第127話:ブレーキ「あばよ、ダチ公」
いったん落ち着く意味も兼ねて夕飯を食べに食堂へ行こうという話になった。ルクレティアはルーグの姿に戻って女子の制服から男子の制服に着替える必要があるため、俺は先に寮の廊下に出て彼女を待つことにする。
廊下に出て扉を閉めたと同時、
「はぁ~……」
俺は思わず息を吐いてその場に座り込んでしまった。
あ、危なかった。もう少しで理性が完璧にぶっ壊れるところだった。室内でルクレティアと二人きり、同じベッドに腰掛けるシチュエーションはあまりに破壊力が高すぎる。
変な空気に当てられて、額にキスまでしてしまった。ティアが満更でもなさそうだったから良かったものの、普通にセクハラ案件だよなぁ、これ。
ティアもティアで俺に勢い余った様子で何かを伝えようとしていたし、ティアのお腹が鳴らなかったらどうなっていた事か……。
とりあえず、リリィのアドバイス通り気持ちを強く持とう。一時の衝動に流されて取り返しのつかない罪を犯す事だけは避けるんだ。俺自身のためだけじゃなくて、ルクレティアを守るためにも……!
「お、お待たせ、ヒュー」
五分ほど経って、ルーグが部屋から出て来た。見慣れた銀色の髪に、男子の制服。思わずホッと息を吐いてしまう。その姿だとやっぱり落ち着くなぁ、と口にしたら機嫌を損ねてしまいそうだから黙っておこう。
「行くか」
「う、うんっ」
どこか緊張した様子のルーグと共に学食へ向かう。
タイミングが少しずれてしまったからか、学食ではリリィたちいつもの面々を見かけなかった。クラスメイトが数人居たけれど、これと言って普段から話す間柄じゃない。俺たちは二人きりでテーブルにつき、黙々と夕食を食べ進める。
普段なら勉強の話やお互いのその日起こった出来事をとりとめなく話すのだが、今日に限ってはそういう雰囲気じゃないな……。ふとした拍子に目が合うと、ルーグは頬を赤く染めて顔を伏せ、両手に持ったパンをもきゅもきゅと口に運ぶ。
夕食を終えて部屋に戻った俺たちは、とりあえず普段通りに思い思いの時間を過ごした。俺は明日の授業の宿題と予習復習をするために机に向かい、ルーグは俺のベッドに寝転がって図書館から借りて来た本を読む。
うん、いつも通りだ。いつも通り過ぎて、もはやルーグに俺のベッドが占領されている事に疑問を抱けなくなっているのが恐ろしい。
時折背中に視線を感じつつ、二時間ほどで宿題と予習復習にけりが付いた。夕食後の勉強を習慣付けてから授業にもついていけるようになった実感がある。この調子なら、次のテストは前回ほど苦戦せずに済みそうだ。
……さて。
「あーっと……、ルーグ。今日は俺が先にシャワーを浴びる日だったよな?」
「あ、う、うんっ! そうだよ」
俺が尋ねると、ルーグは慌てた様子でベッドの上に正座してこくこくと頷く。
「じゃあお先に」
タオルと着替えを持って脱衣場へ向かう。扉を閉めて、内側から鍵をかける。普段はこんな事しないんだが、今日のルーグは何をするかわからない。シャワー中に突撃なんてされたらそれこそ理性が消し飛びそうだ。念のため用心するに越したことはないだろう。
少しはこっちの身にもなってくれと思わなくもないが、仕方がないか……。
さっさとルーカス王子を次期国王にして、ルクレティアと婚約しよう。そしたらこんな我慢なんてしなくてよくなる。そのためにも《《例の件》》をリリィとイディオットに相談しておかないとな……。
シャワーと歯磨きを終えて部屋に戻ると、ルーグはタオルと着替えを抱えて俺のベッドにちょこんと腰掛けていた。どことなく緊張した面持ちに見えるのは気のせいであって欲しい。
「シャワー行ってくるっ!」
部屋に入った俺と入れ違いに、ルーグは小走りに脱衣場へ駈け込んでいった。戻って来る前に寝てしまおうか。いや、さすがにそれは可哀想だよな……。
俺だって別に避けたいわけじゃない。むしろ許されるならもっと距離を縮めたいわけで、それがなんかチキンゲームみたいになってしまっている現状がおかしいのだ。
しっかりと話し合いをすべきだとは思う。だけどそれをするには、俺の気持ちをルクレティアに伝えなくちゃいけない。それは俺にとって告白と同義であり、だとしたらちゃんとした形で告白をしたい。
告白タイミングは来月。およそ半月後に控えたルクレティアの誕生日。
それまで俺はルクレティアの想いを最大限汲み取りつつ、一線を超えないようひたすら我慢し続ける必要がある。我慢できる……はずだ。おそらく、たぶん、メイビー……。
ルーグが戻って来るまで、とりあえず待っている事にした。ベッドに腰掛けふと枕元に視線を向けると、さっきまでルーグが読んでいた本が置いてある。
タイトルは『黒竜ドレフォン』……? おとぎ話や童話の類だろうか?
