第181話:黒毛和牛上塩タン焼
食事の時間は和やかに過ぎて行き、ピュリディ侯爵がすっかり酔い潰れてしまった頃にお開きとなった。侯爵の介抱はプラムさんに任せ、俺とリリィは先にレストランを後にする。レストランと学園の距離はそれほど離れていないから、そのまま歩いて帰ることにした。
「なんと言うか、色々とごめんなさい……」
川沿いの道を並んで歩きながら、リリィが謝罪の言葉を口にする。
「本当はあの場で貴方との関係を認めてもらうはずだったのに、まさかピュリディ領まで行ってお母様に認めてもらわなくちゃいけないなんて。……その、面倒くさいでしょう?」
俺の様子を窺うような視線をリリィは向けて来る。面倒くさいかと聞かれたらそりゃ手間に感じはするけど、
「ご挨拶したいと思っていたから、会いに行く分には問題ないよ」
リリィのお母さんは五歳の頃に一度会っているはずだけど、その時の記憶はほとんどない。ただ何となく、リリィに似て綺麗な人だという印象だけが残っている。
リリィをお嫁さんに迎えるなら、お母さんの許可も得たいと思っていた。だからピュリディ領へご挨拶に伺うのは面倒じゃない。
そう伝えると、リリィはホッと胸を撫で下ろして「ありがとう」と微笑む。
ただ、問題はスケジュールだ。
「夏休みは実家に帰らなきゃいけないからなぁ……」
国王陛下からの書状を父上に届けるため、王都とプノシス領の往復で夏休みの二か月は潰れてしまう。けどピュリディ侯爵の口ぶりだと、ピュリディ領に向かうのは早ければ早いほど良さそうだ。
夏休みの機会を失うと次は冬休みまで待たなきゃいけない。冬は冬で雪が降れば身動きが取りづらくなるし、夏休みに比べると冬休みは期間も少し短いからな……。
最悪、今度は春休みまでピュリディ領を訪れる機会が失われてしまいかねない。さすがにそこまで先送りしてしまうと待たせすぎだろう。
「ピュリディ領は王都からプノシス領の途中にあるわ。少しだけ迂回しなければいけないけれど……」
「なら、ギリギリ寄れなくもないか……?」
プノシス領から王都へ出て来る時にピュリディ領を通った記憶はないから、たぶん乗合馬車のルートからは外れているんだろう。と言うことは、乗合馬車以外の足を確保しなくちゃいけないわけか。
「お父様に事情を説明すれば馬車を手配してくれるはずよ。乗合馬車を利用するよりも、片道だけで五日は移動日を短縮できるんじゃないかしら」
「マジか。それは助かる……っ!」
乗合馬車は馬車に乗っている間もそうだけど、馬車を待つ時間がかなり長い。王都へ出て来る時は出発地点になる街の観光を楽しめたけど、さすがに二度目は暇な時間が増えるだろう。
それに、ティアがプノシス領まで一緒に行きたいと言っている。ルーカス王子と国王陛下の許可も取り付けたらしいのだが、夏休みの間は王国騎士団が何かと忙しくこちらへ護衛の人員を派遣できないそうなのだ。
ティアに乗合馬車での旅はなかなか大変だっただろう。途中のピュリディ領まででも専用の馬車で行けるのはありがたい。
「ねえ、ヒュー。私とレクティも、一緒にプノシス領までついて行っても良いかしら……?」
「それはもちろん構わないけど、逆に良いのか? 夏休みが潰れるぞ?」
「どうせピュリディ領にある屋敷で過ごすだけだもの。ヒューにだけ私の両親に挨拶をさせて、私がヒューのご両親に挨拶しないわけにもいかないでしょう?」
「それもそうか……?」
実はティアにも同じことを言われたんだよなぁ。「ヒューのお父さんとお母さんに息子さんをわたしにくださいって言わなきゃ!」なんて随分と気合を入れていた。ティアが正体を明かして挨拶なんてしから父上泡を吹いてひっくり返るんじゃないか……?
