第205話:エル・プサイ・コング・ルー!(ルー三人称&日記)
【7月31日】
昨日、ついにレクティの子供が生まれたわ。彼女に似てとっても綺麗な顔の女の子。ティアの時にも担当してくれた助産師さんが取り上げてくれたのだけど、彼女もこれまでに経験がないと言うほどスムーズな安産だった。
仕事で屋敷を離れていたヒューが知らせを受けて診療所に駆け付けた時にはもう生まれちゃっていて、一緒だったイディオットと肩を組んで喜んでいたのが印象的だったわ。イディオットも心の整理をつけたみたいで、わだかまりがなくて何よりね。
レクティは産後の経過も順調で、あの子ったら明日にはもう診療所へ戻って働きだすつもりみたい。もう少し赤ちゃんの近くに居てあげても……と思うけれど、正直助かるわ。
やっぱりイディオットたちを追って、スレイ殿下派の軍勢が迫って来ているみたいなの。
斥候に出たマイク様からの情報によると、軍勢を率いているのはガディネス伯爵。スレイ殿下派に属する有力貴族の一人で、最年少でリース王国の大臣にまで上り詰めた傑物だ。
まさかそんな大物が直々に乗り込んで来るなんて……。
率いる軍勢は約三千。こちらの兵力の七倍から八倍近い数だわ。
プノシス領は天然の要害であり、街道を遮るように砦も建設した。兵力では劣勢でも、地の利はこちらにある。勝機は十分にあるはず……とは言え、死傷者が出るのは避けられないでしょうね。
いざ戦が始まった時、レクティの居る居ないは勝敗に直結する大事な要素になる。レクティには事前に決めておいたプラン通りに、砦とプノシス領の中間に建設した野戦病院に詰めてもらうことになるでしょう。
出来れば、赤ちゃんとの時間をもっと過ごさせてあげたいけど……。
「大丈夫です、リリィちゃん。この子を……ティーナを守るためにも、今は頑張り時です!」
レクティはそう言って朗らかに微笑む。本当に強くなっちゃったんだから、もう。
彼女が覚悟を決めている以上、私もヒューもその意思を尊重するしかない。
レクティとティーナが穏やかな日々を過ごせるように、少しでも早く戦いを終わらせなくちゃならないわね。
【8月3日】
私たちがプノシス領に来て六年が経とうとしている。
今日、ついにスレイ殿下派の軍勢がプノシス領へと攻め込んできた。
私とヒューにとって初めて体験する戦場の空気はとても恐ろしかった。遠くから聞こえてくる怒号や断末魔の悲鳴が、夜になって落ち着いた今でも耳から離れない。
戦況は、今のところはこちらが優勢。ガディネス伯爵に率いられた軍勢は正面から砦に攻め入って来たけれど、強固に築いた砦は容易くその攻撃を跳ね返している。
イディオットたちが連日徹夜で改築作業を急いでくれたおかげね……。
当初の砦は私やマイク様の持ちえた知識だけで築いたものだったから、実用性の面で不安なところがあった。そこに気づいたイディオットが、旧王国騎士団やピュリディ領の兵士たちと共に砦を守りやすいように改造してくれたのだ。
ピュリディ領での戦いを生き残った彼らはとても頼もしかった。特にイディオットは将として砦全体に指示を飛ばして戦況を有利に進めてくれた。戦場の空気に飲まれていた私とヒューじゃ、こうも的確に指示は出せなかったはずだわ。
初日はひとまず勝利と言っていい。敵に少なくない損害を与えられた。
……とは言え、こちらも死者を出してしまっている。
亡くなったのはピュリディ領の兵士が二名と、避難民から志願してくれた四名。
彼らには一人一人に人生があって、帰りを待つ家族が居た。
これからも死者は増え続ける。
彼らを率いた側の人間として、私は彼らの家族にどんな顔をして会えば良いのだろう。
【8月10日】
昼過ぎから降り出した強い雨がテントに打ち付けて音を立てている。
