた。制服姿。私の紺色ブレザーとは違う、胸元に五芒星をつけたセーラー服。襟が少し乱れていたから直してあげたかった。きっと皺になる。髪の毛も乱れていた。前髪が汗で額に張り付いている。そんなに、怖かったの、お姉ちゃん。

「鎮静剤で、少し休んでもらっています。詳しくは、このあと、担当医師から説明します」

 きつい目をした女性の看護師がてきぱきと説明していた。

「積森さん、ご説明しますから、診察室へどうぞ。娘さんは、このまま病棟に向かいます」

 言った看護師が、私の顔を見て驚きの表情になった。隠そうともせず、ストレッチャーで眠る宏佳と私を見比べた。

 私たちは双子だ。一卵性双生児。眠っている宏佳と私は、まったく同じ顔なのだ。親戚でも間違えるほどに。こうして別々の制服を着ていなかったら、家族以外は区別のしようがないだろう。髪形も同じだった。襟足を刈り上げたショートヘア。くっきりした眉毛に二重、ほっそりした顎。姉を見下ろしながら、本当に似ていると思う。似ているというレベルを通り越して、姉と私の顔はまったく同じなのだ。

 姉が薬で眠っていてよかった、と、私は心底思った。

 階段へ飛び込むほどの恐慌をきたした姉が、自分と全く同じ顔の私を見たら、また逃げ出そうとするかもしれなかった。

「未佳、お前も聞きなさい」

「はい」

 診察室に入ると、なぜか人数分の椅子がきちんとあった。家族全員で救急医からの説明を受けることを想定しているのかもしれなかった。

「こんばんは。救急担当、脳神経外科医の増田といいます」

 デスクを前に座っている医師は若く見えた。お笑い芸人の誰か似ていた。医師に近い順に、父、母、そして私が座った。医師は私の顔を見て、おや、という表情をしたが、先ほどの看護師ほど露骨に驚いたりはしなかった。少し、この医師のポイントが上がった。

「結論から言うと、娘さんの脳に異常はありません。もちろん、外傷的に、という意味です。CTを撮りました。脳内に出血もなく、骨にも異常はありませんでした。比較的高い場所から落ちた割には、ダメージは少なかったと思います。後頭部を七針縫合しています。出血は多く見えましたけど、さほどではありません。それから、左足との膝と、左足のすねを切っていました。また、近い場所を打撲しています。レントゲンも撮りましたが、骨折はありませんでした。こちらは縫合するほどではなかったので、消毒して、絆創膏を貼るなどしています」

 医師は電子カルテを見ながらすらすらと話した。

「CTがこちらの画像です。ご覧のとおり、きれいです。出血個所はありません」

 父も母も黙っていた。

「ただ、念のためです。一週間後と、一か月後にもう一度受診してください。今日は何もなくても、徐々に出血したり、時間をおいて出血することがないわけではありません。念のためです。私は木曜日に当直ですから、私の名前を出してもらえれば受診予約ができます」

「はい」

 母が返事をした。

 父は、それで? と続きを促すような顔をしている。

「娘さんは、別のご病気で通院されているということですね」

「はい」

 また母が答えた。

「私はけがそのものの対応しかできないのと、こちらにはただいま専門医がいなくて、詳しいお話はできないのですが、事故、と呼んで差し支えなければ、そのときの状況は、その病気が原因だったと思われます。検査前に、娘さんはずいぶん取り乱されていました。ちょっともう普通ではない状態だったので、申し訳ありませんが、私の判断で少し強めの鎮静剤――と呼ばせていただきますが、お薬を使いました。それで今は眠ってもらっている状態です。精神科救急は市立病院にはありますが、プライオリティとしては、今回は頭部のけがでしたので」

「娘は、……ここしばらく落ち着いていたんです。数日前にも診察と面談を受けて、お薬もきちんと飲んでいたんです」

 母が説明している。すると、医師はわずかに困ったような顔をした。

「脳の病気、というとそうなるんでしょうが、私は残念ながら外科医でして、そちらの専門ではないのです。ただ、今日の状況からすると、かなり、その、異常な状態と言えばいいのでしょうか。意味不明なことを相当に口走っていたので、私にもわかったのですが」

「はい」

「けがの状況からすれば、本来は、このままお帰りいただいても結構なんです。脳の中に出血もなかったし、身体の方も、骨折しているとか、そういう重篤なところはありませんでした。ですが、心のほうがかなり状況が悪かったので、今夜一晩、入院していただいたほうが良いのではないかという判断です」

「何かあれば、かかっている病院に連絡をと言われているのですが」

「そうであれば、ご一報はされた方がいいと思います。このまま転院というわけにはいかないと思いますが、明日以降、どのような治療をされるのかは、そちらの主治医の方の判断が必要です」

 自身の専門であれば、きっと明快な診断を下すだろうことは、これまでの話し方で分かったが、姉の症状には戸惑いがあるのがはっきりと聞き取れた。

「私からのご説明は以上です。入院については、一晩だけですが、スタッフから説明を差し上げます」

「分かりました。ありがとうございました」

 母が頭を下げると、父も並んで頭を下げた。父は何か言うかと思ったが、じっと医師の説明を受け止めるだけで、何も口を挟まなかった。そうして私たち三人は診察室を出た。廊下で診察室を一緒に出てきた看護師に、病室がどこかと、手続きについて説明を受けた。

「部屋に行きましょう。あの子、制服のままだし」

 母の言葉に父も黙って従い、エレベーターに乗って、入院病棟へ向かった。きっと消灯時間には早いが、面会時間が終わった遅い時間だったので、私たちは完全に浮いていた。

 姉は五階に運ばれていた。四人部屋だったが、ベッド三つは空いていたから、実質姉ひとりの部屋だった。救急搬送用に空けてある部屋なんてあるんだろうか。

「宏佳……」

 見ると姉は、入院着というのか、淡いピンクの襟なしパジャマのような服に着替えていた。看護師が着替えさせてくれたのだろうか。着ていた制服はたたまれて、傍らの椅子の上に置いてあった。さっきは気付かなかったが、冬服の白いラインが血で赤黒く汚れていた。後頭部をけがしたと聞いたが、だからだろうか、姉は横を向き気味に寝かされていた。眠る姉の表情は穏やかだった。ふだんよりずっと幼く見えた。私の寝顔と、きっと同じ顔をしているのだろう。

