星
窓の外を見ていた。シリウスが見えないかと。ふと気づいた。シリウスは冬の星だ。見えない。
スマホでSNSを開く。私のSNSアカウントの投稿には、いつもなぜか、十件くらいのエンゲージメントがある。誰が見ているのかわからない。友達ではない。私のアカウントのフォロワーはゼロで、フォローもゼロだから。
もし、声をポストしたら、もっと誰かの心に届くだろうか。
私は北海道の、札幌の街の片隅にいて。
インフルエンサーでも有名人でも何でもない高校二年生の私が打ち込んだ言葉を、誰かが見ている。
メッセージアプリを開くと、クラスメイトたちがやり取りしている。私にメンションが飛んできたら、返事をする。他愛もない話。いつもと変わらないやり取り。
昨夜見た夢を思い出す。
私は道を歩いていた。自宅を出て、原生林へ向かう道を、一人で歩いている。夜中なのに、周りはよく見えて、道端にはルピナスがびっしりと咲いていた。夏に咲く花だ。まだ少し季節が早いから、現実には咲いていない。それに、自宅周りでルピナスがびっしり咲いている道なんてなかった。不思議だなあ、きれいだなあ、そんなことを考えながら、ルピナスの道を歩いた。
スマホを操作して、夢の話を打ち込んだ。メッセージアプリではなく、フォロワーゼロのSNSへ。
〈夢を見ました〉
ポストした。
〈私は原生林に向かって、ルピナスが咲く道を歩いているんです。夜中に、たった一人で〉
ルピナス、きれいだった。大好きな花だった。
ポストした呟きを見ると、エンゲージメントがひとつついていた。誰だろう。こんなにも早く。
スマホをベッドの上に放った。スマホをいじっていても面白くない。目を閉じる。目を閉じているとき、眠っているのではなく、音を聞いている。
いろいろな音。
部屋はとても静かだ。
さっきまではピアノの音が聞こえていた。ずっと遠くから聞こえているような大きさだけれど、ずっと近くで演奏されている、そんな不思議な音。
曲もわかった。
モーリス・ラヴェルの『水の戯れ』だ。
ピアノが聞こえ出したとき。最初はスケールだった。何度か繰り返し、次はツェルニーの練習曲が聞こえ、それから『水の戯れ』になった。
お気に入りの曲を永久リピートするように、『水の戯れ』は繰り返し奏でられていた。一度として同じ響きはなかった。繰り返されるたび、演奏者の熱が込められているように、強弱が変わり、テンポも異なり、同じ曲とは思えないような変貌を聞かせて、二時間ほど聞こえていた。まるで、私のために弾いてくれたようだった。私はピアノの音に乗せるようにして、朗読をした。椅子に座りなおし、姿勢を整え、いつも部活でやっているように腹筋を意識しながら、本を声に出して読んだ。読みながらスマホで録音した。昔はICレコーダーを使っていた。自分のための読み聞かせ。今は違う。部活のためだ。『水の戯れ』はBGMになって、朗読を支えてくれた。
ぱたりとピアノの音が途切れると、それからはときどき、遠くから電車が走る音が聞こえるくらい。電車が走っていく音。線路の上を車輪が渡っていく規則的な音。ときどき警笛。
今は昼間のことを思い出す。昼間の教室。教室で聞こえた音。
飛行機の音。
教室――学校は、滑走路からあまり遠くない。プロペラは、羽虫の羽ばたきのような音がする。
休み時間の会話の音。
言葉は耳に届いて、はっきりと意味を得る。木の葉のざわめきや、風の音や、雨が窓をたたく音と違って、言葉だけは耳の奥で意味を持つ。
席は窓際で、なんともなしに外を見ていることが多かった。クラスメイトたちはにぎやかに何やらしゃべっている。そんなときも、窓の外の滑走路やグラウンドやポプラの木を眺めていた。友達がわたしを呼ぶまで。私はあまり雑談が得意ではなかった。
四時間目が終わるとお昼休みも早々に、教室から出る。購買へなだれ込む生徒の流れに乗って、姿勢に気を付けながら、猫背になんて絶対にならないように注意しながら歩いて、一階ホールの吹き抜けに面した二階の鉄の扉の中に入る。扉が強固なのは、音が部屋の中に迷い込むのを防ぐためだ。部室はスタジオと調整室に分かれている。放送局の部員は今十五人ほど。
週に何度か、原稿を読む。私の声がすべての教室のスピーカーから流れる。構成作家役の森が書いた言葉を、私の声が読み上げる。私は札幌新琴似高校放送局のアナウンサー。放送局には、学校名からSBSっていう略称がついている。
――お昼のキラキラした時間帯を妨害している。
言葉を読み上げるために、平日毎日、一時間、NHK式のアナウンス練習を受けている。通称「アナ教」。
今日の放送のメインコーナーは、新刊図書の案内だった。作者はほぼ隣といってもいい位置関係にある高校の卒業生で、舞台になっている学校も、ほとんどその高校そのままだと解説していた。別にそんなことストーリーと何の関係もないと思うのだが、私はただ渡された原稿を丁寧に読み上げるのが役目だったから――とはいえ、どうしても私は渡された原稿を直す癖がある――、今日は特に疑問を呈することもなく、お昼の十五分間流される番組の中間部、間と句読点に気をつけながら、原稿を読んだ。陽の表情を声にまぶして。
私の言葉は誰かの耳の奥で弾けるのだろうか。
今日、お昼の放送の中身がなんとなく気になって、放課後に図書室へ行った。森は図書局の生徒と仲がいいのか、それとも本当に読書好きなのか、定期的に新刊情報を原稿に入れてくる。私たち二年生は三階の教室を使っている。図書室は四階だから、一階分階段を上がる。寄り道だ。
「あれ、積森さん」
カウンターにいた生徒に名前を呼ばれた。えんじ色のネクタイをきっちり締めて、肩まで伸ばした髪の毛がさらさらしていた。三組の戸田さん。同じクラスになったことがないので、下の名前はわからない――というか覚えていない。
「さすがだよー、今日の放送で、二冊入れてたのになくなった」
「え?」
「新刊案内。いつもありがとう。放送局には助けられてるねー」
そうか。全部貸し出し中になったのか。借りるつもりはなかったのだけれど、表紙くらいは見てみたかった。タイトルは覚えているから、別に帰りに本屋さんによってもかまわないのだけれど。
「まあ、私というか、原稿書いたのは森なんだけど」
森は、原稿のネタに困ると新刊情報を持ってくる。構成作家役の「編成」は放送局内でもさほど人気のあるセクションではなくて、各学年に一人か二人しかいない。だから、毎日の放送を考えると、週に一度は必ずお昼の放送の原稿が回ってくる。週に一度なんだから、ネタを確保しておけばいいのに、森はそういうのが苦手なのか、リクエスト曲を三曲入れて放送時間を確保する技に出るか、さもなければ新刊情報で文字を埋めてくる。
森は私と同じ二年生。NHK放送コンテストの準備で最近忙しそうだ。
「不思議とね、積森さんが放送するとね、すぐ貸し出し中になっちゃうんだよね」
「まだ六時間目が終わってそんなに時間がたってないのに?」
「そうなんだよねー。驚きだよねー」
戸田さんは語尾が伸びる。
「図書局の利用実績に直結だからさー、また定期的にお願いね」
「私は原稿読んだだけだから」
じゃあ、森の原稿がよかったのだ。読んでいるときにはそう感じることはなかったのだけれど。読みやすいというと、読みやすい原稿を、奴は書く。読みやすくないときは、遠慮なくその原稿は直す。
「表紙くらい見ておきたかった」
戸田から視線を外して、書架をくるりと一瞥した。放課後早々に利用者が殺到しそうな雰囲気でもないのに。言葉の意味や由来を調べるために、ときどき図書室を利用していた。だから戸田さんのことも一年生のときから知っている。なに下の名前は覚えていなかった。放送局と図書局。文化系の部活だけれど、正式には生徒会の外局扱い。戸田さんは私に一方的な親近感を抱いているらしい。
「貸出期間は一週間だから、来週には戻ってくるよ。予約しておく?」
「いや、そこまでして読みたい本じゃないし……」
「なんでだろうねー、積森さんの声だとみんな読みたくなるんじゃないのかなー」
「そんなことあるわけないじゃない。原稿がよかったんじゃない? 森の」
「今日はこれから部活?」
「そう」
「森君、脚本書くんだってね」
