第128話:ゆうべはお楽しみでしたか?
「ひゅーぅー」
心地のいい微睡の中で俺の名前を呼ぶ声がする。
重たい瞼を開くと、窓から差し込む朝日をキラキラと反射する金色の髪が視界に映った。その眩しさに思わず目を瞬かせると、ふふっと微笑む声がする。
「おはよ、ヒュー。もう朝だよ、鍛錬に遅刻しちゃうよー?」
「あー……、おはよう、ティア」
普段は俺より後に起きるルクレティアが、うつ伏せから体を起こして俺を見下ろしていた。左手で俺の肩を揺すっていたんだろう。前屈みのような体勢だから、剥き出しになった肩と鎖骨、そしてライムグリーンのネグリジェの胸元に僅かな隙間が生まれていて、ついつい視線が吸い込まれてしまう。
ダメだダメだ。昨日ブレーキがぶっ壊れかけたせいで思考がどうしてもそっち方面に行ってしまう。平常心、平常心……。とりあえず朝の鍛錬に向かおう。
そう思って体を起こした俺は、そのまま体を硬直させる。
「どうしたの?」
起き上がったのにベッドから出ようとしない俺に、ルクレティアは不思議そうに首を傾げる。俺としてもベッドから出て着替えたいのは山々なのだが、それが出来ない生理的な事情があった。
昨日、感情が昂ったまま眠ってしまったからだろう。今朝のじゃじゃ馬はどうしようもなく手が付けられないレベルだ。こんなものをティアに見せるわけにはいかない。
「えーっと、ティアさん。着替えたいので後ろを向いていて貰えませんか?」
「わかった!」
ティアは元気よく返事をして、両手で顔を覆い指の隙間から紺碧の瞳を覗かせる。
ぜんぜんわかってくれてねぇ……っ!
ど、どうする……? 落ち着くまでこのままじっとしていたら朝の鍛錬に遅刻してしまいそうだ。アリッサさんに間違いなくからかわれてしまう。さりとて、立ち上がってティアに見られてしまうのはめちゃくちゃ恥ずかしい。
……仕方がない、か。
「ティア。その、男にはどうしようもなく抗えない生理現象があるというか、察して欲しい事があるというか」
「ふぇ……?」
「と、とにかくっ! 恥ずかしいから、見ないでくれ……」
「…………あっ」
ティアもまったく知識がないってわけじゃなかったんだろう。何かに思い至った様子で声を出すと、くるりと俺に背を向ける。剥き出しになった肩や金色の髪の合間に覗くうなじ辺りが火照った様に赤く染まっていた。
「ご、ごごごめんねっ! そ、そうだよね、ヒューも男の子だもんねっ! お、女の子と一緒に寝たら変な気分になっちゃうもんねっ!」
「いや、まあ、うん……」
必ずしも女の子と一緒に寝たからそうなるというわけじゃないのだが、否定するのはそれはそれで違う気がしたので頷く。ティアの声音が心なしか嬉しそうに聞こえたのは気のせいだろうか……。
まあ、とにかく。ティアが後ろを向いてくれたので今の内に着替えを取って脱衣場に駆け込む。ようやくじゃじゃ馬を鎮めて着替える事が出来た。
ベッドの上でノコノコさん (この世界に生息するホースディアという動物のぬいぐるみ)を抱えてジタバタしているティアに一声かけてから、朝の鍛錬に向かう。
寮から出てすぐ、朝方にしては少し高い位置から照り付ける日差しの熱を感じた。まだ少しだけ涼しさを残す風に乗って遠くから虫の鳴き声がする。どことなく、近づきつつある夏の気配が感じられた。
いつも通り教員宿舎裏の空き地に向かうと、イディオットが一人で木剣を振っていた。いつも真っ先にここへ来て鍛錬をしているアリッサさんの姿は見当たらない。あの人に限って寝坊したわけじゃないと思うけど……。
「む。来たか、ヒュー。おはよう」
「おはよう、イディオット。アリッサさんは居ないのか?」
「うむ。昨日、あの後すぐに城からルーカス殿下の使いが来て呼び戻されたのだ。今日の授業までには戻ると言っていた」
「そうなのか……」
