鏡
わたしは校舎の窓から、学校の敷地の外の住宅街を眺めていた。外を歩く人の姿が見えた。コートを着て長袖に丈の長いスカート姿だった。今日は少し寒いからだ。教室の中は当然全員が冬服だった。衣替えまではまだ一か月。札幌では、六月を過ぎても長袖が欲しい日がある。衣替えの期間になっても冬服で登校する子は多かった。窓の外に見えるのは、札幌の中心街から少し外れた、古くからの住宅街だ。その手前に芝生と立木、それから創立記念館。眺めながら、両手の指が、ノートの上で鍵盤を探して踊る。無意識の行動。
英語の授業だった。
予習をしていたから、長文を読んでいても迷子になることはなかった。そのせいか、視線がつい外を向いてしまったのだ。いけなかった。
「積森さん」
英語教師の抑えた声。
「Did you see something outside that caught your attention?」
ものすごくきれいな発音だった。
「I'll say it again, Miss Tsumori. Is there something outside that you’re curious about? Please answer.」
「すみません」
聞き取れたし、意味も分かったけれど、日本語で答えた。日本語禁止の授業もあるけれど、今日は違う。
「次の例文、積森さんが読みなさい」
読むだけでいいの? だったら楽だよね。そんなことを考えながら、教科書を向く。
「始めなさい」
言われ、科書を立て気味にして、長文に目を落とす。
「When I think about why I was born, I feel it is to see, know, and experience the world. With gratitude, I wish to share this with many people. To do this, I have considered what I can do.」
「続けて」
「Today, there are many ways to communicate. However, I believe that no matter the method, communication means talking and listening to each other.」
「はい。いいです。ありがとう」
少し目が悪くなったかもしれない。黒板は何ともない。ただ、窓から見た札幌市中心街のビル街がぼやけて見えた気がした。
「積森さん、きちんと予習してきたでしょう」
「は?」
「上手に読んだから」
「はい」
答えると英語教師の小谷先生は満足げにうなずき、続いてわたしが読んだ文章の翻訳をさせようと、通路を歩きだした。小谷は留学経験があるとか、彼氏がアメリカ人だとか、私たちの興味の的だ。
「じゃあね、広島さん」
「はい」
「一節ずつでいいから」
「はい」
三列後ろの教室中央の席。広島緑理がすらすらと訳を始めた。
自分のノートに書いてある自分が翻訳した予習の結果をなぞりながら、緑理のよどみない訳を聞いていた。
「Verry well. Miss Hiroshima.あなたも予習をきちんとしてきたのね」
顧みると、緑理と目が合った。小谷が向き直った瞬間に、わたしへ少し遠慮がちなウィンクを飛ばしてきたので、わたしも微笑んでみた。
小谷はその後、例文内の慣用句や単語について説明を始めて、文章の内容そのものには全く触れなかった。そして例文にない慣用句の説明を始めた。こうしてこの先生は生徒を混乱させる。自分に酔いしれるように解説が熱を帯び始めて、反対に教室の温度は下がる。もう生徒の様子など見ていない。遠慮なく、窓際からわたしは外を眺めることにした。
窓から見えるのはライラックの木。その向こうに住宅街。この風景を見るのも五年目。すっかり慣れてしまった。
いまは午後の授業だから、みんなもうけだるい雰囲気を醸し出しているのが窓際にいてもわかる。意外とボリュームのあるお弁当を食べたので、気を抜けばうとうとしそうだ。五時間目が体育だったら、もっとゆっくり食べた。緑理や水上かすみ、佐藤菜摘とのおしゃべりの熱気で、つい急いで食べてしまった。
ずっと遠くにヘリコプターが飛んでいるのが見えた。
いいな。空から街を眺めるなんて、憧れる。
きっとそうやって呟いたんだと思う。
「空を飛びたいの?」
菜摘がわたしの顔をのぞきこんでいる。
ハッとした。もう五時間目は終わっていた。ネイティブがよく使うとかいう慣用句を嬉々として説明するあまり、授業の途中でチャイムが鳴った。まったく悪びれもしない小谷はさっと身をひるがえして教室をあとにし、目を開けたまま眠っていたのかと自分を疑った。隣の席の玲奈が数学の教科書を出している。
「修学旅行で飛行機に乗れるよねぇ」
教壇の前の席からかすみも寄ってきた。九月の修学旅行の話なら気が早すぎる。
「菜摘、飛行機乗ったことないの?」とかすみ。
「ないよ。だからさ、怖くない?」
玲奈はわたしたちに一瞥をくれてからさっと席を立って、廊下側にいる金子たちのグループに合流した。
「高所恐怖症だもんね、菜摘はさ」
「積森さん、もしかして具合よくない?」
緑理が声をかけてきた。玲奈の机に乗っかって。
「どうして、別に全然」
「ずっと外見てたから、ちょっと心配になっちゃったよ」
「そんなに見てないよ」
「小谷先生に途中から目をつけられてたよ」
だから当てられたのか。当てられても特に困らないんだけど。
「本当に調子悪くない?」
「うん、大丈夫」
「ならよし」
緑理も菜摘もかすみも、この学校で知り合った。緑理とかすみは中等部一年生から。菜摘は高校からの入学、「高入生」。
「私数学はちょっと……」
「なっちゃんは得意なのとそうでないのの落差がね」
緑理が笑った。菜摘はときどきなっちゃんと呼ばれる。小学生みたいだ。ただし、呼ぶ滝はアクセントが違う。「なっちゃん」は平板に発音しなければならない。
「そろそろか。戻るね」緑理が離れると、ほかの二人も離れた。休み時間になると、三人はなぜかいつもわたしの席にやってくる。
気遣うように。
七時間目のあと、まっすぐ帰らず、音楽室に行った。
音楽室には、音楽科以外の生徒も自由に使える練習室が三部屋あって、アップライトピアノが一台ずつ置いてある。一室の利用申請用紙に名前を書いて、ピアノの前に座った。
小学校に入る前から、ピアノを習っている。どうしても、とお父さんにねだった幼稚園生のわたし。そのときの記憶もある。
つらくても投げ出さないこと。
毎日必ず一時間練習すること。
その二つを約束したら、家の一室に工事が入って、それからピアノが届いた。真っ黒で鏡面のように光るアップライトピアノのあの日の姿が忘れられない。すぐにピアノ教室に通うようになった。
つらくても投げ出さないこと。
音が出るだけで楽しかった時期は短かったと思う。楽譜の読み方を教わって、メトロノームに合わせて弾けるようになって、初めての発表会に出て。
指はすぐに硬くなる。帰宅してからもピアノに触るのに、学校の練習室でもピアノを前にしているのは、指が硬くなるのが怖いからだ。
スケールを何往復か弾いて指を慣らす。そこまでして、窓が閉まっているのか確認した。
ピアノを習い始めたのは四歳だ。だから初めてもう十二年。楽器を一人前に弾きこなすには十年かかると聞いたことがある。指慣らしのスケール。それから『主よ、人の望みの喜びよ』を弾いた。弾き終えたタイミングで、練習室のドアがノックされた。
えっ、誰? うるさかったかな、絶対そんなことない。
「積森さん、いい?」
緑理だった。バスケットボール部の練習着を着ていた。
「いいよ。どうしたの?」
「うん。とくに大したことはないんだけど」
「部活は?」
「ちょっと抜けてきた」
わたしのことが気になって? どうして?