「何で知ってんの。ああ、森と同じ三組か、戸田さん」
「内緒だよ。森君ね、授業中にお昼の放送の原稿書いてるよ」
やっぱりそうか。手書きの文字がやたらと読みにくい日があるからだ。森は男子にしては、といっては悪いが、字はきれいだ。それが雑な日がときどきある。そうか教室で書いているのか。
グラウンドからサッカー部の連中の声や、硬式テニス部がアップする声が聞こえていた。
「インターハイとか。そういうのに懸ける青春っていいよねー」
文化系の部活があまり華々しい大会がないことを言っている。
「戸田さんも青春真っただ中の高校二年生じゃんよ」
「積森さんだってそうじゃない」
「青春してるって気がしない」
「それは同じく。それに、ウチの学校からインターハイとか出ないしねー」
「野球部だって、いつも地区大会敗退だしね」
「また新刊案内読んでよ。今日の放送、とってもよかった。いつも聴いてるよ」
「ありがとう」
まだ目を細めている戸田を後ろに、図書室を出た。
最初に図書室で何を調べものをしていたんだっけ。本のタイトルはすぐ思い浮かばないのに、窓から見えた玉ねぎ畑はよく覚えていた。
本を読むのは好きだった。物語の体験は、読み聞かせから始まった。そうだ。父の言葉が私の中で弾けたのだ。
父が、とにかくあらゆる本を読んで聞かせた。子供のころの話。子供にシャーロック・ホームズや指輪物語を読み聞かせる父親。あの頃毎晩父の朗読を楽しみにしていた。父の声は穏やかで、活舌もよく、間の取り方も句読点の置き方も、練習を受けてみて分かった、上手だったと。
父はもちろんアナウンサーではなく、声優でも俳優でもなく、――経営者だ。
人前で話をすることに昔から慣れていたのだと思うし、人に指図をするとき、どんな声音を使って、どんな調子でしゃべれば効果的か、身をもって知っている人間の話し方をした。いや、父はたぶん話し方の訓練を受けている。きっと講師をつけて。またはそうした練習の場に通って。ビジネスマン向けにそういうものがあるというのも知った。去年から「アナ教」を受けている私にはわかる。言葉も訓練を受けないと、人に届くように声へ乗せられない。
父とこのところずっと口をきいていなかった。
部室はエアコンが入っているわけではないので、十五人も入ると、熱気がこもる。音を逃がさない構造になっているから、当然空気も逃がさない。換気扇は回しているが、やはりエアコンが欲しい。けれど、教室にもエアコンはない。だから夏は、暑い。今日もまだ夏でもないのに、暑かった。三年生の須藤さんは寒がりの度を越して、このムッとする空間、去年は七月でもブレザーを着たままだった。ベストもスカートも冬生地で。今日も涼しい顔をして「アナ教」の手製のテキストを開いている。
「積森さん、いま気が離れてた」
まっすぐ目を見て叱られた。気が離れてる。須藤さんはそう言ってみんなを叱る。NHK主催の放送コンテストが終わったら、三年生は引退して受験生になる。次に主導権を握るのは、二年生。誰が局長になるのか、あまり興味がなかった。誰がなっても変わらないと思った。今の局長は須藤さんだ。去年はとうとう全国大会まで進んだ。入賞は逃したが、全国レベルの生徒がいるというだけで、一目置かれる。須藤さんは実力と指導力がかみ合っている。
「朗読、積森さんにやってもらおうかな」
読んできてるでしょ?
須藤さんの声は「操り声」だ。父の声と近いものを感じる。魔法にかかったように、居住まいをただすしかない。
それで今月の教材になっている朗読ページを開いた。朗読の課題にしているのは、志賀直哉と藤沢周平。誰が選ぶのかと思ったら顧問だ。一文を抜き出して、地の文と会話文を読む。
須藤さんを視界の端で確認すると、まだ私を見ていた。耳と、目で、私を捕捉しようと待ちかまえている。まるで高性能のレーダーだ。
日没は午後七時に限りなく近くなっていた。学校を出て空を見上げても、まだ十分に明るかった。日が沈んだばかりの手稲山の輪郭が黒々としている。。
学校前のバス停で、麻生駅行きのバスを待つ。周りはほとんど運動部の部活を終えた子たちばかりだ。制汗剤の匂いがあたりに漂っていた。
学校の周りは玉ねぎ畑と滑走路だ。ヘリコプターの羽ばたき音が聞こえる。バスは定刻より少し遅れてやってきた。冬になると、このバスは時刻表どおりになどやって来ない。登校は始発が麻生駅なのでいいが、冬となると全くダメだった。春の匂いが途絶えて、初夏の香りが届き始める季節だったが、今日は肌寒い。制服の中に一枚着てくるべきだった。
ヘッドライトが通りの角を曲がってくる。バスが来た。
ブレーキの音。ディーゼルエンジンの音。ドアが開き、生徒たちの列が流れ込む。ICカードをタッチする音が連続で続く。ガラガラで到着したバスはあっという間に席が埋まる。座れる席はもうなかった。
「間に合った」
弾む息と声に振り返ると、同じ一組の田中千里だった。ICカード定期券をタッチして、ステップを上がると、私を見下ろす背の高さ。
「積森さん、アナウンサーお疲れ」
「千里、バレーボールお疲れ」
背の高さもギフテッドだよな、と、吊り手につかまった千里を見上げて思う。このまま頭をナデナデされそうなほど身長差がある。
「今日の『ヒルヌン』よかったね。っていまごろ言ってみる」
バスが動き出し、みんな同じ向きに軽く揺すられる。『ヒルヌン』はお昼の校内放送の番組の名前だ。『ヒルですヌーン』が正式名称で、誰がこんなバカな名前にしたんだ。まったく。
「いつも聴いてるんだよ」
「強制聴取だからね」
「いやいやいや、積森さんの声は違うんだよ。なんかねぇ、耳に届くのさ」
図書局の戸田の言葉を思い出す。額面通り受け取っておくね。
「紹介してた本さ、私も読んでみたくなったもんね。そういう力があるんだって。次の大会は全国だな」
「須藤さんは超えられないよ」
「あと、札幌藻南?」
放送コンテストの北海道強豪校の名前を、千里は知っていた。
「あそこは強い。強すぎる。なんであんなに強いのわからない」
「毎年ねえ、強いところはどうして強いんだろうね。宮の森とか旭川就実とかね、勝てる気しないからねえ」
こちらは女子バレーボール部の北海道内強豪校の名前だった。強豪どころではない。実業団や代表チームに選抜された選手を輩出している。
「かたや公立高校のバレーボール部だからねえ」
千里が吐息交じりに言うから、
「弱気じゃんよ」
「バレーボールだけやりたくて高校選んじゃうような子が行くところだよ? なかなかね」
バス停に留まり、誰かが降りた。運賃箱にジャラジャラと硬貨が落ちる音がした。バスは国道に出ていた。
「ウチはほら、学校名からして詐欺じゃん」
百八十センチ近い千里が私を見下ろしながら笑う。
「新琴似にないのに新琴似高校だからね」
「間借りして開校したんだってねえ。開校三年目に新築移転だっけ。その頃にできた高校って、みんな似たような場所にあるよね」
「だいたい交通の便悪いよね」
「あぁあ、北高行きたかったなぁ」
「何で行かなかったの? あ、行けなかったクチか」
「ワタシ英語ハナセマセーン」
「大学どうするの?」
私が言うと、千里はおどけた顔のまま固まった。
「親は北大を目指せってさ」
「ああそう」
「模試受けてから結果見せたら死ぬかもね」
「死なないって」
「積森さんはもう決めてるの?」
国道はコンクリートで固められた細い川を挟んで、上り下り三車線ずつ、それぞれを車が埋め尽くしていた。
「声で心を動かせるようになれたら……」
バスが短く警笛を鳴らした。だから私の言葉がそれに紛れてしまった。
「ん?」
「いや。決めてないよ」
そう言って、あの人の顔を思い浮かべる。たったいま、どうしているだろうか。何を考えて、どんな音を聞いているのだろうか。どんな音が聞こえているのだろうか。
「あと、ほぼ二年あるべ」
千里は気合を入れるような口調でそう言った。
あと二年。
これまでの二年を思い出す。
バスが右折する。地下鉄麻生駅までは、もう少しだった。
中学最後の年から、今年まで。
長かった、と思う。
私は地下鉄の中でSNSを開く。
〈あと二年。私の青春。そんなもの、あるんだろうか〉
エンゲージメントは、つかなかった。