手に取ってページを捲ってみると、子供向けにしては難しめの内容だ。どちらかと言えば歴史書のような書き方がされている。
リース王国西部。王都から見てリース湖の対岸に位置するとある地方を舞台に、ダンジョンを巣穴にしたドレフォンという名の黒竜を、若き勇敢な冒険者が討伐するまでの経緯を詳細に記した本のようだ。
歴史書の体裁で書かれた創作物か。はたまた実際の出来事を記した本物の歴史書か。
……何となく後者な気がする。プノシス領に居た頃はそこまで気にならなかったけど、この世界ってちゃんとファンタジーだからな……。黒竜くらい居ても不思議じゃない。
本の結末は、黒竜ドレフォンを討伐した冒険者が王から褒美として爵位を与えられ、それが今のドレフォン侯爵家であると締めくくられている。文中の年号から計算して、およそ二百年前の出来事らしい。
褒美として一介の冒険者が侯爵になるって、黒竜討伐は相当な功績なんだな……。だとしたら教科書に載っていても不思議じゃない大事件な気もするが、歴史の教科書にそんな記述はなかった気がする。黒竜討伐なんて中二心をくすぐるわくわくワードがあったら印象に残っているはずなんだが。
だとしたらやっぱり創作なんだろうか。うーん……。
気になるからルーグがシャワーから出てきたら聞いてみようか……なんて考えていたら、戻って来たルクレティアの姿に頭が真っ白になった。
目に飛び込んできたのはキラキラと輝く金色の髪。
そして、上気して赤らんだ肌を隠すのはライトグリーンのネグリジェだ。その生地は手足のシルエットが浮かぶほどに薄く、両肩を大きく露出したオフショルダーのデザインは、可愛らしさと妖艶さを醸し出す。
まるで妖精のような姿に、俺は思わず手で口元を覆う。ダメだ、可愛すぎる……っ!
夏が近づいて来たから寝間着を薄い物に衣替えした……なんて理由だけで着ているわけじゃないんだろう。どうやら額にキスをするだけじゃ許してくれなかったらしい。
「ど、どうかな? 似合う?」
「あ、ああ。めちゃくちゃ似合ってる。可愛いよ」
「やった、ヒューに褒められちゃった。えへへ~っ」
嬉しそうに飛び跳ねるルクレティアに俺はもう愛おしさが爆発しそうになる。もうこの場で抱きしめて好きだと叫んで良いんじゃないだろうか。……いやいや! 落ち着け俺!
ここで勢い任せに告白して受け入れられでもしたら、そのまま取り返しがつかないところまで一足飛びに関係を進めてしまいかねない。一歩ずつ、一歩ずつだ。
「そ、そろそろ寝ようか、ティア」
俺は彼女にそう呼びかけて、布団に体を潜り込ませた。これ以上起きていたら本当に理性が吹っ飛びかねない。さっさと寝てしまった方が良い……と思ったのだが、そうは問屋が卸さなかった。
枕元に立つ人の気配。見れば、ルクレティアが抱えた枕で顔の下半分を隠しながら、どこか期待に満ちた紺碧の眼差しで俺を見下ろしている。
「一緒に寝てもいいですか……?」
「………………どうぞ」
たっぷり悩んで、受け入れる。理性が飛びそうだからダメなんて情けない事は言えないし、何よりティアは一人で眠ると悪夢に苛まれてしまう。それを知っているのに拒めるわけがない。
ティアはパァッと表情を明るくして、俺の枕に自分の枕を並べて布団に入って来た。金木犀に似た甘い香りが、お風呂上りだからか普段にも増してふわりと香る。明かりを消すと、その香りがより一層強く感じられた。
「ふふっ。この姿でヒューと一緒に眠るのは、ドキドキしちゃうね」
「そ、そうだな……」
囁くような声でそんな事を言うルクレティアに、俺は満足な返事をすることが出来なかった。なんかもうそれどころじゃない。頼むから意識してしまうようなことを言わないでくれっ! さっきから理性を全力で踏み込み続けているんだこっちは!
「ヒューが自分からキスしてくれて、嬉しかった。おでこだったのは、ちょっと残念だったけど……。けど、わたしが初めてなのは、嬉しい。だから……」
ティアは少し、間を置いて、
「キスから先は、わたしが初めてだったら嬉しいな」
――理性がぶっ壊れる音がした。
「ティアっ」
どうしようもなく抗えない衝動に、俺はティアの体の上に覆いかぶさるように起き上がって、
「……すぅー、すぅー」
ルクレティアが穏やかな寝息を立てている事に気が付き、そのまま元の位置に戻る。
寝たふりで誤魔化されている感じじゃない。ティアは本当に心の底から安心しきって眠っている。俺のことを、信頼して。
「…………はぁ」
昂った感情を持て余しながら、暗闇の中で一人息を吐く。
今日は寝付くまで、時間がかかりそうだ。