「ねえ、積森さん、弾いてよ、ピアノ」
「え、ちょっと突然どうしたのさ」
「聴きたくなった。うん、そう。積森さんのピアノを聴きたくなったから、部活抜けてきた。いいの。少しくらい」
「練習ハードなの?」
うちのバスケ部はそこそこ強い。ハードじゃないわけがない。道内の名だたる強豪校ほどではないけれど、私立校のメンツをかけているくらいは強い。中高一貫生がいるのも強さの秘密なんだと思うけれど。そんなバスケ部で練習の中抜けなんて許されないはず。
「積森さんのピアノ聴いたら戻るよ。合唱祭まで待ちきれなくて」
「またわたし、伴奏かな」
「当たり前じゃんよ、その腕前でピアノ弾かないとかありえない。積森さんのピアノで最優秀賞取れる」
「それって微妙なんだよな。音楽科じゃないし……」
「中等部のとき、先生に言われるまで黙ってたでしょ、ピアノが上手いこと」
「言ったら絶対に伴奏だもの。たまには歌いたい」
「弾きながら歌えばいいじゃん、って思っちゃったら失礼か」
「弾き語りかい」
「無理か」
「無理」
「わかったわかった。どっちみち合唱祭まで待てないから、一曲お願いします。これあげるよ」
そう言って緑理はまだストローの刺さっていないパックのオレンジジュースをピアノの上に置いた。
「いいよ、それ緑理が飲むんでしょ」
「ただで聴かせてもらうのも悪いから。いや、ほんとうにそれくらいの腕前なんだって積森さんは」
熱意にほだされて、弾いた。ショパンの『華麗なる大円舞曲』を。緑理の気持ちが上向いて、練習がうまくいきますように、の思いを込めて。約四分半。
弾いていると、無心になれる。
きちんとすべての音符を音に出したい。
弾き終わると、
「おおー」
緑理が目を見開いて、本気の拍手をくれた。
「ありがとう。やっぱりすごいや。積森さんはピアニストだね。なんでウチの音楽科入らなかったの? 音大目指すの?」
「音大?」
考えたこともなかった。わたしはずっとピアノを弾けたらいいと思っていて、それを仕事にしたいとか、音楽理論を学びたいと思ったことはなかった。理論的に音楽を学んだら、弾く音が変わるのだろうか。だとしたら少しは興味があるのだけれど。ウチの学校の音楽科を受けなかったのは、単に父親の意向だった。父親は普通科から国公立大進学を願っていた。
「積森さん成績もいいし」
「進路については、まだ何も考えてない」
「そうなの? これだけ弾けたら芸術系の大学行けるんじゃない? もったいないよ」
「音楽科の子たちは一日六時間くらい練習するらしいよ。私なんてまだまだ。緑理はどうなのさ」
「私はバスケ選手にはなれませんので、どこかの国公立大学で法律を勉強してみたいけど、模試の結果いかんによっては、ウチの大学に行くかもしれません」
「なによ、よそよそよしい」
「親は何か言ってないの?」
「……昔は、言ってたよ。北大に行きなさいって」
お父さんは北大法学部卒だから。娘にも同じキャンパスを歩いてもらいたいと思っているから。それから、きっと自分の会社を任せたいと考えているから。
「今は?」
父親はいま、距離がある。あまり会わない。会うと身体の心配をされる。母親もそうだ。きちんと薬を飲んだかの確認係になっている。
「今は、話してない」
「そっか」
「二年生になっちゃったね」
「まだ二年あるよ。たくさんいろいろやろうよ」
「そうだね」
「安心した」
「ん?」
「体調よさそうだから。困ったことがあったら、いつでも言って。私でよかったら、本当に。力になれることは何でもするから」
「ありがとう」
「鬼どもにしばき倒されるから、戻るね」
「頑張って。インターハイに出る緑理を見てみたい」
「チームは出るかもしれないけど、私が試合に出るかどうかはわからないよ」
「出られるって」
「ありがと。このまま帰る?」
「もう少し学校にいる」
「もし部活終わっても残ってたら、メッセージちょうだい」
「わかった。連絡する」
「じゃあね」
緑理は練習室を出て行った。ドアが閉じると、途端に静かになる。わたしが音を出すまでは。
耳鳴り。
とっさに目を閉じた。
聞こえませんように、聞こえませんように。
わたしの名前を呼ぶ声が、聞こえませんように。
強く目を閉じた後、なにごとも起きなかった世界にただ一人。私は窓の外を見る。
住宅街の家並が続いているだけだった。
ドラマや映画で、生徒が校舎の屋上に出て、陽を浴びてキラキラした青春を送るシーンがあるけれど、この学校の屋上は施錠されていて立ち入りできない。四階から屋上へ上がる踊り場の窓が、一番この建物で高い場所にある窓だ。
窓から外を眺める。踊り場の窓は教室とは別の方角を向いていて、札幌の中心街は見えない。かわりに、藻岩山が見える。
七時間目が終わって、放課後になって二時間は過ぎ、外はもう暮れている。窓ははっきり西向きだから、沈んだ太陽の残光が空を彩っているのが美しく見えた。
部活には入っていない。中等部では演劇部に入っていたが、高等部に進んで少しして辞めてしまった。
続けていけなかった。
……あの人のせいだった。
足元に置いたカバンにつま先が触れた。からからとカバンの中から音がする。お弁当箱ではない。ピルケース。今日のお昼の分は飲んだ。空になったケースが遊んでいるのだ。
練習室を使えるのは一人一時間まで。練習室を出ると、放課後の長い午後がそこかしこから主張してくる。カバンが重く感じる。カバンを抱いて、三階から屋上への踊場へ向かった。ここに誰かが来ることはほとんどない。というか誰かと会ったことがない。階下のざわめきはここまで届いてくる。窓から見える藻岩山と、すそ野に広がる札幌の街。中学一年生からこの学校に通い始めて、もうすっかり見慣れた風景。
帰ろうと思いながら、タイミングを逃して、窓から外を見ていた。緑理が部活を終えるのを待っていたら、七時を過ぎてしまうなあとぼんやり考えていた。部活にも入っていないのに遅くまで学校に残ることをお母さんがきっと心配する。学校にいるとわかっているうちはきっと大丈夫だ。
今どこにいるの?
学校。友達としゃべってる。
きっとこんなやり取りで納得してくれる。
お父さんはどうだろうか。七時じゃ、まだ家に帰っていない。
は階段に座って、少し暗い灯りの下で、カバンを開けた。ピルケースのカタカタが気になったから。サイドポケットに入れなおそう。ずっしり重いのは聖書。朝の礼拝では何の話をしていたんだっけ。心の目がはっきりと見えるように……、エペソ書、確かそうだった。
肌寒い。制服の上にカーディガンを着てきたが、コートのほうがふさわしいくらい、日が暮れるとまだ寒い。耳が冷たかった。バスケットボール部の女の子のように、短く切った髪の毛。どうしてこんな髪形にしたのか、寒い日は特に思う。中等部の一年生のとき、役になり切りたくて髪を切った。
階下のざわめきが大きくなった気がする。部活が終わったのかもしれない。七時間目が終わってまっすぐ帰っていれば、いまごろとっくに家に着いている。家に帰って、何をするだろう。着替えて、部屋で予習復習をするかもしれない。ピアノの練習をするかもしれない。個人レッスンの曜日は今日ではないけれど、お父さんとの約束はまだ有効だから。
つらくても投げ出さないこと。
毎日必ず一時間練習すること。
学校行事や家族の旅行で家を離れるとき以外、ピアノが届いてからの約束を破ったことは――。
目を閉じた。
白い天井、処置室、待合室。
心が、いや、胸がざわざわする。
鏡を見ているような……。
わたしがわたしではないと。
自我を疑うような。
背中に刃物を突き付けられているような不安がやってくる。
あの兆候だ。
怖い。
わたしが、わたしではなくなってしまう、あの感覚。
ピルケースを取り出そうとして、カバンの中に入っていないことにあわてる。
待って。
違う、入れなおしたんだ。カバンのサイドポケットに入れた。
手が震える。ピルケースを取り出して、パッケージの封を切ろうとしたが、うまくいかない。待って、落ち着いて。深呼吸。ゆっくり。呼吸を整えてから、パッケージから直に薬を吸った。顔をしかめるほど苦い。すぐには効かない。じっと待っていれば時間差で効果が出るのはわかっている。それまで、どうか、来ないで。
顔を上げると、暮れていく外の暗さに、窓ガラスが鏡になっていた。
そこには、わたしがいた。ひどくおびえた顔をしていた。
誰?
あなたは、誰?
瞬きを忘れて、ガラスに映った彼女を見つめる。ずっと無言だった。目を見開いて、そこにいてはいけないものを見たかのような、驚愕の表情だった。
来ないで。
目を強く閉じた。瞼の裏に七色の波紋が広がった。知らず、声が漏れていた。
「来ないで」
早く効いて。口の中に広がったままの猛烈な苦みを忘れるほど、わたしはわたしに射すくめられて慄いていた。わたしが、わたしでなくなってしまうような。
息を整えようとしても、空気が薄くなったようで苦しかった。ああ、昔、過呼吸になったクラスの子がいたっけ。苦しそうだった。先生が冷静な声で、呼吸を整えて、急いで息を吸わないで、少し息を止めて、そんなことを言っていた。
過呼吸ではなかったけれど、先生の言葉を守ってみた。深呼吸をしないで、一定のリズムで息をする。そうだ、メトロノーム。ゆっくりした曲のイメージだ。
不意に遠くから、ドビュッシーの『亜麻色の髪の乙女』が聞こえた気がした。どこかの部屋の中で弾いているような。音楽練習室からは離れているし、三階の教室にピアノはない。耳の奥で誰かが奏でているのだ。あの人が……あの子が弾く『亜麻色の髪の乙女』。
耳に心地の良いタッチ。それが助けになるかとでもいうように、やさしく耳の奥で鳴っていた。曲に合わせて、本当にメトロノームをイメージして、振り子を先端に近づけて、遊錘を外した。
薬が効き始めたのか、メトロノームが効いたのか、だんだんと落ち着いてきた。それでも窓ガラスを見ることができない。そこにはわたしがいるから。わたしがわたしを見つめてくるから。怖くて見られない。
ドビュッシーはまだ遠くで聞こえていた。ゆっくりと、終わりに近づく。曲の終わりを待たず、フェードアウトした。
緑理。
まだ部活、終わらないの?
薬が効いてくると、少し脚に来る。一包全部飲んでしまったのだから当然だ。ふだんはこっそり、数敵を舐めるように飲む。または水に溶かす。こんな強く不安が出たのは久しぶりだと思った。嫌だ。
すると、見透かしたように、スマホに通知が来た。まだ少し震える指でスマホのメッセージアプリを開いた。
〈いまどこにいるの?〉
お母さんだった。
不意に涙があふれた。
ものすごく、お母さんに会いたいと思った。なんだよ、これじゃ、子供じゃないか。
鼻が鳴る。涙が止まらない。スカートのポケットからハンカチを取り出して、涙をぬぐった。それでもとめどなく涙があふれてくる。変だ、薬が効いてきたはずなのに。いや、まだ薬は効き始め。まだ心はあっちにあるんだ。
〈まだ学校。これから帰る。〉
フリックする指が涙で濡れているせいか、うまく入力できない。まるで夢の中でスマホを操作しようとして失敗するみたいに。
夢?
これが夢だったら?
これは夢なの?
違う、違う、違う。
これは夢じゃない。わたしは確かにここにいる。碧星女子中学高等学校の、校舎の、三階の踊り場に。
碧星女子?
わたしはここの学校の生徒?
本当に?
夢ではなくて?
愕然として窓を見た。ほとんど反射的だった。明暗差で鏡になった窓ガラスに少女が映っている。ショートヘア。二重。大きな目に小ぶりな鼻、薄くも厚くもない唇。丸みを帯びた頬のライン。ほっそりした顎。見慣れた顔。
これは、本当にわたし?
