第170話:もはや理性のほうがチートまである
男子寮を出て教員宿舎のほうへ向かうと、宿舎の裏に回る前から木剣を激しく打ち合う音が聞こえて来た。アリッサさんとイディオットが先に鍛錬を始めているんだろうか。それにしては随分と気合が入っているようにも思える。
疑問に感じながら宿舎裏に回ると、そこで木剣を打ち合っていたのはアリッサさんとシセリーさんだった。
王国騎士団副団長であり王国最強の騎士と謳われるロアン・アッシュブレードの右腕として、ロアンさんに次ぐ実力を持つアリッサさん。そして神授教が定める聖女ロザリィを護衛に抜擢された聖騎士のシセリーさん。
二人はたしか、王立学園時代の先輩後輩なんだったか。
果敢に攻めかかるシセリーさんを、アリッサさんは鼻歌でも口ずさみそうな余裕な表情でいなしている。……んだけど、シセリーさんの剣筋はめちゃくちゃ鋭いし、一振り一振りがとんでもなく重く見える。俺が真正面から受けようとしたら三打も耐えられないだろう。
「行けーっ! そこっ! やっちまえですわ、シセリーっ!」
「黙って見学しないか、ロザリィ嬢……」
アリッサさんとシセリーさんから少し離れた木陰で、ロザリィとイディオットが二人の試合を見学している。ロザリィはすっかり応援気分だが、イディオットは集中してアリッサさんとシセリーさんの動きを見ていた。
イディオットのレベルになると二人の試合から学べるものも多いんだろうな。俺も何かしら吸収したいところだけど、レベルが違い過ぎて何をどう学べばいいかすらわからない。
とりあえずルーグと一緒に近くの木陰に入って、アリッサさんとシセリーさんの試合を見学することにした。
「たぁあああああああっ!」
「踏み込みが甘いッスよ、シセリーちゃん? それから、視界の左側に意識を持って行かれやすい癖は学生時代から変わってないッスねぇ。ちょっとしたブラフですぐ引っかかるんスから」
「そんなこと――っ!?」
「はい引っかかった」
シセリーさんから見て右側から迫った斬撃が、いともたやすくシセリーさんの木剣を吹っ飛ばした。弾かれた剣はロザリィに向かって一直線に飛んでいくが、イディオットが木剣で容易く防ぐ。
「あ、ありがとうございますわ、イディオット様」
「この程度大したことではない」
なんてすまし顔で言うイディオットだけど、俺には真似できない芸当だ。こっちに飛んで来たら体で受け止めるしかなかったな……。
「ご無事ですか、ロザリィ様!?」
「ええ、イディオット様が守ってくださいましたわ」
ロザリィの無事を確認し、シセリーさんはホッと胸を撫で下ろす。一方、アリッサさんは特に気にしていない様子だ。ロザリィの安否に興味がないとかではなく、イディオットが間違いなく彼女を守ると確信していたんだろう。
「ふふん、まだまだッスねぇ、シセリーちゃん。これで自分の四百勝目ッス」
「三百七十四勝目です! ……もう、先輩は相変わらず適当なんですから」
勝ち誇ってどや顔を見せるアリッサさんに、シセリーさんは拗ねたように唇を尖らせる。
なんかちょっと意外だ。シセリーさんって落ち着いた大人な女性の印象があったけど、アリッサさんには子供っぽい反応を見せるんだな。
なんて思いながらシセリーさんを見ていたら、隣に居たルーグにシャツの裾を引っ張られた。そちらを向けば、ルーグがぷくーっと頬を膨らませて俺を見上げている。
「むぅー、シセリーさんはダメだからねっ」
「わ、わかってるわかってる。誰彼構わずお嫁さんにしようとはしてないから、そこは安心してくれ」
もちろんシセリーさんが魅力的な女性なのは間違いないけど、さすがに四人五人とお嫁さん候補にするつもりはない。身の程は弁えているつもりだ、これでも。
……と言うか、そもそもシセリーさんは俺のことを何とも思ってないだろう。
「さて、次はイディオット少年の番ッスよ。夏休みは馬車馬のように働いてもらうッスから、今の内に使えるように仕上げて行くッスからね」
「ふんっ、望むところだ」
アリッサさんに促され、イディオットは木剣を持って彼女と相対する。
王令を無視してスレイ殿下と共謀しレクティ誘拐事件を主導したホートネス家は、侯爵から男爵に降爵されている。ホートネス家の当主となったイディオットは、ホートネス家を維持するべく名誉回復のため王国騎士団に所属して手柄を立てなければならない。
大変そうだけど、俺に出来るのは心の底から応援することだけだな……。
アリッサさんがイディオットに付きっ切りなら、俺は一人で鍛錬することになる。とりあえず素振りでもしてようか……。
「では、僭越ながらヒュー様の指導は私が務めさせていただきますね」
「えっ? シセリーさんが?」
「ご不満ですか?」
「いやいや、とんでもない。むしろこちらからお願いしたかったくらいです」
シセリーさんの剣術は何となく基礎を極め続けた結晶のようなイメージを受けた。アリッサさんの基礎を極めた末に自由奔放で変幻自在に至った剣術とは似て異なるものだ。
どちらかと言えば、俺に合っているのはシセリーさんの剣術のような気がする。
「宜しくお願いします、シセリーさん」
「はい。それではさっそく始めましょう」
シセリーさんの剣の指導はひたすら実戦を繰り返すアリッサさんとは真逆のものだ。剣を構える際の腕の角度や、最も強く剣を振るための足の位置。俺の身体構造から最適な動きを模索する論理的な指導だった。
「ヒュー様、今の型で一度剣を振ってみてもらえますか?」
「わかりました」
シセリーさんに促され剣を振る。スムーズな身体の動きで振り下ろした剣は、普段よりも鋭く体重が乗った一振りになった。さっき見たシセリーさんの剣筋にはまだぜんぜん及ばないけど、なかなか悪くないんじゃなかろうか。
と思ったのだけど、俺の動きを見たシセリーさんはうーんと首を捻る。手にしていた木剣を足元に置くと、俺にぐぐっと近づいて、
「少し違いますね。もう少し腕の角度を広げて右足は半歩後ろに。それから脇をしめて――」
「し、シセリーさんっ。ち、近すぎませんか!?」
「近い、ですか?」
俺の目と鼻の先で端整な顔立ちのシセリーさんが首を傾げる。シトラスのような爽やかな香りが鼻腔をくすぐり、密着した胴体には柔らかな感触が押し付けられていた。
ぜ、ゼロ距離での密着指導はさすがに刺激が強すぎるんですがっ!
狼狽する俺の様子を見て、シセリーさんはようやく自分の胸が俺に押し付けられていることに気づいたようだ。
「ああ、当たってますね。申し訳ありません、ヒュー様。あと少しだけ我慢してください」
「えええっ!?」
まさかの続行だった!
シセリーさんは至極真面目な表情で、俺の手足や姿勢の調整に集中する。どうやら胸が当たっていることはシセリーさんの中では大した問題じゃないらしい。俺をからかっているわけでもなく、本当にただただ剣術の指導を真面目にしてくれている。
だからこそたちが悪いと言うか、背中に突き刺さる冷たい視線にどう言い訳をすればいいのかわからないと言うか……。
とにかく、シセリーさんの厚意を裏切るような真似だけはするわけにいかない。
どうやら今日の鍛錬は、剣術よりも精神力を鍛えるものになりそうだ!