「宏佳」

 母が呼びかけたが、身体を揺すったりはしなかった。

「このまま病院に置いていけないわ。私も泊まれないかしら」

「そこまで重篤じゃないから、無理じゃないのか」

「廊下から階段に飛び降りるなんて、重篤よ。かわいそうに、どんなに不安だったのかしら。宏佳……。目が覚めたらこの子、病院で一人きりなのよ。連れて帰れないなら、私が泊まるわ」

 母は血染めになってしまった制服を見て涙ぐんでいた。新しい制服、買ってあげるから……。そう呟きながら、鼻をすすりあげた。それから母は部屋を出て行った。泊まれないのか談判するつもりだ。

「どうしてこうなってしまったのか……」

 父が低く言った。

「どうして? どうしてだと思うの、お父さんは」

「分からないから言っているんだ。……お前もつらいのはわかる。そうだ、宏佳はお前から逃げているんだ。お前の顔を見ると、宏佳は極度に怖がる」

「お姉ちゃん、私がお姉ちゃんになりすまそうとしているって、ずっと言ってる」

「最初は何を言っているのかわからなかった」

「中三の秋だったよね。十月だったかな。覚えているよ。突然、私に向かって、あなた、私に成りすまそうとして、だましてる、そう言って私のことを殴ったのよ」

「……お前たちは仲のいい姉妹だったから、何が起きたのかわからなかった」

「私だって、わからなかった」

 血で汚れた碧星女子のセーラー服。

 私にも思い入れのある制服だった。

 なぜなら。

 私もこの制服を着て、碧星女子に通おうと思っていたからだ。


 夏がやたらと暑い年だった。外に出ると息が詰まるような暑さが札幌を覆いつくしていたのに、十月になると突然涼しくなった。秋を飛ばして、いきなり冬がやってきそうな寒い日も続いた。

「一貫生と高入生だと、ちょっと壁があるかもしれないから、建前的にはおすすめしないなぁ。本音ではうれしいけどね」

 ピアノの練習を始めようとした姉の宏佳に、志望校の相談をしていた。

「未佳は、公立を受けるんじゃなかったの?」

 宏佳はショートヘアを揺らして、私の顔を覗き込んで言った。碧星女子のカリキュラムに魅力を感じたと、熱を込めて説明した。本当は宏佳と同じ学校に通いたかっただけだ。もう比べられないだろう。中学校の三年間で、私たちの違いははっきりしていたから。それに姉と同じ学校に通ってみたかった。比べられるかもしれないけど、別の人間なんだって主張してみたかった。

「で、本当に高校から入学したいの? ハイコースは結構きついよ」

「お姉ちゃんがちゃんと通えているから、私も大丈夫。と思いたい」

「そっか。わたしも未佳と一緒に碧星に通えたら楽しいだろうなとは思う。三年早く言ってくれればよかったのに。そしたら、中学から一緒だったのに」

「照れくさい」

「じゃあ、春から同じ制服で通えるわけだ。一緒に地下鉄乗ってさ」

「合格できれば」

「専願にするんでしょ? 公立は受けないで」

「うん」

「なら、大丈夫じゃないかなぁ。英語苦手ってことないよね?」

「好きだし、評価は五だよ」

「音楽科で受けるつもりじゃないよね?」

 いたずらっぽく宏佳が笑った。自分のピアノの腕前を知っていてからかっている。

「そんなわけないじゃない。私に『水の戯れ』は弾けません。お姉ちゃんのピアノ、私好きだよ」

「ありがとう。未佳もレッスン辞めなきゃよかったんだよ。どうして辞めちゃったの?」

「バスケやりながらピアノは弾けないよ」

「ピアノとバスケを天秤にかけたのか」

「ごめん。なのに試合には出られなかった」

「出たじゃん」

「一回ね。なんでウチの女はみんな背が低いのかなぁ」

「お父さんは背が高いのにね」

「ホントだよ」

「で、最終確認。ウチの学校、専願で、ハイコース、受けるのね」

「うん」

「一貫生とうまくやれる? ちょっときつい子はいるよ?」

「お姉ちゃんのふりをするよ」

「バカ」

「一緒の制服着てたらバレないんじゃないかな」

「あなた髪の毛伸ばしなさいよ。ただでさえ間違われるんだからさ」

「嫌だよ。気に入ってるんだ、ショート」

「わたしも」

「お姉ちゃんこそ、演劇部なのにショート」

「どんな役でもできるでしょ」

「そうなん?」

「そうなの」

「寝ぐせとかうざいよね。ショート」

「朝起きて未佳と顔合わせたら、同じ頭してて、鏡見ているみたいな気持ちになる』

「私もだよ」

「さ、練習するからね。久しぶりに未佳も弾く? 知ってるよ、ときどき弾いてるでしょ」

「お姉ちゃんが練習室占拠してるから、そんなに練習してません。ねえ早く弾いて、お姉ちゃん。見てるから」

「緊張するなぁ」

 そんなやり取りをしながら、宏佳がピアノを弾くのを見るのが好きだった。

 あの頃は、同じ顔をした二人が、音楽室の中で顔を合わせていても、二人とも平気だった。あの頃は……というか、あれがお姉ちゃんがお姉ちゃんでいてくれた最後の秋だ。

 晩秋の日曜日。明日は学校だねぇ、そんな話をした記憶がある。姉がピアノの練習をして、私は隣でそれを眺めて、聴いて。それから私たちは家を出た。

 そうだ、あの週末は雨がずっと降っていた。日曜日も午前中はずっと雨だった。冷たい雨が降り続ていた。家の中もいくぶんひんやりしていた記憶がある。もうすぐ冬が来る。雪に覆われ、すべてが白く染まる冬。

 落ち葉が舗道に張り付いていた。名前を知らないピンクの花が道端で咲いていた。雪虫がちらちらと飛んでいた。

「なんていう花かわかる?」

 宏佳に訊いた。宏佳はジーンズにゆったりしたトレーナーとパーカーだったが、寒い寒いと両腕で自分を抱きしめながら歩いていた。私は通学用のコートを着ていたからそうでもなかった。

「よく見るよね、秋になると。初雪が降ると、この花に雪が積もって、わたしはちょっと寂しくなる」

「最後に咲く花っぽい。秋の最後に咲く花。コスモスよりもあとに咲く気がする」

「今度お母さんに訊いてみようかな」

ずいぶん後になって花の名前を知った。スプレーマム。菊の仲間だった。秋の最後の最後に咲く花だった。

 オレンジ色のファサードサインに誘われるようにして、コンビニエンスストアに立ち寄って、甘いコーヒーを買った。店先で二人して飲んだ。

 街に出てもよかったけど、家からさほど遠くない場所にある公園に向かった。発声練習をしたあの公園だ。

 雨は夕方の少し前になって上がっていたから、道は濡れていて、空気は湿っていた。息を吐くとかすかに白くなった。宏佳の手を握った。すると宏佳もそっと握り返してきた。小学生の姉妹のように、手をつないで公園まで歩いた。