薬が効いていない。また過呼吸気味になる。深呼吸を避けて、一定のリズムで。メトロノーム。
〈気をつけて。遅くなるときは連絡してね。〉
母からのレスは早い。スマホを傍らに置いているんだと思う。
とっさに音声通話をタップしていた。呼び出し音が鳴る。すぐにお母さんが出た。
「どうしたの?」
「お母さん……わたし」
ものすごい涙声だった。
「あなた、大丈夫? 具合が悪くなったのね?」
「うん」
鼻をすすりあげる。
「お母さん、ごめんなさい。助けて、不安なの」
絞り出すように言った。それ以外に適切な言葉はなかった。
「落ち着いて。大丈夫よ。ゆっくり息を吸って。いまどこ? 学校? 誰かいないの?」
「わたしひとり。ごめんなさい、突然、おかしな電話を」
家できっと一人でリビングかキッチンにいるお母さんの姿が明確なイメージで降ってくる。
早く、帰らなきゃ。一刻も早く、家に帰らなきゃ。
「お母さん……」
「まだ学校なのね。わかったわ、迎えに行くわ。待っていられる? すぐに出るから」
電話の向こうがあわただしくなった。本当にお母さんは迎えに来る。札幌の街を横断して。
「待って、お母さん、大丈夫、わたし、ちょっと不安になっただけだから、本当に、本当に大丈夫」
すぐに迎えに来てほしい、お母さんが運転する車が学校の前に到着して、迎えてくれる姿がすぐに浮かんだ。もし、いますぐに来てくれるのであれば、来てほしかった。そうはいかない。わたしの家は、札幌の市街地を跨いで十数キロ離れているのだから。地下鉄とバスを乗り継いで一時間弱もかかるのだ。
「あなたが電話をしてくるなんてこと、ないから。薬あるの? まずは薬を飲みなさいね」
「飲んだ」
「いま、座れる場所? 学校のどこ?」
説明しようと思ったけれど、この場所をどうやってお母さんに伝えればいいだろう。七時間目が終わったあと、ピアノを練習して、そのあとずっとひとりで屋上に上がる踊り場にいたなんて、不安をあおるだけで説明にならない気がした。
「教室の近く」
嘘ではなかった。
「今からだと一時間くらいかかってしまう。待てる?」
同じ心配をお母さんもしたようだった。待てないと思った。お母さんが迎えに来るのを一人で待つくらいなら、こっちからお母さんに近づくしかないと。自力で帰らなきゃ。
「お母さん、大丈夫、一人で帰れる」
踊り場をあとにしようと立ち上がった。そのとき、ガラスに映ったわたしの姿が見えてしまった。
あなたは、誰?
どうか、わたしをわたしのままでいさせて。
あなたは、わたしじゃない。
「ねえ、聞こえてる? 大丈夫? 待っていなさい。出来るだけ急いで迎えに行くわ」
お母さんの声に引き戻される。
「大丈夫、本当に」
涙がとめどなくあふれて、セーラー服の前襟にぽたぽたと落ちている。
なんでこんなに不安になるの。
お願いだから、わたしをわたしでいさせて。
「つらいのね、わかる。でも、あなたはあなた。目を開けて、周りを見渡して。あなたがいるのは、いつも通っている学校の中なのよ」
「うん」
「目を閉じちゃだめよ。耳もふさいじゃだめ。目を自然に開けて、周りを見て。鏡があっても、それは見ちゃだめよ」
「うん」
「あなたが誰かが何かを言ってもね、それは違うの。心配しないで、あなたはしっかりあなただからね」
「うん……」
「落ち着いてきた?」
「うん。だから大丈夫。わたしはひとりで帰れる」
「一時間待てない?」
「一時間あったら、わたし、家に帰れる」
「確かにそうだけれど」
「大丈夫。薬も飲んだから、お母さんと話をして、落ち着いたから」
お母さんが言ったとおり、目を閉じないで、かといって窓に映った姿も向かず、白っぽい照明に照らされて続く廊下を見た。耳もふさがなかった。自分の荒い息が聞こえた。遠くから生徒たちの声。
わたしがわたしではないと呼ぶ声は聞こえない。
短距離を全力で走った後のように、ゆっくりと呼吸が戻ってくる。
「息が落ち着いてきた。少し休んでから帰るのよ。本当にいいのね、自分で帰れる?」
「約束するよ」
「わかった。あなたのことを待っているから」
「ごめんなさい。ありがとう」
「約束よ。きちんと家に帰ってくること。途中で不安になったら、どこの駅でもいいから、私に連絡をちょうだい。すぐに迎えに行くわ」
「薬が効いてきてるから、たぶん大丈夫。約束」
「無理しないこと。私があなたを迎えに行くことなんて、簡単なのよ。一緒に帰りましょう」
「怖くなったら、また連絡するから。ありがとう」
「気を付けてね。新さっぽろ駅までは迎えに行くわ」
心配するお母さんに言葉を伝えて、音声通話を切った。
膝が震えた。本当に薬が効いてきたんだ。この薬は脚に来るから。歩ける。帰れる。涙をハンカチで拭う。背後からは、まだ不安という刃物が突き付けてくる。抗うことは難しい。魔法はないから、薬に頼るしかない。お母さんの申し出を受ければ――迎えに来てもらえばよかったかと思ったが、一時間後というと八時を過ぎてしまう。学校は誰もいなくなる。守衛さんに追い出される。事情を言えば残らせてくれるかもしれないけれど、誰もいない校舎の中で一時間もお母さんを待つのは嫌だった。地下鉄に乗って帰った方がいい。
スマホがマナーモードで鳴動した。すかさず見た。
〈部活終わったよ。まだ学校にいる?〉
緑理だった。
〈いるよ〉
あえて、平常を装った。
〈わかった。一緒に帰ろう〉
嬉しい。素直に嬉しかった。
〈いまどこにいるの?〉
続けて緑理。
〈屋上に上がる階段のところ〉
と打ちかけて、消した。こんな場所、説明できないし、なぜここにいたのかも説明したくない。きっと訊かれる。どうして踊り場なんかにいたの? わたしは答える。街を眺めていたから。藻岩山を見ていたらこんな時間になっちゃった。半分は本当だけれけど、半分は嘘だ。どうしてこんな場所で粘っていたのかよく分からない。お母さんに教室の近くだと説明したのと同じ展開になる。
〈いま教室だよ〉
階段を下り、廊下を歩きながら打ち込んだ。教室の近く、より、教室にいる、という事実のほうが説明が簡単だし、緑理と落ち合うのなら、自分の教室に戻ったほうがよかった。照明がまぶしい廊下を進む。ガラスに映った自分は全力で無視した。上履きの音。部活を終えた生徒たちのざわめき。五年生――高等部の二年生の教室はもうすぐだった。
教室は灯りが消えていた。外の街並みがガラスなんてないみたいによく見えた。灯りを点けるかどうか迷った。点けたら廊下から飛び込んできたわたしが正面から見える。点けなければ、迎えに来るであろう緑理が怪しむ。少し迷った末、スイッチを入れた。途端に教室が息を吹き返した。
誰もいない教室だった。ただ、七時間目が終わった後の気配だけは残っている。クラスメイトたちの匂い。消すことができない気配。窓際の自分の席に向かおうとしたが、ガラスに映るわたしがどんどん迫ってくるのを見て、教室中ほどの、阿川七生の席に座った。彼女は高等部から入学の高入生。少し近寄りがたくて、同じグループになったことはない。きれいな机だった。七生の気配はしなかった。机の中も空っぽだ。ハイコースの生徒で置き勉する子はあまりいない。そんなことをしたらすぐに置いて行かれる。
「一人でいたの?」
声に振りいて立ち上がると、緑理がスポーツバッグに通学カバンを肩にかけ、重装備の雰囲気で立っていた。
「教室で」
「教室には、いなかった」
「音楽室にいたの?」
緑理が入ってくる。彼女の席は、窓際のわたしの席から三列後ろの教室中央。七生の席と同じ列だ。緑理は自分の席には座らず、七生の廊下側となり、小林麗子の机に腰かけた。
「練習室は一時間のきまりだから」
「図書室? まさかホールってわけじゃないだろうしね。今朝の礼拝眠そうにしてたよね」
心の目を――。
「緑理さ、学校の中で行ったことのない場所ってまだある?」
「え? あるかな。ヘンリクセン寮にも行ったことあるし、ないかも」
「屋上に上がる階段があるの、知ってる?」
「屋上なんか出られたっけ」
「出られない」
「だよね」
「その出られない屋上に行く階段があるんだけど」
「うん」
「そこの踊り場から、街がよく見えるんだよ」
「そこにいたの?」
「うん」
「ずっとひとりで?」
「そうだよ」
「どうして」
「どうしてかな。街を見たかったからかな」
「教室からも見えるのに」
言って緑理はちょっと困った顔をした。緑理のこの表情が少し苦手だ。苦手というより、避けたい。こんな顔されたくない。
「藻岩山が見えた」
「うん」
先を促す返事だった。
「日が沈んで、一瞬暗くなるんだけど、すぐに街の灯りで明るくなるんだ。森になってるところは黒っぽくて」
「ずっと見てた?」
「そうだね」
「藻岩山、今度行こうか? 夜景見に。かすみも菜摘も一緒に」
「四人で?」
「そう。四人で。学校帰りっていうわけには、行かないと思うけど」
「昔、小さいころ、藻岩山から夜景を見たことがある気がする」
「なにそれ、覚えてない?」
「あんまり。ウチはお父さんが忙しくて、あんまりいろんなところ連れて行ってもらえないから」
「積森さんはご令嬢だからなぁ」
「そんなんじゃないってば」
「いや、ご令嬢だよ。家に行ってびっくりしたもん」
「お祖父ちゃんが建てたの。わたしが建てたわけじゃないから。関係ないもの」
「まあね。いいよ。積森さんがどんな家に住んでいたって、いまの私と積森さんの関係は変わらない」
強い声で言われて、慌てて顔を上げた。知らずうつむいていたのだ。緑理が正面から見ていた。やや薄い茶色の目が、瞬きもせずにわたしを向いている。
「具合、悪くなったんだね」
わずかに視線を下げて、緑理が言った。確信を持った言い方だった。
途端に鼻の奥が痛くなった。止めようもなく、また涙があふれ出した。
「積森さん……」
カバンを麗子の机の上に置いて、身軽になった緑理が、わたしの背中に腕をまわして、そのままそっと抱いてくれた。
「緑理」
「怖かった?」
「うん」
「怖いよね」
「うん」
「もう、大丈夫だから。お薬は飲んだの?」
「飲んだ」
「ひとりでただ黙って外なんて眺めていたら、寂しくなっちゃうでしょ」
「……寂しかった。すごく」
「もう大丈夫だよ」
頬を伝って、熱い涙が止まらなかった。心の昂ぶりからの涙ではないと思った。安心感だ。誰かがいてくれる、わたしのそばに。わたしがわたしであると証明してくれる誰かが必要だった。緑理は間違いなくその筆頭で、彼女がいなかったらもう生きていなかったかもしれない。依存しているつもりはなかったけれど、態度に出てしまうと、が緑理の負担になってしまうのではないかと、そのことも不安だった。口に出したことはない。気を付けている。それはこうして抱きしめられると霧散する。
「積森さん、落ち着いて」