私は灯りを消した自分の部屋にいて、椅子に座り、姿勢を正していた。イヤフォンで須藤さんの全国大会の朗読を繰り返し聞いていた。入賞は逃したが、全国レベルの朗読は、心を揺り動かす。こんなふうに、誰かの心に届き、動かすような朗読ができる人間は一握りだ。
須藤さんに合わせて、課題図書のページを追う。須藤さんの朗読が終わると、私も読む。自分の声を録音して。まだまだだ、と思った。私の声はまだ人の心を動かせない。自分を否定してしまったあの人の心にも、きっとまだ届かない。
プロのアナウンサー、声優、俳優、ナレーター。きっと経営者もそうだろう。
たとえば私の父。
――お嬢様だべや、それって。
森の声が耳によみがえる。父が会社経営者だと話したときの様子だ。
(ツモリンはご令嬢かー。すげーなー)
そんなお嬢様らしい生活なんてした記憶もなかったけれど。深窓の令嬢? うちは確かに部屋数はよそより多いかもしれないけれど、どちらかといえば、私は窓際の少女だ。
中学生の私は、身長もないのにバスケットボール部に入り、けっきょくお情け出場の三年生まで、試合に出たことはなかった。声を張り上げて部活を頑張ったのに。小学生のとき伸ばしていた髪の毛もショートヘアにした。見た目だけは立派なバスケ少女だと思っていた。
その見た目のままで高校生になった。
声を届けたくて、その技術を高められるかと思って、放送局に入った。入学して少したったころ、お昼の校内放送で須藤さんの声を聞いたからだ。
ヒルですヌーン。
当時二年生だった須藤さんは、声のトーンからなにから完璧に聞こえた。プロのアナウンサーが校内放送をしているんだと思って、逆にクラスのみんなは平然と聞き流していた。それから、新入生対象の部活紹介で、放送局が須藤さんの朗読を披露した。知らない本の朗読だったけれど、耳へダイレクトに届いた須藤さんの声は、人の心を動かす力があった。すごい人がいると思った。そんな声の力を手に入れたい。この人と一緒に朗読をやってみたい。
聞き流せなくて、ちょうど部員――局員を募集していた放送局のあの鉄のドアをノックした。四月もそろそろ中旬に差し掛かっていたころだ。
イヤフォンを耳から外す。大きめの窓にカーテンは引いていない。部屋に明かりはついていないから、スマホのディスプレイと、街灯の灯りのほかは暗い。緩やかな斜面に住宅街はあって、私の家は高い場所にあるから、部屋からは住宅街の灯りが見渡せる。住宅街が切れるところは、黒々とした野幌の原生林だった。原生林の空が明るいのは、さらにその向こうに江別の街並みがあるからだ。
見慣れた景色。
街路樹と、家の敷地を取り囲む庭木。帰宅したとき、閉じたガレージの中に父の車があるのかどうかはわからなかった。夕食の席にもいなかったから、帰宅していないのだ。父はいつも多忙だ。多忙のはずなのに、忙しくなさそうに装う。子供のころには気づかなかったが、父は相当に多忙だ。読み聞かせが途絶えたころ、父は祖父から代替わりを受けて、社長になった。
あの人はどうだろう。
ここ二年、父のことを考えるたびに、あの人のことを思う。あの人に声を届かせたい。
椅子から立ち上がり、部屋を出た。とても静かだった。階下で母がテレビを見ていたとしても、この家は頑強で、音は二階まで届かない。部屋を出て廊下を進むと、窓がある。廊下に明かりはない。窓からは札幌の中心街が遠くに見える。札幌駅に隣接する高層ビルとタワーマンション、そして左手奥に手稲山。今日は雲がなくて、空は黒いが、中心街の上だけ明るい。
二年前の秋の日を思い出す。唐突に。忘れられない光景を。日が暮れようとする公園で、あの人と見た『天使の梯子』を。
すっかり暮れてしまった今の時間、そんなものが見えるはずもなかった。
目覚めて、身づくろいをして、部屋の壁のハンガーを見ると、制服がなくなっていた。ブレザーもスカートもネクタイもブラウスも。
夜中に夢を見た気がしていた。深夜、目を覚まし、制服に着替えて、家を出る夢。街灯が灯り、人通りのない住宅街を、原生林までずっと歩く夢。なので制服一式が姿を消しているのにも、最初は違和感を覚えなかった。
完全に覚醒すると、それがひとつの出来事であるとようやく気付いた。
そうか。あの人か……。あの人が制服を持って行ったんだ。
二階は静かだったし、階下からも物音のしない、静かな朝だった。
ただ、制服がなくなっているだけ。
初めてではなかった。
最初は驚いた。何が起きたのかと思った。夢じゃないかと、何かの悪い冗談ならいいのにと。回数を重ねると、慣れた。替えの制服をクローゼットから取り出して着替えた。食卓に着いたとき、父の姿はなかった。帰宅していないはずはなかったから、もう家を出て行ってしまったのだ。母の姿もなかった。テーブルの上に母が用意した朝食を無言で食べて、家の鍵をかけて出る。
学校まで一時間少々かかる。もっと近くの高校にしておけばよかったのにと、眠気が消えない朝は思う。しかたない。偏差値と父には逆らえなかった。進学したいと思っていた高校にしても、ほんの少し近いだけ。だから本当に仕方ない。
少し速足で地下鉄の駅へ向かう。やっと木々の芽が吹いている。初夏に群生を作るルピナスが好きだった。毒草だと教えてくれたのは千里だ。種に毒があるんだと言っていた。きらびやかに咲き誇るバラの茎にとげがあるより、どこに毒があるのかわからないルピナスのほうが、毒があると教えられてさらに、きれいだと思うようになった。
住宅街から道道に出て、タワーホテルが見えてくると、新札幌も間近い。
本当はバスに乗ったほうが早い。バスに乗りたいと親に言えば、定期代は出してもらえるはずだった。両親がお金に困っている話なんて聞いたこともなかったし、幸い私もお金で困った経験がなかった。だから定期代をケチって歩いているわけではない。帰り道、家まで、少し歩きたかっただけ。
夜はまだ冷えるのに、日差しを浴びて歩いていると、身体が熱くなる。千里に比べたら、私の体力なんて、十分の一くらいだろう。彼女なら、私の家から新さっぽろ駅まで、ランニングで駆け抜けていきそうだ。そもそもあの子と並んで歩くと、歩幅が違いすぎて、どんどん遅れる。
トレーニングのつもりで、呼吸を意識して歩く。
アナウンスも朗読も、呼吸が大事だ。
姿勢も大事。
低い背丈を伸ばすように、胸を反らして歩く。まっすぐ前を見て。
家でも朗読やアナウンスの練習をしているが、どうしても大きな声が出しにくい。防音工事を施してある部屋でやればいいのかもしれないけれど。あの部屋はピアノを弾くための部屋だ。
須藤さんは今どこでどうしているだろう。家は北区だと言っていたから、ほとんど学校の近所だ。そう言うと須藤さんは「北区の広さを知らないな」と怒って見せるが、私は豊平川から北側の地理に疎かった。須藤さんは自転車通学組で、冬になるとバスを乗り継いでやってくる。千里も北区。地下鉄の駅から近いと言っていた。だからまだ寝ているかもしれない。
地下鉄麻生駅にたどり着いて、改札を抜け、バス乗り場に向かう。
「ツモリン、おはよう」
歩きながら振り向くと、トコトコと軽い駆け足で肩まで伸ばした栗色の髪の毛を揺らす少女。
「イーホワ、おはよう」
四月から隣の隣の席になった、秦一華。それっぽいフルネームだから、いつの間にか、名前を中国語読みした「イーホワ」と呼ばれていた。
「さっき声かけたのに」
アニメ声。見た目もアニメキャラのように愛らしい。一華がくりくりした目を動かして、すねたような顔をする。一華は妙に人懐っこい。誰にでも話しかけて友達になってしまいそうだ。
「どこで。全然気が付かなかった」
「ホームで」
反対のホームから電車が出ようとしていたときなら、ドアが閉まる音とかで聞き逃したのかもしれない。
「ごめん。わかんなかった」
立ち止まらずに歩いた。バスの時間は意外とタイトだ。ラッシュ時だから後続のバスに乗っても遅刻はしないが、結構ギリギリになる。
「模試の準備してる?」
バスを待つ列に並んで、一華が一転して不安を前面に押し出した表情をしている。万事がこんな表情をするから、慣れるまで戸惑った。本人に悪気も何も一切なくて、不安な気持ちは表情に出るときに倍増し、少しの怒りはものすごい怒った顔になる。もちろん、笑顔もその調子だから、笑うと盛大にへこむえくぼと合わせて、やっぱり一華は男子に人気がある。たしかにかわいらしい顔をしている。少なくとも私よりは。
