第93話:ツキアカリにミマモラレ
音楽が鳴りやむ頃には、リリィはすっかり肩で息をしていた。ほとんど音楽に合わせて体を揺らしていただけなんだけどな……。体力的な疲れというより、精神的な疲れだろうか。
「よ、ようやく終わったわね……」
「お疲れさま、リリィ。どうだった?」
ダンスを終えた感想を尋ねると、リリィはプイっとそっぽを向く。頬を少し赤くして、流し目で俺を見ながら、
「まあ、あなたがどうしてもって言うなら、また踊ってあげないこともないけれど」
「それじゃ、このままもう一曲踊るとするか」
「ごめんなさい、それは本当に無理」
冗談で言ったらマジトーンで拒絶された。リリィの目からハイライトが消えている。ダンスに対して苦手意識がなくなったわけではなさそうだ。
じゃっかんふらついているリリィを支えながら元の場所に戻ると、そこにはレクティとロザリィの姿があった。ロザリィはすごく満足そうな表情を浮かべ、レクティは足を押さえて蹲っている。
「ダンス楽しかったですわね、レクティ!」
「……十三回も足を踏まれました」
レクティはロザリィに一切同意せず、淡々と被害状況を報告した。なんというか……、ご愁傷様。
ところで、
「ルーグは一緒じゃないのか?」
「あら。先ほどまでここに居ましたわよ? わたくし、次はルーグ様と踊ろうと思っていたのですけれど……。きっとお手洗いですわね! ヒュー様、次はわたくして踊ってくださいませんこと?」
「あー……、いや。ごめんな、ロザリィ。俺はルーグを探してくるよ。リリィ、後は任せて構わないか?」
「ええ、もちろんよ」
リリィからも了承をもらい、俺はルーグを探すためこの場を離れることにした。疲れているリリィや何度も足を踏まれて痛がっているレクティを誘いに来る貴族は居なさそうだ。しばらくは離れても大丈夫だろう。
会場を見回すと、壁際に立つロアンさんを見つけた。会場の警備がてら、遠巻きに俺たちを見守ってくれていたようだ。視線を向けると、顎をしゃくってバルコニーの方角を示してくれる。ルーグはどうやら外に出ているらしい。
ロアンさんには会釈を返し、バルコニーへ。会場とバルコニーを繋ぐガラス扉の前にはアリッサさんの姿があった。元々そこへ配置されていたのか、それともルーグの動きに合わせて移動したのか。
俺の姿を見つけたアリッサさんはにやにやと笑みを浮かべて「ごゆっくりッス~」なんて声をかけてくる。イラっとしたが、突っかかっても仕方がない。ここはお言葉に甘えて、存分にゆっくりさせてもらうとしよう。
扉を開いてバルコニーに出ると、ほのかに冷たさを感じる夜風が肌を撫でる。思わず細めてしまった目を開くと、手すりに手を置いて夜空を見上げていた彼女がちょうどゆっくりと振り返るところだった。
降り注ぐ柔らかな月の光が、銀色の彼女の髪をまるで夜空に輝く星々のように煌めかせる。紺碧の瞳は月明りを反射して、深い海のような神秘的な輝きを放っていた。
彼女の表情には少し驚いたような、それでいてどこか優雅な微笑みが浮かんでいる。
夜会会場の喧騒からは隔絶され、かすかに音楽だけが静けさの漂うバルコニーに流れていた。
「こんなところで何をしてるんだ?」
俺が歩み寄りながら尋ねると、ルーグは振り返って再び月を見上げる。
「月を見てたの。お母さまがね、死んだら人はお月様に行くんだよって言ってたから」
「そうなのか?」
この世界の迷信だろうか。俺の故郷、プノシス領では一度も聞いたことのない話だ。
「わかんない。行ったことないもん」
ルーグはにへらと誤魔化すように笑う。
悪夢にうなされていたルーグは必死にお母さんを探していた。……たぶん、ルーグのお母さんはもうこの世には居ないんだろう。
俺はルーグの横に並んで月を見上げながら、彼女に問いかける。
「なあ知ってるか、ルーグ。月にはうさぎが住んでるらしいぞ」
「えっ、そうなの!?」
「ああ。だから、うさぎが住んでるなら人だって住めるはずだろ? 死んだ人が月に住んでたって不思議じゃないさ」
「そっか……。うんっ、そうだね!」
ルーグはパァッと表情を明るくして両手を月に伸ばした。俺も真似をして、右手を月に伸ばしてみる。
「月ってどうやったら行けるのかな?」
「けっこう遠そうだからなぁ……。空を飛べるスキルでも難しいかもしれないな」
その気になれば〈洗脳〉スキルを駆使すれば行けそうだが、行ってわざわざ誰も居ないことを証明したって仕方がない。
それに、重要なのは実際に行けるかどうかじゃなくて。
「もし、ルーグが月に行くときは、俺も一緒に行くよ」
「え……っ?」
「ダメか?」
月へ伸ばしていた手を下ろし、ルーグの顔を覗き込みながら尋ねる。ルーグはふるふると首を横に振って「ダメじゃないよ」と呟くように答えた。
「ヒューが一緒なら心強いし、お母様にヒューを紹介してあげられるから」
「ちなみに、なんて紹介してくれるんだ?」
「そうだなぁ。ボクのルームメイトで、親友で……」
そこで一度、言葉を切って。ルーグは月に伸ばしていた手を引っ込めてこちらに視線を向ける。月光を反射した紺碧色の瞳には、俺の姿が映りこんでいた。
「――わたしの、大切なひと」
「それは……緊張するなぁ」
ダメ? と首を傾げて問いかけてくるルクレティアに、俺は「ダメじゃないよ」と首を横に振って見せる。それから一歩下がって片膝をつき、左手を胸に当て右手を彼女に差し出した。
「俺と踊ってくれますか、俺だけのお姫様」
「うんっ!」
ルクレティアは俺の手を取ってふわりと微笑む。
……あぁ、好きだなぁ。このまま踊らずに抱きしめたくなる衝動を必死に抑えこんで、俺はルクレティアと手を重ねた。
互いに見つめあいながら、呼吸を合わせる。どの方向に何歩動きたいか、言葉にせずとも、それだけで伝わってくる。
月光に照らされた二人きりのダンスステージで、俺たちは遠くから聞こえてくる音楽にゆっくりと身を任せたのだった。