「大丈夫」
緑理は、母親が子供にするように、わたしの後頭部を優しくなでた。いい子、そんな風に。ただ、緑理の身体が暖かかった。制汗剤の匂いがした。
「部活で疲れてるのに、ごめん」
わたしはひどい涙声だ。しゃくりあげてやっとの思いでつぶやく。
「チームについて行くのが、やっとです」
耳元で緑理の声。
「緑理、ありがとう、落ち着いた。もう大丈夫だよ」
抱きしめてくれていた緑理の腕の力が、すっと弱くなる。身体が離れる。
「ハンカチ持ってる?」
「持ってる」
「積森さんの泣き顔、いつぶりかな」
「やめてよ」
渾身の力で笑って見せた。
「笑ったほうが、積森さんはかわいい」
頭半分背の高い緑理。同級生というより、お姉さんのようだ。
お姉さん。
ああ、緑理の誕生日は八月だ。わたしのほうが誕生日が遅い。実際少しだけ、緑理はお姉さんだ。たとえ同じ日に生まれていたとしても、この世界に出てきた順番が早い方が、お姉さんになるんだ。
「涙を拭いて」
スカートのポケットから、湿ったハンカチを取り出し、顔をぬぐった。涙腺が弱すぎる。
「冷却水ね」
「ん?」
「積森さんの涙は、心が熱くなったときの冷却水」
面白いことを言うなと思った。
「冷却水か」
「まだ熱い?」
「もう冷えた。大丈夫」
「具合、悪くない?」
「もう、たぶん、いいよ」
「よし。七生の机に、キミの冷却水は漏れてない?」
緑理はわたしのことをときどき「キミ」と呼ぶ。七生の机はきれいなままだった。念のため、ハンカチを裏返して、拭いた。
「小林さんの机も、拭いとくか」
言って緑理もハンカチを出して、小林麗子の机を拭いた。
「帰ろうよ。積森さん、コートは着てなかったっけ」
「着てない。朝はなんとなく暖かかったから、カーディガンだけ」
「外はちょっと寒いよ。風邪引かないように」
「まあ、地下鉄だし」
「新さっぽろから、バスだっけ」
「うん。緑理こそ家までけっこう歩くんじゃなかったっけ」
「たいしたことないよ。冬はめんどいけどね。トレーニングだと思えばさ」
緑理の家には行ったことがない。東区だ。大通駅から彼女は地下鉄東豊線に乗り換える。二駅、一緒に過ごせる。
「誰もいない教室って、別の世界みたいだ」
せっかく拭いたのに、緑理はまた麗子の机に腰かけて、ぐるりと一周教室を見渡して言った。「なんか、そんな気がするよね。教室見てたらなんかそんなことを思い出しちゃった。昼間はみんないてさ、うるさいのに、この時間になると、別の建物みたい。体育館は部活でにぎやかだったよ」
緑理の声が優しく耳に届いた。あれほど泡立っていた心が、今はすっと落ち着いていた。
「ありがとう、緑理」
「えっ?」
「どうして、こんなにやさしいの?」
緑理は麗子の机から降りて、わたしの両肩に手を置いた。
「昔から頼られるのは得意だからさ。チームメイトから。それに、」
真正面から見据えられる。くっきりした眉と、芯の強そうな瞳、長いまつ毛に、通った鼻筋。ハードな部活をしているからメイクなんてしていないだろうに、緑理の顔は凛として素敵だった。
わたしの両肩に置かれた手に力が入った。それから、緑理が言った。
「キミは、私の、友達だからだよ」
次の日、学校を休んだ。木曜日だった。
(明日、病院に行きましょう。それがいいわ)
帰宅した様子を見て、お母さんは祈るような目をして言った。
(朝、私が学校と病院に連絡を入れるから。そうしなさい)
はい、としか答えられなかった。
朝、いつもどおりの時間に起きた。というより、スマホのアラームで起きた。夜中に何回も目を覚ました。夢をたくさん見た気がする。
わたしはどこかの街に引っ越していて、その町の団地のような集合住宅に住んでいる。
部屋は雑然としていて、隣の部屋に住んでいる小さな女の子と知り合う。部屋を出ると、傾いた螺旋階段が地上まで伸びていて、その隣にはきちんとしたコンクリート製の外階段があった。怖いから外階段を下りようとした。昏い空で、その下に背の低い街並みがずっと遠くまで広がっていた。
カラスがいた。
外階段の欄干に留まっていた。近づいてもカラスは逃げなかった。女の子がカラスに手を伸ばすと、カラスは美しい羽根の別の鳥になった。女の子は追いかけて螺旋階段を下りた。
危ないよ。
わたしは外階段を駆け下りた。女の子の姿が遠ざかると、螺旋階段に終わりがなくなった。必死に女の子のあとを追った。次の場面、わたしは唐突に街路に立っていて、女の子も消えていた。美しい羽根に変わったはずのカラスは、元通りの黒い羽根に戻っていて、とまどうわたしのすぐ横に降り立った。
そこで目が覚めた。午前四時。
なぜか決まって午前四時に目が覚める。学校へ行くなら、午前六時には起き出して準備をしなければならない。あと二時間。微睡みはなかった。ベッドで姿勢を変えて、前夜閉じるのを忘れたカーテンから外が見えたので、まだ暗いなと思った。夢の続きのようだった。
気づいたら一時間半ほど眠ったようだった。次に起きたのは午前五時半だった。もう眠気はまったくなくて、ベッドから出て、身づくろいを始めた。学校へ行くつもりで、制服にも着替えた。休むのは嫌だった。ちょっと不安を感じただけなのに、お母さんは大げさすぎる。そう言って抵抗してもよかったけれど、あの祈るような目を見たらその気持ちは失せた。せめて、制服に着替えて、学校へ行ける気持ちだよ、と訴えるしかないと。
そうしないと、あの人に乗っ取られてしまうから。
急いで家を出ないと、あの人はわたしの制服を着て、碧星女子へ向かってしまうかもしれない。いつでもあの人はわたしの席を奪おうと考えているんだ。
午前六時にスマホのアラームが鳴った。すぐに止めた。窓の外はすっかり明るくなっていて、曇り空だった。やはり夢の続きを見ているような気がした。部屋からは丘陵地帯に造成された住宅街が見える。家の反対側の部屋からだと、野幌の原生林まで見えて景色がいいのだが、わたしの部屋からは家並ばかりが見える。夜は家々の灯りが切ないなと感じる。それを眺めてカーテンを閉め忘れて眠ってしまったのだ。ぼんやりしていたら、もう六時半を過ぎていた。
制服姿、今日の授業の教科書とノートを入れたカバンを持って、階下に降りた。ダイニングキッチンに行くと、朝食がダイニングテーブルに置いてあった。
「おはよう。あら、制服?」
「学校、行けたら行きたいから」
「診察が終わったら、午後から行くの?」
「あ、うん。出来たら」
本当はこのまま登校してしまいたい。言えなかった。お母さんが昨夜と同じ目をしたからだ。
「無理をしてはいけないわ。さあ、食欲はあるの?」
「大丈夫だよ」
テーブルに着いた。焼き魚とお味噌汁とご飯とおかずが一品。お父さんの好みだ。部屋の雰囲気にそぐわない。ベーコンエッグにトーストが出てきそうな調度なのに。
「行ってきます」
玄関から短く声がした。また入れ違いになってしまった。
「行ってらっしゃい」
お母さんがリビングのドアを開けて、閉まる度玄関のドアに向かって言った。
箸を持ち、朝食に手を付けた。
「お薬ね」
ダイニングテーブルの横にもピルケースがあり、今日の分をお母さんが示した。朝食を食べてから、それを水と一緒に飲んだ。
「頓服はいる?」
「いまは平気。大丈夫」
「昨日は飲んだんでしょ?」
補充はいらないの? という意味だ。
「まだ持ってるから大丈夫だよ」
腕時計を見ると、七時を過ぎていた。普段ならもう出ないと間に合わない。
「八時半になったら、病院に電話をするから。学校にも私が電話をするわ。それまで、リビングで休んでいなさい」
「はい」
やっぱり欠席の連絡をするのか、と落胆する。こんなに元気なのに。熱も出ていないし、どこかけがをしているわけでもない。学校を休む理由なんてどこにもないのに。
教室に行けば、緑理やかすみ、菜摘たちが待っていてくれる。今日も小谷の英語がある。うちの学校は英語教育にやたらと力を入れているので、コマ数も多いし補講もある。高校三年生までに英検の準一級を取ってしまう子だっている。
そういうわたしは、昨夜帰って来てからもピアノを弾いた。たしかに音楽科の生徒でもないのに、熱心だとは思う。すっかり日常になっているからで、苦に感じたことがないわけではなかったけれど、弾かない日のほうが不安だったから、昨日も夕食を食べてから、自宅の練習室に入って三時間弾いた。音楽科は定期的に発表会があり、腕前を披露できるし、それを目指して練習もできる。対してわたしはそういう目的がない。普通科ハイコースだから国公立大学への進学を目指すクラスで、ピアノの個人レッスンは受けているけれど、発表会に出る出ないは完全にわたしの裁量で、希望すれば出られるし、出たくないと言ったら出なくてもよかった。
かわいらしいドレスを仕立ててもらってグランドピアノの前に座った記憶が、ずっと昔のことのように感じた。小学生といったって、五年しかたっていないのに。いや、五年もたってしまったのかと思う。中学生になってからは、発表会用のドレスではなくて、学校の制服で参加した。今も着ている中高一貫の同じ制服だ。当然音楽科に進学したと思われていたから、普通科だと説明すると驚かれたし、昨日の緑理のように、進学先をどうするのかと問われたこともある。
そんな先のこと、考えたこともなかったというのが正直なところで、音楽だけを勉強する気もなかった。わたしはピアニストになれると思っていなかったし、なりたいと思ったこともなかった。効く人の心をつかむような演奏ができるピアニストは、本当に、ごく一握りの人たち。コンクールで優勝をしたこともあるけれど、わたしは、努力を努力と感じないような天才ではないと思う。
リビングの大きな窓からは空が見える。路地の角に立っているから、三方向が開けていて、空がよく見える。庭にはツツジと白樺が植えてある。お父さんが本当に好きな木はハルニレ。何年か前、休みのやりくりをして家族全員で道東へ出かけたとき、原野に立っているハルニレを見せて、わたしたちにそう言った。庭に植えるには大きすぎるし、きっと土が合わなくて育たない、と。
気づいたらもう八時を過ぎていた。そんなに長い時間ぼんやりしていただろうかと驚いた。ソファにもたれているうちに眠っていたようだった。もうこの時間から家を出ても、朝の礼拝には到底間に合わない。ああ、本当に今日は欠席してしまうんだろうか。いやだった。学校へ行きたかった。きっと緑理が心配をする。昨日の今日で欠席だ。心配しないわけがなかった。スマホを出して、メッセージアプリを起動させた。緑理にメッセージを送ろうと思った。
気を付けて。
あの人が学校に来る。