「まだ特に」
「余裕だね」
「まだ二週間あるでしょ」
「もう二週間しかないのよ」
夏休みが半分過ぎたとき、一華は同じようなことを言うに違いなく、事実去年の夏休みに遊んだとき、まだ半分も来ていなかったのに、すでに寂しげな顔をしていた。そのせいで、一緒に遊んだ志田怜や曽根綾乃がしらけていたのを思い出した。
「ツモリンっていつも余裕な顔をしているよね」
居酒屋だらけのバス乗り場。同じバスの列に並んでいるのは、新琴似高校の制服を着た生徒たちばかりだった。見知った顔もあった。でも列から離れられないから、お互いに声をかけられない。前は知らない男子で、一華の後ろも知らない女子だった。
「ツモリンが全力で笑ってるところ、一回でいいから見てみたい」
唐突に一華がそんなことを言うから、言葉に詰まってしまった。
「ツモリンって笑わないよね。怒ったりもしないけど。クール装ってるとか最初思ってたけど、そういうわけじゃないよね」
ぜんぜん違う。何かを装うとか、そんな面倒なことをしない。腹が立ったら怒るし、面白かったら笑う。
「私、笑ったことなかったかな」
「記憶にないんだよね」
「私、怒ったこともなかったかな」
「それも記憶にないんだよね」
「いつもどんな顔してるの、私は」
「今みたいな顔」
言って一華はスマホを素早く取り出して、カメラを起動すると、私を撮った。シャッター音に前の知らない男子がちょっと振り向いた。一華の後ろの知らない女子が見下ろしていたスマホから顔を上げた。
「やめなよ、そんな」
「ほら、こんな顔」
自分のスマホを向ける。仏頂面といって差し支えない私がそこにいた。ショートヘア、二重、濃い眉毛、結んだ唇。毎朝鏡で見ている顔。「私」の片割れ……。
「やめて、私の顔なんて見せないで」
「あとで送るよ、ツモリン。美少女なのにもったいないよねぇ」
「何言ってんのイーホワ」
私が美少女だったら、世界の半分を怒らせる。
「ショートヘアなのってなんかポリシー? そういえば気になっていたんだよね」
「別に、楽だし」
「部活って、ツモリン放送局でしょ。放送のほかの子、みんな髪の毛長いじゃない」
言われたが、一瞬、同じ部活の女子の髪型が思い出せなかった。声は思い出せるのに、須藤さんが肩まで髪の毛を伸ばしているのは覚えている。櫻庭美咲は? 逢瀬柚月は? どんな髪型だったか正確に思い出せない。
「バスケ部みたいだよね、ツモリン」
「中学のときバスケ部だった」
「そのときから髪型変えてないの?」
結果的にはそのとおりだ。変える理由もないから、伸ばす理由もないから、髪を伸ばしたからといって、私の声が誰かの心に届くわけもないから、無駄なことはしていなかった。
「バス、来たよ」
一華がスマホをしまい、パスケースを取り出した。
勝手に私のポートレイトを撮るなんて。
一華のことだ。本当にあとで、私の写真を送ってくるに違いなかった。
体育の授業はグラウンドだった。ポプラと、玉ねぎ畑と、滑走路。授業中も、プロペラの羽ばたき音と甲高いエンジン音を響かせて、どこかへ向かう飛行機が飛んで行った。風はそよ風、日差しがもう暑い。それでも誰一人半袖ハーパン姿にはならず、ジャージの上下を着こんでいた。札幌だから。北海道だから。肌を出すのはみんな嫌がる。
そよ風でよかった。春から夏にかけて、玉ねぎ畑を吹き抜ける風が土煙をともない、中東の砂嵐のような状況になることがあるのだ。新琴似ハリケーン。今年もすでに何回か吹いている。
体育は男子が体力測定みたいなことをやっていて、やけに静かだった。サッカーとかだととたんにやかましくなるのに。女子も似たような感じで、短距離を走っては繰り返しだった。
「こういうとき愛花のやつは張り切るよね」
たまたま隣にいた谷川紘子が言った。オーバーサイズのジャージを萌え袖にして。寒いわけではない。本人は受け狙いに決まってる。ただ、めんどくさそうな表情のせいで、全然かわいく見えない。
「陸上部だからね」
私は答える。ヘリコプターの音を聞きながら。
「部活に青春捧げますなんて、あたしには無理だわ」
紘子が足元の小石をかかとで蹴りながら言う。彼女と隣り合わせているのは、出席番号のせいだ。
「あたし、めんどくさいの、キライ」
私より十センチほど背が高い紘子は、スタイルも気にしているのか、細かった。だからよけいオーバーサイズの指定ジャージ姿がダボダボしていて不格好だと思った。
次の走者として紘子が呼ばれた。
「こういうのもめんどくさい」
息を吐きながら言うと、心から嫌そうな足取りでスタートラインに向かった。スタイルを気にしている割に、紘子は猫背だった。
離陸したヘリコプターがグラウンドの上を飛び去った。機影を追うと、ずっと太陽を背にし続ける。背中が暖かい。空が青い。
「積森、次だぞ!」
体育教師の声が飛んできた。
私もめんどうなことは嫌いだったが、心から嫌そうなしぐさは見せず、スタートラインに向かった。そう思いと、いやらしい性格をしているのは私の方で、むしろ紘子が素直なのではないかと感じられた。
ゴールは百メートル先で、紘子は座り込んで別のクラスメイトと笑顔を見せていた。たまたま出席番号順のスタートでなければ、あの子とは接点がない。クラス内のグループも別々だ。去年も同じクラスだったけれど、似たような関係性のままだった。千里が手を振っている。紘子よりもさらに十センチ以上背が高いからよく目立つ。千里より速く走るのも難しいだろうな、私は首を振りながら、スタートラインに立った。
とてつもなく遠い百メートルを走ると、無酸素運動だから、窒息しそうだった。
「お疲れ、積森さん」
千里が私の両肩を抱きとめた。
ああ、みんな私を「積森さん」と呼ぶ。「ツモリン」と呼ぶのは一華と、あとは何人か。なんとなく組み込まれているグループ内では、一華以外みんな「積森さん」だ。
私は笑わない人間なのだろうか。一華は一時間目が始まる前に、今朝のバス停での写真を私のスマホに送ってきた。かわいい顔してるのにもったいないよ。
万事めんどくさがりだという紘子も、女の子らしくかまわれていたいオーラが出ているが、一華にはかなわないと思う。天然すぎる。紘子は嫌われないが、紘子を好きだという男子もあまりいないと思う。なのでいくらジャージを萌え袖にしてもダメだ。そもそも男子はあっちで別のことをやっていて紘子のことを見ていない。
「積森さん大丈夫? 息が上がってる」
「運動不足……普段歩いているのに」
「ウォーキングは有酸素、短距離走は酸素負荷運動。ぜんぜん違う運動だよ」
「バスケ部だったのに……」
「今から部活入る? セッターでお迎えするよ」
「無理」
ようやく呼吸を整えて、意識して微笑んだ。
「紘子なんて最初から全力で走る気ゼロだから、ぜんぜん元気だし」
「よっ。積森さん、マジすぎ」
グラウンドに座ったまま、私を見上げる紘子。笑うとたしかにかわいらしい顔になる。めんどくさがりでなければ、もっと人気が出るはずなのに。
「イーホワが走るよ」
千里が指をさして、小柄な一華に手を振った。
「あの子もマジだよねー」
紘子が座ったままで言う。そろそろ立ちなさい。
「あたし、秦ってちょっと苦手なんだよ」
そよ風に乗ってどこかへ飛び去りそうな呟きを、紘子がした。
「苦手?」
「いっつも自分をどうやってかわいくするかばっかりかと思いきや、あいつ、人の気持ちの中に入ってくるから」
自分をどうやってかわいくするかに情熱を燃やしているのは紘子も同じだろうに、同類だからそうした評価ができるのだろうか。一華がそういう一面があるかどうかは評価しきれない。ただ、言いにくいだろうことを言ってくることはあると感じていた。
一華が走ってくる。意外といいフォームだった。一華は吹奏楽局のはずだ。楽器は、何をやっていたっけ。そうだ、トランペットだ。私より少し背が高い程度の小柄な身体で、あの子はトランペットを吹く。
そんなことを考えていると、一華が目の前を駆け抜けていった。本当に全力疾走してきた。すぐに立ち止まらず、駆け足程度でぐるっと女子集団の外を周るようにして、私たちの立ち位置まで来る。胸を大きく膨らませたりへこませたりしている。