 日は傾いていたが、まだ手稲山のずっと上に太陽はあって、黄色く染まった木々の葉が斜光に照らされて眩かった。日曜日の公園には少なくない人が集っていて、私たちはその中の一群となり、周回道路を歩いて、小高い丘の上へ向かった。造成中の区画の傍らで、公園内の小さな谷あいを跨ごうと、橋を架ける工事の準備をしていた。その横の丘に登ると、近隣の住宅街が一望出来て、さらに手稲山から恵庭岳まで見渡せる。振り返れば厚別の住宅街を挟んで野幌の原生林が見えた。

「寒いねえ」

 握っていた手をそっと放し口元に持っていくと、宏佳は自分の吐息で暖めた。

「そんなに寒い?」

「わたし、秋って嫌いだな」

「そう? 紅葉とか、きれいじゃない。おいしいものもいっぱいあるし」

「子供みたいだなぁ、未佳は」

「お姉ちゃん知ってた? 中学生は小児科なんだよ」

「えっ、なに?」

「風邪を引いたら、私たちはまだ小児科にかかるんだよ」

「そうなの? いつも行っているの、内科じゃない。かかりつけの岡田先生」

「あそこも、内科小児科だもん」

「へぇ、そうなんだ」

 宏佳を見た。日の光を浴びて、髪の毛が栗色、毛先は金色に輝いていた。二人とも同時に行きつけの床屋さん――一応美容院らしい――へ行くから、髪の毛の長さもまったく同じだった。小さいころから本当によく似た双子で、いまでも並んで歩くと、すれ違う人から支線を感じることがあった。

「私とお姉ちゃん、入れ替わっちゃってもわからないよね」

「なによ、突然」

「明日、私がお姉ちゃんの制服を着て学校に行って、お姉ちゃんは私の制服を着て私の学校へ行ったら、誰か気が付くかな」

「そんなの、すぐにバレるでしょ」

「バレるかな」

「未佳の場合、朝の礼拝でバレると思うな」

「朝、礼拝なんてあるんだっけ」

「ウソでしょ、ちょっと。ウチをハイコース専願で受けたいって人が言うセリフじゃないよそれ」

「カリキュラムは見たけど、毎日礼拝なんてしてるの?」

「いちおう、プロテスタントの学校ですから」

「聖書、お姉ちゃんに読んでもらったことあったね」

「未佳はあんまり興味を持たないよね」

「神様がいるなんて思ったことがなくて」

「神様はいるんだよ。きっと」

 宏佳はそう言うと、私を向いて微笑んだ。それから間もなくして、太陽が雲に翳ってしまった。途端に少し寒くなったが、宏佳はさらに寒がった。気の毒に思って、コートの前を開けて左袖を抜き、宏佳の肩にかけた。

「暖かい」

「私の体温」

「ありがとう。暖かいよ。お祈りでもしようか?」

「お姉ちゃん、お祈りなんてするの?」

「礼拝の最後はお祈りだからね」

「してみてよ」

「しかたないなぁー」

 そういうと宏佳は短いお祈りをした。私たち姉妹がこれからも平安でありますように。

 肩に置かれた宏佳の手が暖かかった。体温が中へ中へと侵食してくるような、そんな暖かさだった。宏佳の魂が注ぎ込まれたかのような。なぜそんなことを感じたのかわからない。

「ほら、あそこ」

 宏佳が唐突に西の空を指した。

「なに?」

 手稲山から藻岩山へと連なる山地の上空で、雲が薄く割れていた。そして、そこから街へ斜めに日が差し込み始めていた。雨上がりで湿度が高いのか、それは光のカーテンのように見えた。

「『天使の梯子』だよ。ジェイコブズ・ラダー。聞いたことないかな」

「知らないなあ。でも、そう言うのか。きれいだな……」

 光のカーテンは幾筋も札幌の街に下りて、照らしていた。雲が徐々に開けて、私たちのいる公園にも太陽の光が戻った。

 宏佳の睫毛がキラキラしていた。涙?

「お姉ちゃん?」

宏佳は『天使の梯子』を見たまま、まっすぐ目を見開いて、涙を流していた。とめどなく、宏佳の両目から涙があふれて、頬を伝い、顎から雫になって落ちていた。

「未佳、あなたは、わたしになりたいの?」

「えっ?」

「みんなから比べられているって、思っているの?」

「別に、そんな」

「あなたは、あなただよ。わたしの大切な妹だよ。無理してわたしになろうとしなくてもいいの」

 涙を流しながら、宏佳が言う。

「お姉ちゃん、違う。私、そんなつもりなんてない。碧星を受けたいって言ったのは、お姉ちゃんと一緒に通いたいって思ったのと、ハイコースで国公立を目指せるからって……」

「ときどき、わたしは未佳になりたいって思うことがあるよ」

「どうして」

「未佳のほうが自由に生きているからだよ」

「お姉ちゃんは自由じゃないの?」

 宏佳は涙を手の甲で拭った。そして無理やりのように笑顔を作った。

「自由じゃないって思ったことはないけど、でもときどき息苦しい。未佳のようになれたらいいのにって思ってるのはわたしの方だよ」

「お姉ちゃん……」

「ときどき、怖いの」

宏佳が彼方を眺めるように視線になって言う。

「未佳がわたしと入れ替わってしまうんじゃないかって、そう思うんだ」

声がかすれ気味に震えていた。

「それっきり、わたしは行き場がなくなってしまう。あなたはただの妹じゃない。双子の妹。そのあなたが、」

 私を向き、目を見開いたかと思うと、眉を上げ、そして目を細めて、涙をあふれさせた。

「わたしと入れ替わって、宏佳になってしまう」

「お姉ちゃん、そんなことない。わたしがお姉ちゃんと入れ替わるなんて、冗談だよ。そんなことあり得ない」

「未佳、ごめんね。ときどきなんだ。ときどき怖くなるんだ……」

 たとえようもなく不安になった。

 宏佳が姉でいてくれたのは、その秋が最後だった。

 思い出すと、あの頃、姉になりたいと思っていた。宏佳のことは大好きだった。もちろん今でも好きだ。唯一の姉で、しかも一卵性双生児だ。悪いけど、その辺の姉妹よりもずっと、誰よりも姉のことが好きだし大切だ。