あの人はわたしじゃないから、気を付けて。わたしはここにいるから。あの人を追い出すために、これから学校へ行くから。病院に行ったとしても、午後からちゃんと行くから。あの人はわたしのふりをして授業を受ける。碧星の制服を着て、かばんを持って。残念。制服は今わたしがきちんと着ている。胸元の五芒星。きちんと形を整えたスカーフ。あの人には結べない。だって、この制服はあの人のじゃないから。
「おはようございます。五年生の積森の母です。はい、いつもお世話になっております」
母の声に振り向いた。
「今日なんですが、娘の体調がよくないので、はい、病院に連れていきたいと思い、申し訳ありませんが、欠席させていただきたいと思います」
断言口調だった。誰が電話に出ているのだろうか。クラス担任ではないような気がした。
「はい。よろしくお願いします。明日は登校できると思いますが、具合がよくない場合、本日中にまた再度ご連絡差し上げますので。いえ、ありがとうございます。本人にも伝えておきます。はい、失礼します」
わたしたちに対する声音や口調とは違う。一言一言がはっきりとして聞き取りやすい。声はわたしによく似ていると思う。
「お大事にしてください、って言っていたわ」
電話を切って、わたしが起きているのを確認して、言う。
「本当に休むの?」
だめだよお母さん、あの人に乗っ取られてしまう。わたしが。わたしのすべてが。
「もうこんな時間でしょ。それにあなたはいま眠っていた。脳が疲れているのよ」
母がソファの隣に座って、わたしの頭に手を置いた。
「疲れ果てて動けなくなる前に、先生の診察を受けましょう。心理士さんとの面談も」
お母さんはご飯を食べたのだろうか。
「お父さんは」
「あなたより早く起きて、もう会社に行ってしまったわ」
「わたしより疲れていそう」
「あの人は、いつも稼働率八割だそうだから……。半年に一回健康診断もメンタルケアも受けているし、コーチングにも通っているから」
何を言っているのかよく分からないが、お父さんはお父さんで、セルフケアはばっちりだと言いたいんだと思った。しばらく顔を見ていない。日々顔を合わせる家族というと、最近はお母さんだけになってしまった。
「お父さんもあなたのことは心配してる」
その言葉に、心の扉がガチャンと音を立てて閉じた。
「ウソだ」
制服のスカーフを意識せずもてあそんでいた。胸元の星の頂点を突いた。指先の感触を確かめる。これはわたしの指でわたしの身体。あの人のものではないんだ。
「うそじゃない。遅くに帰って来て、あなたが弾いているピアノの音を、お父さんはいつも聴いているのよ」
「防音室なのに聞こえるわけないじゃない」
「うっすらと聞こえるのよ」
「手抜き工事」
言うとお母さんは笑って見せた。
「防音はしっかりしてる。あなたのピアノは、なぜか聞こえるのよ」
「どういうこと?」
「ずっと遠くで弾いてるような音だけど、何を弾いているのかはちゃんとわかるのよ。お父さんも私も、そのあなたのピアノを聴いているのよ」
「発表会、いつも見に来てくれていた」
「お父さん? そうね、見に行っていた。私も連れて」
「嬉しかったよ」
「そうでしょう。なら、どうして嘘だなんて」
「わたしのこと、避けてるみたいだ。今日だって、わたしが病院に行く話、お父さんは知っているの?」
「お父さんも同意したのよ。昨夜、帰ってきたから、私がきちんと説明した。お父さんも診察を受けたほうがいいって」
「どうしていまいないの?」
「ついて行けるなら行きたいって、そうも言っていた」
「来ればいいじゃない」
「私はお父さんの気持ちを知っている。私を信じて。だからお父さんのことも悪く言わないで」
「あんなに……」
「あんなに?」
「わたしが前に具合が悪くなったとき、わたしのことを……」
「えっ?」
電話が鳴った。お母さんのスマホだった。
「はい、積森です。ああ、折り返しありがとうございます。あ、大丈夫ですか。十時からですね。ええ、これから連れていきますので。面談も大丈夫ですか。十時半からですね。すみません。それでは、はい。……ええ、落ち着いていますよ。それは大丈夫です」
病院からだった。眠っているあいだに一報を入れていたのだろう。折り返しの電話らしかった。
「よかった。外来、入れたわ。先生に、不安に思っていること、みんな話しなさい。私もついているからね」
昨日、学校でお母さんからのメッセージを見たときは、もうすぐに帰って、お母さんに会いたいと思った。なのに今は、緑理に会いたいと思っていた。病院へ行くなら、緑理に付き添ってもらえたらと。彼女に頼めば、きっと叶うだろう。緑理なら来てくれる。緑理は心から心配して、ずっとそばにいてくれる。
いけないと思った。彼女にそこまで背負わせてはいけないのだ。これはわたしが背負わなければならないからだ。
「もう、行ける?」
お母さんはもう外着姿だった。もともと出かける準備を考えていたようだ。
「あなた、制服のままで行くのね?」
「お昼までに終わったら、学校で降ろしてほしい」
「今日は一日休みなさい」
「医師に相談する。心理士の松山さんにも」
お母さんは短く息を吐くと、サイドボードの上に置いてある車のキーを取った。
「じゃあ、行きましょうか。私は病院のあと、あなたと一緒にお昼でも食べようかと思っていたんだけどな」
「学校に行けるなら行きたい。友達が心配する」
「あなたはいいお友達がいるのよね。素敵なことだわ」
バッグを片手に、お母さんはリビングを出ようとしている。結婚するまで、お母さんはお父さんの会社で正社員として働いていた。結婚してわたしたちが生まれるまでも働いていた。今も非常勤で会社に出ることがある。お母さんは仕事が好きだったのだ。立ち居振る舞いや電話の応対は、まるで仕事の延長のように見えた。
お母さんが分厚い玄関のドアを閉めると、ディンプルキーを二か所挿しこんで施錠する。コンクリート製の台地の上に家は建っていて、階段を下りると車庫がある。向かって左側はお父さんの車で、右側がお母さんの車だ。青いフォルクスワーゲンゴルフという車。
私はあんまり車にこだわりはないのよね。お父さんが勧めてくれたから。
以前運転しながらお母さんはそんなことを言っていた。
電動シャッターを開けて、車が出てくる。お母さんがわたしを見て、「乗りなさい」の顔をする。助手席に座った。
車は自宅を離れる。中央区にある病院までは一時間ほどかかってしまう。
「高速に乗ってもいいんだけど、出口がね。でも札幌北で下りて創成川沿いを走ったほうが早く着くか」
ハンドルを握ったお母さんは独り言だ。わたしは黙って前を向いていた。バス停に、どう考えても遅刻だろう、という制服姿の高校生がいた。とうぜん、小中学生の姿はもうなかった。木曜日の朝、お母さんの車に乗って街に出るなんて。
「高速乗っちゃおう。今の時間帯、北インターは混むかもしれないけど、札幌市横断よりはいいでしょ」
学校まではバスと地下鉄で通っているから、車でどう走れば学校まで最短で着くのかわからない。お母さんの独り言にも返事ができない。車は家を出て混みあう道を進みながら、高速道路の入り口に向かっていた。「札幌南」の文字が見えた。
料金所を通過して、わたしは高架の上を行く車の中でぼんやりと考えていた。交通量は多くて、札幌、北海道、というより、東京の風景みたいだ。
防音壁があるから、横を向いても街並みが見えない。
「混んでるわね。ラッシュから少しずれるかと思ったけど、ど真ん中だ」
お母さんは車の運転も楽々こなす。仕事もできる女性だったんだと思う。だから、当時専務取締役、現代表取締役社長の配偶者になれたのだ。
「松山さんとはしっかりお話しするのよ」
「うん」
「本当は私が受け止めてあげられればいいんだけど」
「お母さんには、いつも迷惑をかけてると思う」
あの人のことを言いにくいのはそのせいだ。お母さんには気の毒すぎる。あの人と私は見た目が全く同じに見えるからだ。お母さん、あの人にお母さんも騙されないでね。
「実の娘が言うセリフじゃないわ。あなたを、あなたたちのことが一番大事なんだから」
「お母さん、朝ごはんちゃんと食べた?」
「もちろん。お父さんと一緒に食べました。我が家はね、朝ごはんの時間が三ターンあるのよ」
「ごめんなさい」
「なにが。仕方ないでしょう、お父さんが一番最初に起きて会社に行くわけで、登校する時間がずれるんだから、無理に合わせる必要なんてないのよ」
「うん。でも、わたしが起きたら、もうお母さんは起きてるし」
「夜は十一時には寝るようにしています」
「お父さんはいつも何時に帰って来ているの?」
「十時すぎには帰って来ているわ。もうちょっと遅いときもあるけれど、十一時を過ぎることはないわよ」
「働きすぎなんじゃないかな」
「本当に好きで働いている人だから。引退したらどうするのか心配だわね。ああ、北インター出口渋滞中か。でも間に合うわね。下道走ってくるよりずっと早かった」
時計は九時過ぎ。家を出てから三十分。
いくつか高速道路の出入り口があって、ゆるく左にカーブを曲がると、真正面に手稲山が見えた。送電線と、高層マンション。それから車は出口の渋滞を十分弱で通り抜けて、創成川沿いの国道を走り、北海道大学を横切るトンネルをくぐり、札幌競馬場を横目にして、病院に着いた。
制服姿のわたしが病院の待合室にいたことがすでに異様だった。内科の病院なら風邪を引いた女子高校生がいるな、それだけの風景だったと思う。座っているのは精神科の待合室の椅子だった。直角三角形を並べたような形をした廊下と、それと一体化した待合室の三人掛けの椅子。そこにお母さんと並んで座って診察を待った。
診察が終わって出ると、待合室で診察を待つ人たちと正面から向き合うことになる。
制服姿の女の子が診察室から出てきたことに、不審な顔をした人がいた。いや、不審な顔をしたようにわたしが感じただけ。
受付の前は本格的な待合スペースで、壁際に一人掛けの椅子が並び、テレビと向かい合ってここにも二人掛けがワンセットの椅子とテーブルが置いてある。診察室前の廊下といい、この待合スペースといい、あまり病院ぽくない。それは初めて来たときに思ったことで、印象は変わらない。いや、初めて来たときのことはあまり覚えていない。お母さんが傍らでわたしを支えるようにして、お父さんが運転する車で来た。とにかくあの日のことが怖くて仕方ない。何もかもが怖かった。いくら説明しても、わたしの言うことを、お父さんもお母さんも聞いてくれなかった。それは違う、それは間違っている、頭から否定はされなかったけれど、ものすごく遠回りでそう言われ続けた。わたしの世界が否定された日。それがこの病院に初めて来た日だった。
医師はわたしの言葉に耳を傾けてくれる。いつもは二週間に一度、土曜日に通院している。学校を休まなくてもいい日で、かつ、先生が外来診療を受けてくれている日。
怖かったの?