「ちーさーとー」
「速い速い。さすが吹奏楽。隠れ運動部だけあるね」
「去年よりちょっと速かったー」
乱れた前髪を手櫛で直しながら、一華が目を細めて笑った。同性から見てもかわいい。男子が熱を上げるのもわかる。でも、この子はどうやって人の心の中に入ってくるだろうか。
今朝のことを思い出す。
笑い方がよく分からなかったが、笑顔を作ってみた。
「イーホワ、どう?」
「えっ、なに?」
「笑ってみたんだけど」
「えっ、私の走り方変だった?」
とたんに不安げな表情をする。
「違う違う。今朝、言われたから、私が笑った顔、見たことがないって」
「あ、うん」
「どうかな」
「何やってんの、積森さん」
千里が訝しげだ。
「それ、笑ってるの……?」
少しおいてから、一華が、やや下の角度から、窺うようにして、言った。
「笑ってない?」
「……笑ってない。そういうんじゃない。ツモリン、みんなが笑ってても、笑ってないから。だから私、不思議だなって思って」
紘子を見ると、もう立ち上がり、自分の属するグループに足を向けていた。
「ツモリン、何か、大切なことをしまっているような気がする」
「えっ、なに?」
「なんか、そんな気がする。何か心配事とかある?」
一華が言うと、千里が私を見た。
「ツモリン、何かあるの?」
一華が表情を引き締めて訊いてきた。
「えっ?」
「ツモリン、ときどき思いつめたような顔して外を見てるから」
「イーホワ、私、笑ったことなかったっけ」
「私は覚えがないの。私たちが笑っていても、ツモリンは外側から見ているような」
千里がわずかに首を動かしたのが分かった。縦に。千里も同じことを思っていたのだと気づいた。
「なんか困ったことでもあるんだったら、言ってよね。私じゃ、心細いと思うけど」
一華が場を仕切りなおすような笑顔を見せて言った。気づけばもう前髪が整っている。きれいな眉毛に、奥二重。リップを塗ったみたいにつやつやした唇。ウチの高校は生徒心得が厳しくて、メイクもリップも禁止だ。もちろんばれない程度にやっている子はたくさんいるけど。一華はどっちだろう。そんな一華も私を向いて言った。
「いつでも言ってね、って言っちゃうと無責任だよね。ツモリン。私の考えすぎだったら、ごめんなさい」
一華は対友達にするには大げさな一礼をした。
「そういうんじゃないって、大丈夫だよイーホワ。ね、千里」
「私も感じてた。積森さん、私たちのこと嫌ってるんじゃないかなって思うこと、あった」
ちょっと待って、なんなんだこの体育の授業は。
「ちょっと千里」
「何かあるのかなあって。でも、触れちゃいけないのかなあって」
「千里ってば」
「気にするの悪いと思うから、あれだったんだけど。積森さん、確かに笑わないよね。怒ったりとかもないけど。どこか具合が悪いとか、そういうわけじゃないよね」
「違うよ。二人とも、ありがたいけどそんなんじゃないよ」
「ならいいんだけど。でも……」
眉をきゅっと寄せる千里の表情。一華ほどわかりやすくはないが、不安なときの顔だと思う。定期試験の前によく見かける表情だ。
「積森さん、声はよく通るし、言っていることもよく聞こえるし、さすがアナウンサーだなって思うんだけど。でも、表情が硬いから……」
千里が申し訳なさそうな顔をしている。
「そんな、何か抱えてるとか、そんなのないから」
無理やり笑顔を作ってみた。この場では絶対に逆効果だ。わかっている。そして私は大噓つきになった。笑ってない。笑った顔の形を作っただけだ。私は笑ってはいけない。
「クサイの承知で言うけど、友達でしょ、私たち……。何かあるなら、言ってよ、積森さん」
「わかりました」
ありがとう、千里。でも私は大嘘つきのままだった。
「短距離やっておしまい? 今日の体育」
一華が首を傾げて言った。
まだそよ風が吹いていた。
こんなとき、新琴似ハリケーンでも吹けばいいのに。そしたら、この会話から逃げ出して、教室へ飛び込むのに。
空は青く、日差しは暖かく、玉ねぎ畑は平穏そのものだ。
「次は、現代文だ」
千里が大きく伸びをしながら、言った。
三階の教室を出て、部活へ向かうか、そうでなければ帰宅する生徒に紛れて、私は二階へ。放送局の部室は、階段を下りてすぐだ。鉄の扉を開く前に、一階ホールの吹き抜けの壁側で、ポケットからスマホを取り出して、メッセージアプリを開いた。メッセージは、イーホワが送ってきた画像の後、とくに何もなかった。ちょっとだけため息を吐き出して、スマホをマナーモードのまま、しまった。
急ぎ帰宅を促すようなメッセージがなくてよかった。少し構えていた。たいしたことがなかったのか、もう慣れてしまったのか。たいしたことがなかったのならいいのにと、切れそうなほどのプリーツを膝に感じて、廊下を横切りながら思った。
部室の扉を開けると、技術課の一年生が調整室に固まっていた。二年生の織部凌が何か指導している。スタジオ側は、一年生のアナウンサー二人があれこれ原稿を見てチェックを入れていた。二年生の森はもうデスクトップPCを立ち上げて、キーボードを叩いている。同じ二年生のアナウンサー二人、美咲と柚月はまだ来ていなかった。
「おはようございます」
業界に倣ったらしい挨拶をして、上履きを脱ぎ、部屋に入る。須藤さんはもうテーブルについていた。教室から瞬間移動してきたのだろうか。考えてみたら、須藤さんは二階を使う三年生で、放送室の鍵が保管されている職員室も二階。一番手はきっと須藤さんだ。
「おはよう、積森さん」
すでに熱気がこもり気味の部室で、須藤さんは涼しい顔をしている。大きな声を出しているわけでもないのに、よく通る声。アナウンサーの発声方法だ。
口も喉もお腹も胸も、身体を鍛えると、言葉を出しやすくなる。
去年の四月に入部して、「アナ教」を受けるようになって、驚いたのがそのことだった。
発声練習も種類があって、「あー」と一定の声の大きさと調子で伸ばす長音練習から、「れろれろ」を繰り返す滑舌系まで多彩で、間の取り方、呼吸の仕方。しゃべることもスキルの一つなんだと思い知らされた。
そして言葉を発することそのものへの興味が増していた。
「積森さんは、朗読、準備は進んでる?」
ストレッチも腹筋も背筋もアナ教を終えて、明日のお昼の放送用の収録前――明日は生放送ではなく収録放送をする。全員一年生が制作するからだ――のひととき、私に向かって確認してきた。須藤さんはなんとなくいい匂いがする。部全体のお姉さん役だ。
「ずいぶんうまくなったよね」
須藤さんが言う。
「最初に朗読やってもらったときから感じてた」
「そうですか?」
言いつつも、須藤さんに褒められたらうれしい。私でなくてもうれしいに決まってる。
「積森さん、『アナ教』やるようになってから、どんどんうまくなった。積森さんの朗読なら、本一冊全部聞いてみたいって思うよ」
「褒めすぎです」
「慣れてる感じもした。どこかで何かやってたんだっけ? 中学校は演劇とかやってた?」
中学校で演劇。私はちょっと胸に痛みを感じる。あの人を思い出す。
「いえ。小六の学芸会ではナレーターをやりましたけど……バスケ部です。ずっと補欠の」
「髪形はバスケ部っぽい。あ、バドミントンの代表選手で似てる人いるよね。そうなんだ。ってこれ去年も話したか」
入部してからアナウンサーとしての基礎を教わりながら、確かに本を読むことには慣れていたから、須藤さんだけでなく、当時の三年生の田中先輩にも訊かれたと思う。だから答えた。
「ずっと我流でした。きちんと発声から教わって、こんなに変わるんだって自分でも驚いています」
「いいこといいこと」
テーブルの上手に須藤さん、隣に同じ三年生の相良唯さんが座っていて、私はテーブルの長辺側の上手寄りに座っている。隣は二年生のアナウンサーの柚月、その隣は同じく二年生の美咲だ。
「逢瀬さんはアナウンス、櫻庭さんもアナウンス。で、積森さんが朗読」
「その言い方は、私が朗読で出るのが意外ですか?」
「ふだんの『ヒルヌン』だけ聴いてたら、アナウンスで出るって思うなあ。実際去年の『新人戦』はアナウンスだったでしょ。でもあれは部門間違いだった。本当の積森さんは朗読だったんだ」
