第194話:いしのなかにいかない
ピュリディ家の屋敷には二日間滞在した。その間、ティアはローズさんとルティアナさんが学生時代から続けていたという文通の手紙を見せてもらったり、レクティはローズさんから貴族夫人としての振る舞いを学んだりと有意義な時間を過ごした。
そして俺とリリィはと言えば、リリィの弟と遊んでいた。
レパード・ピュリディくん。三歳。
リリィの年の離れた弟で、ピュリディ家の長男。リリィにそっくりな明るい赤茶色の髪と翡翠色の瞳を持つ男の子は、俺によく懐いてくれた。
屋敷には男性の使用人が数人居たけど、みんな忙しくてあまりレパードくんを構えなかったらしい。三歳男児の底なしの体力にローズさんやメイドさんたちはついて行けず、レパードくんは退屈していたようだ。
その点、俺は体力には少しだけ自信がある。高い高いと持ち上げて、お馬さんごっこやチャンバラごっこに付き合っていたらものの三十分も経たずにめちゃくちゃ懐かれた。
その懐きっぷりは凄まじく、夕食は俺の隣で食べるし、風呂も一緒に入った。そして夜も一緒に寝たいとせがまれて、俺はレパードくんと一緒に眠ることにした。
ティアがぷくーっと頬を膨らませていたけど、さすがに三歳の子供と俺を取り合って喧嘩するのは大人げないと思ったらしい。
「いいもんっ、今日はリリィとレクティと三人で眠るもんっ」
と拗ねながら二人を連れて寝室に入って行った。旅の途中でも女子三人が一緒の部屋で眠ることは何度かあって、三人で眠るとティアも悪夢を見ないようだ。じゃあ今後も三人で眠れば良いんじゃないかと思うのだが……まあ、あえて言わなくてもいいか。
そんなこんなで俺はピュリディ家の屋敷に滞在中、レパードくんとほとんど一緒の時間を過ごした。
ローズさんからは「レパードの教育係として貴方が必要よ。さっさとリリィと結婚してこの屋敷で暮らしなさい」なんて冗談かそうじゃないのかわからないことを言われたけど、さすがに王立学園を中退するわけにはいかない。
リリィだけじゃなくて、ティアとレクティとも結婚するとしたら学園卒業後になるだろう。それまで俺たちの関係は婚約者ということになる。婚約破棄されてしまいないよう健全誠実に頑張らなきゃな……。
出立する際に大泣きしたレパードくんと再会を約束し、俺たちはローズさんに見送られながらリリィガーデンを後にした。
そこから更に一週間。順調に進んだ俺たちは、ようやくプノシス領最寄りの町へと辿り着いた。ここから先、プノシス領へと続く街道はろくに舗装もされていない。
いちおう馬車でも進めなくはないが、車体へのダメージは避けられないだろう。十年前にピュリディ家の一行がプノシス領を通って隣国へ行こうとした際も、馬車が道に耐えられず故障して立往生していた。
「あの時は本来通るつもりだった街道が土砂崩れで通れなくなっていたのよね。それでプノシス領から迂回したのだけど、子供ながらに大変だった記憶があるわ……」
「プノシス領から先も山越えだからなぁ……」
しかも標高三千メートル級の山々が連なる『大陸のへそ』と呼ばれる山岳地帯だ。どうやらピュリディ家はそこを通って隣国のネイブル王国へ向かう用事があったらしい。とんでもなく危険で大変な旅だったのは間違いない。
ともかくピュリディ家から借りた馬車を壊すのも気が引けるし、道が悪すぎて事故になる危険もある。ここから先は歩きでの移動に切り替えたほうが良いだろう。
ただ、プラムさんはここまでずっと御者を務めてくれていたし、疲労が相当溜まっている様子だ。話し合いの末、彼女には休息がてら馬車と共に町に残ってもらうことになった。
「それではお言葉に甘えて休ませていただきますわね。ヒュー様、お嬢様方を何卒よろしくお願いいたします」
「任せてください、プラムさん」
プラムさんから野営用のテントなどを預かり、俺たちはプノシス領に続く街道を進む。
荷物は校外演習の時に比べれば身軽なほうだけど、街道は舗装されていない上に高低差が激しい。校外演習の時は舗装された街道を歩いていたから、疲労感はどちらかと言えばこっちのほうが大きいかもしれない。
街道の整備がままならないのはこの高低差のせいだな……。道を通せる場所も限られているから山あいに沿って蛇行せざるを得ない。
トンネルを通せればいいんだけど、たぶんそこまでやるだけの価値がない。交通量はたかが知れているし、トンネルを通したとしてもプノシス領が経済発展するかと言えば微妙だ。父上が街道の整備に本腰を入れないのもそれが理由に違いない。
街を出発して半日ほどで、リリィはもうギブアップ寸前だった。いちおう彼女の荷物は俺と〈身体強化〉を持つレクティでそれぞれ受け持っていたんだが、それでも体力に不安があるリリィには険しい道のりだったらしい。