どんな不安を感じたの?
みんな話した。
全部、思っていることを。
わたしがわたしじゃないってことを。そういう気持ちがどんどん強くなったこと。それを受け入れられないこと。
特に、鏡に映った自分自身が全否定する。
あなたは、誰?
あなたは、あなただと本当に思っているの?
わたしとあなたにどういう違いがあるの? あなたがあなたであることをあなたは証明することができるの? どうやって? 方法があるなら、今すぐ示しなさい。
すると、わたしはわたしであることを維持できない。境界線が溶けて消えてしまう。どうしてここにいるのか説明できない。なぜなら、わたしがわたしであるように指示するそれは、ここにいてはいけないと強く主張するからだ。あなたが通っている学校は間違っている。そこはあなたが通う場所ではない。あなたが行くべき場所は別にある。
会計で呼ばれる前に、コカ・コーラの自動販売機の横にある相談室の扉が開いて、心理士が顔を見せた。いつもどおり、笑顔だった。
「いってらっしゃい」
隣に座ったお母さんも笑顔で言った。先生との診察は診察室まで付き添ってくれたが、面談はたいてい一人でする。
わたしは立ち上がり、お母さんが自動販売機で買ってくれたお茶をどうしようか少し迷った。
「そのまま持っていきなさい。喉が渇くかもしれないでしょ」
うなずいて、そのまま相談室に向かった。
相談室の片隅に、新聞紙の全面くらいの大きさの枠に砂が敷いてあり、そこに木でできたおもちゃのようなものが入っている。箱庭療法、というものがあるのだと、松山さんに教えられた。これを並べる心理療法があるのだと。少し興味があったが、わたしが受けているのは薬物療法と、認知行動療法と、それから……。
認知の歪み、と言われても、いまでもよく分かっていない。なぜなら、感じることのすべては、わたしにとって事実であり、ほかの人がどれだけ否定しても、覆ることはないからだ。
「制服姿、久しぶりね」
テーブルをはさんで、松山さんが目を細めた。
「診察が終わったら学校へ行きたくて。行けますよね?」
わたしの口調はすがるような感じになってしまったと思う。主治医はいい顔をしなかった。少し休んだ方がいいわね、と眼鏡の奥で目を細めた。少しのあいだ落ち着いていたけれど、疲れが出てしまったのかもしれないわね。薬はきちんと飲んでいるようだから、足りない分を処方するからね。病院の理事長でもある主治医は、全身をわたしに向けて、孫に言い聞かせるようにカルテを書いていた。去年風邪を引いて受診したかかりつけの内科は電子カルテになっていたけれど、この病院はまだ紙のカルテを使っていた。カルテはずいぶん分厚くなっていた。
「昨日のことは、お母様から少し聞きました。積森さんはどんな感じだったのかな」
「怖かったです」
「前に感じたような?」
「前、というか。また、あの人が出てきて、わたしのことをわたしじゃないって」
「じゃあ、まず確認しましょうか。ここは、あなたと私しかいません。あの人も来ませんよ。安心してお話ができます。大丈夫ですね?」
「はい、わかりました」
「さて。あの人が出てきたということですが、あの人のことが見えました?」
「窓の向こうにいたから」
「窓、ね」
松山さんがメモを取る。
「積森さんはそのとき、教室にいたの?」
「階段の踊り場にいました。なんとなく、理由はないんですけれど」
お茶を飲んだ。部屋はエアコンが入っているようで、妙に暖かかった。松山さんはポロシャツの中に長袖のインナーを着ていた。
「窓の向こうのあの人からは、どんな感じに言われたの? 差し支えないところで教えてほしい」
「あなたは誰、あなたはわたしじゃない」
思い出さないように、感情を湧き立たせないように話した。それは松山さんもわかっているから、深く追求してこなかった。
「それは、直接その人から言われた感じがした? それとも別の感じがした?」
「直接。いつものとおり、あの人はわたしに言ってくるから」
「お薬を、すぐに飲んだのね」
カルテを見ながら松山さんが言う。
「はい」
「すぐに効きました?」
「すぐに効いた感じはしなかったけれど、少ししたら落ち着いてきたので」
「誰かそばにいたの?」
「誰もいませんでした。だけど、お母さんからLINEが来ていたので、すぐに、お母さんに会いたくなってしまって」
「つらかったね」
「すごく不安で。どうしてもすぐにお母さんに会いたくなって」
「うん」
「窓にあの人がいて、わたしのことを偽物だと、わたしはわたしじゃなくて、その人がわたしなんだって」
暑い。なのに震えが来る。わたしは誰かに見つめられている気がして、相談室のドアを見た。ドアは閉まっていて、誰もいなかった。あの人がここまで追いかけてきている気がしたのだ。わたしのことを否定するために。
「その人が言った。というか、積森さんがそう感じた」
「はい。感じたというか、言われました」
松山さんが手元の紙にさらさらとメモを入れている。
「ずっと最近、あの人は出てこなかったのに」
「出てこなかったのに、出てきてしまった。びっくりしたでしょう」
「驚いたというか、とにかく、怖くて。なにか、刃物を突き付けられているような、すごい怖さ」
わたしは両腕で自分を抱きしめていた。
「お母さんからLINEが来て、すぐに迎えに来てほしくて。でも、家から学校までだと、一時間以上もかかってしまうから、それまで、わたしはあの人と一緒にいなければならないから。それが怖くて」
「一時間もあの人と一緒にいるのは、確かにつらいわね。そのとき、積森さんは、どんなことをしてみた?」
「自分をすこし弾いた場所から見てみようと思いました。でもできなかった。とにかく怖くて」
「声が聞こえたの?」
「声というか、窓からあの人がわたしを見ていて、直接気持ちが私の中に入っているような、そんな感じで。わたしのことを許さないっていうか。わたしがわたしでいることを、一秒たりとも認めないって、そんな風に」
「聞こえたの?」
「感じるんです。聞こえるっていうか、わたしの中に直接」
「直接」
「そういう声が直接入ってくるんです」
「積森さんは、そういう声、というか、直接心に響いてくるような気持ちを感じることがまだ多いの?」
「最近はそうでもなかったけど」
「わかりました」
「今日は、これから学校に行きたいです。行けますよね? もうわたし、落ち着いて大丈夫なんです」
「学校へは、そうですね。もうちょっとお話ししましょう」
まだわたしは両腕で自分自身を抱きしめたままだった。少し暑かった。
「あの人のこと、もう少し話せますか?」
「あの人のことですか」
「つらくない範囲で。でも、できたら、あなたの主観、あなたからの視点というよりも、ちょっとだけ自分を外から見るように話すことはできますか?」
「わかりました。あの人は、そう、常に、ということではなくて、いつも出てくるわけではないの」
「うん」
「最近は、ずっと会っていなかった」
「うん?」
メモを取っていたペンが一瞬止まった。
「学校へ行く時間も少しずれているし、方向も違うから」
松山さんが視線を外して、忙しくペンを走らせた。
「……でも、大通の駅までは一緒だったってお話してくれたわね」
「一緒に行ってました。家のそばにバス停があるので、一緒にご飯を食べて、家を出て、バス停まで歩いて、バスに乗って、新さっぽろ駅から地下鉄に乗るんです。あの人は、大通から南北線に乗り換えるの。高校が北区だから。わたしはそのまま東西線で西18丁目駅まで行くから。でもそこまではいつも一緒でした」
「いつまで一緒でした?」
「あの人がわたしのことを責めるから、わたしがわたしじゃないって、あなたがわたしだって、おかしなことを言いだすから、一緒に地下鉄に乗れなくなってしまって。周りからも、一緒にいるとニセモノだってバレるぞって言われて」
「最近は一緒ではいなくなっちゃった」
「わたしのことをわたしじゃないって言うから」
「直接言われたの?」
「ううん、だから、昨日のあの人と同じです。わたしの中に直接話しかけてくるんです。じっとわたしの顔を見ながら、わたしのことをニセモノだって」
「本当に言われたことはなかった?」
「ないです。ないけど、会ったらずっとそうやってわたしに言うから」
「あの人は、学校にも来るの?」
「鏡に、わたしが映るじゃないですか。でもそれ、わたしじゃないんですよ。あの人なんです。あの人が、わたしの制服を着て、わたしのふりをして、学校に通っているんです。だから、今日は学校に行かなきゃならないの。あの人、きっとわたしのふりをして、学校に行っているから」
「朝は、会わなかった?」
「会っていません。最近、あの人はわたしのことを避けるようになっているから」
「あの人の方から避けているの?」
「たぶんそうだと思います。効果が出ているか調べているんだと思います。だって、わたしはわたしです。わたしは学校に行って、みんなに言わなきゃならないの。あの人は違うよって、あの人はわたしじゃないから」
「今日は、この後で学校に行きたいってことだけれど、勉強が遅れるのを心配してかな? 友達と会いたいって思っているのかな」
