第115話:このあと滅茶苦茶熟睡した
「おかあさまっ」
わたしの悪夢は、いつもお母さまとの幸せな日々から始まる。お母さまの腰まで伸びた純白の髪はシルクのように滑らかで、背中にギュッと抱き着くといつも花のような甘い香りがした。
「ふふっ、ティアったら甘えん坊なんだから」
お母様はふわりと微笑んで、わたしの小さな体を抱っこして膝に乗せてくれる。
「なにつくってるの?」
「最近ちょっと寒くなって来たでしょう? ルーにマフラーを作ってあげようと思ったの」
「ルーにぃさまのマフラー!? わたしもつくるっ!」
「えー? ティアにはまだ難しいんじゃないかしら」
「むぅーっ! ティアにもできるもんっ! ルーにぃさまにマフラーつくるもんっ!」
「はいはい。それじゃ、お手伝いよろしくね?」
「うんっ!」
お母様はやれやれとルー兄様がよくする仕草で肩をすくめながら、わたしにマフラーの作り方を教えてくれた。
この時のマフラーはまあ、その……ボロボロの布切れみたいになっちゃったけど、お母さまとの大切な思い出の品として今も保管してある。ルー兄様にはあげずに……。
「けほっごほっ」
わたしの頭の上で、お母さまが咳き込む。この頃からお母さまの体調はずっと悪くて、マフラーが出来上がっていくにつれて病状はどんどん悪化していった。まるでマフラーが、お母さまの命を吸って育っていくみたいに。
王都で流行り病が始まったのは、そんな折だった。わたしとお母さまは後宮から隔離され、尖塔の上の小さな部屋に入れられた。お母さまが流行り病に侵されていると、他の妃様たちや貴族が騒ぎ出したからだ。
尖塔の部屋は寒かった。風が窓を叩く音がずっとして夜も眠れない。お母さまの病状は日に日に悪くなる一方で、幼いわたしは必死にお母さまを看病しようとしたけど、何をしていいのかわからなくて……。ただ、お母さまの手を握っていることしかできなくて……。
「ティア……」
わたしを呼ぶお母さまの声は掠れていた。意識が朦朧として、目もほとんど見えてない。お母さまは枯れ枝のようになった手を彷徨わせて、わたしの頭や頬の形を確かめるように触れる。
「わたしの、かわいい……るくれてぃあ。どうか、しあわせに……」
「おかあさま……? いや……っ、いかないで。ひとりに、しないで……っ!」
お母さまは幸せそうに微笑んでいた。それから一切動かなくて、冷たくなっていって。わたしはただ、泣き叫ぶ事しかできなくて。
「どこにも、いかないで……っ! おいてか、ないで……っ!」
どれだけゆすっても、おかあさまはめをさまさない。わたしがなきさけんでも、だきしめてくれない。おかあさまのからだは、だんだんつめたくなっていく。
いや、おかあさまっ。しんじゃやだっ! ひとりにしないで! おかあさまぁっ!
◇
「ルーグっ」
俺は思わず彼女の手を握って名前を呼んでいた。時計の短針は三時の手前を指している。夜中に目が覚めたのは、自分のベッドで眠るルーグの声が聞こえて来たからだ。
以前目撃した時よりも酷いうなされ方だった。額には大粒の汗が浮かび、前髪が濡れて張り付いている。それなのに顔色は青白く血の気が引いていて、ルーグは必死に両手を伸ばして藻掻き苦しんでいた。
さすがにこれは、起こした方がよさそうだ。
「ルーグ……!」
「――っ。……ひゅー?」
魔道具で部屋の明かりをつける。肩を揺すって名前を呼ぶと、ルーグはぱちりと目を開いた。紺碧色の瞳が俺の顔を映し出す。
「あれ……、わたし……」
ルーグの呼吸はまるで激しい運動の後のように荒れていた。ルーグが布団を捲り、ゆっくりと体を起こす。寝間着のネグリジェは汗に濡れて肌に張り付き、透けて肌色を覗かせていた。それから俺はそっと目を逸らしつつ、立ち上がる。
「水を取って来る。少し待っててくれ」
キッチンへ向かって魔道具で作られた蛇口から水をコップに注ぐ。戻ってそれをルーグに手渡すと、ルーグはゆっくりと水を口に含んだ。コップの水がなくなる頃にはルーグの呼吸も安定し、顔色も少しだけ良くなっている。