今日、ヒューは一つの大きな決断をした。
戦況はこちらが優勢で、未だに砦の門は破られていないし、山道から砦を越えようとした敵の別動隊は全て私の〈戦略家〉で把握。プノシス領の山を知り尽くしたマイク様率いる遊撃隊が各個撃破している。
だけどガディネス伯爵率いる軍勢との戦いは日ごとに激しさを増し、死者は増え続ける一方。七倍以上の戦力差は覆しようがなく、このまま戦いが続けばこちらがやがてすり潰されるのは目に見えていた。
「……リリィ、イディオット。相談があるんだ」
戦いが始まってから初めての雨が降り始めた頃、ヒューは覚悟を決めた表情で私たちを呼んだ。
「俺の〈発火〉で敵を一掃する。やるなら雨が降っている今しかない」
ヒューの〈発火〉は威力が強すぎるが故に、使いどころが限定される。特に山中での使用は周囲の木々に延焼して大規模な山火事になりかねない。
確かに、〈発火〉を使うなら雨が降っている今が最適。
次はいつ訪れるかもわからない好機だった。
でも……、
「大丈夫なの、ヒュー……?」
私の問いに、ヒューは曖昧な笑みを浮かべる。
「もうこれ以上、犠牲者を出したくないからな……。イディオット、護衛を頼めるか?」
「うむ。謹んで拝命しよう」
彼はイディオットを引き連れ、砦の門のほうへ歩いて行く。
私はその背中に手を伸ばそうとして、引き留めることが出来なかった。
戦いを終わらせるには、ヒューの圧倒的な力を誇示するのが手っ取り早い。
敵の戦意を挫いて撤退させれば、しばらくはこちらに攻めて来ることもないはずだ。
それはわかっていた。
……けど、ヒューはとても優しい人だから。
自分の力で大勢の人を殺してしまう。その罪悪感はきっと彼を苦しめる。
それでも、覚悟を決めたヒューは門の上に立った。
彼を狙って飛来する矢や石は全てイディオットが切り払い、ヒューは〈発火〉の狙いを定める。
直後、轟音と共に熱風が吹き荒れた。火柱は雲に届きそうなほど高く立ち昇り、その様は天へと駆ける竜を連想させた。
熱風は砦の中にまで吹き荒れ、私は思わず顔を覆ってその場にしゃがみ込んだ。
後には大粒の雨が降り注ぎ、周囲には濃い霧が充満する。
それからしばらくは、雨音だけしか聞こえなかった。
やがて遠くから敵軍の撤退の合図である角笛の音が聞こえて、砦の各所から歓声が上がる。敵が尻尾を巻いて逃げていくぞと誰かが大声で叫んでいた。
みんながヒューを讃えている。
でも、ヒューの顔から血の気は引いていて、私は彼を必死に抱きしめた。
私たちを囃し立てる声が上がったけれど、それは次第に尻すぼみになっていく。
ヒューも私も、人目を憚らずに泣いてしまっていたからだ。
イディオットが気を遣ってくれて、私とヒューをテントの中で二人きりにしてくれた。
それから私たちは互いを慰めあった。
夜になって、ヒューは私のベッドで静かに眠っている。私もそろそろ眠らないと……。
ヒューのおかげで敵の大部分が蒸発した。
もはやガディネス伯爵の軍勢に継戦能力は残されていないはず。
明日の朝、敵の撤退を確認したら私たちもようやく帰れる。
屋敷で待ってくれているメリィとリューグは元気かしら。ティアやルーたちにも早く会いたいし、野戦病院に居るレクティとも合流したい。
レクティはきっと、ティーナに会いたくてうずうずしているはずよ。
今はただ、みんなと過ごす日常が恋しいわ。
【 月 日】
レクティが――
そのページには日付が書かれず、文字ですらないぐちゃぐちゃの線が滲んだインクで書き殴られていた。そこから先の数ページは乱暴に千切り取られ、次の日記までは五年のもの空白期間が存在している。
ルーは静かに日記を閉じると、持ち上げて胸に抱きしめた。
「リリママ……未来は必ず、変えてみせるです!」