「いえ、あの人がわたしに成りすましているのを知らせるためです」
「じゃあこう考えてみましょうか。あの人が、あなたのふりをして学校に行ったとして。あなたのお友達は、気が付くでしょうか?」
「……わかりません。気が付かないかもしれない。あの人は上手だから」
「でも、本当のあなたとは別の学校に通っていますよね?」
「はい。別の学校に通っています」
「じゃあ、もしかしたら、あなたが学校へ行って友達に言わなくても、お友達のほうが、あの人はあなたじゃないって、気が付くかもしれないわよ」
「気が付くでしょうか」
「まず、話が合わないでしょ。だって、あの人はあなたの学校に通っているわけじゃないから、共通のお友達もいないわけで」
「はい」
「すると、おかしいな、見た目はあなたとまったく同じだけれど、これはあなたじゃないなって、お友達みんな気づくんじゃないかな」
「気が付くでしょうか……」
「あなたが学校へ行って説明しなくても、みんなが先に気付いて、それで大丈夫かもしれない」
「そうでしょうか」
「そうは考えられない?」
「考えられなくもないけれど、あの人はでも、とにかく、すぐわたしのことをニセモノだって言うから。本当に上手なんです」
「よくわかりましたよ。もういいわよ」
松山さんが笑顔のままで、ペンを走らせてそう言ってわたしを止めた。
「疲れたでしょう」
言われて気づいた。全身が緊張していた。
「少し深呼吸しましょうか。深すぎないように、気を付けて」
両腕をほどいた。痛かった。額から頬へと一筋汗が伝ったのが分かった。
「積森さん。怖い思いをしたでしょう。でも、ここにはあの人は来ないから大丈夫よ。薬を飲んだら、どうだった? あの人はまだいた?」
「薬を飲んでからは……、緑理が……友達が来てくれたので」
「あの人もいなくなった?」
「窓の外にはまだいたかもしれない。でも、聞こえなくなった」
「心の中までは来なかった?」
「たぶん」
「積森さん。もしまたあの人が出てきて、怖いって感じるようなときは、先生が指示した通りのタイミングを守るのが条件だけど、お薬を飲みましょう。そんなに強いお薬じゃないから、安心して。ただし、タイミングは先生が言ったことを守ること。あと、周りの人からも言われたことがあるって、前にも言ってましたね。最近もありましたか?」
「いえ、最近は、わたしは一人で地下鉄に乗るから、そういうことはないです。わたしがわたしでいられるから」
「あなたが、積森さんが、自分は自分だって思えるときは、どんなときだろう」
松山さんに言われて、少し考える。どんなときだろう。以前はそんなことを意識しなくてもよかった。わたしはわたしであって、あの人はあの人でいたからだ。
メトロノームの音が聞こえる。
「ピアノを弾いているとき……」
「演奏しているときは、一人になれる?」
「実際、一人でいるし……あ、昨日は、友達が一緒にいてくれました」
「お友達、それは、あなたがあなたでいられるときに、それを共有してくれるお友達ですね? 広島さん」
「そう、広島さんです」
「広島さんと一緒にいるときに、あの人は出てくることはある?」
「緑理……広島さんには、あの人が出てきたことを言わないようにしているので。あの人と出会うと、きっと、あの人は緑理にも吹き込んじゃうから」
「そういうことはありましたか?」
「ないです。でも、今日学校に行かなかったら、あの人がわたしの代りに学校に行ってしまう」
「あの人があなたのことをニセモノだっていうとき、あなたは反論をするの?」
「反論しても聞かないから」
「実際に言ってみたことはある?」
「やめて、って言ったことはあります」
「やめてくれた?」
「やめないです。じっとわたしを見て、あなたはあなたじゃない的なことを言います」
「反論しなくてもいいかいら、もし、あの人が現れたとき、落ち着いて、わたしはわたしなんだって思うことはできるかな?」
「……でもあの人は強いから」
「強いと思う? もしかすると、あの人も自分が何者なのかわからなくて、あなたに確認しようとしているのかもしれない」
「そうでしょうか」
「そうだとしたら……どうでしょう?」
「話してみることができるかもしれないけど。どうしてあなたはわたしのことをニセモノの自分だって言うようになったのかって」
「そういうふうに、考えることができそう?」
「でも、あの人が出てくるとすごく怖くて。ずっと言い負かされてきたから」
「そんなあの人と、あなたは仲がよかったはずですよ」
「……昔は、仲良く話もしていたし、わたしがピアノを習い始めたとき、あの人も一緒に習うようになって、かわりばんこに弾いたりしていました」
「あの人はいまでもピアノを弾いたりするの? いま、一緒に弾いたりはしないの?」
「いまは、わたしがほとんどです。あの人は中学生になったら、レッスンをやめてしまったから。でも、ときどき弾いてるみたいです。わたしに隠れてこっそり。でもわたしは知ってるんです」
「あなたが上手に弾くから、それを聴くのがいいって思ったのかもしれない」
「わたしには敵わない、って冗談っぽく言ってたことはあります」
「本当だと思うな。あの人がときどきこっそりピアノを弾いているのは、あなたはどう思っているの?」
「わたしと入れ替わろうとして、わたしみたいに弾けるように練習しているのかなって。だけど、あの人のピアノを聴いていると、なんだか、すごく……」
「すごく?」
「懐かしいような……。つい、聞き入ってしまって……。一緒に弾けたら楽しいのにって、そうやって思っちゃうんです。いけない、あの人の手に乗せられてしまうって感じるのに」
「懐かしく感じるのは、昔、一緒に弾いていたからでしょう。それに、『あなたには敵わない』って話したってことは、あなたは昔は仲良くしていたわけだから、あの人が出てきても、またお話ができるかもしれない」
「そうならいいんですけど……」
「あの人も戸惑っているのかもしれないわよ。積森さんは、少し自分を引いた場所から見るような、そんな気持ちを持ってみてください」
「それであの人が納得するかな」
「感情的になって、むきに言い返したりすると、あなたが疲れてしまうから」
「はい」
「今日はお母さんと一緒に病院に来られました。でも、きっとあなたはすごく疲れています。疲れているときに、そういう気持ちが強く出てしまうかもしれません」
「学校へは行かない方がいいですか?」
「あの人が自分の代りに学校へ行っているって、感じる?」
「感じ……ます」
「自分の代りに?」
「なり替わっているというか」
「確かめに行きたい?」
「確かめにというより、友達に知らせたい。あれはわたしじゃないからって」
「今までもそうしてきたのね?」
「言ったことはありますけど。みんな騙されてしまって。あの人は上手だから」
「上手」
「わたしになり替わるのが上手なの」
「あの人は今どこにいると思いますか?」
「学校にいると思います」
そこで松山さんはペンを置いた。
ものすごく喉が渇いたので、お茶を一気に飲み干した。
暑い。ライラックもまだ咲いていなかったのに。こんなに暑いなんて。
スマホを開いて、緑理に教えなきゃ、とも思った。教室にわたしがいたら、それはわたしじゃないから、すぐにみんなに知らせて追い出して、と。
松山さんが目の前にいなかったら、きっとそうしていた。
その日はお母さんがおすすめだというレストランに行き、一緒にお昼を食べた。おいしいわね。あなたとランチができてよかったわ。
碧星女子のセーラー服姿のまま、パスタを食べ、お母さんが買ってくれたカフェインフリーのお茶を飲み、お母さんの運転する車で家に帰った。学校へは連れて行ってくれなかった。
は松山さんとの面談を思い出していた。あの人が学校へ行ったとしても、きっと友達はわたしじゃないことに気が付いてくれる。
そうだろうか、としつこく自問する。
緑理は気付いてくれるだろうか。かすみは。菜摘は。小林さんは気付かないかもしれないじゃないか。七生は。中等部からの友達は、すり替わっていることに気付くだろうか。グループチャットに書き込もうかと思ったけれど、授業中だからきっと誰も見ない。見るころには放課後になっている。だからやめた。
人差し指で、胸元に付けた五芒星に触れる。先端に指を食い込まれた。あの人は私の制服を着て学校へ行くだろう。そうしたら、もう見分けがつかないかもしれない。そのときわたしは、どんな方法でアイデンティティを主張すればいいんだろう。わたしがわたしであるために必要なこと。
『亜麻色の髪の乙女』とメトロノームの音がよみがえってくる。目を閉じて、わたしは少しだけ深く息を吸う。お母さんがハンドルを握りながら、疲れたでしょう、と労ってくれる。疲れてなんか、いなかった。
勉強なら大丈夫よ。オンラインで追いつけるわ。
少しは気になっていた。一日分、みんなから遅れてしまう。それは風邪を引いて休んだんだと思えばいい。緑理にノートを見せてもらう。わたしのことをほめそやすけれど、緑理だってハイコースの上位成績者なんだ。数学なら、七生に訊けばいい。近寄りがたい子だけれど、数学が得意なんだ、七生は。