秋の高文連放送コンテスト。全道大会へは進めなかった。
「『ヒルヌン』のイメージ強いですか」
「みんなは強いと思う。このあいだの図書局タイアップのやつもうまかった。ね、森君」
突然名前を呼ばれて、壁際のデスクトップパソコンで原稿を打っていた森が「ハイ?」と声を裏返した。
「森君さ、そつないんだけどさ、困ったときの図書局タイアップ、少し控えなよ」
「まずいっすか」
「まずくはないんだけど。ちょっとねー、原稿も冗長なのね。いつも積森さんに直されてるでしょう」
「ツモリンのおかげで、いつもいい放送出来てますよ。俺も頑張ります」
何を頑張るのだろう。森は須藤さんの反応を少しの時間窺っていたが、須藤さんの興味が私を向いているのを確認して、またキーボードを叩きだした。
「でも、このあいだの『ヒルヌン』は、急ごしらえの、やっつけの、慌てて書いた、手書きの、生放送に合わせて書いた手書きの原稿の割には、積森さんのアナウンスがよかったよ」
森は、須藤さんの言葉一つ一つに反応して肩を震わせていた。
「図書局行ったら、紹介した本、全部、っていっても二冊ですけど、貸し出し中になってました」
「そうか。私も読みたいなって思ったくらいだからね。積森さんのアナウンスは、興味をそそられるようなエッセンスが混じってるのよ」
「それはあたしも思う」
相良さんがのんびりした顔をしながら言った。須藤さんとは対極的な雰囲気の女の子だが、相良さんはアナウンス部門で朗読は苦手みたい。
「だまって聴いてたら、本当のラジオ番組みたいだからね」
「ま、そこまで褒めちゃうと積森さん、おだっちゃうから、ゆいぽん、ほどほどに」
「うまいっちゃうまいでしょ」
「ただね」
私は顔を上げる。
「はい」
「もうちょっと感情が入ってもいいと思うんだよね。もうちょっと。演劇にならない手前ほんの少し」
「硬いですか」
「どこか、うーん、出し渋りをしているような」
「えっ、どういうことですか」
「どっかで、気持ちを出すのをセーブしているような。だから、アナウンスはもう抜群にうまいと思うんだ。抑制が効いてて。もちろん朗読もうまいんだよ。アナウンスじゃなくて朗読部門で出るのは私、賛成。向いてると思う。だから、もうちょっとのような気がするんだよね」
「……努力します」
「うん。そこは無理かけなくてもいいとは思うんだ。だって積森さん、読めてるし、何なら自分で取材して『ヒルヌン』やっちゃうし。森現象でもないでしょ?」
また名前が出て、森が振り返る。
「なんすかー、その森現象って」
「原稿書きたくない病。いや、書きたくても書けない病?」
「書いてるじゃないすか」
「脚本はすらすら書くのに、変なやつね」
「『ヒルヌン』の原稿とラジオドラマの脚本は別物すよ」
「それもわかってる。積森さん、アナウンス部門の原稿を自分で書くのが苦手で、とかいう消極的な理由でもないもんね?」
「違います」
「そうだよね、自分で取材したりとか、そういうのもあったし。わかった。じゃあ、お互い頑張ろう」
須藤さんは最後の大会だ。朗読部門で出場する。全道レベルを超えているから、全国でどこまで食い込むか、が課題だと思う。
私たちが話している横では、技術課の一年生男子二人が調整室で収録準備を進めていて、一年生のアナウンサー女子二人のうち、今日の担当が和奏。同じく一年生の佐藤彩夏は少し離れたテーブルで見守っていた。アナウンサー二人はすでに「初鳴き」を終えているが、全員が一年生のチームで番組を作るのは全く初めてだから、なぜかガチガチに緊張している。原稿を書いたのは佐上花蓮。さっき原稿を読ませてもらったら、学校祭の中庭に美術部が絵を描くという話題だった。知らなかったので興味深く読んでしまった。
「逢瀬先輩、ここ教えてください。あの、間の取り方とか」
柚月が和奏に呼ばれた。なんとなく引っ張られて、美咲もテーブルを離れた。
「積森さんが朗読とは、意外な気がするけど、なんとなくぴったりな気もするね」
須藤さんは一年生たちの様子を見守りながら言った。
「そうですか」
「プロの人に怒られそうだけど、まず、積森さんは女子アナみたいにキラキラした笑顔でマイクの前に座るタイプに見えない。そうねー、NHKにはいそう」
衝撃だ。須藤さんにそんなことを言われるとは。
「でも、真剣な表情で原稿に向き合って、静かなスタジオで朗読している姿は、なんかすぐにイメージ湧く。収録のとき、灯り落とすでしょ。ああ、積森さん、似合ってるなって思うんだよね」
聞きながら、背景のわちゃわちゃがちょっとうるさい。柚月は優しいから、一年生にすぐ頼られる。美咲もサポートがうまいから、慕われる。私のところには、和奏も彩夏もやって来ない。柚月も美咲も、相良さんもふさがっていて、須藤さんにはなおさら声がかけづらいから、消去法で来る程度。
「私って笑わないですか」
つい須藤さんに訊いた。
「ん?」
「クラスの子にも言われたんです。私って笑ったことないですか」
「そんなことないんじゃない? ほら、変なキュー出してきたとき、逢瀬さんも櫻庭さんも、ゆいぽんだって笑ってたじゃない。積森さんも同じだよ」
技術課からキューを振られて、しゃべり始めるわけだけれど、高校生男子はときどきふざける。大昔はテープに録音していたそうだけど、いまはデジタル録音だから、削除もしやすい。ふざけやすい環境があるわけで、そんなとき、私は笑っていたらしい。
「笑わないってことはないと思うけど、ほかの子たちみたいな弾け方はしないよね」
「そうですか」
「覚えてないの?」
「あんまり」
「まあ、確かに、積森さんはクールよね」
「冷たいですか」
「冷静。ミスもしないし。時間通りに原稿も読めるし」
「ありがとうございます」
「でも、やっぱりね。もっと感情が出てもいいと思う」
須藤さんがまっすぐ私の目を見ていた。
「どこかで抑えている気がする。もっと登場人物の感情を、聞く人へ伝わるように。そのためにはあなたの感情も必要だと思う」
感情。無意識に、左の頬に手を当てる。ひりひりとした痛みがよみがえる。この二年、私は感情を外に出してはいけなかった。そう思って過ごしている。
「ん、積森さん、大丈夫? ちょっと気が離れてる」
「すみません。大丈夫です」
「私もプロじゃないから大したものじゃないんだけど、積森さん、きっといい線行くと思うよ。うまいもん。あと、気持ち次第じゃないかな。だいたい、森君が書いた脚本で、積森さんヒロインやってるわけだし。クールな役だけど、いい感じだよ。セリフの読み方とか」
にっこり笑う。須藤さんは作り笑いに見えないそれで、私の心をとらえてくる。
「あー、須藤先輩、演劇部に俳優頼んじゃったら、まずいすかねぇ」
森が気の抜けた声で話しかけてきた。
「それいつの番組の話してるの? NHKのはもう完成したわけだしさ。高文連のだったら、規約ちゃんと読まないと微妙かもよ」
「あー、そうすかねえ」
森がキーボードをまた叩き始めた。
「森君、次はもうちょっとさ、高校二年生らしい脚本にしてみたらどうかな」
須藤さんが森の傍らに歩いて行くと、ぽんぽんと肩を叩いた。
「積森さんはすごくうまくやったけど、なかなか難しい役だったじゃない」
「私はそんなに難しく感じなかったですけど……」
森が叱られるのかなと思って、私は手を差し伸べるように言った。すると森が振り向いて、
「あれは、ツモリンをイメージして書いてるから、当たり前だねー」
「なに、当て書きしたの?」
須藤さんがあきれる。「積森さん以外の子が演じたらぜんぜん違う結果になってたってことか」
「結果オーライってことで」
森が私を見て下手くそなウィンクをした。「サンキューツモリン」。
『ヒルですヌーン』の収録が始まる。私たちは音をたてないように、灯りの落とされたスタジオ兼部室で、一年生たちを見守るのだ。
オープニングのジングルが鳴る。といってもオリジナルではなくて、もうずっと昔に流行ったらしいフュージョングループの有名な曲のイントロ。吹奏楽局がアレンジしたバージョンを演奏しているのを聞いたことがある曲。
それから、キューが来る。
「みなさんこんにちは。『ヒルですヌーン』、今日も始まりました」