「落ち着いたか?」
「うん。ありがと、ヒュー。ごめんね、その……起こしちゃったよね……?」
「いいや。俺もちょうど嫌な夢を見て起きたところだったんだ」
本当はルーグのうなされ声で起きたわけだけど、嫌な夢を見たのは嘘じゃない。
前世の働き詰めだった頃の夢なんて久しぶりに見た。子供の頃はこの夢によくうなされて、母上に心配されたものだ。王立学園に入ってからは一度も見てなかったはずなんだが……、まあ俺の事はどうでもいいか。
ルーグにとって母親との死別は、何度も悪夢として蘇るほど深く心に刻まれている出来事なんだろう。いったい、何があったんだろうな……。
ルーカス王子や、幼い頃に親交があったリリィなら何か知っているかもしれないが、ルーグに断りもなく過去の出来事を聞き回るなんてデリカシーのない真似はしたくない。こればっかりは、ルーグが自分から話してくれるのを待つしかないだろう。
それよりも、だ。
「あー……えっと。一人で眠れそうか?」
俺が問うと、ルーグはふるふると首を横に振る。いつもは夜中にこっそり俺のベッドに忍び込んで来るルーグだが、今日は俺が目を覚ましてしまった。こっそりは通用しない。
ルーグはきゅっと唇を結んで、俺を上目遣いで見つめる。……まあ、言わんとしている事は伝わって来た。
「えーっと……、一緒に寝るか?」
「いいの?」
「お、おう。もちろん。ルーグさえよければ」
「うんっ」
もうさんざん毎日同じベッドで眠っているが、思えば同意の上だった事って一度も無かった気がする。そう考えるとなんかちょっと緊張してきたな……。もちろん別にやましい事をするわけじゃないんだから、身構える必要なんてないんだが。
「あ、でもボク、今ちょっと汗臭いかも……。シャワー浴びてきてもいい?」
「……っ。そ、そうだな。い、いいんじゃないか」
「? じゃあ行ってくるね」
しどろもどろな返事をした俺に首を傾げつつ、ルーグは着替えとバスタオルを用意して脱衣場へ向かう。しばらくすると、かすかにシャワーの流れる音が聞こえて来た。
な、なに緊張してるんだよ俺……っ! べ、別にただいつも通り添い寝するだけだろっ!
……とは言え、ルーグが勝手にベッドに入り込んで来るのと、俺から誘って同意のうえで一緒に眠るのはやっぱり意味合いが違うよなぁ……。
据え膳食わぬは男の恥だとか何とかって諺が前世にあったけど、こっちにも似た意味の諺があったりするんだろうか。
なんてどうでもいい事をベッドに座って悶々と考えている内にルーグが戻って来た。
「お、お待たせ、ヒュー」
淡い桃色のネグリジェを着たルーグは、俺の前に立ってキュッと両手を重ねて胸の前で握る。頬が上気して見えるのは、きっとシャワーを浴びて来たからだろう。お風呂上がりのルーグからは、金木犀に似た甘い香りが普段にも増して漂って来る。
ごくり、と思わず唾をのんでしまった俺は誤魔化すようにベッドへ入った。
「そ、それじゃ寝るか」
「う、うんっ。お、お邪魔します……」
妙にかしこまってぎこちない動作で、ルーグは俺のベッドに入って来る。俺は壁際ギリギリまで体をベッドの端に寄せてルーグを招き入れた。
「ヒュー、狭くない?」
「ルーグこそ、そんなギリギリで落ちちゃわないか……?」
俺とルーグの間にはもう一人誰かが眠れそうなスペースが出来ている。いつか子供を挟んで川の字で……なんて妄想を慌てて頭から追い出した。あまりにも気が早すぎる。
「じゃ、じゃあ……えいっ」
ルーグはぐるりと体を回転させて、俺の方にグイッと近づいて来た。結果、ルーグの体は半回転して、背中が俺の胸に密着する。
「お、おい。近すぎないか……!?」
「そ、そんなことないと思うよ……?」
いや、明らかに密着度合いが今までの比じゃないんだが……。
ちゃっかり俺の左腕を枕にしたルーグは枕元の魔道具を操作して部屋の明かりを消してしまう。暗闇の中、寝間着越しに感じるルーグの体温と早鐘を打つ心臓の音は、きっと俺の気のせいではないだろう。
これ、ちゃんと眠れるんだろうか……。