 だから、姉のようになりたかった。一緒にピアノを習い始めたのに、続かなかった。バスケットボール部に入ったからやめたというのも口実だ。いくら練習しても、姉にかなわなかった。発表会で披露する曲も、レベルが一段も二段も違っていた。宏佳はコンクール優勝の常連になっていた。私には無理だった。よく似ている双子の姉妹なのに、ピアノの腕前はずいぶん違うのね。直接言われたこともあった。気にしていないふりをしていたが、内心ものすごく気にしていた。ただ、それを悔しいとは思わなくて、むしろ、そんな宏佳が姉であるのが誇らしくもあった。

 公立高校を受験しようと準備していた私が、碧星女子をあらためて受けようと決心したのも。同じ制服を着て、同じ学校に通えたら、きっと姉のような女の子になれる。入れ替わったとしても周りも気づかないくらい、完璧な姉妹に。

 私がショートヘアなのは、姉が演劇部に入って髪を切り、それを真似たからだ。美容師さんは感嘆の声を上げた。髪形を合わせると、もう私と宏佳を区別する方法は服装だけになった。

 私は自宅が校区になっている公立中学校に通っていた。学校で私のことを双子だと知っているのは、小学校からの友達だけだ。小学校では宏佳と同じクラスになったことは一度としてなかった。教室を出ると、宏佳と同じクラスの子が「おや」という顔をするのに何回も遭遇した。宏佳に訊いたらわたしもそうだと言っていた。

 私が一方的に意識していたのかもしれない。小学生のときから、宏佳が大好きだったからだ。

 一方的に宏佳へコンプレックスを感じていたわけではない。違うところもあった。父がしてくれた読み聞かせが好きだった。ピアノを弾くよりも、本を読むほうが好きになった。練習量の差はそのあたりで出た。宏佳は夢中になってピアノを弾いていたから。半面私は、父がしてくれなくなった読み聞かせを自分に対してするようになった。朗読を始めた。読書量が増えた。

ピアノが得意な宏佳と、本が大好きな私。英会話も宏佳が碧星女子に通い出して差が開いた。

同じ習い事をしていたのに、どこかで差異が出ていた。本当ならば、私も中学校から碧星女子に通っていたはずだった。父はそのつもりで準備もしていたし、母もそうだった。姉も一緒に通いたいと言ってくれていた。ゴネたのは私だ。もし姉が合格して私が不合格だった時に立ち直れないと思ったからだ。これ以上宏佳が華やかになってしまうと、もうずっと追いつけなくなってしまう。そんな気持ちが湧いてしまったのだ。小学生のころから私たちは受験の準備をしていた。

 父に対する反抗心があったのかと、ずっと思っていた。でもたぶん違う。宏佳への畏れがあったに違いなかった。父への一方的な反抗心はその後に続く。

 見た目はまったく同じ姉妹だったが、華やかだったのは宏佳の方で、父の言いつけも姉らしくよく聞いていたから、父は宏佳と接しやすかったのかもしれない。宏佳の適性も見ていたのかもしれない。きっと父は会社の後継者に娘のどちらかを考えていたはずだ。

社長は一人しかいない。父は、祖父の代からの会社を経営し、二代目としては十分すぎるほどの功績を残している。従業員は三百人。会社名を札幌市内で出せば、その業界ではよく知られているらしい。ただし父の会社は縁故採用はしていない。親族であっても、履歴書を送って、筆記試験と面接から始まるという。宏佳に継がせるとしたら、そうした関門を難なく突破させなくてはならない。社長の娘だから入社した、社長の娘だから役職に就いた、社長の娘だから社長になった、と周囲に言わせないように。

 小学校六年生の私は、宏佳と並んで評価されるのがつらかった。だから碧星女子の中等部の試験を受けなかった。合格した姉はひどく寂しがった。一緒に春から同じ制服を着て通えると思っていたのに、と、何度も言われた。

 ごめんねお姉ちゃん、私立って柄じゃないんだ。近所の中学で、小学校からの友達と遊んでいたいの。友達と離れたくなかったし。

(それはわたしだって同じだよ。友達とは離れたくないし)

 このままでは宏佳までが碧星を蹴って公立中学に通うと言い出しかねないと思ったのだろう。父は私を静かに諭した。

(私も朋子も、お前も宏佳と一緒に碧星に進むつもりで準備をしていたんだ。私は残念に思っている。お前にも宏佳と同じ環境で学んでもらいたかったんだ)

 父は私の部屋に来て学習机の椅子に座り、ベッドの上で拗ねている私に話しかけてきた。

(お前が英会話を必死に頑張っていたのを私は知っている。だからお前だってもっともっと伸びる。宏佳に持っていないものを持っている。お前も宏佳と一緒に碧星に進むことを楽しみにしていたのに、叶わなかった。それは残念だよ)

 父のその言葉を聞いてうろたえた。そんなふうに言われたことはなかったからだ。そして、とんでもない失敗をしてしまったのではないかと思い、痛いくらいに両手を握ったのを覚えている。

(あなた、本当はお姉ちゃんと一緒に通いたかったんじゃないの? あなたもきっと楽しみにしてんるだと思っていた。お姉ちゃんとあなたがお揃いの制服を着て、碧星女子に一緒に通う姿。あなたもそう思っていたんでしょう?)

 母にも言われた。言い返せなかった。脳裏に、宏佳と同じセーラー服を着て碧星女子に通う自分の姿が思い浮かんだ。春の通学路、宏佳の背中を、セーラー服の後ろ襟についた星を追いかけて歩く姿を。でももう遅かった。受験すらしなかったのだから。そこまで言われたら、口を閉じるしかなかった。中一の四月から、姉は早起きして碧星女子のセーラー服を身にまとい、家のそばのバス停からバスに乗って、地下鉄を乗り継いで学校に通うようになった。私は小学校の隣に建っている公立中学校の生徒になった。


 宏佳が救急搬送された翌日、母は早くから家を車で出て行った。目覚めた宏佳が病院にいることで混乱しているのではないかと心配していた。その様子をリビングから見ていた。父と母が話し合っていた。

「お父さんも迎えに行ってあげればいいじゃないか」

 答えは予想されていることなのに、あえてそう言ってみた。父はスーツの上下を隙もなく着ており、母に付き添って病院へ向かいそうな雰囲気はなかったから、よけいに口調は乱雑になった。