それよりも、わたし自身の証明方法だった。わたしがわたしだって、どうしたらみんなわかってくれるだろう。ピアノを弾いたら気付いてくれるかもしれない。音楽科の子にだって負けない。そう、ピアノに自信がある。つらくても投げ出さず、毎日何時間も欠かさず練習をしてきたんだ。
入院をしたときは、練習ができなかった。
白い壁、天井、看護師さん。
病院にいるあいだ、あの人がわたしのすべてを上書きしてしまう。恐怖だった。すべてが否定されてしまう。ピアノを弾きたいと思った。あの人もピアノを弾くけど、わたしほど上手には弾けないんだ。だから、あの人はピアノのレッスンを途中でやめてしまった。
あなたも続ければよかったのにね。
いいの。私は聴く方専門で。
あの人の声が聞こえる。記憶の向こうで。
家に着くと、門を通った横にあるライラックの木に花が咲いていた。まだ初夏は遠いと思っていた。そこに数輪、夏を手招きする花が咲いていた。薄紫色の花。つぼみのほうが多かったから、甘い香りは強くなかった。学校にもライラックの木が植えてある。満開になると、札幌の街が初夏になる。街のそこここで、待ちかねたようにいろいろな花が咲く。わたしは桜の花よりもライラックのほうが好きだった。ぱっと咲いてぱっと散ってしまう桜の花より、季節の巡りを謳歌するみたいにして咲き誇るライラックが好きだった。
疲れていないと思っていたけれど、家に着いたらわたしはぐったりしてしまった。
少し部屋で休んできなさい。
お母さんの言葉に甘えて、部屋に戻り、制服を脱ぎ、スウェットの上下に着替えた。ベッドの上にひっくり返った。しばらく眠った。
メッセージアプリの通知が鳴った。見ると、緑理だった。
〈ちゃんと帰れた? ご飯食べた?〉
〈ありがとう。大丈夫。いま家だよ〉
〈また学校でね〉
〈ありがとう〉
それから少しして、菜摘やかすみも入っているグループチャットの通知がいくつかあった。わたしは話を合わせるようにしてときどき返事をしながら、そして次第に身体が溶けるようにベッドへ沈んでいく気がした。
ぼんやりとスマホを見ているうちにまた眠ってしまった。でも何度も目を覚ました。夢を見た気がするし、目が覚めても夢を見ているような気持ちだった。うとうとしては眠り、気づけば外は暗くなっていた。一階に下りると、お母さんが夕食を支度していた。そんなにお腹もすいていなかったから、リビングでテレビを見た。地上波じゃなくて、映画だとかを専門にやっているチャンネルを。知らない映画ばかりだった。動画のサブスクチャンネルに切り替えた。でも、頭から見たいと思う作品が思いつかなかった。見る気力も正直なかった。
あの人はこんなとき、本を読んでいたりする。
「お腹がすいていないのはわかるけど、少しだけでも食べて、あとはお薬を飲みなさいね」
お母さんに言われて、そうした。何種類かの薬を飲むと、また眠気が来た。
「ごめんね、部屋に戻るね」
わたしは母に断って、二階へ上がった。部屋に戻って、習慣になっている復習と予習をした。今日の授業の分は想像で補った。教科書や副教材通りに進んでいるなら、きっとまだ追いつけるし大丈夫。
それからわたしは音楽室に行った。今日も練習をしなきゃ。
あの人がわたしになり替われないように、今日はずっと練習している別の曲を弾こう。
スケールから始めて、練習曲を繰り返し弾く。だんだん指が暖まって軽くなる。それから、楽譜を開く。
モーリス・ラヴェル、『水の戯れ』。
大好きな曲。
弾き始めて思い出した。ああ、あの人もこの曲を好きだと言っていた。
いいじゃない。
あの人はこの曲を弾けない。
練習を続ければよかったのに。あなたもこの曲、弾けるようになれたのに。
『水の戯れ』を繰り返し弾く。考えなくても指が動くようになると、ミスタッチもしなくなった。
曲の中に入り込む。噴水のような音。左右の指が思ったように、いや、意識をしなくても水滴が飛び散るように踊る。バラバラにではなくて、左右それぞれ秩序と順序を持って。そう、次の音符をどの指が奏でるか、順番は決まっている。運指はものすごく大切だ。
あの人は運指が苦手だった。
すごいね、そんなに弾けたら気持ちいいだろうな。
あの人はそんなふうにわたしの演奏をほめてくれた。
お父さんが防音工事を入れてくれているから、どんなに弾いても苦情は来ない。お母さんはあんなことを言っていたけれど、リビングにいても音が聞こえるかどうかわからない。聞こえたらいいな、と思うこともある。お父さんやお母さんがわたしの演奏を聴いていてくれたら。
あの人がわたしの演奏を聴いてくれたら。そうしたら、わたしのことを否定なんてできないだろう。
否定?
あの人が?
ピアノを弾くと、気持ちが昂るようで、どんどん鎮まっていく。何も余計なことを考えずに済むからだ。
学校に行かなくてもよかったの?
いいんだ。きっと緑理はわかってくれるんだ。
本当に?
たぶん。きっと。おそらく。
わたしは四時間近くピアノを弾いた。練習曲も繰り返し、好きな曲も選んで。
いけない。松山さんから言われていた。熱中しすぎると、疲れるから気を付けて、と。
練習を切り上げて、鍵盤の上にキーカバーを載せて蓋を閉じると、練習室を出て、そっと自分の部屋に戻ろうと廊下に出た。
廊下を挟んだどの部屋も静かだった。外から、電車が走る音が聞こえた。まだ温かい指をいたわるようにして自分の部屋のドアを開け、ベッドの上に転がった。充電していたスマホを取り上げた。SNSを起動する。フォローしているアカウントで更新しているのは、動画サイトで見つけたピアニスト。緑理や菜摘たちがなにかアップロードしているかと思ったが、何もなかった。
検索画面を開く。フォローはしていないけれど、検索候補に入れて、ときどき覗いているアカウントがある。つい先ほど更新があった。この人は、フォローもフォロワーもゼロ。ただ、ときどきつぶやくだけ。何気ない街並みや、バス停の風景を載せたりしているだけ。そしてその風景に見覚えがあった。
〈夢を見ました〉
そんなポストが表示された。
〈私は原生林に向かって、ルピナスが咲く道を歩いているんです。夜中に、たった一人で〉
写真もなく、短い文章でそれだけ書いてあった。
わたしは、この人を、知っている。
わたしだけが、この人が誰かを、知っている。
この人は、わたしが見ていることを、きっと知らない。「いいね」もリポストもしないから。フォローもフォロワーもゼロ。だからフォローしない。そうしたらきっと、唯一のフォロワーがわたしだって気づかれてしまうから。
ベッドでその人の短い文章を繰り返し読んだ。さらに更新されるかと思ったけれど、三十分待っても更新はなかった。スマホを傍らによけて、眠るための薬を飲んだ。
すぐには効かないが、ベッドに入った。薬を飲んでから本を読んだり動画を見たりすると、薬剤師さんが言うところの酩酊状態になってしまう。すると本当に夢なのか現実なのかわからなくなる。
目を閉じる。
緑理。会いたかった。昨日のことは、忘れないよ。抱きしめてくれた、あなたのこと。
わたしがいない間にも、きっと学校で時間は進んだに違いない。わたしがいない日常が進んだに違いない。
そんなことを考えているうちに、眠りに落ちた。
次に目が覚めたときは、まだ暗かった。
でも、夜明けを間近に感じさせるような空だった。不安はなかったが、心の奥底に怒りのようなものが湧いているのが分かった。理由は分からない。
あの人がわたしになり替わろうとするならば。
わたしがあの人になってしまえばいい。
ベッドから下りた。スウェット姿で裸足のまま、そっと、本当に音をたてないように気を付けてドアを開け、廊下に出た。フローリングの床が冷たかった。つま先立ちをするように、足音を殺して、廊下の向かい側の部屋のドアの前に立つ。
ノックはしない。
そんなことをしたら、目を覚ましてしまう。
気が遠くなるほどの時間をかけてドアノブを下げ、そして、またものすごい時間をかけてドアを開けた。
あの人の匂いがした。すごくリアルな。わたしとは違う、あの人の匂いだ。
あの人は寝息を立てていた。わたしは壁へ近づき、ハンガーにかけられている制服を手に取った。
紺色のブレザー、グレーのベスト、スカート、ブラウスにネクタイ。片手にずっしりと重かった。物音をたてないように細心に注意を払った。あの人は眠っている。あえてその顔を見なかった。顔を見るのが怖かった。のぞき込んだが最後、両腕をつかまれて、すべてを否定されてしまう気がした。
片手で持った制服を、今度は抱きかかえるようにして、そうっと、部屋を出た。音をたてないようにしてドアを閉めた。もう、外は明るくなり始めていた。
部屋に戻り、あの人の部屋から持ち出した制服を見た。わたしの部屋のハンガーには、碧星女子の冬のセーラー服がかけられている。
今日は、着ないんだ。わたしは、今日、あの人になるから。
アラームが鳴る前に。
そう、いつも、あの人のほうが先に起きるから。
鼓動を抑えながら、あの人の制服を着た。