第168話:いつもの添い寝から始まるプロローグ
うだるような暑さ……というほどではないが、異世界の夏の夜はそこそこ暑い。山あいで標高の高いプノシス領では、夏でも夜はそれほど暑さを感じなかったんだけどな……。初めての王都の夏の夜はそれなりに寝苦しかった。
とは言え、昨日までの日々を考えれば天国のようなものだ。
約一月前に始まったドレフォン領での校外演習を終えて、俺たちは今日の昼過ぎにようやく王立学園に帰り着いた。疲労困憊の中でシャワーを浴びてベッドに倒れ込んだのが夕方頃だ。
そこから意識が途切れ、気づけば部屋の中は真っ暗になっていた。
空腹と喉の渇きを覚えつつ、ゆっくりと起き上がろうとしてやけに体が重いことに気づく。視線を下へ向けると、暗闇の中で誰かが俺の体にギュッとしがみついている。
あー……、道理で暑いわけだ。
鼻腔をくすぐるのは金木犀に似た甘い香り。暗闇に慣れ始めた目に映るのはシルクのように滑らかな長い金色の髪。
「ひゅぅ……、すきぃ~……」
むにゃむにゃと蜂蜜のように甘い寝言を口にする少女の名はルクレティア・フォン・リース。リース王国の第七王女であり、ルームメイトの男装少女ルーグ・ベクトであり、俺の最愛の彼女ティアである。
ティアは桃色の薄いネグリジェ姿で俺にギュギュっと体を密着させている。彼女の体温と微かにだがたしかにある柔らかな感触が、シャツ一枚の俺にダイレクトに伝わって来ていた。
校外演習の期間中も何だかんだティアと添い寝していたけど、ここまで過度な密着は随分と久しぶりな気がする。それこそ校外演習に行く前が最後だろうか。
その頃と今の違いは、俺はティアと正式にお付き合いを始めたということだ。彼女の右手の薬指にはその証拠に、俺が誕生日に贈った指輪がはめられている。
ごくり、と思わず生唾をのんでしまった。
いやいや、落ち着け俺……っ! いくらティアと恋人関係になれたからって何をしても良いってわけじゃない。
ティアにはリース王国第七王女という立場があるし、彼女の実兄であるルーカス王子は王位継承権争いの真っただ中だ。ティアとの結婚を認めてもらうためにも、こんな所で俺が足を引っ張るわけにはいかないだろう。
それに、ティアのお母さんが今も彼女を見守ってくれているかもしれないし……。
理性を総動員して邪な考えを吹き飛ばす。目指すべきはプラトニックな恋人関係だ。少なくとも今は、その先へ進むべきじゃない。
何度も深呼吸を繰り返して気持ちを落ち着かせ、脱力して再び瞼を閉じる。
「……むぅ。ヒューの意気地なし」
なんて呟きが聞こえて来た気がしたけど、きっとティアの寝言の空耳だろう。
そう思っておいたほうが良さそうだ。
◇
翌朝、ゆっくりと瞼を開くとキラキラと輝く金色の髪が目に入った。毛先が鼻先に触れてこそばゆく思わず顔をふにゃっと歪めてしまうと、堪え切れなかったのかぷふっと噴き出し笑いが聞こえてくる。
「おはよう、ティア。俺の顔がそんなに面白いか?」
「ぷふふっ、ご、ごめんね、ヒュー。だっておかしくって……あははっ」
「ったく……」
お腹を抱えて笑うティアをよそにゆっくりと体を起こす。 目が覚めた時にティアの顔がずいぶん近くにあった気がするけど、たぶん気のせいだろう。
時計を確認すればちょうど朝の鍛錬へと向かう時刻だ。汗で肌に張り付いたシャツが気持ち悪いけどシャワーは鍛錬が終わってからにするか……。
のそのそとベッドから降りて、洗面台に向かって顔を洗う。魔道具の蛇口から出る水は夏でも冷たくて心地いい。そう言えば何気なく使っているけど、この魔道具って何で作られているんだろう。リューグに聞けば教えてくれるだろうか。
タオルで顔を拭きながら部屋に戻ると、ティアは俺のベッドの上でノコノコさんを抱えながら問いかけてくる。
「もう鍛錬に行く時間だよね。わたしも一緒に行っていい?」
「また剣を振るのか?」
「ううん。今日は見学だけのつもりだよ。ヒューのカッコいいところが見たいなぁーって思って。……だめ?」