「じゃあ、お前も行くか」

 斬り返されて、言葉に詰まった。もう高校の制服に着替えていた。いつでも外へ出られる準備はできていたし、朝食も済ませていた。

「私が……」

「お前だって心配だろう。迎えに行って、連れて帰ってくるのは母さんだとしても、お前も病院に行って見舞ってやればいいんじゃないのか。学校へは遅刻して行けばいい」

 父は容赦なかった。あの有無を言わせぬ口調と、腹式呼吸から吐き出される強い言葉で、私を貫いた。

「じゃあ、行くよ。乗せて行ってよ、お父さん」

 すると、父が、ほう、という顔になった。

「会うのか」

「なによ」

「宏佳に」

「迎えに行くんでしょ。私が迎えに行ってあげるよ」

「ちょっと二人とも……」

 母があきれた。

「私は宏佳の顔を見たら、そのまま出社する。どうする、私の車に乗るか、朋子の車にするか。決めろ。もう出るぞ」

「お父さんの車でいいよ」

 勢いで言った。そう。昨日だって一緒に過ごした。父のことが嫌いというわけではない。避けているだけだ。読み聞かせだって大好きだった。お父さん、あなたが悪いんだよ、あなたから離れた原因。高校に入るときだって。

「じゃあ、行くぞ」

 ついて来い、と言わんばかりの口調だった。それがなんだか滑稽に思えて、軽く吹き出した。

「なんだ、どうした」

「別に、なんでもない」

「笑えるくらいなら、宏佳に会っても大丈夫だな」

「もとから大丈夫だし。私」

 カーポートから父が車を出す。私の前に車を横付けして、乗るように促す。

「本当に大丈夫なのか」

「なにがよ」

「宏佳と会うことがだ」

「どうして、自分のお姉ちゃんに会うのに、大丈夫とか大丈夫じゃないとか、そういう話になるのよ。今度はお父さん、お姉ちゃんを避けるわけ?」

 乗り込んで、シートベルトを締めた。カチンと音がして、密室で父と対峙ことになる。カーポートからは母のゴルフが出てきて、ちらりと私たちに視線を走らせると、そのまま去った。

「お母さん、先に行ったよ」

 父がリモコンでカーポートのシャッターを閉めた。それから、車のギアを操作して、するすると車をスタートさせた。この車は魔法のじゅうたんみたいな走り方をする。もっとも、私は魔法のじゅうたんには乗ったことがない。小さなころ、父が読んでくれた絵本には出てきて、きっとあの頃、父の上手な朗読に、乗ってみたいとせがんだに違いなく。

「私が宏佳を避けているというのか」

「違うの」

「そう見えるのか」

「会うのに覚悟を決めているみたい。私にはそう見えるから。だって、病気の、しかもけがをした娘に会うんだよ? どうしてそんな、怖い顔ができるのよ。そんなのおかしい。私はお姉ちゃんに会うことなんて避けてない。ただ私が心配しているのは、お姉ちゃんが私の顔を見て驚くことだけ。お姉ちゃんは、私のことを怖がってる。本当に怖がってる。私に会うと、きっと、自分を否定されているような気持ちになるんだ。そうやって話してくれたこともある。知らないでしょ、そういうことも」

「未佳、不安なんだな。だからそんなに話すんだ。お前が宏佳を心配しているのはよく分かっている。私も不安なんだ」

 父はハンドルを握る指を綴じたりは開いたりさせながら、車を幹線道路に進めた。昨日、母がたどったルートと同じ道を行くつもりらしい。

「宏佳のことが心配だ。どうして、ああなってしまったのか、私にはわからないからだ」

「だから、今度は私にお姉ちゃんの代りになれっていうこと?」

「なんだって?」

「違うの? 中学三年のとき、お姉ちゃんが具合が悪くなってから、お父さんは、碧星女子に進学したいっていう私を、無理やり進路変更させたじゃない。公立を受けろって一方的に」

「それは、宏佳がお前に対してデリケートになっていたからだ。同じ学校に通ったとして、どうする? あの子は、お前が自分になり替わろうとしている、本気でそう思っていた。そんな状態で、同じ学校の、しかも同じコースで受験したとして、一緒に通えたと思うか。病気がかえって悪化するんじゃないか、私はそう考えたからだ」

「私は、同じ学校に通って、お姉ちゃんのことを見守ってもよかったと思ってるのに」

「あのとき、お前はそう言わなかった」

「言えなかった」

「どうしてだ」

「お父さんが一方的だったから。碧星はやめろ、公立を受けろって。今みたいな説明もなかったよね。ただ、お姉ちゃんと一緒には通わせられない、そんな感じのことを言っただけだった」

「あのときも、お前には説明した。宏佳の病状と、……お前の安全を考えたんだ」

「私の安全?」

 なんてことを。そんなこと、あのとき一度も説明されなかった。思わず、左の頬に手を当てていた。

 車は高速道路に乗っていた。

「どうしてあの頃、そう言ってくれなかったの? でも、私の安全って何のこと? 私の進路を無理やり変更させて、私をお姉ちゃんから引き離して、自分は分別のある父親みたいな顔して、そんなのずるいんだよ。いつだってお父さんはお姉ちゃんが第一。私のことは二の次なんだもん」

「何を言っている。そんなこと、私が考えるはずがないだろう。お前にも宏佳にも優先順位などつけられない。大切な娘なんだ」

 父が真顔でそんなことを言うから、信じられない思いだった。開いた口が塞がらない。

「小さいころから比べてたじゃない。お姉ちゃんのことは何でもできる子だって」

「お前だって宏佳に負けずついて来ていたじゃないか。いまはこの話はなしだ」

「……分かったよ。で、私が碧星女子受けたいって言ったとき反対したのはなぜよ」

「お前のことを考えたからだ。本当にお前は平気だったのか。あれほど激しく宏佳から……お前自身を否定されるようなことを言われても平気だったのか」

「そんなの、病気のせいだ。お姉ちゃんがそんな人じゃないってことくらい、私は分かってる。みんな病気が言わせてるんだって。病院の先生も、心理士の松山さんも、そう言っていた」

「お前と宏佳と、距離を取るようにと言われたのも覚えていないのか。宏佳の病状の説明も受けたが、それに加えて、お前の安全も確保するように言われた。私はもっともだと思った。あの頃の宏佳はそれくらい激しかった」

