第130話:祝ってやる
黒板に書かれたダンジョンの名に教室が騒然とする。ドレフォンという名称には憶えがあった。昨日、ルーグが読んでいた本に記されていた黒竜の名だ。
「どうして……」
ポツリと、隣に座るルーグが呟く。ちらりと様子を伺えば、紺碧の瞳が大きく見開かれて揺れていた。驚いているというより、戸惑っているように見える。
「はーい、静粛にッス。来週からの校外演習で君らにはこのドレフォン大迷宮を攻略してもらうッス。大迷宮と言っても、ただ広いだけでモンスターはそこまで強くない簡単なダンジョンッスけどね」
アリッサさんが言う簡単は甚だ疑わしいが、クラスメイトたちが気にしているのはそこではなさそうだ。
「あの、呪いは大丈夫なのですか……?」
手を挙げて発言したのは、イディオットの元取り巻きだったアン・トラージ。それを皮切りに複数の生徒が『呪い』についての質問をアリッサさんに投げかける。
呪いって何の話だろうか……。貴族出身者も平民出身者も口にしているから、王都ではドレフォン大迷宮=呪いというイメージが一般化しているらしい。
不思議に思っていると、不意に机の上に置いていた手にルーグが手を重ねて来た。
「どうかしたのか?」
「あっ、その、な、なんでもないよっ」
おそらく無意識だったんだろう。俺が小声で問いかけると、ルーグはハッとした様子で手を引っ込めようとする。俺はその手を掴んでギュッと痛くない程度に少しばかり力を込めて握りしめた。
ルーグが不安を感じていそうだったから、大丈夫だと励ますように。
「……ありがとう、ヒュー」
俺の意図はちゃんと伝わってくれたようだ。ルーグは強張っていた表情を少しだけ緩めて微笑む。それにしても、皆の言う呪いっていったい何なんだ……?
「あっはっは! 呪いなんてただの迷信ッスよ。あれは呪いじゃなくて流行り病ッス。君らが呪いだって言いたくなる気持ちもわからなくはないッスけどね」
アリッサさんはクラスメイト達の不安を取り除くように、呪いという言葉を一笑に付す。なるほど、皆が言う呪いは流行り病の事だったのか。前世に比べれば医学なんてほとんど発達してないからな……。たぶん細菌やウイルスの発見もまだされていないんだろう。
感染症が呪いだという風説が流れるのは仕方がないのかもしれない。……ただまあ、スキルなんていう超常の力も存在する世界だ。実際に呪いがあっても不思議じゃないな。
「そんなに心配しなくても、ダンジョンの安全性は冒険者ギルドのお墨付きッス。学園側も事前に人を派遣して確認済みッスからね。君らが心配するような事は何もないッスよ」
そう言ってアリッサさんは俺たちの方へ向かってウインクをする。まあ、俺たちのクラスにはルーグが居るのだ。正体を隠しているとは言え、第七王女を危険なダンジョンに向かわせはしないだろう。おそらく冒険者ギルドや学園だけでなく、王国騎士団も安全性を確認しているはずだ。
アリッサさんの言葉にようやく教室は落ち着きを取り戻す。ただ、ルーグは引き続きギュッと俺の手を握り続けていた。その様子に何となく違和感を覚え、視線をルーグの向こうに座るリリィに向ける。
リリィもルーグの様子には気づいていたんだろう。俺と視線が合うと、小さく頷いて見せた。どうやら思い当たる節がありそうだ。
「これから校外演習の行程表を配りますので、一人一枚ずつお受け取りください」
シセリーさんが配る行程表を受け取り、その内容を確認する。
校外演習の期間は来週の頭から約一か月。演習場所になるドレフォン大迷宮は王都から西の方角、リース湖を挟んだ対岸のスペン地方にある。王都からは船と馬車を乗り継いで、片道五日かけて移動するらしい。道中では野営の実習も予定されていた。
ざっくり見るとかなりハードなスケジュールだ。休養日は用意されているけど、一か月ほとんど移動とダンジョン攻略になっている。体力的にも精神的にもタフさが要求されそうだな……。
その後、行程表を元にシセリーさんから詳細なスケジュールや注意事項の説明が行われ、一限目の時間が終了。二限目からの通常授業を終えて昼休憩の時間になった。
「ランチの時間ですわ!」
教師が退室したと同時にロザリィが椅子から立ち上がって目を輝かせる。教会の質素な食事に舌が慣れてしまっていた彼女は、王立学園の学食が誇る一流シェフの料理にすっかり魅了されてしまったらしい。
「早く学食へ行きましょうですわ、皆さま!」
ロザリィに急かされルーグ達は苦笑しながら立ち上がる。
俺はイディオットやリリィと目配せし、
「すまん、俺はパスさせてくれ」
「えっ? ヒュー行かないの?」
「朝の鍛錬が少し消化不良な感じがするんだ。校外演習も近いしもう少し剣を振っておきたい。イディオット、付き合ってくれないか?」
「うむ、いいだろう。ちょうど僕も剣を振りたかったところだ」
俺の意図を察してくれたんだろう。イディオットは俺の誘いを快諾し、立ち上がって軽く肩を回す。続いてリリィも、
「私もそっちに参加するわ。今日は運動したい気分なの」
「「「「「えっ!?」」」」」
「なんで声を揃えて驚くの……?」
リリィが困惑した様子で首を傾げる。
いや、だってなぁ……。リリィの運動嫌いはみんな知っている。夜会のダンスを両足が複雑骨折したと言って断る奴が、自分から運動するなんて言い出したらそりゃ驚くだろう。
「そんなに驚かないでくれるかしら……。校外演習に向けて体力をつけようとしているだけじゃない」
「それはまあそうなんだが……」
少しばかり運動したところで体力はつかないだろと指摘したいが、俺とイディオットに合わせてルーグたちと別行動を取るための方便だとわかっているので黙っておく。
「えっと、じゃあボクは……」
「ルーグさん、わたしたちは学食へ行きませんか?」
逡巡していたルーグにレクティがすかさず声をかけた。俺がまだ〈洗脳〉スキルの事をルーグに打ち明けられていないのはレクティも知っている。そこを慮ってくれたんだろう。
「うん、わかった。また後でね、ヒュー」
「ああ」
ルーグとレクティとロザリィが学食へ向かうのを見送り、俺たちも教室を後にする。
向かったのはいつも朝に鍛錬で使っている教員宿舎裏の空き地だ。昼休みにわざわざこんなところまで来る生徒は居ないから、周囲を気にせずに済む。
それにしても、
「暑いな……」
降り注ぐ日差しに思わず呟く。ここまで歩いて来るだけで制服の下が汗ばんでいた。夏服への衣替えはたしか明日だったよな……。半袖が待ち遠しい。
俺たちはとりあえず、木陰に腰を落ち着かせることにした。