和奏はやや身を乗り出し気味にしてマイクに立ち向かっている。少し早い口調。もっとゆっくりやりなよ。
「春になったと思ったら、そろそろ札幌はライラックの季節になりそうです。暖かい日々が続いていますが、みなさん、リラ冷えという言葉を知っていますか? いま時期、季節が戻ったように、冷え込むことがありますよね。夏が待ち度おいしい今日この頃ですけど、中間テストまでに風邪なんて引かないように、気を付けてくださいね。それでは今日の一曲目、『ヒルヌンネーム』窓際の君が好きさんからのリクエストで――」
そつがない。けれど、原稿を読んでます感がものすごい。なんとなく須藤さんを見ると、少し困ったような笑みを浮かべていた。
「それではお聞きください」
BGMがフェードして、リクエスト曲が流れる。アナウンサーのマイクもオフされるから――うちの放送局にはカフボックスなんてない――、そこで和奏は椅子に背を預けて、ふー、と息をつき、振り向いた。すぐそばに私がいたせいで、私と目が合ってしまった。和奏は須藤さんを探したはずなので、いつも仏頂面の得体が知れない二年生と目が合ってしまい、きまりが悪そうだった。
「よかったよ」
当たり障りもなく私は答えてみた。悪くはなかった。トチらなかったし。
「ちょっと早かったね。もっと落ち着いて読んだ方がよかったんじゃないかな」
須藤さんがすかさず言ってくれた。
「緊張しましたー」
「今日が初回じゃないでしょ」
「いつでも緊張しますよー」
「これじゃナマはしばらく無理かなぁー」
相良さんが腕を組んで難しそうな顔をした。
「いや、ナマのほうが一瞬だから緊張しないよ。ね、柚月」
と、美咲。勢いのままにしゃべってしまう美咲らしいと思った。多少言葉を噛んでしまっても気にしない。収録だと噛んだ瞬間に録音が止められる。
「曲が終わったところでいったん止めるんでしょ?」
調整室に通じているマイクに向かって須藤さんが言うと、
「曲の終わりで止めまーす」
と、一年生の高瀬が答えた。パツパツとがった髪型は地毛らしい。
「曲の明けから、彩夏と代わる?」
須藤さんがにやにやしながら和奏に言った。
「えーそんな」
「じゃあ頑張ってよ。もうちよっとゆっくり話した方が伝わるよ」
ね、積森さん、と振られないように、黙ってなりゆきを見守っていた。
「原稿見せて」
もちろん収録前に須藤さんは原稿をチェックしている。きちんとメモが入っているかどうか。
「このとおり読めばいいから。でも、書いてあるものをそのまま読んでるっていまだとわかっちゃうから、そこは、積森さんと同じ。感情」
私の名前が出たので居住まいをただした。先ほどのやり取りはたぶん聞いていない和奏は、おや、という顔で私を向いた。
「言葉には感情が必要だから」
私は須藤さんを向いた。
それで考えた。私の言葉には感情がない。感情のない言葉っていったい何だろう。私の声は誰かの心には届かないのだろうか。たとえば……。
あの人に。
収録は何ごともなく、結構あっけなく終わった。けっきょく和奏はそこそこ上手に原稿を読んだが、最後まで「読んでます感」は抜けなかった。私が図書局タイアップの新刊案内をしているほうがまだましだ。
読んでいない本のストーリーを紹介して、ぜひ読んでと訴える放送。
他人事だから、読めたのかもしれない。感情はいらない。書き手の気持ちだけがほとばしればいい。だからあの日の放送は、私の感情ではなく、やっつけて書いた森の感情だ。森があの本を読んだかどうかは知らない。どこでストーリーを知って、作者の出身校まで調べて書いたのかも知らない。図書局からあらすじを教えてもらって書いたのかもしれない。
「ヒルヌン」の放送が嫌いというわけではない。私の声が校舎の一階から四階まで届いているのは気持ちがいい。職員室でも音量を絞って聴いているらしい。不要な感情を置き去りにして、原稿にだけ気持ちを載せてしゃべるのは、不思議な快感がある。特に、収録ではない生放送だとそうだ。放送自体は記録するために録音しているが、基本的に声はスピーカーから出たら回収されない。ラジオパーソナリティのアナウンサーを気取って、楽しげに、軽やかに、それを心がけていつも原稿を読む。まるで私が書いてきたかのように。
私が私である保証なんて、誰もしてくれない。あの人が自分を認めなくなったように。
「積森さん」
「はい」
「気が離れてた」
「すみません」
「佐藤さんと逢瀬さんのアナウンスが終わったら、最後になるけど、あなたの朗読やるからね」
「わかりました」
「有井さん、明日の放送、教室で聴きなさいね」
「えっ、何でですか」
「自分の声がどうやって教室で聴かれているか、知っておいた方がいいでしょ」
「『初鳴き』のときは部室で聴いたのに」
「今日は技術も編成も一年生だから。高瀬くんも、佐上さんもだよ。部室には来ないこと」
一年生チームは全員そろって返事をした。須藤さんは一年生たちの輪に向かった。
そのとき、なぜか私は、まったく原稿なしの、進行表だけがデスクに上に載っている「ヒルヌン」を生放送でやっている自分のイメージが湧いた。それはそれで、なんとなく無責任だけれど楽しそうな十五分になる気がした。かける曲とタイム表だけ、それ以外は私が自由にしゃべり散らかすのだ。
笑いも、怒りも、迷いも、みんなのリクエストに乗せて。本当のラジオ番組のように。そんなイメージを抱くと、いくぶん私の気持ちが軽くなった。そうしたら私は夢の話をする。将来の夢じゃなくて、夜の間に見た夢のこと。とりとめもなく、思い出すままにしゃべるんだ。
須藤さんからはいい匂いがした。私の制服からはクローゼットの匂いがした。ブレザーの袖には折り目がついたままだ。スカートのプリーツも触れたら切れそうだ。
昨日見た夢を思い出してみる。
みなさんこんにちは! 『ヒルですヌーン』、今日も始まりました。みなさん知ってましたか? ライラックと並んで北海道の初夏を告げる花、ルピナス。道端で咲いてますよね。甘い香りがして、私はとっても好きなお花です。でもルピナス、実は毒があるんです。
私、今朝夢を見ました。ルピナスがびっしり咲いた道を、夜中に歩いているんです。私の家は厚別区にあるんですけど、野幌の原生林まで、その道を、一人でずーっと歩いていくんです。だーれもいなくて、街灯だけがついていて、でも私は寂しくないんです。だって、みんな誰だってひとりぼっちじゃないですか。誰かと一緒にいたと思ったら、いきなり一人にされたりして、びっくりです。そんなびっくりする季節の今日の札幌は、晴れ。最高気温は二十一度です。まだ夏服には早いですね。それではリクエストお送りしましょう。一組のヒロリンさんから、モーリス・ラヴェルで『水の戯れ』。
昨日よりも日没時間が遅くなっていた。スマホでそれを見た。でも日が暮れると寒かった。バス停の周りは新琴似高校の生徒ばかりだったけれど、千里もいないし、一華もいなかった。地下鉄は始発だけれど、停車中の電車はもうけっこう席が埋まっていて、私はドアの少し横に立ち、文庫本を開いた。
大通りで人のかたまりの入れ替えがあって、いろいろな制服も混じって、東西線に乗り換える。電車の中でまた立ったまま小説を読んだ。私の隣に立っている私立高校の制服を着た女の子は、ずっとスマホをフリックしていた。
新さっぽろ駅について地上に出たとき、空にはまだ明るさが残っていたが、ほぼ全面が夜の雰囲気だった。きっと星だって見えるだろう。ルピナスはまだ咲いていないが、このまま原生林まで歩いて行こうかな、と思った。日が暮れるからそんなことはできないんだけど。
日が暮れてから寄り道をするなんてとてもお勧めできない危険行為だと思ったけど、家を大きく迂回するようなルートで私は歩き出した。家に帰るのが億劫だった。朝、制服がなくなっていたこと。あの人、今日、どうしたんだろうか。もし、帰って顔を合わせることになったら。そう思うと、少しでも寄り道をして時間を稼ぎたかった。
家から歩いて三十分とかからないところ。大きな公園があった。ゲートを通って、街路灯が明るく灯っている外周道路を歩いた。ランニングしている人がいた。犬を散歩させている人もいた。予想外に人がたくさんいた。