「怖かったからだよ。私にはわかるんだ。だって、私とお姉ちゃん、みんなが見間違えるくらい似てる。似てるっていうレベルじゃない。同じ顔をしてるんだよ。DNAからまったく同じなの。考えていることだってわかる。私、考えたことがある。本当は私がお姉ちゃん――宏佳で、お姉ちゃんのほうが未佳なんじゃないかって」

 話し出すと止まらなくなった。

「お姉ちゃんのほうが正しくて、間違っているのは私の方なんじゃないかって。何度も思った。今でも思ってる。お姉ちゃんの怖さが、私、わかる。周りが寄ってたかって、お前はニセモノだって言ってくるのよ。自分が正しいのに、周りが自分を否定してくる。そんなの、どんなことよりも恐ろしいよ。しかも、すり替わろうとしているっていう相手が、自分と同じ見た目をしてる」

 父が運転しながらちらちらと視線を向けてくる。でも止まらない。

「そうだよ。双子なんだ。私は私のことを積森未佳だって思ってるけど、実際違うかもしれない。お父さんもお母さんも、私に合わせてだましてるのかもしれない。積森未佳は私じゃなくて、お姉ちゃんのほうが本物なんだ。そうしたら、私は宏佳なんだ。なんで新琴似高校に通っているの? 私は碧星女子に通っているはずじゃないの?」

「未佳、よしなさい。もういい」

 父が私の膝に手を置いて制した。

 知らず、呼吸が乱れていた。

「お前の気持ちはよく分かった。私の説明不足だった。二年前、お前に志望校を変えるように頼んだとき、詳しく理由を話すべきだった。お前は、私のことを誤解している」

「どう誤解しているの? お父さんは、お姉ちゃんがダメになっちゃったから、次に私がお姉ちゃんの役割をやればいいって思ってるんじゃないの? あいにくでした。私はお姉ちゃんほど英語はできないし、ピアノも弾けない。本を読んではそれを朗読するだけの、しょうもない女の子です。私にお姉ちゃんの代役なんて務まらない」

「そんな話はしていないし、お前にそんなことも求めていない。お前はお前だ」

「私は私? それってなに? お父さんの概念で、私のことを説明してよ。私って何よ。お姉ちゃんの影武者? 代役? 私にお父さんの会社を継げって言われても無理よそんなの。北大法学部なんて無理かもしれない。お姉ちゃんは病気しながらも碧星女子のハイコーストップクラスの成績で、症状さえ出なければ、お父さんの願うような進路をたどれる。残念でした、私には無理っぽいです」

「どうしてそうやって私に突っかかってくるんだ。誰もお前にそんな役割を期待していない。宏佳にだって同じだ。症状が緩やかに治まって、前のように、お前と仲のよい姉妹に戻ってくれればいい、そう考えている」

「ぶっちゃけ私に北大法学部目指せって言ってるじゃない」

「お前の高校なら、どんな親だってそれくらい言うだろう。そういうレベルの高校だ」

「お姉ちゃんの代りに私に跡を継がせたいからじゃないの」

「一言でもそんなことをお前に話したか。話していないだろう。娘だから跡を継ぐだとか、そういう甘い世界じゃない。お前が大学を卒業して、ウチの会社に就職したいなら、エントリーシートを入力して、一次面接から役員面接まで、一般の新卒採用とまったく同じ手順で受けさせる。配慮もしない。宏佳も同じだ。もちろん、私の跡を継いでくれる気持ちがあるならうれしいが、適性は別の話だ」

「積森一族ばっかりの会社なのに?」

「お前は社長になりたいのか。それとも宏佳が社長で、お前は役員として会社を経営したいのか。そういう気持ちでいたのか。だとしたら、私はとても残念に思う」

「違うの」

「違う。繰り返しになるが、進学先を変わってもらったのは、第一にお前の安全を考えたからだ。碧星女子はお前の高校ほど生徒数は多くない。同じクラスになる可能性だってある。学校で宏佳に症状が出たら、どうする。生徒の誰でもない、お前が恐怖の対象なんだ。病気がそうさせているとはいえ、自分を守るため、宏佳はお前を攻撃するかもしれない。そのとき、家にいるときとは違う。お前を守れない。第二に、宏佳はお前が自分になり替わろうと狙っていると思い込んでいる。そういう対象のお前が、一日ずっと同じ教室にいたらどうする。宏佳の精神状態は休まることがないんだ。すると、宏佳の心の安定も保てない。ひいては、宏佳の安全も守れない」

「じゃあどうして昨日は階段から飛び降りるようなことになったのよ」

「それくらい、まだ宏佳は不安定なんだ。鏡を見たのかもしれない。あの子は、極端に鏡を怖がっている。朋子にも聞いた。少し前、泣きながら電話をしてきたことがあったそうだ。あとで朋子は宏佳に訊いたそうだ。窓ガラスの向こうにニセモノの私がいた、そう話していた。鏡と同じだ。映った自分がお前に見えたんだ」

「だったら、お姉ちゃんを守るためにも、私が同じ学校にいたほうがよかったんじゃないの」

「お前、そういう理由で碧星女子に進みたいって思ったわけじゃなかったんだろう」

 言われて、自分のポケットの中で探し物をしているような気持ちになった。あの頃の気持ち、思い、それが、すぐに言われて見つからない。ああ、ポケットの中じゃない。ずっと整理していなかった机の引き出しだ。

「私は、お姉ちゃんのそばにいたかった」

「そんな理由のわけがないだろう。お前もはっきり怯えていた。宏佳のことを。戸惑っていただろう。私と同じだ」

「それが避ける理由になんてならない」

「私は避けていない。過度な接触にならないよう配慮をしているだけだ。あの子は、私のことも敵視している。今のお前のように」

「……敵視だなんて」

「違うのか。私の声はお前に届いているのか」

 父の言葉を受けて、私は自分がいつも自問している言葉に至った。父も同じ思いで過ごしていたのか、と。スカートの上に置いた手を軽く握る。父の言葉をつかみ、離さない。

 届いている。耳に、父の声は確かに。それが思考へ、心まで届いているのかどうかは、分からない。父の声は強くかった。でも穏やかだった。昔と変わらない声だった。本の読み聞かせをしてくれていたころと。

「……届いてる」

「宏佳にも届いていると思うか」

「えっ?」

「宏佳にも、私の声は届いていると思うか」

 そう言われて、すぐに答えられなかった。私自身の声も届いているのか分からない。そもそも、ずっと宏佳と会っていない。

「お前と接する時間がなくなってしまったように、私も宏佳と接する時間がなくなってしまった。だから、できるだけ、会えるときは私の声が届くように話していたつもりだった。その声が、あの子に届いていたのかどうか分からない。お前はどうだ。私の声は、きちんとお前の中まで届いているか」