何か急な案件があったんだろう。授業までに戻って来るなら大きなトラブルじゃないとは思うが、少し気になる。また面倒な事にならなきゃいいが……。
かすかな不安を感じつつ、イディオットと鍛錬を始める。アリッサさんが居ないから普段の実戦的な鍛錬ではなく、剣を振る際の所作を確認するなどの基礎的な鍛錬を行った。
「その調子だ、ヒュー。利き足を半歩後ろに下げた方がより剣先に力が乗るだろう」
「なるほど、こうか……!」
「ほう、なかなか筋が良いではないか」
こうしてイディオットから剣術を教わっていると、彼の剣技が決してスキル頼りによるものじゃないという事がよくわかる。
弛まぬ努力と、それによって構築された基礎の剣術。そこにスキル〈守護者〉の力が合わさって、今のイディオットの強さを形作っているのだ。
それにしても、イディオットは人に教えるのが上手い。アリッサさんは実戦一辺倒で技術的なアドバイスを一つもしてくれないから、イディオットに基礎を教わって自分の動きが格段に良くなって行くのを自覚する。
あと、イディオットの良い所は良いと言い、悪い所は悪いと言う素直な部分もわかりやすい。ホートネス家の当主という立場じゃなかったら剣術指導の職が向いていそうだ。
久々に充実感を得られた朝の鍛錬を終え、自室に戻ってシャワーを浴びる。それからルーグの姿に戻ったルクレティアと共に学食へ向かった。
ちょうど大勢の生徒で混み合う時間帯。朝食を受け取って座れそうな席を探していると、俺たちに向かって二カ所から手が上がる。一つはリリィとレクティが居るテーブルで、もう一つはロザリィとシセリーさんが居るテーブルだ。どちらも二人分の席が空いている。
全員で座れたら一番良いんだが、六人が座れそうな場所はないな……。
「別れて座ろうか、ルーグ」
「そうだね。ボクはロザリィたちの方に行ってくるよ」
ルーグがロザリィたちの席に向かうのを見送り、俺はリリィとレクティが待つテーブルへ向かった。
「おはようございます、ヒューさんっ」
「おはよう、レクティ」
挨拶を交わして、レクティの隣の椅子に腰かける。すると対面に座っていたリリィが身を乗り出してこちらに顔を近づけて来た。
「ヤったの?」
「ヤってねぇよ」
朝っぱらから何てこと聞いて来るんだこいつは……。
俺の返事を聞いたリリィは安堵の息を吐いて腰を落ち着かせる。
「それなら良かったわ……。自分で提案しておいてアレだけど、貴方の理性が耐えられるか気が気じゃなかったのよ。ごめんなさい、あの子への負い目もあって断れなかったの……」
「いいや、謝らないでくれ。たぶん遅かれ早かれこうなってた気がする」
お互い、気づいていない振りには限界を感じていたはずだ。リリィの入れ知恵がなかったとしても、俺と二人きりの時にルクレティアが本来の姿で過ごすようになるのは時間の問題だったと思う。
「そう言ってくれると少しだけ気が楽になるわ。けど、本当に何もなかったの?」
「あー……、何もなかったわけでもないんだが」
さすがにこんな大勢の人が居る場で話せるような内容でもない。
言い淀む俺を見て何かを察したのだろう。
「そ、そうよね。こんな場所じゃ話せないわよね、そう言う話はっ」
リリィがほのかに頬を赤くして、慌てたように捲し立てる。いや、ルーグの正体的な意味であって、いかがわしい理由ではないんだが……。
否定しようかとも思ったが、それはそれで必死になってる感が出て嫌だなぁ……。まあ、全くの勘違いってわけでもないから、そのままにしておこう。
それからしばらく三人で朝食を食べていると、トレイを持ったイディオットが視界に入った。リリィとレクティに断ってからこちらに呼び寄せる。
実はこの場に居る三人に相談したいと思っていた事があったのだ。
「相談、ですか?」
「ああ。そろそろ、自分のスキルとちゃんと向き合おうと思うんだ」