道端の座れそうな岩に腰を下ろし、リリィは荒れた息を整える。
「ごめん、なさい。体力を付けようと頑張ってはいるのだけど……」
「仕方がないよ、リリィ。わたしもヘトヘトだもん」
リリィの隣に座って励ますようにティアが言う。ティアは体力があるほうだけど、あらかじめ〈忍者〉スキルに切り替えておいた俺や〈聖女〉スキルを持つレクティのように〈身体強化〉の恩恵があるわけじゃない。普通の女の子にはやはり過酷な道のりなのだ。
「プノシス領って本当に山奥にあるんだね。予想以上でびっくりしちゃった」
「な、なんかすまん……」
ティアもリリィも俺の里帰りに付き合ってくれているわけで、そんな彼女たちが疲れている様子にはそこはかとなく罪悪感を憶えてしまう。「ヒューが謝ることないよ?」とティアは言ってくれるが、けどなぁ……。
「あの、ヒューさん」
レクティがちょんちょんと控えめに俺の服の袖を引っ張る。どうしたんだろうと彼女のほうを見ると、レクティは空を見上げながらプノシス領のほうを指さしていた。
「天気が少し怪しいかもしれないです……」
「あー……」
レクティが言うように、プノシス領の方角からこちらへ黒雲が流れて来ていた。おそらく通り雨や夕立の類だとは思うんだが、雷を伴って激しく降りそうだなぁ……。
山間部ということもあり、土砂降りになったらかなり危険だ。安全な場所まで移動してテントを張ってやり過ごすには時間も足りないだろう。
夏場でもこのあたりの気温は低い。今は動いているから気にならないが、雨に濡れたら急激に体温が下がってしまう。風邪をひいたり低体温症になったりしたら最悪だ。
出来ればこの手段は避けたかったけど……、
「えっと、スキルを切り替えたら一瞬でプノシス領に行けるかもしれないんだが……」
使ってもいいか? と将来のお嫁さんたちに尋ねると彼女らはうんうんと頷いた。了承を得られたし、今回は少しだけ楽をしよう。〈忍者〉スキルで周囲に俺たち以外の気配がないことを確認し、胸ポケットから新調した手鏡を取り出す。
「ヒュー・プノシス。お前のスキルは〈転移〉だ」
かちりと何かが切り替わった感覚があった。
スキル:転移Lv.Max ……任意座標へ安全に転移する。その際、自身を中心とした半径五メートル以内の人並びに物体の転移も可能とする
スキル〈転移〉。
〈洗脳〉でスキルを切り替えられることに気づいてから早い段階で使えたら便利だろうなぁと思っていたのだが、『いしのなかにいる』がトラウマすぎてずっと切り替えるのを躊躇っていた。
けどドレフォン大迷宮で崖崩れに巻き込まれた際、〈転移〉スキルが使えていたら大怪我をして死にかけることもなかったわけで。校外演習から戻ってすぐ、俺は試しにスキルを〈転移〉に切り替えてみたのだ。
するとスキルの内容には『任意座標へ《《安全に》》転移する』と書かれていた。どうやら転移先にある障害物や人、更には落下の危険がある個所などをスキルが自動的に検出し安全なポイントへ微調整して転移させてくれるらしい。
さすがLv.Max。自動的に『いしのなかにいる』を防いでくれるなら、安全にスキルを使用できる。しかも転移できるのは自分だけじゃなく、半径五メートル以内の人と物なら何でも一緒に転移できる。
何回か試してみたけど、半径五メートルの外にはみ出た物体はそもそも転移できないらしく、不慮の事故の心配はない。こんなに安全面がしっかりしてるならもっと前から使えば良かった。まあ、瞬間移動がそもそも目立つから使える場面は限られるんだが。
「三人とも、荷物を持って俺の傍に集まってくれ」
俺がそう呼びかけると、ティアは「うんっ!」と俺の胸に飛び込むように前からギュッと抱き着いてくる。そしてリリィは俺の右腕を、レクティは俺の左腕をがっちりとホールドして抱え込んだ。前と左右、それぞれ柔らかな弾力と甘い香りに包まれて卒倒しそうになる。
「いやあの、抱き着く必要はないんだけど……」
「えー? ヒューったら本当は嬉しいくせに素直じゃないなぁ」
「密着したほうがスキルも使いやすいでしょう? ふふっ、それともドキドキしてスキルが使えないかしら?」
「どこまでもお供します、ヒューさんっ!」
三者三様な彼女たちの言葉に愛おしさが溢れだす。こんなに幸せで良いんだろうか。どこか、それこそ足元なんかに深い深い落ちたら戻って来られないような落とし穴があるんじゃないか。
そんな不安すら覚えるほどの幸福感に満たされながら、
「〈転移〉!」
俺はスキルを発動し、将来のお嫁さんたちと共にプノシス領への里帰りを果たしたのだった。