「今は、届いていると、思う」

「お前は、自分のことを疑ったりしていないか」

「どういうこと?」

「さっきお前が話したとおりだ。お前が未佳ではなく、宏佳じゃないか、そう疑ったことがあると言っていた。今でもそう思うことはあるのか」

「もしかしたら、と思うことはある。もしかしたら、みんなが壮大な嘘をついていて、本当のことを言っているのはお姉ちゃんだけなのかもしれない。お姉ちゃんだけが本当のことを言っているから、苦しんでいるのかもしれない。みんなが寄ってたかって私たちのことをだまそうとして……だまそうと、というか、入れ替わらせようとして。私が本当は碧星女子に通ってて、お姉ちゃんが新琴似高校に通っているんじゃないかって」

「だがお前は宏佳の学校に行こうとしたりはしなかった」

「だって変だもん。私がお姉ちゃんの学校に行っても、何もできない。知り合いもいない。ううん、中学のクラスの子が碧星に入ったけど、そんなに親しい子じゃなかったし、だから、学校へ行っても友達もいなければ、授業だってわからない。だから私はお姉ちゃんの学校に行く理由がない」

「宏佳はお前のようには考えられない。だからお前の学校へ行こうとした」

「知ってる」

「お前の制服を着て、朝、朋子に会って、そのまま家を出て行こうとした」

「うん」

 今までも何度かあった。

 予兆はぜんぜん分からない。宏佳は私が眠っているあいだに部屋に入り、制服一式を持ち出して、そして着替えて、私になり切って、学校へ行こうとするのだ。そういうとき、母が異常に気付く。出かけようとする時間が早すぎるのだ。聞けば、あの人よりも先に学校へ行かなければ追いつかれるから、と。あの人って、ようするに私のこと。

 冗談半分で話したときのように、きっと私たちが制服を入れ替えて登校したら、ほとんどの子は気付かない。堂々としていれば、きっと分からない。でもお互いが入れ替わっても、共通の知り合いもいないし、そもそも学校の間取りもわからない。うまくいくはずがないよね、そうやって笑いあったこともある。なのに宏佳は、本気で私の学校へ登校しようとする。

「朋子は一目でお前じゃないと気が付く」

「うん」

「いくら見た目が全く同じ双子だからといって、完全じゃない。どこか違う」

「お父さんなら気づける?」

「分かる」

「本当に」

「雰囲気が違う。それは説明のしようがない。お前がまとっている雰囲気と、宏佳のでは、全然違う。きっと、お前や宏佳の親しい友達だって気が付くはずだ」

 ならば、千里だ。私と宏佳が入れ替わったとき、真っ先に気付くかもしれないのは千里。あの子は鋭い。千里に宏佳の話をしたことがない。今のクラスの子たちに、私が双子の妹だという話すらしたこともない。でも、千里なら気づく。そんなことを考えていたら、時計が気になった。一華も気づくかもしれない。あの子も勘がやけに鋭いから。

「宏佳はなぜ自分のことを否定するようになったのか、それは病気のせいだ。何かのきっかけでそうなったわけではないはずだ。お前が宏佳になり替わろうとしているという強い思いもそうだ。だから未佳、お前が気にする必要はないんだ」

「私、気にしてないよ」

 本当は気にしていた。自分のせいかもしれないと。同じ顔をしているから。

「そうなのか」

「お姉ちゃんも私も、それぞれに私たちだから」

「よく分からないが、ニュアンスは伝わるよ。けれど未佳、お前は無理をするな。お前は宏佳の心の切っ先が向かっている相手だ。真正面から受けると、お前もけがをしてしまう」

「それは私を気遣ってなのかな。それとも、お姉ちゃんのことを考えてなのかな」

「両方だ。今日これから会うとしても、落ち着いた様子でなければ、無理して会うことはない」

「出かけるとき言ってたことと違うじゃない」

「本当の宏佳は、お前に会いたいはずだ。でも会わせていいのかどうかわからない。お前も宏佳に会いたいと思うはずだ。でも、会っていいのかどうかわからない。そうだろう」

「……そうよ」

「会ってやろう。いつも同じ家で暮らしているんだ。会うべきだ。もちろん、注意を払ってだ」

「お姉ちゃん、もし、いつものお姉ちゃんじゃなかったら」

「そのときは、お前は会わない方がいいかもしれない。いや、顔を見せない方がいいかもしれない。お前は宏佳にとって鏡そのものだ。けれどそれは、お前の安全のことも考えてだ。身体だけじゃない。心の問題だ」

「私の心?」

「そうだ。お前はできるだけ普通の日常を送るんだ。お前は自分で説明する必要もなく、お前だ。未佳だ。お前自身が疑問に思う必要はないんだ、未佳」

 車は札幌の中心部にさしかかっていた。ライラックがちらほらと咲いているのが見えた。


 病院にはすでに母が着いていた。病棟の廊下に立ち、病室の中を向いていた。

「遅かったのね」

 母が父に言った。

「待ったのか」

「十五分くらいよ」

「信号のタイミングが悪かった。すまない。それで、宏佳は」

 父が問うと、母が病室の中を向き、

「私が来たらもう起きてた。ここは退院しても問題ないって。ただし、かかりつけの病院にはすぐ連絡を、と言われたわ」

「連絡してくれたのか」

「ついさっき。すぐに連れてくるようにって」

「私たちは会っても大丈夫なのか」

「一晩寝たら落ち着いたことは落ち着いたみたいなんだけど。それは本人の様子を見て、慎重に、とは言われたわ」

 私は廊下で立ち止まっていた。正直なところ、怖くて病室の中に入れなかった。私がきっかけで、また宏佳が恐慌を来したら、そう思うと。

「宏佳、大丈夫か」

 父があっさりと病室の中に入ったので、思わず父を追うように右手を伸ばしていた。やめて、そんな唐突に、と。つられるようにして、病室に足を踏み入れた。

「未佳、待って」

 小さな声で母がわたしに言った。振り向こうとしたとき、逆光でシルエットになった人影を見た。

「お姉ちゃん……」

 小柄なショートヘアの女の子が、窓から外を眺めていた。宏佳だ。父がいつもの歩幅のまま、宏佳の隣へ進んだ。そして、穏やかな声で言った。

「何を見ているたんだ」

「ここ、学校が近いから」

 宏佳の声がした。

「そうだな。ここから近いな」

 父の声が硬かった。

「ごめんなさい」

「なぜ謝る」

「けがをしたから」

「無事でよかった。心配した」

「本当に?」

「本当だ」

 私とまったく同じ声。口調が少しだけ穏やかかもしれない。まとう雰囲気が違う。そうかもしれない。私はもっとぶっきらぼうな受け答えをするだろう。いや、ちょっと待って。何かが違う。