「(それに、貴方と離れ離れになって、もうあんな怖い思いをしたくないわ……)」
リリィは俺に聞こえないような小さな声で呟く。たぶん俺に聞かせるつもりはなかったんだろう。……けど、残念ながら俺の今のスキルは〈忍者〉だ。万が一、ピュリディ侯爵の剣の錆にされそうになった時を考えて切り替えて来ていた。
怖い思い……か。
思い当たる節はある。ドレフォン大迷宮で、俺とティアはリリィの目の前で崖の崩落に巻き込まれた。レクティとイディオットによれば、あの後リリィは酷く取り乱して泣き叫んでいたらしい。
イディオットからは「慰めてやると良い」なんて言われたけど、俺とティアが地上に戻った頃にはすっかりいつものリリィだった。結局声をかけるタイミングが見つからなくて、何と声をかけて良いかもわからなくて……。
思えば、俺はリリィに甘えてばかりだ。彼女の気持ちにこれまでどれくらい向き合えていただろう。リリィが向けてくれる好意だけを受け取って、俺は彼女に何を返せていただろう。
このまま何も言わなくても、俺はリリィと結婚して家族になる。だけどそれは、自然とできた流れに乗ってなし崩し的にそうなるだけだ。お互いが望んだ結果だとしても、自分の意思で掴み取ったものとは思えない。
だから、ギュッと拳を握りしめ、意を決し立ち止まる。
「リリィ、少し良いか?」
立ち止まって振り返ったリリィの翡翠色の瞳が、街灯の明かりを反射して淡く輝く。
「どうしたの? 急に立ち止まったりなんかして」
「いや、その……。どうしても伝えておきたいことがあると言うか……」
意は決したものの、言葉は頭の中に浮かんでこない。視線を当てもなく巡らせる俺に、リリィは首を傾げる。彷徨っていた視線はやがて、リリィの立ち姿に吸い寄せられた。
深紅のドレスをまとう絶世の美少女。端整な顔立ちと魅力的なプロポーションを持つ彼女の姿に、自然と言葉が漏れ出てしまう。
「好きだよ、リリィ」
「……へっ?」
返って来たのは素っ頓狂な声だった。それから瞬く間にリリィの頬に赤みが差していく。
「す、好きって、どうしたのいきなりっ!?」
「いや、そう言えば一度も言ったことが無かったと思って」
「ええ! ええそうね! 一度も言われたことが無かったわ!」
リリィもやっぱり気にしていたようで、彼女はふんっと鼻を鳴らすと胸の下で腕を組んでそっぽを向く。
「待たせてごめんな、リリィ」
「本当よ。ずっと、ずっと、好きって言ってくれるのを待ってたんだから……っ!」
リリィの翡翠色の瞳から一粒の涙が零れ落ちる。
彼女は待ち続けてくれていた。俺が気持ちの整理をつけるまで、ティアとの関係がハッキリするまで。自分の感情に蓋をして、俺やティアやレクティを、ずっと近くで見守り続けてくれていたのだ。
そんな優しいリリィだからこそ、心の底から思う。
「俺と家族になってください。俺が君を、必ず幸せにしてみせる」
差し出したのは翡翠の耳飾り。指輪を用意できれば良かったんだけど、持ち合わせで買える中で一番良いものを選んだ。背伸びすらできない俺の、精いっぱいのプレゼントを受け取ってくれたリリィは優しく微笑む。
「貴方が私を幸せにしてくれるなら、私はそれ以上に貴方を幸せにするわ。世界中の男が貴方を羨むくらいにね?」
「えーっと、ほどほどで頼んでいいか?」
「だーめ」
リリィの柔らかな唇が有無も言わせず俺の口を塞ぐ。
互いの温もりを感じながら、甘くとろけるような時間が過ぎて行った。