暗くなってからの公園にも人が来るんだ。
この公園は常識外れに広い。全部周ろうとしたら一時間では無理だし、確か公園のすぐそばにある高校のマラソン大会はここをコースにしていると聞いた。
外周道路を歩くと、分岐が来て、枝道に入ると、公園の拡張工事が止まった区画に届く。きっとここは芝生ができて、花が植えられたり、ウッドチップが敷き詰められたりするんだろう。今は街路灯だけまぶしく光っていて、やや高台気味になっているから、同じく丘陵地帯に広がる住宅街と、その向こうの札幌の中心部が見渡せた。スマホでその風景を撮った。それを、SNSに投稿した。
〈私が見ている風景です。いったいどれくらいの世界がこの一枚にあるんだろう。誰か、教えてくれますか〉
茂みや木立もないので、怪しい人影が近づいてもすぐにわかると自己正当化をして、どんどん群青が濃くなっていく空と、手稲山から恵庭岳まで連なる山地と、そして住宅街の灯りを眺めた。
夕暮れ時は切なくなるっていうけれど。
目を閉じてみた。
すると、いろいろな音が耳に届いていたことに気付く。外周道路を走る人の足音、犬の吐息、敷地のそばをかすめている高速道路の車の音。
息を吸った。「アナ教」のときのように。姿勢を整えた。背筋を伸ばし、胸を張り、腹筋を意識する。目を開く。
声を出したくなった。感情を、外に出したくなった。一華、千里、須藤さん。感情はここにあるの。出せないだけなんだ。だからいま、それを出す。
「私は! いったい誰ですか!」
発声練習だ。
「私にあなたは何を望むのですか!」
「私はあなたに何をしてあげればよいのですか!」
「いつになったらあなたは帰ってきてくれるんですか!」
鼻の奥が痛い。頬が熱かった。涙が止まらない。
いっそ誰かが私をさらっていってしまえばいいのに。そしてニュースになればいいのに。そしたら、私のフルネームを、アナウンサーが読み上げてくれるのに。
スマホが震えていた。
ポケットから取り出すと、母からだった。帰宅が遅い私を心配するメッセージだった。
ただでさえ心配が重なっているはずだ。素直に寄り道を報告して、すぐに帰ると返信した。
家は静かだった。門を抜けて、ときどき庭師が整えている前庭から、玄関へ。鍵を取り出して開ける。
「ただいま」
短く言った。ドアが開く音を聞いたのか、母が顔を見せた。ほっそりした顔がやつれて見えた。廊下の灯りのせいだと思うことにした。
「こんなに遅く……。いいのよ、無事なら」
制服姿のまま、居間へ入った。よく整理されていた。小さなころからそうだった。母はきれい好きだ。きれい好きで料理が得意な、お母さん。
「いま、おかず温めるからね」
「ありがとう」
「制服、クリーニングに出しておいてよかった」
「替えの方、ほとんど着たことないから」
一日着て、やっとなじんだ気がする。
「座りなさい。本当に、安心した」
「私が帰ってこないと思ったの?」
「いいえ。あなたは帰ってくる。でも、遅かった」
「寄り道、してた」
「どこに」
電子レンジの音。コンロに火が付く音。
「公園」
「公園?」
前はよく、学校帰りに寄り道をしていたから。梅がきれいだから。私はルピナスも好きだが、五月に咲くユーフォルビア・ポリクロマも好きだ。
「お腹空いたでしょ。部活は、頑張ってる? あなたがアナウンサーなんて、私は思いもよらなかった」
「意外だったの?」
「人前でしゃべるのなんて、あなたは絶対にやらないと思ってた」
「人前ではしゃべってない。マイクの前でしゃべってる」
「あなた、アナウンサーを目指すの?」
どうしてそういう話になるんだろう。わかっている。話の埋め草なのだ。母は沈黙を恐れている。
「アナウンサーなんか、目指してない」
「目指せばいいのに。どうして放送局に入ったの?」
高校二年生にもなって、いまごろ志望動機の話になるとは。
「本を読みたいから」
「本?」
しゃべりながらも母の手は止まらないから、私の前に湯気を立てた夕食が並んだ。レンジから出てきたのはご飯で、コンロで炒めていたのが野菜数種類、私のために焼いてくれたのが豚肉の生姜焼きだった。まるで男子が喜びそうなメニューだ。いただきます、といって、箸を持った。
「朝は、どうだったの」
私は強引に話を変えた。母は途端に表情を曇らせた。
「いまは、落ち着いた」
「お父さんは」
「午後から会社に出た。まだ帰って来ていないの」
「そう」
「あの子はお昼前には落ち着いたから、疲れたんでしょう。それから部屋で休んでる」
私たちの会話以外は、家の中に音がない。それも、私には寂しかった。
「あなたも、よく落ち着いて学校へ行った」
「起きたときは、私しかいなかった」
「……そうね」
「制服がなくなっているのにも、気づかなかった」
「夜の間に、持ち出したみたい。あなたはぐっすり眠っていたんでしょう」
「夢を見たのに」
「どんな」
母は私の対面に座っている。マグカップを包み込むようにして持ちながら。お茶を入れたのだ。母はコーヒーを飲まない。
「野幌の原生林まで、ずっとルピナスが咲いていて、私はその道を、一人で歩いて行くの」
「家から?」
「たぶん」
「ひとりで?」
「うん」
「そう」
私は豚肉をかじった。柔らかかった。母の料理はやはり上手だと思った。今朝はいつも用意してくれるお弁当がなかったから、購買でパンを買って食べた。千里がおかずをくれた。そんなにお腹が空いていたわけではなかったけれど、母の夕食を食べ始めたら止まらない。やっぱりお腹が空いていたらしい。
「緊張、してるのかな。あなたも」
「してる気はしない」
「笑うと、いい子なのに」
ぽつりと母が言った。
「私、笑っていない?」
「笑えるような状況じゃないのは、私もわかってる」
「お母さんこそ、……疲れてる」
「うん。少しね。あなたにだから言うけれど」
「お父さんには」
「あの人はもっと疲れてる」
「ずっと会ってない」
「会いたい?」
「さあ、わかんない」
「お父さんは、あなたと話がしたいのよ」
「なんの」
「アナウンサーの話。学校の話。彼氏の話」
「彼氏なんていない」
「いないの?」
「いないよ。いたことない」
「好きな男の子、いないの?」
「いない」
「そっか。そのうち、家に連れてくるのかなって待ってるんだけど」
「やめてよ」
「いつか、あなたも出ていくのね」
視線を外して、母が抑揚なくつぶやいたので、箸を止めて見返した。
「だって、ずっとひとりで生きていくわけはないでしょ」
「わかんないよ」
「わかんないよね。私もそうだった」
母はしゃべりすぎている。いつもはこんな話など一切しない。それだけ今日は大変だったのだ。
「お腹いっぱいになった?」
「なったよ。ごちそうさま。お皿、洗うよ」
「食洗器に入れといてくれたらいいから」
立ち上がり、軽く皿を水で流してから、食洗器に入れた。やたらと広いキッチンだなと、あらためて思う。テレビもついておらず、ただ、間接照明とフロアランプが灯っているだけの居間がさらに無駄に広く見える。カーテンから引かれていなかった。庭が見える。部屋の灯りを受けて、ぼんやりと庭木の輪郭。塀と庭木で目隠しされているから、カーテンを引いていなくても、路地からは見えない。カーテンが引かれていないのは母らしくないと思った。そういうことにはすぐに気が付くはずなのに。
「お母さん、お父さんが帰ってくるまで、待ってるの?」
「うん。ラジオを聞きながらね。テレビはうるさくて、つまらないから」
「少し横になったら。ご飯食べたの?」
「あなたが帰ってくるのが遅いから、先にいただいたよ。今度からは、遅くなるならちゃんと連絡して。お母さんひとりで食べるのも寂しいからね」
「……ひとりじゃなかったら、よかったのにね」
「仕方ないもの。それはね」
「ありがとう。ごちそうさま」
私はまだテーブルに残っている母に言って、二階の自分の部屋に、向かった。
階段を上がる前に、なんとなくスマホを見た。SNSを開くと、どうということもない私の呟きに、相変わらず数少ないインプレッションがついていた。
誰が見ているんだろう。
ルピナスのことを書いただけなのに。
公園で見た風景をポストしただけなのに。
誰かが、私の世界を見てくれているんだ。