「思い出さなくてもいい」

「うん」

「未佳も来てる」

 父が言うと、ゆっくりと宏佳が振り返った。窓からの光で、表情が見えなかった。

「未佳、」

 宏佳ははっきりと私のことを名前で呼んだ。

「来てくれたんだ。学校は?」

 おずおずと、という調子で、宏佳に歩み寄った。ああ、本当に鏡を見ているようだ。私が窓辺に立っている。

「お姉ちゃん……が、無事なのを確認したら、学校へ行く」

「わたしは大丈夫だよ。頭の後ろ、少し痛いけど」

 並び立つくらいの距離まで近づいた。宏佳に抱いた違和感が、少し大きくなった。声音も口調も、落ち着いているときの、「お姉ちゃん」でいるときの宏佳だった。

「少し切ったみたい。ダメだよ、見たら。髪の毛、少し剃られちゃったんだ」

 宏佳は穏やかに笑って見せた。私は、緊張が暖かいお湯に溶けるように、ゆっくりとほぐれた。薬がきちんと効いているのか、それとも、いわゆる急性期を過ぎたのだろうか。お姉ちゃんがお姉ちゃんでいてくれている、そう思った。思ったけれど、違和感はさらに大きくなった。違う、と感じた。お姉ちゃんじゃない。よく似ているけれど、この人はお姉ちゃんじゃない。

「未佳、なんか久しぶりに会うね」

「そうかな」

「しばらく会っていなかった」

「学校へ行く時間も違うし」

「未佳が学校へ行く時間、早いもんね」

 私になろうとして、私の制服を着て家を出ようとしたお姉ちゃん。その姿を、今は想像ができなかった。新琴似高校の制服を着た宏佳。それは、今の私そのものだ。宏佳が新琴似高校の制服を着て家を出ようとした姿は、きっと私がいつも登校する姿と変わらないに違いない。

「お姉ちゃん、このあいだ、『水の戯れ』、ずいぶん長く弾いていた」

 それでも、姉と話ができることに喜んだ。うれしかったのだ。もし、お姉ちゃんがお姉ちゃんでいてくれるなら――。

「聞いてたの?」

「聞こえてた。私の部屋に。隣だから」

「そうか、聴いていてくれたのか」

「うん」

「あなたは練習していないの?」

「ピアノを?」

「そう」

「ほとんどしてないよ」

「もったいない。指が硬くなるよ」

「もう硬いよ」

「すぐに柔らかくなるよ」

 そうしてにっこり笑った宏佳の表情に、なぜか、背筋に刃物を突き付けられたような恐怖を感じた。目が笑っていない。口元に違和感がある。やっぱり雰囲気がおかしいと思った。お姉ちゃんじゃない、もうほとんど確信的に、直感的にそう思った。これは、演技だ。お姉ちゃんは、お姉ちゃんのふりをしている。

「未佳の『亜麻色の髪の乙女』聴かせてほしいな」

「もう弾けないよ」

「たまに弾いているの、知ってるよ」

 真正面から見据えてくる宏佳の視線がつらくて、目を落とした。ときどきいまでもピアノを弾いているのは本当だった。そうか。お姉ちゃん、知っていたのか。だから言った。

「聞かれてたのか」

「上手だったよ。でもね、毎日最低一時間の練習だよ」

 顔を上げた。宏佳の目は薄茶色で、日を受けてキラキラしていた。こうしていると、本当に鏡と向かい合っているような気分になる。そして、言葉の端々は昔の宏佳のものだった。

 宏佳を抱き寄せて、「帰って来て、お願い」と叫びたい気持ちになった。宏佳が次に口を開かなければ、きっと本当にそうしていた。そうしたら何かが壊れてしまうような気もした。

「そろそろ学校、行かなくていいの? わたしはもう大丈夫だよ」

 宏佳が少し首を傾げて言った。

「うん……、分かった」

 父を見た。傍らに立ち、様子を見ていた。母は病室の入り口にいた。

「お父さん、じゃあ私、学校へ行く。お姉ちゃんのこと、お願い」

「わかった」

「じゃあ、行くね、お姉ちゃん。けががたいしたことなくて、本当によかった」

「気を付けてね」

 うなずいて、ほっと一息をついた。もちろん、宏佳に見えないように聞こえないように。

 病室を中ほどまで戻る。母がじっと私を見ていることに気が付いた。これでは舞台から退場する役者のようだ。事実、そんな気分になっていた。私は妹を、未佳を演じている。

「お母さん、私、学校へ……」

 母がほんのわずかに目くばせをしたのが分かったので、廊下に出ると、壁を周り込んで母の横に立った。そのとき、部屋の中から()()()がした。

「うまくなりすまそうとしたって、わたしは騙されないんだ」

 電流に撃たれたように顔を上げた。反射的に病室へ戻ろうとするのを、母が制した。

「こんなところまで、わたしを追いかけてくるなんて。お父さん、どうして黙っていたの? あの子は宏佳だよ。私のことをニセモノだってわざわざ言いに来たんだよ」

 はっきりと私の口調だった。私がしゃべっているみたいだった。嘘だ。お姉ちゃん。

 母が私の手を握っていた。

「未佳、聞いて。本心じゃない。ああ、止めればよかった。もう私も落ち着いたと思っていたのに」

 頬が熱かった。

「未佳、病気のせいだから。あの子の本心じゃないから」

 目を見開いたまま、涙を流していた。止まらなかった。大雨だ。大粒の涙が、止めようもなく、次々にあふれ出して、頬を熱くした。床にぽたりぽたりと涙が落ちる音が聞こえた。

「未佳、宏佳は私が病院へ連れて行くから。あなたは、しっかり気持ちを落ち着かせて。今日は学校を休んでもいいから」

「いいよ、大丈夫。これから学校へ行くよ。三時間目には間に合うかもしれない。部活もあるし」

「……気を付けてね」

「お母さん、お姉ちゃんのこと、本当に、お願いね」

 足元にはまだ、涙がぽたりぽたりと落ち続けていた。

 あとで聞いた。宏佳はそのまま母の車でふだんかかっている病院に向かい、そのまま入院が決定してしまったんだ。



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