「だ、ダメじゃない……」
ダメじゃないけど、かっこ悪い所を見せたくないっていう重圧が半端ない。
校外演習中はあまり剣を触れていなかったし、久々の鍛錬だ。始めた当初に比べたら自分でも少しは様になって来たと思うけど、それでもアリッサさんやイディオットには遠く及ばない。せっかく恋人になれたのに、ティアにかっこ悪いところは見せたくないよなぁ……。
何とかして、いつものようにアリッサさんにボコボコにされるのだけは避けよう。
俺の返事にティアは「やった!」と嬉しそうに微笑んでベッドから降りる。それから自分のクローゼットへ向かうと、王立学園の制服を引っ張り出した。
そのままネグリジェの裾に手を伸ばしてたくし上げ始めたので、慌てて両手で顔を覆って後ろを向く。頼むからもうちょっと恥じらいを持ってくれ……。
衣擦れの音を聞くことしばらく。「これでよしっ」という声が聞こえて来たので、恐る恐る振り返る。
そこには王立学園の制服に着替えたティアが居た……のだが、
「違和感凄まじいな」
と思わず言ってしまうくらいには違和感のある姿だった。金色の長い髪を靡かせながら振り返ったティアが着ているのは、王立学園の男子の制服である。
銀髪ショートのルーグの時の制服姿は見慣れているけど、髪型と髪色が変わるだけでこんなにアンバランスさを感じるとは思わなかった。
「あ、忘れてた!」
俺のリアクションで気づいたらしく、ティアはハッとした様子で勉強机のほうへと駆け寄った。机の上には花冠と模した装飾と満月のような宝石が象られたペンダントが置かれている。
それを首に下げて宝石にティアが手を触れると、彼女の金色の髪が淡い光を放った。光は黄金から白銀へと色を変え、髪の長さはみるみる内に短くなっていく。
おぉー。まるで魔法少女系アニメの変身シーンみたいだ。
やがて見慣れたルーグが「お待たせっ」と俺の元へ駆け寄って来る。
「どうしたの、ヒュー? 拍手なんかして……」
「いや、髪が変わるところ初めて見たから凄いなと思って」
「えー? そんなにすごいかなぁ?」
ルーグはいまいちピンと来ていない様子で首を傾げる。まあ、この感動は前世の記憶を持っているからこそだからな……。説明しても伝わるものじゃないだろう。
「そろそろ行こうか、ルーグ」
「うんっ。……あ、ちょっと待って」
玄関に向かおうとした俺のシャツの裾をルーグがきゅっと掴んで呼び止める。何だろうと振り返ると、彼女は頬を赤く染めてうつむきながらもじもじとしていた。
ど、どうしたんだ急に……?
「えっと、ね。わたしたち、その、お付き合い……してるんだよね?」
「あ、ああ。そうだな」
ドレフォン大迷宮の奥底で俺たちは互いの気持ちを伝えあった。恋人同士なのは間違いない。何なら結婚の約束までしちゃっているから婚約者でもあるが、そこは俺たちだけで決められない部分もあるから今は気にしなくていいだろう。
「じゃあ、アレがしたいなって」
「アレ……?」
「いってらっしゃいの、ちゅー」
…………俺の彼女が可愛すぎて心臓が止まるかと思った。それ恋人っていうかもはや新婚夫婦だろとか、そんなツッコミをする余裕すら吹き飛ぶ。
もう鍛錬なんて行かずに一日部屋でイチャイチャする日にしちゃって良いんじゃないか……なんて邪な考えが浮かんで慌てて頭から追い出す。さすがにそんなことをしたらちゅーだけで我慢できる自信がない。
「小さい頃にお母さまがお父様にしているのを見て、良いなぁって思ってたの。だから、その……だめ?」
「ダメなわけない」
俺が言うとルーグはパァっと笑顔を咲かせて俺に飛びついてくる。そんな彼女を抱きとめて膝を曲げて目線を合わし、俺たちはどちらともなく唇を重ねあった。
「えへへ……。いってらっしゃい、ヒュー」
「ああ、いってきます。……あれ? 一緒に行くんだよな?」
「……あっ」
どうやらいってらっしゃいのちゅーをしたすぎて、本気で忘れていたらしい。
まあ、なんというか。
そういうところも大好きだ。